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2014年2月22日 (土)

アンサンブル・ノマド フリド モノ・オペラ『アンネの日記』 ほか 人間の声 ヒューマン・ヴォイス vol.3 「時を越える言葉、うた」 2/16

【概要】

ナチス時代、ドイツからオランダに亡命、当地で商売をして生活を営んでいたオットー・フランク一家の次女による作品・・・ナチスのオランダ侵攻前後の様子から、当地で拘束されるまでの潜伏生活を綴った『アンネの日記』は女子どもでも容赦ないユダヤ人虐殺の実情の一端を物語るものとして、書き手がこの世を去ったあと、世界的なベストセラーとなった。私はこれまで読んだことがなく、公演がおわったところで慌てて読み始めている体たらくだが、作品は単なる日記というよりは文学的な作品というべきで、「キティー」と名付けられた日記帳に対する手紙文というフォルムを採っている。そこでは潜伏生活の苦労や実態、ともに暮らす家族や共同生活者との関係、そして、恋人となるペーターとの関係などが複層的に編まれている。

日記の主人公であるアンネ像は、自己制御が効かないほどの外向的性格を表面に示しながらも、思慮深く、落ち着いた内面が同居しているのに、後者はなかなか表に出られないでいるという複雑なものである。自分が知っている自分と、外面的なものからはなかなか理解されない自分とのギャップに悩み、他者との衝突を繰り返すというような青春小説の様相を呈しているのだ。彼女は狭い壁に囲まれた潜伏生活と、このようにままならない少女期の自分の姿とを巧みに重ね合わせ、ロー・ティーンの少女としては信じられないほどの早熟な才能で、見る者に目を瞠らせる作品を書いた。それは単に虐殺された難民の可愛そうな姿というよりは、どんな場所にでも存在する子どもたちの、ゆたかな叫び声のひとつとなっている。

1972年、ソ連のグレゴリ・フリド(1915-2012)は、この日記を題材に演奏時間にして1時間前後、Ⅱ部4場構成のモノ・オペラを作製した。当時のソ連はブレジネフの時代であり、まだまだ冷戦時代の只中にあって、フリドの一家もかつては、父親の政治的な理由からシベリアへの移住を余儀なくされたという(年代からみてレーニン、もしくは、スターリンの時代であろう)。境遇のちがいはあっても、フリドにはアンネに共感する様々な事情があったようだ。アンネは日記のなかで、ナチスに対する解放軍となるはずのソ連への期待を示しているが、フリドのオペラでは、ソ連が決して救世主ではないことが皮肉に描かれている。一見、頼もしい軍楽のモティーフは、私には額面どおりには受け容れられないものだったのだ。

【作曲者フリドの視点】

さて、当然のように、アンネはこの日記にまだ十数年しか生きていない自らの、全人格を賭けている。作品序盤にも描かれているような、幸福な日記との出会いから、拘束によって途切れるまでの数年にわたる記述のうち、オペラはごく僅かの要素をつまみ上げるだけのことにすぎなかった。フリドはまず、この日記のなかでもっとも特徴的な手紙文の形式を外した上で、日記のなかから、ごく限定的なテーマだけを取り上げて凝縮することを選んだようにみえる。彼女のなかで重要なテーマである、家族との衝突といったようなことについては、直接的には描かれていない。ただ、その問題における中心的なモティーフとなる、彼女の性格的な二面性については巧みに拾い上げられれているが。そして、フィナーレにおける気高い独白で、最後の頂点を打ち、彼女のなかに神が降りたかのような威厳に満ちた記述のなかで、ゲシュタポに捕まるところが作品のおわりである。ト書きにはないそうだが、2人の黙り役がゲシュタポ隊員に扮してアンネを静かに連れ去った。演出の稲垣聡は最後、ウインド・マシーンの響きが薄く残り、その後、音が消え、照明が消されるなかで寂しく灯りつづける蝋燭の火に人々の意識を集中させた。

ところで、フリドは、アンネがゲシュタポの監視のなかで隠れ家に籠っているということの特殊性については、それほど強調的には描いていない。つまり、この状況が、当時のナチス治下にしかないような、特別な出来事とは感じていないようなのだ。むしろ、こうした環境が自分を含め、世界中にままある場景ではないかと考えて、作品を構成している。開演前、舞台の上手にはアンネが閉じ込められるであろう、錠のかけられた牢屋が設えられていた。意外なことに、プレリュードが始まると、この牢屋は可動式であることがわかり、手際よく格子が取り払われると、風景はアンネ一家が住む家の部屋へと一変する。これでわかるだろう。牢屋と、普段の部屋とは紙一重なのだ。開演前は牢獄、劇の最初の部分ではアムステルダムにあった彼女の家の部屋、そして、そのあとの大部分では父親、オットーの会社が入っていた建物に設えられた隠れ家として、ひとつの空間がほとんど同一の装置で、手際よく表現されているわけだ。劇中では、収容所に送られたアンネの姿は描かれないが、そもそもの牢獄の風景が十分にその印象を伝える役割を果たしてくれるだろう。

【歌手、アンサンブル、音楽的特徴】

アンネ役は、大人のソプラノ歌手が歌う。今回は天羽明惠が歌い、基本はレッジェーロとしても、いかにもロシア人が好みそうな、やや重い声質が求められる役柄だった。譬えれば、湿った雪といったところか。天羽はかつらをかぶり、三つ編みでブラウンの髪をもつ少女を演じる。衣裳は、深いワインレッドのワンピースで、高級そうな生地。商売上手のオットー・フランクの一家は中産階級のなかでも、比較的、裕福なほうだった。日記のなかで、お父さんは会社にいっても仕事がない・・・という記述があり、やや誤解を与えるが、この会社は実のところ、オットーがエッセンにいた親戚の助け舟を借りて、亡命先のアムステルダムに出したスパイス会社のことである。従業員が非ユダヤ人だったので、「アーリア化」を避けて経営を任せ、社長の一家が(スイスに逃げたふりをして)隠れ家に逃げ込んだというわけだ。

普段は色鮮やかで、個性的な衣装をめいめいに着て演奏するアンサンブル・ノマドは今回、黒子に徹して、作品をじっくりと支えた。9人のアンサンブルは、ピアノ/チェレスタのほか、ヴァイオリン、チェロ、コントラバス、フルート/ピッコロ、クラリネット、バスーン、トランペット、パーカッションで構成される。弦楽五部のうちではヴィオラを欠く分、ヴァイオリンの低音が印象的に響く部分がある。個性的で、鮮やかな響きをもつ楽器の味わいを用いながらも、ノマドの演奏は響きを内側に抱え込むような姿勢で統一されている。全体に混ざり合うという感じではなく、自分の手もとからずっと離れず、外部に放出されないのだ。この印象は今回、9人編成になることでより強調されたにちがいない。小さなまとまりは求めず、表面的な関係に満足することはない。だが、1人の歌い手と9人の器楽奏者が別個にいるわけでもなく、彼らは明らかに同じスペースを共有している。

具体的な響きのイメージとしてはショスタコーヴィチとか、ヒンデミットブリテンなどの影響が見られる部分は多いが、より直截で飾り気がなく、12音など、より新しいイディオムも気軽に引き入れられている。9人という小さな編成ではあるが、いま書いたようなスタイルでありながらも、マッシヴな響きをつくる場合、その迫力は大編成にも決して劣らない。これはノマドの奏者たちの卓越した技能、そして、室内楽的な結びつきの強固さを物語ってもいる。言語はドイツ語で、その語感の強さはアンネの気高さを補強する効果があった。日記そのものはオランダ語を主体に書かれているそうだが、オットーが最初にまとめたドイツ語ヴァージョンがもとになっていることになろう。

【宗教的な解釈】

フリドは単に、自分と同じような抑圧者としてアンネに共感するだけではなく、宗教的にも多大なインスピレイションを得ている。この作品のなかで、アンネは明らかに、イエス=クリストに擬されているところがあるのだ。復活や再生といったキーワードが要所に出ているほか、どんな過酷な状況でも困難な課題を克服できると信じ、人並み外れて気高く、その偉業の頂点で強制された「死」を迎える。誰にも理解されない孤独。内容はともかく、「父との会話」なんていうパートも。日記を与えられる6月12日は、受難と同じ「金曜日」。その日、彼女は「13歳」になる。ほんの何日か前に受難曲を聴いたせいもあろうが、このような符合は決して牽強付会とは言えないはずだ。ちょうど同時期に、西側で、A.ロイド・ウェバーの音楽劇『ジーザス・クライスト・スーパースター』が書かれているのは面白い対応関係となる。

フィナーレの前の場面では、古い舞曲の形式=パッサカリアが用いられている。意外なことに、ウェーベルンがその形式で創作を始めた(パッサカリア op.1)ように、かなり新しい時代でも好んで使われるが、その秘密のひとつは、バッソ・オスティナートの上に広がる3拍子の舞曲の形式であり、キリスト教の信仰と結びつきやすい要素があるからであろう。この作品でも、パッサカリアは運命的な形式として用いられ、どちらかといえば、アンネの気高さに焦点が当てられるフィナーレと比べれば、悲劇性のつよい音楽になっている。

【若書きの歌曲のような】

ただし、誤解してほしくないのは、この作品が最初のほうの幸福な場面でさえ、十分に感動的なものだという事実だ。既に述べたような抱きしめるような響きを使い、日記帳「キティー」との出会いをうたう場面だけでも、グッと来る。実に、言葉も良い。無論、それはアンネの日記にみられる言葉そのものだが、フリドが選ぶ言葉はキャラクターゆたかで、巧みであり、日記の象徴として既に有名なものも含めながら、書き手のことを気高い存在と思わせるには十分だ。とはいえ、フリドはアンネの価値を必要以上に持ち上げることはない。まだ多少の自由が残されていた時代の記述では、学校でアンネが教師をからかうような逸話を入れてみたり、潜伏中の記述であっても、ファン・ダーン夫妻の滑稽な口論を面白がるものを含めたりして、バランスをとっているのはその証拠だ。

フリドはアンネの秘められた才能をしっかりと評価して、惜しんではいるものの、そのような才能はなにも特別なものではなく、より多くの人たちが当たり前にもっているものだという認識が、むしろ、このオペラの味わいを高めているのである。

作品を観ていると、整然とまとまったオペラをみるというよりは、早逝した作曲家によって遺された連作歌曲集を聴くような感じにより近かった。リリ・ブーランジェフアン・クリソストモ・デ・アリアーガハンス・ロット、そして、モーツァルトシューベルトヴォルフのような存在に対して、私たちは、彼らがその才能に比して、十分ながい人生を送れなかったことを惜しむ想いとは裏腹に、一方で、そうした未知の可能性が辿るはずだった、実際には、永遠に失われてしまった可能性について想いを馳せることを好んでもいるはずだ。実際、この演奏会の後半では、ノマドの代表を務める佐藤紀雄氏の発想で、アンネが生き残って戦後を迎えたならば、きっと接したであろう世界の「フォーク・ソングス」を集めたベリオの作品を演奏すると書いており、これがロング・アンコール・ステージ風に置かれていた。引きつづき独唱を務めた天羽はかつらを外し、衣裳もかえて臨んだものである。

独唱の天羽明惠は演じすぎず、反対に、歌いすぎない、程よいバランスでアンネに向かい合った。彼女はその年齢で、ティーン・ネイジの少女に同化するなどというバカげた目標は立てずに、かといって、後世の大人たちからみて「適切な」アンナ像を知的に演じきるというギミックも否定した。私たちがそこにみていたのは、歌詞と音楽にいま、初めて出会ったかのように、真正面から向き合っている歌手の姿である。それでいいのだ。フリドの音楽と、後半のベリオのそれを比較すれば、私は後者のほうが、日記の表現には相応しいイメージだったのではないかと思っている。さりとて、私はフリドの音楽を評価しないというわけではないのだ。むしろ、そのような音楽で素材に向き合ったところにこそ、フリドの優れた批評眼が感じられると言いたいのである。

歌曲をうたうには、否、素晴らしくうたうには、どのようにすればよいのか。その第一のステップは、まず、作品を突き放すことにあると思われる。フリドは、それを実践した。このことを考えるにはとりあえず、シューベルトの著名な連作歌曲集について見てみるとよいのだが、優れた歌い手ほど、最初から作品世界にのめり込んだような歌い方はしていないはずだ。それがどこからか、知らず知らずのうちに、もう、抜き差しならぬ関係に追い詰められている。フリドの作品にもそういうところがあって、序盤はこころを打つ表現があっても、クールで示唆的なものに止まっているのに対して、内面に没入していくような表現は後半に凝縮していた。

私の正直な感情を思い起こしてみると、確かに、日記との出会いの場面で、既述のようにグッと来た部分はあった。アンネの誕生日に、選りにも選って日記を贈る両親の鋭い観察力と、それを受け取った少女の運命めいた反応を示す場面に、フリドは決してわかりやすく、明朗な音楽を書いていない。朝はやく目が覚めて、プレゼントを開けるのを待ちきれないという少女の無邪気な想いは、日記以外にもたくさんあったはずのプレゼントの存在とともに薄められている。オペラでは、ただ日記だけと出会うことになった。これは事実と異なる脚色に当たるだろうが、表面上の葛藤や衝突を越えて、父母と娘が深く結びついていたことを印象づけるものだろうし、日記というごく私的な独白の場所を必要としていた少女の内面的なモティーフを予告する点でも興味ぶかい。

【ターニング・ポイント】

ここからは複層的な伏線を読み解きながら、アンネの内面とゆっくり向き合うドラマがつづく。例えば、次の「学校」の場面では、彼女の度の過ぎたおしゃべりを咎める教師に対して、アンネは、これは母からの遺伝によるのだといって煙に巻こうとする。この「遺伝」というドキッとするキーワードを、他ならぬアンネ自身が発しているというのは多重的な皮肉になっているだろう。

この様相が変わるのは、第2場の最初の場面「隠れ家」である。ヴァイオリンがヴィオラのような深い音色で雰囲気をつくり、まず音楽的に、ガクッとキャラクターが切り替わる。ここで作品は新たに、社会性という色合いを増してくることがわかるのだ。外出もままならず、壁に囲まれた生活は、少女の内面的モティーフを大きく揺さぶってくる。同時に、この状況がフリド自身の立場と関係しているのは、すぐに読み取れるだろう。次に切れ目となっているのは、第2場(第Ⅰ部)と第3場(第Ⅱ部)の間に流れる「間奏曲」だ。リヒャルト・シュトラウスやブリテンを思わせるこの形式はセリエリズムを感じさせる構造的な音楽が、徐々に運動性を伴って高揚し、そのおわりで新しい場面を導くようにできている。

第3場は多かれ少なかれ、隠れ家と外部の状況の対応が問題となる。その典型的なモティーフは、「ロシア軍最前線」によって語られているが、一見、スケルッツォのような「ファン・ダーン夫妻のデュエット」でも同様のモティーフが歌われており、音楽的にはジャズ的な要素が出現し、いつの日か解放軍がやってきて、潜伏生活がおわるのではないかという想いは、笑うほうも笑われるほうも通じあうものだったにちがいない。ロシア軍の場面では、たとえ、彼らがナチスを追い出したとしても、アンネたちにとって決して幸福ではないというイメージが示されることは、既に述べたとおりだ。この場面は政権側の人たちにとっては、ロシアの正当性をプロパガンダ的に語る場面と見做し得るが、その実、アンネの不自由がいまも同様にあることを物語る皮肉に満ちた音楽である。

こうして、もはや解放の期待も望み得ないのは明らかになった。そこで、第4場は、「純化」の過程とでもみることができると思う。アンネはもはや準備ができて、いつでも旅立つことができるのだ。そのときが、悲劇の成就である。十字架の上で、イエスが「成し遂げられた」と叫ぶときだ。蝋燭の火は大分、短くはなったが、期待どおりに作品のおわりに燃えつきそうな感じでもなくなった。何のために、あるのだろう。常につよくライトで照らされた太い柱の燭台の上に立てられた蝋燭は、実際、あまり劇のなかで役立てられてはいなかったのだ。私はこの蝋燭がどう使われるか、あるいは、無意味におわるかで、演出の価値が決まると見做していた。そして、それまでは不満があった。その意味がようやく伝わったのは、ウインド・マシーンの音が消えても、なお、数秒間つづいた灯りが決定的に隠れ家の闇を象徴した場面である。

【バトン・タッチ】

今回、演出にはピアニストの稲垣聡氏が起用された。アンサンブル・ノマドの佐藤紀雄代表へのインタヴューによれば、これまでの活動において、稲垣氏がオペラ演出に一家言あることがわかったので、この公演での演出を任せることにしたということになっている。音楽家として、作品の音楽的シンプリシティを生かしたい立場から、若干、潔すぎる部分はあったにしても(例えば、重要なモティーフとして蝋燭を使うなら、もっと骨までしゃぶり尽くすような使い方をせねばならない)、いきなり牢獄を解体するギミックに始まり、見どころは多かった。

さらに、佐藤氏は指揮からも退いて、同じくピアニストで分析を得意とする中川賢一氏を起用した。技巧派のギタリストにして、このように現代音楽のスぺシャリストとして、必要に応じて指揮も執れば、アンサンブル・ノマドのような団体の主催者として仲間を集めたり、具体的に公演を打ったりする活動では、まだまだ第一線にある彼だが、そうした取り組みを伝えるバトンを、そろそろ次の世代に渡していくことの重要性も感じ始めている時期なのだろう。そして、『アンネの日記』は世代から世代へ、大事なものを受け渡していくという意味でも、貴重なモティーフを提供してくれる公演だというのは間違いがない。

あまり一般受けしない現代音楽の分野では、オペラをやることがドル箱企画となっている。現代オペラをやるとなると、途端に席の埋まりがよくなるのも不思議なことだ。従来、ノマドは敢えて、室内楽/室内オーケストラに特化してやってきた。そのなかで珍しく取り上げるオペラは、しかし、大勢の目を惹くような大編成オーケストラ、豪華な舞台装置をもつものではなく、オリジナル26人編成をさらに9人編成にまで縮めたモノ・オペラであった。作曲者、グレゴリ・フリドの名前も、日本では、例えば細川某氏よりも有名ではない。作品の内容をみても、日本的なナショナリズムを意識させるものではなかったし、欧州文化に媚びを売るように、有名なギリシア神話のモティーフが用いられてもいなかった。無論、『アンネの日記』は漫画にもなり、アニメや映像作品にもなって有名なものにはちがいないが、素材にはひねりが効いていて、かえって欧州文化にナイフを突きつける意味をもつ。言ってみれば、公演そのものがアイロニーに満ちみちたものだった。

【公演と符合する現実の事件】

偶然なことに、このレヴューを書いているうちに、佐藤氏の鋭い社会観察がカタチになった出来事が発生したことを皆さんもご存じだろう。東京の複数の公的施設で、他ならぬ『アンネの日記』などの対ユダヤ人迫害に関する資料が切り刻まれているというのだ。犯人は遠からず御用となるだろうが、その人物像は、作品が切り刻まれた図書館等が漫画『はだしのゲン』撤去の請願(いずれも斥けられた)がなされた地域と重なっていることから、容易に想像がつく。排外主義を正当化し、日本を戦争のできる国にしたい人たちのうち、誰かの仕業である。彼らの多くは安倍総理を尊崇し、昭和天皇でさえ忌避した靖国神社を神聖な場所と唱え、憲法9条には反対して、半世紀以上にもわたって我々の先達が育んできた憲法の「改正」を唱える上に、WWⅡにおける日本の行為に過ちはなかったとも主張している。排外主義から中国人や韓国人に嫌がらせの言葉を浴びせる人もあり、特に極端な人ともなれば、考え方がちかい点でナチスやヒトラーにも親近感をもっているのだろう。

私には、彼らがむしろ、アンネやフリドがぶつかった壁を、当たり前のように求めているのに驚く。ノマドがこの作品をやった背景には、こうした社会的背景が徐々に強まっていることへの危機感もあるはずだ。先の都知事選で、若い世代の多くは軍人(といっても、狡猾な軍官僚というべきだろう)出身で右翼煽動政治家の田母神氏を臆面もなく支持していた。日本にも、再び極右勢力が誕生したのである。彼らの面白いところは、自ら壁のなかに収まろうとするような、可笑しな習性をもつことだ。

ただし、政治的な背景よりも、ノマドがより大きく訴えたかったのは、現代音楽そのものの危機なのかもしれない。「危機」といっても、既にその息吹きはハプスブルク王朝最後の何人かの指導者よりも、さらに弱々しくなっている。そこへまた、象徴的な事件が起きた。佐村河内事件である。佐藤氏は、本当にものが見えている人だ。現代音楽も、正に深い差別に曝され、厚い壁のなかに閉じ込められている。新垣隆氏のような優れた音楽家さえも、その壁を突き破るには佐村河内某の用意するようなシナリオを必要としなければならなかったとは。だが、佐藤氏はもっとうまい方法で、壁を打ち破れるのではないかという試みを、このアンサンブル・ノマドでつづけてきたのかもしれない。

ベリオ『フォーク・ソングス』の終曲は、そんなノマドの活動にとって象徴的な作品だった。作曲者のルチアーノ・ベリオが亡くなり、その作品を後世に伝えた優秀な歌い手である夫人さえ、歌詞に使われているアゼルバイジャン方言の意味を知らなかったために、もはや歌詞の翻訳が難しくなっているのだという。だからといって、この曲に魅力を感じないということはない。むしろ、意味不明だからこそ、関心が湧いてくるという面もある。現代音楽とはおよそ、そのような受け取り方で構わないものであるはずではなかったろうか。大学教授のように、誰もが論理的に語る必要はない。私はそうやって、このジャンルの音楽に親しんできた。無論、力の限りに考え、その裏付けを得るために、絶えず学ぶことは必要だ。しかし、音楽であるがために、論理的に完璧な理解をせずとも、ある程度、わかりあうことはできる。その点が、この芸術の素晴らしさだと思う。

【再生へ】

さて、次回から、ノマドは「再生へ」をテーマに3回シリーズのコンサートをおこない、その集大成として、「エストニアから震災復興を祈るコンサート」を企画している。このプロジェクトをみるに当たっても、『アンネの日記』の内容がもういちど思い出されてくる。世代から世代へ伝えていくこと。それだけではなく、復興は私たちが思っていたよりもずっと難しく、そう簡単には成し遂げられないと多くの人たちが理解した。あり得ないことに、いまや、政府は復興を第一の課題とは考えていないし、多くの人たちが、その考え方に共鳴している感じさえある。そんなときだからこそ、こうした演奏会が意味を増してくるのだろうか。アンネのように、困難な状況のなかで信じつづけること。これは先に述べたような、信仰の問題とも近しい。具体的な内容はまだ明らかにされていないが、佐藤代表は次回、50回記念となる公演では「とても面白いことを考えています。言いたくないぐらい・・・」と仄めかしている。実際、この人がそういうのなら、本当に面白いのだろうと思う。

その前に、この日の演奏の特筆すべき成果については、改めて強調しておくべきだ。無論、その最大の功労者として称賛されるべきは、天羽明惠女史にちがいない。

【プログラム】 2014年2月16日

1、G.フリド モノ・オペラ『アンネの日記』(器楽9人編成版,劇場初演/日本初演)

 アンネ・フランク S:天羽 明惠

 ゲシュタポ隊員(黙り役):別當 勝輝、伊東 大貴

2、ベリオ フォーク・ソングス

 S:天羽 明惠

 於:東京オペラ・シティ(リサイタルホール)

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