2017年3月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  
無料ブログはココログ

« 福士マリ子 フランセ ファゴット協奏曲 ほか The Bassoonist vol.10 @ドルチェ楽器(西新宿) 2/17 | トップページ | R.シュトラウス 歌劇『ナクソス島のアリアドネ』 新国立劇場研修所公演(Aキャスト) 3/2 »

2014年3月 2日 (日)

三澤洋史 バッハ ヘ長調ミサ曲 BWV233/カンタータ第40番 BWV40 ほか 東京バロック・スコラーズ 「バッハ自由自在Ⅰ」 2/23

【静かに、ゆったりと】

ニコラウス・アーノンクールはその著書のなかで、英国バロックを高く評価し、それほど大きくはない会場で、親密に音楽を囲む雰囲気が、大陸の事情とは異なることを述べている。三澤洋史の主宰する東京バロック・スコラーズ(TBS)の活動も、なんとなく、そんな雰囲気を醸し出していたのではなかろうか。この日の演奏会場、ティアラこうとうの大ホールは1200席もあるから、決して小さな規模ではないけれど、私が言っているのは音楽的表現のことである。

技術的には、もっと優れた集団がたくさんあるだろう。先日の「マヨラ・カナームス東京」にしても、きっと、高度な教育を受け、洗練されたトレーニングによって鍛え上げられた若いメンバーを多く含んでいる。TBSも、鍛え上げれば、声はもっと出るだろうし、ニュアンスもゆたかになるのだろうが、それだけが全てではないと三澤氏は主張したいのだと思う。彼らがいちばん大事にしているのは、価値観だ。声高に叫ぶのではなく、彼らは静かに、ゆったりと言葉を広げることで何かが生まれると信じている。会場が1200席あろうが、それは偶然の産物だ。どちらかといえば、私たちのほうから寄っていくべきなのだろう。そうすれば、あの場所では役に立たないほどのオルガンの響きが、きれいに声をコートしている様子もわかるだろう。囁くように歌う言葉のニュアンスもわかるのではないか。

【フーガの技法の声楽版】

さて、この演奏会は当初、メインに考えていたというバッハのカンタータ第40番(BWV40)と、それが加工された上で、終曲に転用(パロディ)されているヘ長調のミサ曲(BWV233)というダブル・メインで構成されているが、主宰の三澤にしてみれば、それに加えて、新たな命が生まれる瞬間…それも自ら編曲した『フーガの技法』終曲の声楽ヴァージョンをこの世に送り出すという、興奮すべき瞬間も伴っていた。この曲は楽器の指定がないことで知られているが、終曲まで完成しきらずに未完のまま残ったこともあり、後世、鍵盤を含め、オーケストラや室内楽編成などで比較的、自由に演奏されている。しかし、これを声楽で歌うという発想は、あまり試みられていなかったはずだ。

プログラムにはしっかり書いてあるが、基本的に、演奏会がおわってから読む習慣のため、演奏が始まった瞬間、アー、ウーというヴォカリーズのようなものではなく、歴とした歌詞がついているのに驚いた。ミサ曲の「キリエ」の文句がそのまま使われて、「キリエ・エレイソン」で始まり、拍子が変わるところで「クリステ・エレイソン」に転じたあと、「キリエ・エレイソン」に戻って、これらの合成が始まり、壮大なフーガが盛り上がるところで未完のところを迎えるという構成になった。作品の終曲で、通常、ミサ曲冒頭に置かれる「キリエ」の歌詞を当てることには、いかにもキリスト教的な意味があり、死からの再生、復活というテーマをなぞるものになっている。

「キリエ」と唱えられたときのドッキリ感が去り、その言葉のイメージが作品に見合ったものであるかどうかという印象のすり合わせがおわると、私はだんだん目頭が熱くなってくるのを感じた。なるほど、三澤がこの言葉を作品に当て嵌めようと決意したのは偶然ではない。まるでバッハが、この言葉を選べと指示しているような響きなのだ。しかし、歌い手は居丈高にならず、自然と言葉を発しているだけだった。管弦楽伴奏は用いず、通奏低音だけが静かにコーラスを導いていく。途中でいったん通奏低音が止んで、アカペラになる部分は最高だった。やがて、おずおずとオルガンの響きが従うようになり、合唱の背中を押すように加わると、再びコンティヌオ群が復帰する。ここで、堤防は決壊した。

惜しむらくは、未完の部分まで辿り着くと、それを十分に味わう間もなく、指揮を執っていた三澤がすぐに客席側へ向きなおり、「バッハはここまで書いたところで亡くなりました」と軽率な声音で一言し、拍手を求めたことだ。これは歌劇『トゥーランドット』初演(プッチーニが逝去し未完のまま初演)の場で、歴史的な名指揮者のトスカニーニがとったとされる行動に似ているが、それほど荘重とはいえない。よく言えば、三澤氏はもうすこし明るい、あけひろげなタイプの人間だということになろうか。実際、この演奏会は全体的に、三澤氏のトークを挟みながら行われる形になっており、難しい雰囲気にしたくないというイメージは伝わってくるのだ。もしも、そういうことが好きでないなら、TBSのコンサートには来ないほうがよいというだけのことだろう。

【カンタータ BWV40】

このあと、三澤氏は当初、メインに計画した(BWV40)のカンタータを前半にもってきているが、これも思慮ぶかい工夫といえるだろう。ひとつには前述のとおり、この作品が組み込まれた作品があとで演奏されるせいだが、未完の作品が当然ながら、中途半端なところでおわってしまう事情からみても、これは周到な配慮だ。カンタータはまた、ミサ曲を模した前曲とは、また別のムードのなかで歌われる。特に、40番は明るく牧歌的なホルンの音色が生きる作品で、このコントラストも興味ぶかい。テノールに畑儀文が起用されているが、最後のコラールに先んじて、非常に技巧的なアリアがあり、さらにコントラストは際立つはずであった。

予想どおり、合唱はずっと活き活きと、厚みもある歌唱で、作品の性格を端的に物語っている。ただ、この印象には二面性があり、最初の『フーガの技法』が十分、自信に満ちた歌唱に仕上がっていなかったのではないかという感じも抱かせなかったわけではない。2つの作品は、あまりにもちがう。それは作曲時期をみても当然なのだが、ああ、やっぱり、あれでよかったのだと納得できるのは再びミサ曲に戻ってからである。TBSの演奏会を聴くのが初めてなら、私のような疑念を抱くのも無理からぬことだ。そして、私は多少、コーラスを齧ったこともあるので、最初のステージの難しさが体験として残っていたせいもある。

作品は8曲構成で、あっという間である。第5曲のレチタティーボでは、アルトの松浦麗が初登場する。藤原の公演でロッシーニなどの軽い役を歌っている認識があったが、こうしてみると、顔立ちも声も、イメージよりずっと気高いようにみえた。あの女王のように貴種のエレガントな発声を、いままで誰も、こうした形で使おうとしなかったのは不思議なほどではなかろうか。言葉は精確で拡がりがあり、適度な柔らかみを帯びている。後半に登場した國光の場合でもそうだが、三澤は声楽家の新しい面を引き出すのがうまい。古楽を得意とする声楽家はコンスタントな美しい発声をもち、キャラクターもある程度、定まっていることが多いように感じるが、三澤はそのように無難な選択よりも、歌手たちのよりゆたかな可能性に賭けてみることを好んでいるようだ。

逆に、畑はこうした演目で、欠かすことのできない高声の歌手として個性が確立している。だが、私がしばしば「能面歌手」と嘲る福井敬などとはちがい、彼は確かにコンスタントな仕事をするけれど、その折々で、全然、味わいのちがう声を聴かせられる点が凄いのだ。今回の演奏会では、レチタティーボはマタイの福音史家のような高貴さで、正に聖書を読み聞かせるような誠実さで以て表現し、もう一方のアリアでは、意外に図太い声を張って、アジリタはアジリタとしてではなく、言葉の自然な派生現象として歌っているところが注目される。ホルンを中心に、オーボエなどの複雑な伴奏を伴っているが、その組織をものともせずに使いこなし、声の支配下に置いてしまう貫禄ときたら!

歌い終わっても、終曲のコラールの文句を小さな声で唱え、隣に座る塩入が時折、これに追随しているのも良い風景だ。このコラールは繰り返しがなく、さっと過ぎ去っていくような滑らかなフォルムが特徴となる。

後半は、ブランデンブルク協奏曲第1番を最初に置き、同じようにホルンが活躍する曲が並べられ、また、後半のメインとなるミサ曲と同じ、ヘ長調によるコントラストを楽しんでもらう趣向がみられた。演奏自体はプログラム全体でみると、十分な洗練を経ているわけではなく、特筆すべき点は少ない。だが、三澤は管楽器と独奏ヴァイオリンをすべてソリスト扱いで入場させ、これが作品に対する認識をすこしだけ窺わせるものとなっていた。

【ミサ曲 BWV233 の隠れた自由さ】

最後のミサ曲で、再び「キリエ」を聴くことになる。『フーガの技法』のときと同じく、声を潜め、ほとんど聴こえなくてもよいぐらいの指示ではなかったろうか。「キリエ」は「クレド」のように公言して誓うようなものでなく、内面で救いを求める声が歌になったものというイメージが、こうした表現から感じ取られてくる。「クリステ・エレイソン」でやや声が高まるのは、この世に降りたクリストに声を届けたいがためであろう。天に届ける場合は、むしろ、静かに祈るほうがよいのだ。

「グロリア」の合唱につづき、連続して独唱が重ねられ、終曲の合唱に至るため、中間3曲は独唱者と器楽伴奏の関係に注目して聴くことになる。バス独唱には弦楽器のゆたかな合奏が、ソプラノ独唱にはオーボエのリードと、バスーンのゆたかな低音が効果的に響く。そして、アルト独唱には、ヴァイオリン・オブリガートがついている。このなかでは、河村幹子が吹くバスーンの音色のゆたかさに驚嘆するとともに、この楽器の声との相性の良さに改めて注目させられた。近藤薫のヴァイオリン・オブリガートは横滑りがあり、歌手の歌唱の印象を高めるほどのものではない。だが、松浦はカンタータのときと同じく、否、それ以上の力づよい歌唱を披露して見事だった。

(BWV40)のカンタータと、(BWV233)のミサ曲を比べると、一見、開放的なカンタータの響きに対して、決まりきった文句によるミサ曲のほうが単調に思えるが、実際にはそうではない。例えば、独唱と合唱の関係をみると、大抵、1:1で対応するカンタータに対して、ミサ曲は第1、2曲と終曲の両端だけが合唱で、その間は独唱だけで占められている。歌の構造を考えると、(BWV40)はきわめて閉鎖的で、歌い手の自由はあまりない。唯一、終曲の前で歌われるテノールの技巧的なアリアだけが、いわば運命を一変させるような力をもっているだろう。これと比べれば、(BWV233)の場合は、中間を歌う3人の歌手によるコミュニケーションが十分ならば、いかようにも印象を変えることができる。また、3人がどのような特徴をもった歌い手であるかということ、および、彼らが採る表現の解釈によっても、作品は多様な表情を示し得るはずだ。

3人が異なった表現を採ることもできれば、統一した表現を採ることもでき、その組み合わせによっても作品はちがった顔立ちで見えてくることだろう。

今回は、めいめいが異なるキャラクターを選び、そのナンバーについている伴奏やオブリガードも考慮に入れて、そこに相応しいストーリーを構築していた。つまり、最初のバス独唱は力づよく、先程のカンタータのときよりも、塩入は広い空間に響きやすい声を使ったし、つづくソプラノ独唱の國光は彼女にでき得る限りのリリカルさを絞り出し、爽やかな発想をこころがけ、最後のアルト、松浦麗については先に触れたとおりである。ただし、これに先駆けて、全曲の頂点はグロリアの合唱に来ている。神さまに感謝を捧げる、’Gratias’の言葉を発するときがそれである。これを念頭に全体を見ていくと、導入のあと、グロリアの感謝の言葉で頂点を打ち、バス独唱がこれを力づよく引き継いだあと、非常に切実なソプラノの「クイ・トリス」を経て、アルトがイエス・クリストの名を神々しくも、再び呼ぶ(最初は第3曲)。そして、(BWV40)の「そのために神の子は現れた」のパロディを伴って、終曲となるのである。

【まとめ】

こうしてみると、バッハがまるでコンピュータに保存していたデータベースを苦もなく探してきて、10年ちかくもあとになって、上手に貼りつけたような印象を与えるが、当時はまだ、楽譜の印刷がようやく本格的になされ始める時期であり、資料を保存しておくだけでも、それほど容易なことではなかったはずなのだ。「バッハ自由自在」と名づけられ、スタートしたシリーズの初回であるが、その凄さの根本にはバッハの並外れた記憶力と、マメな積み重ねがあるように感じられる。多くの古楽アンサンブルがそのマメさにつきあって、カンタータを何個かずつ、コツコツと演奏したりしているのは、怠惰な私には、とてもついていけない努力と思われるけれど、もちろん、演奏家にとって、否、それだけではなく、聴き手にとっても十分、大事なことなのだろうとは思われる。

そのなかで、三澤氏がこのテーマで動き出したということは、まことに楽しみなことであろう。「バッハ自由自在」。バッハが自由自在なのか、あるいは、三澤氏らのグループがバッハを自由自在に読み解き、演奏していくのか。無論、それらのダブル・ミーニングであろう。さらに、三澤氏は「21世紀のバッハ」というキーワードを忘れてもいない。それは最初の『フーガの技法』で見事に体現され、バッハ表現の新たな可能性を探る道も明るく切り開かれることになった。これら複数の方向を同時に追っているアンサンブルとなると、それほど多くはないはずである。バッハの古さと、新しさの両方を、東京バロック・スコラーズは貪欲に追いかけていく。三澤氏のもつあらゆる音楽的姿勢が、これを可能にするのである。

とても良い演奏会であったが、1200席のホールでは空席も多く、まだまだ、「聴くに値するアンサンブル」という認識が愛好家の間に広まっていないらしいのは残念なことだ。その現状が、なるべく早く変わってくれることを祈って、このレヴューを捧げたいと思う。

【プログラム】 2014年2月23日

1、バッハ コントラプンクトゥス19 ~『フーガの技法』 BWV1080
2、バッハ カンタータ第40番「そのために御子は現れた」 BWV40
 (T:畑 儀文、Bs:塩入 功司、A:松浦 麗)
3、バッハ ブランデンブルグ協奏曲第1番 BWV1046
4、バッハ ヘ長調ミサ曲 BWV233
(Bs:塩入 功司、S:國光 とも子、A:松浦 麗)

 コンサートマスター:近藤 薫

 於:ティアラこうとう(大ホール)

« 福士マリ子 フランセ ファゴット協奏曲 ほか The Bassoonist vol.10 @ドルチェ楽器(西新宿) 2/17 | トップページ | R.シュトラウス 歌劇『ナクソス島のアリアドネ』 新国立劇場研修所公演(Aキャスト) 3/2 »

声楽」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/543421/59207671

この記事へのトラックバック一覧です: 三澤洋史 バッハ ヘ長調ミサ曲 BWV233/カンタータ第40番 BWV40 ほか 東京バロック・スコラーズ 「バッハ自由自在Ⅰ」 2/23:

« 福士マリ子 フランセ ファゴット協奏曲 ほか The Bassoonist vol.10 @ドルチェ楽器(西新宿) 2/17 | トップページ | R.シュトラウス 歌劇『ナクソス島のアリアドネ』 新国立劇場研修所公演(Aキャスト) 3/2 »

ツイッター

  • ツイッター

最近のコメント