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2014年3月23日 (日)

神田慶一 歌劇『銀河鉄道の夜』 A/B両キャスト(初日) 国立オペラ・カンパニー青いサカナ団 3/15

【青いサカナ団の新しい希望】

私が青いサカナ団の公演に初めて接したのは2004年、彼らが15周年記念を祝うオーケストラ公演でのことであった。公演の記録をみてみると、最初の公演は保坂文昭という作曲家の作品で、『壁』というタイトルからすれば、安倍公房の小説をオペラ化したものと推測できる。神田氏は国立音大では楽理を学び、キャリアは演出でスタートし、指揮についても専門的な修養を積んでいるが、当初は「作曲家」ではなかった。サカナ団でも第3回公演で初めて指揮を執ったあと、第5回公演になって、ようやく処女作の歌劇『銀河鉄道』を発表している(1994年)。

以後、ヤナーチェク『マクロプロス事件』の日本初演(日本語上演)をとるなど、過去の名品と向き合いながらも、断続的に自作の発表を重ねてきた。2004年ごろはちょうど、彼の仕事が社会的にもっとも評価された時期であったといえるだろうし、だから、私も関心をもったという背景がある。日経新聞の池田卓夫氏も『あさくさ天使』初演を高く買い、再演を大々的に呼びかけるなどしたが、その後、若干、評判が下火となっても公演自体のレヴェルの高さは相変わらずであった。

こうした成功の土台にあったのが、『銀河鉄道』であることは論を待たないだろう。宮沢賢治による未完の童話『銀河鉄道の夜』に基づく作品はいろいろとあって、近年は初音ミクが歌う冨田勲の「イーハトーヴ交響曲」に組み込まれるなどして話題を呼んだが、意外にもオペラ化は他に例がないと思う。初演から3年の間に3回、上演を重ねた作品をクローゼットから引っ張り出し、ほとんど一から書きなおしたのが今回の上演であるという。当時のサカナ団は現実的には、きわめて難しい状況に置かれていたようだが、地元中野のアーティスティックなコミュニティのなかで、市民参加型の子どもオペラ制作をきっかけにして再出発を切ることになる。その原点を探る2014年の公演は、確かにサカナ団の新しい希望を切り開くものであったろう。

【ダブル・キャストの意味】

あの頃に戻るというよりは、当時、常識的だったオペラとか、市民参加プロジェクトみたいなものの枠を外して、まったく新しい発想でつくられた作品だ。上演には工夫があり、主役ペアであるジョバンニ&カムパネルラをダブル・キャストにし、Aキャストは高校生、もしくは学生ぐらいの年代のペアが歌い、Bキャストは大人の声楽家が歌うようにしたのである。主役組以外に、いくつかのキャストがダブルになっているが、これらは基本的に子どもどうしの入替であるので、やはり、主役組がどういうちがいになるのかが注目だった。1回ずつ聴いただけの感覚だが、若手組と大人組に対する音楽的要求はまったく同じであり、歌の一部を簡単にしたり、演出レヴェルを下げたりはしていない。

また舞台には、演じ手によって演出を変えることで面白さを出す方法もあるが、ここは敢えて、両組にまったく同じ動きや感情表現を要求している。A/Bを比較的にみるという発想ではなかったろうが、まったく同じことをさせて、若い人と大人の演じ手で、どのようにちがいが出るのかをみたいという想いはあったかもしれない。私の感覚では、大人組の上演は、さすがに彼の身近にずっとある人たちのやることでもあり、神田の意図をきわめて正確に表していたのは確かである。一言でいえば、彼は「面白いものがつくりたい」のである。ジョバンニとカムパネルラはともに少年だけれども、女性が歌うことで宝塚的なミュージカル的要素がつよく出て、オペラのなかにはめ込まれているという印象をつよくする。

ミュージカルが面白くて、オペラが面白くないというつもりはない。また逆に、ミュージカルが浅薄で、芸術性の足りない娯楽的作品で、オペラは高等、人間の本質を描く芸術作品だというつもりもない。だが、ミュージカルの音楽的表現には(あまり詳しいとは言えないけれども)、人々が内面を明けひろげにすることで舞台上の関係がつくられる傾向があるように思うが、オペラはより構造的で、むしろ、そこには直接、描かれていないものを想像させるところから関係ができるという点で、大きなちがいがあるように思うのだ。神田慶一のオペラの特徴のひとつは、登場人物たちがなぜ、そのように動くのかという背景を重くみるところにあり、そこには社会の様相に根差した鋭い毒があって、だからこそ、神田の作品は面白いということになる。

音楽だけをみれば、神田の作品にそれほど際立った独創性はないだろう。独特の癖のようなものはあるけれど、湯浅譲二の言うような意味では独創的というわけでなく、感情の極点で超高音が書かれたり、イタリア・オペラのように単純な部分さえあるぐらいだ。神田の音楽は同時代や過去の人たちが書いたオペラ、合唱曲、声楽作品などのなかに、比較的、容易に発見できる要素でつくられている。だが、それにもかかわらず、彼の作品はいつでも新鮮で、ホロッと来る。口の悪い人なら、彼の作品をいくらでも貶めることができるだろうが、ほとんどの人は、そういう態度に忍びないと感じるだろう。彼はそうしたもののいちばん良い部分を、タップリの皮肉と、持ち前の優しさで真正面から表現している。聴き手はこれを、「私たちの音楽」と感じるだろう。

そういう作品は、いま探してみたような、巷間のありふれた仕事のなかにはなかなか発見することはできないはずだ。また、彼が少しずつ開発してきた日本語による音楽表現の可能性、デクラメーションに対するアイディアは、彼の世代では突出して独創的ということもできる。例えば、『あさくさ天使』のべらんめえ調というか、独特の気風のいい語りくちは特に印象的である。

さて、専門的修練を積んだ歌い手の起用は、音楽的な精確性も期すことができて、音程や、神田の望むアーティキュレーションがハッキリするという点では利も大きかった。近年は二期会等の専門カンパニーでもトップを争うような歌手たちが、斯くの如きプライヴェーター公演に参加して実力を競い、その利を最大のものとしてくれた経験もある。今回はそれよりはやや控えめなキャスティングだが、いわば、小回りの効くメンバーが選ばれた。神田の書く独特の言葉の美しさや強さ、優しさを誰よりも知悉していて、その点が柔らかく表現されている。例えば、カムパネルラがジョバンニをからかうザネリを窘めるときには、「ザネリ!」の一言に、言い尽くせないほどの強さが満ちみちているようだったことを思い出そう。

【賢治の夢と神田慶一】

いま申し述べたような理由から、カムパネルラは原作よりもハッキリした態度をとっていることがわかるだろう。原作では、彼はザネリに対して、そこまで明確な態度はとっていない。全体的にみて、言いたいことが言えない雰囲気というのが強調されているからだ。例えば、教室での授業の場面でも、ジョバンニは「星です」という答えにうすうす気づいていながら、それを表に出すのを躊躇っていて、カムパネルラもそれに応じているのである。

賢治がこの作品を書いたのは1924年から1931年の間ぐらいとされているが、この時期は日本の右傾化が進み、軍国主義が蔓延して、ついには満州事変が起こるような時期に当たっている。賢治は特に反戦的な作家であったとは言えないように思うが、法華経を熱心に読み、社会の平穏を願う人物であったのは言うまでもないことだ。この作品で、敢えてキリスト教的な倫理観が一定の位置を占めているのも、日本がやがて争うようになるであろう西洋の文化と、彼の奉じる法華経の文化を融合させるという観点から重要なことであった。

神田はそのことに気づいているのかどうか、よくわからないが、基本的に、この時代を覆い尽くしていた戦争の暗い影については、巧妙に排除しているようだ。銀河鉄道の旅では、いくつかのエピソードがカットされているが、そのなかには、姿のない工兵隊による架橋演習の場面もあった。この場面に、ジョバンニは非常な興奮を示しているが、これも時代背景を知る手掛かりとしては重要なのに、カットされているのである。

一方、より現代的な問題を示すことのできる部分として、プリオシン海岸の場景はやや拡大的に扱った。鳥捕りの部分と、このプリオシン海岸の場は、岡戸淳、もしくは浅山裕志というサカナ団の誇る喜劇役者が担当し、皮肉いっぱいながらも明るい場面として表現している。浅山は作品の前半では学校の教師に扮して、星空のロマンを否定して科学的にみるように諭し、一方、夜の祭りの場では薔薇の花束をもって女性を口説き、毎年、ちがう女を連れているといってザネリたちにからかわれている。後半の地質学者としては、これを踏まえて、化石にマークするアルファベットにちなんで’H’じゃないと反論し、見つけた’I’型の骨をもって「愛が大切」という皮肉を演じている。これは密かに、前半の印刷所での活字拾いの場面と対応している。

原作では見学者には紳士的な態度をとる地質学者だが、神田作品ではいくぶん抑圧的で、退屈な人物の象徴となっており、彼の部下につく子どもたちはいつでも欠伸をしている。作品にとって本質的な部分ではないが、こうして徐々にポエジーを積み上げていく神田の手法は、いつもながら巧みである。

鳥捕りの場面では、「いろとりどり、よりどりみどり」の小鳥たちが登場し、『あさくさ天使』の踊り子を思わせる華やかさで少女たちが狂言を演じる。衣装は同じ桜井麗で、省コストの制限のせいか、あのときほど魅力的な発想は見られないが、この小鳥たちの衣装は印象的だ。このシーケンスでは、カムパネルラが降りていった鳥捕りに素直でない態度をとり、「もっと話せばよかった」と反省するのが重要な場面だが、この件では若手組の吉田弥が忘れがたい演技と表情をみせた。一体に、吉田と、ジョバンニ役の深見彩乃の演唱は、作品を等身大のものにしてくれて素晴らしい感興がある。吉田は前作の『終わらない夏の王国』でも主役格だったし、深見にしても、サカナ団の舞台は今回が初めてではなかったかもしれないが、歌い演じることの純粋さ、舞台でみせる、脚色されながらも自然で、柔らかい表情は、経験を重ねた大人にはかえって、なかなか出せない味わいを醸し出してくれる。

そもそも神田のつくる舞台は、賢治の羅須地人協会の発想と似通っており、洗練された誰かでなければ表現できない特別なものではなくて、誰もが参加でき、お望みなら修行も積める芸術のコミュニティとして機能するようなものを目指していたと思う。比較的、裕福な家庭に育った賢治のこの構想は、彼の健康が害されたことなども重なり、必ずしも成功には至らなかったようだが、こうして神田のつくる『銀河鉄道の夜』として舞台にかけられてみたときには、賢治の夢がすこし達成されたかのような印象を残すのだ。

ただ、ここで強調しておきたいのは、神田が専門的修養を十分に積んだ大人たちと同様に、勉強中の深見&吉田にもまったく同じ専門的要求をしているということである。どこの場面だったか、神田は感情の極点で、ジョバンニが大人でも難しい飛躍的な超高音を歌うシーンを書いていたけれど、これを深見にもハッキリと要求していたのは恐ろしいことかもしれない。もっとも、ほとんど当たるはずもないこうした音が出てくるのをみると、作曲家はこれにしっかり当てろと言っているわけではなくて、これぐらいのところをめざせと言っているだけなのだということにはうすうす察しがつく。現代では声楽家のテクニックが向上し、例えば、バロック・オペラであり得ないほどのアジリタが巧妙に配された場面を、歌手たちが平気で歌っているようなトコロもよく見かけるようになったが、これだって、当時はカストラートみたいのがいたとしても、まともに当たることを期待して書いたようには思えないのだ。

いずれにしても、神田はそうした音が厳然としてあり得ることに容赦ない。子どもや未熟な歌い手がうたうとわかっているのに、彼は難しい音符を書くことに躊躇わない。専門的修練がなければ届かないような音が書かれるばかりでなく、例えば、同じ音が3つ続くなんてのも歌いにくいわけだが、そういうのも平気で入れる。大半の乗客にとって「終点」となる南十字(サザン・クロス)の場面で歌われる、やや厳しい高音を含むハレルヤ・コーラスなどは大概、フラットするのがわかっていて、それを前提に書いているフシがあった。本来、これをプロ中のプロであるテノールの所谷直生が引っ張り上げる発想だけれども、この日は喉のトラブルで十分なことはできない。しかし、フラットのままでも、それはそれで感興があった。すべて承知の上で書いているなら、誰も文句は言えないだろう。

【死にいく者と生きる者】

ところで、原作を読むと、僕は暗澹たる想いになる。その後、日本に起こったことをわかっているせいもあろうが、賢治は時代を先取りしているからだ。人々がたくさん亡くなり、言いたいことも自由にいえず、自分が犠牲になって国家のために尽くすといえば響きはいいが、それが本当の「さいわい」なのであろうか。汽車のなかで、燃えるサソリのエピソードを軸に、ジョバンニとカムパネルラはしおらしい志を抱くが、それはすぐに現実のものとなって、ジョバンニからカムパネルラを奪ってしまう。結果として、性悪のザネリが助かるわけだ。これは、皮肉である。確かにカムパネルラは良いことをして亡くなったが、その行為が彼の価値に相応しいものであったのかどうか。そもそも、良いことをして死ぬという発想があり得るのかどうか。

この問題にぶち当たったときに、キリスト教のことがアタマに思い浮かぶのはごく自然なことだろう。そもそもイエスは人間の罪を背負って死んでくれる。人々は、イエスを失ったマリア様(聖母)にすがりながら亡くなっていく。オペラではカットされているが、カムパネルラもあそこにお母さんがいると言って、汽車から消えていくことを思い出そう。そのエピソードは「母親」というキーワードの下に、沈没船の姉弟と家庭教師のところに一本化されたようにも見える。カムパネルラの母親は事故以前に亡くなったことが文脈から窺えるが、彼らのいう「母親」とはしばしば、産みの母親と聖母マリアのダブル・ミーニングになっている。ケンタウル祭の「ハレルヤ・コーラス」(原作では『ハルレヤ』となっており、これは『ハレルヤ』の一般的表記を知ったうえでの賢治オリジナルの表記である)がその象徴的なものであるが、ここから作品のクライマックスを成す3つの場面は、以前にガラ・コンサートで歌われたのと概ね変化なく、この作品における神田慶一の音楽表現の核心と見做し得る。

第一の部分はハレルヤ・コーラスによる導入で、サザン・クロスで降りていく無数の人たちによる挽歌。第二の部分はこれを受けて、ティンパニによる劇的な転換を伴い、サソリのエピソードに寄せた、いよいよ別れを迎えるカムパネルラの悲愴で決然とした意思表明、それに追随するジョバンニの覚醒。再びハレルヤを間奏に挟み、最後はカムパネルラを失い、真の孤独に立ったジョバンニの哀歌である。

死は、『銀河鉄道の夜』原作において核心的なテーマであるが、正確には、死と生の間にある微妙な空間が賢治にとっては最大の関心事であった。銀河鉄道は紛れもなく、無数の死者をサザン・クロスから天上へと送るために存在している。今回の作品では最近のハリウッド娯楽映画『ゼロ・グラヴィティ』を模して、プロローグとエピローグに、宇宙船の事故により船外活動から宇宙空間へ放り出されてしまったクルーの姿を描いているが、これも生と死の間を漂う状態である。銀河鉄道がさしずめ、このような発想を何十年も先取りしていることを神田は示したかったのだろうか。私たちは原作を知っているので、カムパネルラも既に、そうしたところに足を突っ込んでいると知っていた。鉄道旅行の各エピソードでは、常にカムパネルラの言葉が異常に重たく響くわけだ。

例えば、「みんなはね、ずいぶん走ったけれども遅れてしまった」というのに、カムパネルラだけが鉄道に追いつけたのはどうしてだろうか。それは、彼がザネリを助けて川に流され、溺死したからにほかならない。鳥捕りと別れたあとに、なんで、もっとよく話さなかったんだろうと後悔する場面も、二度とその機会がないとわかっているから、いっそう悲しく、賢治はそうやって、ほんの些細な気分から大事な出会いを逃してしまう私たちの愚かさを描いてもいるわけだ。だけども、もちろん、カムパネルラにとっては「些細な気分」などではあり得ず、残り少ない時間をジョバンニと大切に分かち合いたいという想いから、鳥捕りの相手をするのが邪魔に思えてしまったのだということも知っているから、いっそう、この言葉には胸が詰るのである。

ジョバンニとカムパネルラはともに旅をし、ともに歩もうと誓い合うが、反面、互いに共感できる部分と、そうでない部分があるのも事実だ。その根本的理由は正に、こういうところにあった。カムパネルラは自分が最期のときを過ごしているのを知っているし、ジョバンニはそうではない。彼にはまだたくさんの時間があるはずだし、神田が注目したのもそういう部分だった。死という部分を見過ごすわけではないが、最後、ブルカニロ博士が自分もかつては同じような経験をしたと言い、旅をしてリンゴをもらう・・・つまり、これは神田作品の主人公たちが、あらゆる形で経験してきたような、不思議な体験をすることであるが、そのリンゴによって新しい決意を整え、最後の歌が流れて表現が終わることになった。それがおわると作品はシンフォニックにダル・セーニョし、過去の旋律を今度は楽器たちが歌いながら、汽車が出現した中盤の場面へと回帰していく。

このあたりのメッセージは、震災以後、私たちが大事にすべき心得とも重なっていて、まことに鮮やかに響いた。以前に書いた要素に加えて、死者や飼い犬のことを忘れないというメッセージを厚く加えたことは、東日本大震災直後、予定の公演に代わって、シャロン・ゴスペルチャーチでチャリティを開いたような精神とも結びついている。

【賢治との対話】

なお、所谷直生演じるブルカニロ博士は、賢治の書いた初期稿で採用され、いちばん新しい稿には残されていない登場人物であるが、当初は博士の実験装置により、ジョバンニが夢を見るという設定になっていたそうだ。神田が好みそうな設定であり、博士の登場は予想通りのこと(チラシでは役名をよく見ていなかった)だったが、一方で、基本的には賢治が書いたいちばん新しい稿に忠実なリブレットになっており、博士は初期稿の役割とはあまり関係ない。

なお、いちばん新しい稿では、ジョバンニは丘で眠ってしまって夢を見ており、その一部が正夢としてカムパネルラの死と結びつくという構図になっているのだが、神田はその設定も改変し、オペラでは、夢を含むすべてが現実であるように描くという方針を採った。そして、賢治が用意した唯一の希望、ようやく父親が帰ってくるかも・・・という救い(しかし、沈没船のエピソードからの連想では、父親も難破して遺体で帰ってくるというヴィジョンもなくはない)は排除して、ジョバンニの爽やかな決意をこれに代えてみたのである。

原作との異同を考えれば、全体のバランスが大きく歪んでいることに気づく。つまり、原作では銀河鉄道の旅と、それ以前の部分は単純に紙数だけをみても、2:1ぐらいの割合で構成されている。オペラでは印刷所の活字拾いの場面、学校での授業の場面、自宅での母親とのやりとり、ケンタウル祭の夜の場面が丁寧に描かれる一方(母親との会話は原作にないものもあり、それに見合った『動物たちの星めぐり』という音楽的モティーフも挿入された)、銀河鉄道の旅では先に示した空の工兵隊の逸話のほか、2つの水晶宮のはなしや、渡り鳥への旗信号、インディアンたちの踊り、片道しかいけない急な渓谷、神さまについての些細な論議など、多くの場面がカットされているので、全体のバランスは1:1ほどに修正されている。オペラの重要なモティーフを構成するりんごにまつわるエピソードさえも、どこかへ吹き飛んでしまった。

こうして、神田はジョバンニの内面的な背景により多くの手数をかけ、その投影としての銀河鉄道の旅という視点をいよいよハッキリさせた。もしもジョバンニが裕福で、こころに余裕のある少年だとしたら、銀河鉄道の夜はより穏やかで、起伏のないものになってしまっただろう。ジョバンニの境遇の苦しさが、鉄道旅行をゆたかなものにしており、その点で彼は特殊な切符を持つ資格がある。賢治は夏の星座を上手に使い、ギリシア神話に、日本のお伽ばなしや和歌の歌枕なども上手に使いながら、西洋と東洋を結びつけるような作品をつくった。西洋の宗教は古いインドで生き別れになっていた、日本の法華経と再会を果たす。これらの投影である星空は東西融合、平和の象徴であり、いかにも多様で美しい。だが、実際には、同じものが平和どころか、死の象徴になっているのが当時の地球の状況だった。

神田の発想で面白いのは、星空の美しさが星座に名づけられた生きものたちの生命によって象徴されているということだ。サソリの火だけではない。カムパネルラの飼っていた犬のザウエルも、そのなかで大きな位置を占める。正直、原作を読む印象では、飼い犬の印象はあまり残らない。犬の直接的な描写はなく、しっぽがまるで箒のようで、自分が行くと鼻を鳴らしてついてくるという記述が、母親との会話のなかで出てくるだけだ。だが、オペラ作者のイメージは我々にとって、非常に身近なものである。賢治がいまの世に生きていれば、ザウエルのことをもっと大事に扱っただろう。一体に、神田慶一は賢治の原作をなるべく、そのまま生かすという課題も怠ってはいないが、同時に、彼がいま生きていたとしたら、どんな風に考えるだろうという視点をもう一方に持ち続けて、対話的に描いていったように思われるフシがある。

我々が賢治の作品にどれだけ強く憧れたとしても、彼の生きた時代と、我々が生きている時代はあまりにも大きくちがっているのは当然で、だからこそ、そうしたところに積極的な対話の可能性を見出すことができるのだ。神田は音楽を使うだけでなく、このような視点からも、賢治との会話を楽しんでいるようだ。

自らはあまり上達しなかったものの、賢治が楽器への興味をつよく抱いていたことは、『セロ弾きのゴーシュ』を見るだけでも明らかである。地人協会の運動ではちょうど、西洋の教会と同じような下層民への文化的啓蒙を試みたのだが、あまりうまくはいかなかったという。賢治は協会の活動のなかで、人々がヴァイオリンやチェロ、オルガンに親しみ、ときにはそれを弾いて、互いに楽しみあうようなコミュニティができることを夢見ていたのだろう。神田はこうした夢を叶え、自らの上手に扱うことのできる音楽の力で賢治と対話し、それをまた、演じ手や観客たちと共有することを楽しみに仕事をしたといえる。そのためか、音楽の娯楽性はきわめて高い。

例えば、ケンタウル祭の夜の場面で、人々がオーケストラの周囲を駆け回りながら歌い奏でる音楽の愉悦感は、この作品を象徴するに十分だ。カムパネルラともうひとりセーラー姿の女の子が両脇でジャンベを叩き、このアンサンブルのリーダーになっている。音楽自体はハンガリーのフィドルのような感じだが、無国籍。旋律は希薄で、太鼓がリードになっているようにリズムが重点を成している。ジョバンニは祭りに行ってないので、原作にケンタウル祭自体の描写はないのだが、神田はこれを音楽的表現の長所としてコンパクトに、しかし、重厚に描きあげた。ピットを舞台中央に置き、最近のオペラ演出では流行の「回り舞台」ではなく、人間のほうがまわるというのがよい発想だ。ジョバンニは直接的にはザネリに邪魔される格好で、しかし、より本質的な理由でこのコミュニティには加われない。

【会場について】

文脈に関連づけて付け足すとすれば、今回の会場は近年、上演を重ねてきた新国立劇場の小劇場ではなく、錦糸町と業平橋(とうきょうスカイツリー)の中間辺りにあるパークスタジオ倉で行なわれ、これも上演の特徴のひとつになっている。主に演劇用の舞台としても使われるらしい倉庫を改装したホールは、比較的、演者の自由な使用が許される点が表現者にとっては都合がよさそうだ。今回は舞台のスペースを大きくとり、かつ、客席とステージの一体感を重視したせいか、すこし張り出した感じにしている。定員124名というステッカーが貼ってあったが、このせいですこし定員は削られたかもしれない。

奥があり、立体的に組める舞台では、ケンタウル祭の輪舞の後ろや端っこで、小芝居が行なわれていたりして、音楽や場面の意味づけが複層的になるものの、座席によっては見えない(見えにくい)演出的要素もある。また、横広のため、例えば右側の座席に陣取っていて、下手で演唱が行なわれた場合は、言葉が聴き取りにくいなどの弱点もある。もっとも、近ければいつもよいというわけではなく、ナンバーによっては、すこし離れていたほうが聴きやすい場合もあった。いずれにしても、座席によって大きなちがいが出ないことが望ましいが、一方で、何度かちがう場所で鑑賞するときの楽しみにはなっている。

【まとめ】

ジョバンニは、ケンタウル祭の見物でもひとりきりだった。学校でのいじめのシーンも、賢治のイメージよりは大分、陰湿で、嫌な時代になったものだと思う。当時よりも、人々の孤独は深まったのだ。そのために、補完的なつながりのツールが必要になった。ケータイ、ライン、SNS・・・。神田の作品では、『マーマレイド・タウンとパールの森』でケータイが重要なモティーフを構成したが、あれから10年と経たない間に、コミュニケーション・ツールは社会の革新的分野の最前線に位置していた。この作品では黒電話、ガラケー、そして、「ライン」がひとつの舞台に上がる。ケータイはゴム・バンドでつながれ、牛乳屋のコントや、エピローグの重要な仕掛けに利用された。スイッチを切ったほうから、一方的にゴム・バンドが外されて、もう一方にビチンと来るので、このメディアの生来、がさつな特徴が端的に示されている。いまや、それが当たり前なので、意識されなくなったがさつさだ。

ジョバンニが孤立している理由のひとつには、こうした「つながり」や「がさつさ」を拒否していることと関係がありそうだ。もっとも、ザウリの一派やカムパネルラがコミュニケーション・ツールでつながっているという表現はない(時代が合わないとしても、この文脈では何とか入れてほしかった)。エピローグでは、博士の「ラインを捨ててみよう」というメッセージに即応して、舞台中に展開したゴム・バンドがビチンと切断され、視覚的カットがなくなった舞台には、博士が言うように無数の星が浮かんだ。スポットライトにも蛍光素材が貼られていて、消灯して、ほのかにこれが光ると、星空のアンサンブルに参加することを得た。こうして賢治とは一線を画し、この世の美しさが賛美されて幕となったのである。

まだ書き足りないことはあるが、神田の作品について論じると、いつも際限がなくなってしまうから、そろそろ止めにする。最後に、Aキャストの2人の若い主役を改めて賞賛したい。彼女たちはサカナ団の希望であり、描かれた星空に相応しく、ゆたかな可能性を持っている。実際、カムパネルラ役の吉田弥は『終わらない夏の王国』のときよりも、歌も演技も上手になっている気がした。「素人にしては好演」という冷めた視線を向けるつもりはなく、プロフェッショナルな活動へと向けて、最初の階段を昇りつつあることを積極的にみたいと思うのだ。つまり、彼女たちはそれに相応しい、声と演技を見せてくれたということである。

また、Bキャストで、彼女たちにあるべき模範を示した大人組への謝意も惜しまない。こうした対話の積み重ねによって、カンパニーは次第に力強くなっていく。最初に書いたようないくつかの旅を経て、迂遠な道だが、彼らはまた、新しい銀河鉄道に飛び乗ったばかりである。無論、彼らの行く先に広がっているのは死の都市ではなく、星たちの海、動物たちの活き活きと駆けまわる、そんな世界であるはずだ。そんなことを、こんな小さなオペラ・カンパニーに期待せねばならないのは悲しいことかもしれないけれど、それでも、彼らでなければできないことがあるというのは、なんと素晴らしいことだろう!

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