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2014年3月30日 (日)

アンドラーシュ・シフ ベートーベン ディアベッリのワルツの主題による33の変奏 ほか 東北に捧げるコンサート 3/16

【現代の巨匠シフの立ち位置】

アンドラーシュ・シフ(正確には、シフ・アンドラーシュと書くべきか)は、現在、生存する世界最高クラスのピアニストたちのなかでも異彩を放っているが、グスタフ・レオンハルト亡きあと、その重みはいよいよ厚みを増したといえるだろう。モダン・ピアノと、チェンバロなどのピリオド楽器の両方を無理なく使いこなし、ドイツ古典音楽の精髄を体現する貴重なアーティストになったからである(もっとも、レオンハルトはピアノを弾かない)。歴史的な大教師で、教えを受けたパール・カドシャから師弟関係の系譜を辿っていくと、セーケイからバルトーク、そして、ついにはリストにつながっていく独墺系音楽の核心に至ることがわかるのだが、シフは例えば、同門のラーンキ・デジュと比べれば、その重々しい伝統を真正面から受け止めたような演奏者であった。

古い楽器を扱えるということは、奏法の点においては鍵盤を叩かない、しなやかなスタイルが予想されるが、同時に、古典時代に重視された音楽の機能、ニコラウス・アーノンクールのいう「言語機能」にも通じているということを意味しているのは疑うべくもない。このコンサートは「東北に捧げるコンサート」と副題されたが、それは単に、彼が当夜のギャランティをすべて寄附にまわすというだけのことではなくて、震災に襲われた人々・・・つまり、被害に遭われ、亡くなられた人々とその遺族、さらに、日本人全体に対するメッセージを含んだものであることは、後に述べるような理由から、明白な演奏だった。ご内儀が日本人の塩川悠子さん(そんなことはあとで知った)ということもあるのか、このハンガリーの巨匠は我が国に対して、並々ならぬ尊敬を抱いてくれているようなのである。

シフについて、私は従来、ちょうど故レオンハルトと同じように見ていて、確かに、その整然たるスタイルに尊敬は抱くものの、一方で十分な愛情を感じることはできない音楽家としてイメージしてきたものだ。12000円も払って、そんなピアニストの演奏会を、ピアノ演奏には大きすぎるサントリーホールで聴きたいとは思わない。もしも「東北に捧げるコンサート」でなかったならば、このコンサートについて、私はあまり誠実なものとは見做さなかった可能性が高い。だが、実際に演奏会を聴いて、そのような印象を持ち続けることはできないのだ。このブログでよく引用するが、かつてアンジェイ・ヤシンスキの演奏会に対して寄稿された弟子、クシシュトフ・ヤヴォンスキの言葉がぴったり来る。曰く、ヤシンスキの「魂の清らかさは、聴く者の心をとりこにし魅了してやまない。その魂の交流に逆らえる者はいない」。

【言葉のような音楽表現】

わかりやすいところを取り上げれば、メインのディアベッリ変奏曲の最後の音に注目しよう。ベートーベンは1時間弱にも及ぶ長大な変奏曲の最後としては、あまりにも微妙な音で筆を置いた。私はこの道の専門でなく、すこしは意図的に楽譜を避けているので、実際に確認したことはないのだが、ピアニストたちの演奏を聴くかぎり、多分、そんなに長い音が書かれてはいないはずだ。フェルマータもついてない。だが、シフはその音を悠然と伸ばして聴かせたのである。彼が楽譜に精確な、あるいは厳格とも言うべきピアニストであることは、誰に聞いても明らかなことなのであるから、この意味は当然、特別なものと見做し得るであろう。

どんな信仰を抱いているか、あるいは、まったくの無信心かは知らぬが、人々は思い思いに祈ったはずである。それがピアニストの発した、明らかなメッセージであり、そして、この場合、十分に共鳴できるものだったからである。

本来は、皮肉な音のはずではなかろうか。楽理分析でどうなるのか、誰かに教えを乞わなければわからないが、ベートーベンはどうして、こんな音を書いたかを十分、納得のいく形で論理的に説明できる人は少ないものと推察する。ところが、シフによって、このように弾かれてみると、この最後の音が皮肉どころか、「当然」の、「これしかない音」と聴こえてくるのだから不思議なものである。演奏的な解釈と、音楽的なメッセージの一致というのは、シフの場合、非常に繊細に捉えられているが、これはほんの一例にすぎない。この演奏会の全体が、同様のメッセージに満ち溢れているのである。

本プログラムが終了し、アンコール1曲目のバッハ『ゴルトベルク変奏曲』のアリアを歌い終えたあとで、通訳をつけて、シフはスピーチをおこなったが、そこで意外と思える発言はひとつだけしかなく(ゴルトベルク変奏曲を弾いたのは、これがなければ、ディアベッリ変奏曲は生まれなかったから、というもの)、そのほとんどはいままで、演奏のなかで聴いてきたメッセージとほぼ同一のものであったのだ。例えば、彼が自分は聴き手に対して、静けさを与える音楽家であるという言葉を発したとき、正に、そのことをベートーベンのソナタ第32番の演奏で確信した私は興奮した。しかし、もちろん、私がどこか優れた聴き手だというわけではなく、彼の演奏を聴けば、誰だってそう思うはずのことなのである。

多くのピアニストはシフほど上手に、演奏を通じて自分のことを伝えることはできない。若いピアニストはしばしば、そのことにもがいているし、年齢を重ねたアーティストでも、クラシック伝統音楽に限界を感じることは少なくないはずだ。かつて、その伝統を極めたフリードリヒ・グルダのような優れた音楽家でさえも、その末に新しい道を求めることを躊躇わなかったし、翻って現在では、その道を彼のように突き詰めたわけでもない音楽家たちが、気楽にジャンルを乗り越えていくような時代になってしまった。そのことはむしろ、彼らの「柔軟な音楽性」として評価されていく背景もあるのだろう。だが、そうした若者たちがシフの半分でも、自由に音楽のメッセージを使いこなすことができるとするなら、また、それを使った聴き手との対話の可能性について、もうすこし真剣に信じることができるなら、その発想はまた別のものになるのかもしれない。

【シフのピアニズムの特徴】

さて、オール・ベートーベン・プログラムは『6つのバガテル』(op.126)で始まった。それほど際立って注目はされないが、ベートーベンにとって、32のソナタをすべて書いたあとに生み出されたピアノ作品の終着駅に位置し、ライヴ演奏会では、ベートーベン自身の最後のソナタや、シューベルト最後のソナタ(D960)と一緒にプログラミングされ、かつ、冒頭に置かれることが多い演目だともいえる。また、メインの『ディアベッリ変奏曲』と同時期に書かれたことから、今回、特に取り上げられたのだと思う。私はこの曲にはわりに愛情を持っているが、名刺代わりの6曲はまったく桁違いに美しいもので、こんな風に作品が生まれ変わるのかと思って驚嘆した。

シフの場合、速い曲も遅い曲も、それほどトーンに違いがなく、静けさがテーマとなるソナタ第32番の表現を先取りしているが、この時点で注目されたのは、すこしも余分な持ち込みのない打鍵の清らかさと、その香るようなふくよかな音色である。ジョン・リルのように、ひとつひとつ拍を十分に保持するという感じでもなく、やや短めに粒がきれいに削られて、美しく並んでいる風であるのだが、響き全体にせかせかしたところはなく、ポエジーがゆたかに広がっていくのが特徴だ。

ピエル・ロラン・エマールのように透き通った音色だが、彼にはないような温かみがあり、フランス系のピアニストたちが得意とする瀟洒な音色の充実こそないものの、そのふくよかな音色は十分に多彩な表現を可能にしている。彼のピアノは時々、吟遊詩人が竪琴を奏でるような響きに聴こえ、そのタッチの繊細さが窺われた。この点ではメナヘム・プレスラーがトリオ時代の経験に基づき、さすがに名人級の技能をもっているが、シフの演奏はそれと比べてより堅固にして、柔らかみがある。だから、プレスラーより上だというのではなく、これは質的なはなしであって、シフの表現はよりソロ演奏に向いているということだろう。これだけのことが、バガテル演奏の間にハッキリとした。

【東北に捧げるコンサート】

シフは脇に下がらず、そのままソナタ第32番を弾き始めた。既にバガテルの演奏のときに感づくことは可能だったが、序盤からまったくイメージの異なるベートーベンに接することになる。我が家にはやや高価だが、それだけに価値のある Meister Music レーベル収録のクラウス・シルデの録音があり、高貴でゆたかな和音の重みと、構造に対する深い読みが感じられて理想的に思えるが、シフの演奏はこうしたものとはちがう哲学から生まれてきたものだ。どこか威圧的で、激しく揺動する巨匠のメンタリティではなく、何十年に及ぶキャリアのなか、宗教の力を借りながら賢者の道に至ったひとりの男の物語が示されたのである。

そして、この作品の演奏は、「東北に捧げるコンサート」の本論にもなっていた。前半の演奏後の会場では、「もう、これで(満足して)帰ってもよいのではないか」という興奮の声を聞くこともできたが、確かに、本論はそこで鮮やかに結ばれたように思える。幅広く、静かで清らかな序奏部分は東北の海や大地を想像させ、その安定した美しさが、作品の構造に沿って、少しずつ揺さぶられていくのである。露骨にではなく、密やかにエピソードに沿って、少しずつ大事なメッセージを引き出していくシフの演説に、聴き手は否応なく惹きつけられた。

序盤から頻出する低音のモティーフには、古い時代の聖歌のイメージが優しく付け添えられ、フーガのイメージが色濃く凝縮してくるまでは、簡単にテーマを深めないということが、こうした表現にとって重要なことなのである。部分部分を力強く刻み、それが低音モティーフによって、都度、中断されるというイメージも悪くはないが、シフはそれらの「連続性」により大きな意味を見出したのであろう。細切れのロマンティックな精神の葛藤ではなく、全体を形作る神々しいリングの眩しさに目を向けて、広い視野を保ちながら後半を導くのであった。

第2楽章は、後期の弦楽四重奏曲など聴いているときの感覚とそっくりな印象が生まれる。それどころか、このソナタ第32番、ディアベッリ変奏曲、さらに、アンコールで弾いたゴルトベルク変奏曲(バッハ)、ソナタ第30番がしばしば、共通のキャラクターを共有し、かつ、それらのすべてが変奏曲の形式で歌われていることは、きわめて示唆的なことだと思う。この形式は独墺系音楽のいわば、核心に置かれるような要素と見ることもできるはずだ。ドヴォルザークのように旋律を浪費せず、ひとつの主題をじっくり煮込み、育てていくのが、いつも、彼らの流儀だった。その原点を求めれば、紛れもなくベートーベンに行き着き、さらに、その源流を辿ればバッハにぶち当たるだろう。

主題そのものは、それほど洗練されたものでなくてもよい。ベートーベンは楽譜出版者、アントン・ディアベッリの提示した主題をはじめ、「下らない」といって歯牙にもかけなかったという話がよく言われ、相手がベートーベンだけにもっともらしく聞こえる逸話だが、実はディアベッリという人は優れたギター弾きだったらしく、また、ハイドンに師事した作曲家でもあり、彼の創作主題にはイタリア・バロックのような明るい光の要素が感じられるのも自然なことである。実際には、当のベートーベンも後に触れる33の変奏曲を尊敬するヨハン・セバスチャン・バッハの形式に倣って作曲したわけだし、ベートーベンのほか、50名もの作曲家が快くプロジェクトに参加し、コーダは当時、鍵盤音楽の最高の権威者であったツェルニーの仕事になっているほどなのである。

ところで、ソナタ第32番第2楽章の変奏は、シフの演奏によれば安息と、舞踊の要素がもっとも濃い。『ミサ・ソレムニス』を頂点とする宗教曲で培った祈りのイメージと、弦楽四重奏を中心に書き溜めた、快活さを上品に表現するイメージが、この作品のなかで仲良く絆を結んでいるようだ。要所で繰り出す奇跡のようなソット・ヴォーチェには会場中が凍りついた。これはもはや、ピアノから聴こえるのではない、天上の響きである。この対話があって、我々はようやく、悲劇から現実へと足を着かせることが可能になるのだ。ほぼ9割は亡くなった人たちのために、そして、最後の1割は生き残った者たちのために捧げられた。このシーケンスは、人々をより辛いことに向き合わせるためには、必要なステップだったのである。

作品は徐々にシンプルになり、最後、言葉にならない音が逍遥させられるときには、すべては無になっている。歩みを止めるように、最後の音がゆっくりと鳴らされたときには、聴き手はすべてを悟ったはずである。永遠に続くような静寂が、こころに痛かった。

【ディアベッリの側に立ち、新しく】

メインのディアベッリ変奏曲は、これと比べれば、幾分、こころを浮き立たせるものが先行する。前半のプログラムで禊を終えた分、後半はリラックスした純音楽的味わいを高めてくるものと予感させる序盤の演奏だった。しかし、変奏を弾き進めるにしたがって、どうやら、そうではないことが徐々にわかってくる。ただでさえ、山谷(ダイナミズム)を強調しないしなやかなスタイルが、この作品ではときに退屈と思えるほどに、緩やかに弾かれて、ひとつひとつ確実に異なっているキャラクターが、どれも大事に描写され、かつ、ゆたかな響きを重ねるのを聴いていた。正に、この33の変奏が人生であると気づくまでには、どれだけの時間が必要だったろうか。

たとえディアベッリが、後世に一端の作曲家として名前を残すほどの人ではなかったとしても、その平凡な主題がいま、こうして数世紀を隔てて生き残っているのも事実なのである。ディアベッリの主題は多分、この人物の博識さを物語っているだろうが、反面、当時としても時代がかって、独創性に欠けたものであることはいうまでもないように思われる。ベートーベンが彼の主題に対して、正直、どういう感想をもったかはわからないが、恐らくは、ありふれた懐古的なテーマであるように思ったのではなかろうか。だが、そんなものだからこそ、ベートーベンはより大きな可能性を試すことができると考えたのかもしれない。シフが物語ろうとしたのも、このようなベートーベンの精神であり、人間というものは自分を含め、すべて平凡で英雄ではないというところに根ざしていた。彼はディアベッリの側に立って、演奏したともいえるのである。

浮き立つような変奏は、すべて遠い思い出のように響いたのがイメージに残っている。ルドルフ・ブッフビンダーがベートーベンの変奏曲と併録で、50人の変奏曲を連続して弾いている録音があるが、いちど聴いてみると面白い。こうした「パスティッチョ」では基本的に全員がひとつの変奏だけを受け持って、完結的に書いているせいか、全体的にはディアベッリの主題を通じて、この世を賛美するかのような明るく、インディペンデントなイメージになっていくのに対して、ベートーベンの作品ではより人生の起伏がある点が特筆される。山谷がないと表現したが、一方では、こうした内面的起伏に基づいたアーティキュレーションはむしろ明確で、表情ゆたかである点は無視できない。シフの演奏は弾き進めるにしたがって、いっそう面白くなっていくような性質をもっている。他分野とクロス・オーヴァーするようなところもあり、作品の価値が多様なものであることがわかるだろう。

ちょっと前の記事で、長尾洋史の演奏する「エロイカ変奏曲」について書いた憶えがあるが、そこで感じた新しさというのは、ディアベッリ変奏曲ではさらに強調されている。この作品には、過去と現在、未来がすべて含まれているからだ。過去はもちろん、バッハを中心とする古典からの影響を指している。シフの場合は、この点で特に造詣が深いことから、その要素がそもそも古典趣味のディアベッリの主題に含まれていることもあって、伝統に根差したイメージは自然と浮かんでくるものだ。だが、それと同時に、私は未来の音楽を聴いた。私はその「未来」に立っているわけだが、ときにベートーベンは私たちを率いて、はるかに前方にいるような響きをも示している。その響きは譬えるなら、マクベスをダンカン王の寝室に導いていく宙に浮いたナイフのようなものだ。なにか訳のわからないうちに、私たちは間違いを犯してしまう・・・。

アダージョ・マ・ノン・トロッポで書かれる第29変奏には、そうした「罪」が凝縮している。祈りのこころ、贖罪の内面的叫びに満ちた変奏で、最後の神秘的なシーケンスが幕を開ける。アンダンテ・センプレ・カンタービレ、「モルト・エスプレッシーヴォ」の指示がある不思議なラルゴ。フーガによる実質的な最終変奏を経て、33番目にテンポ・ディ・メヌエットが挿入される。32個のソナタを書いた後の、33番目だ。また、バッハの『ゴルトベルク変奏曲』が両端のアリアと30の変奏(全部で32曲)で書かれているのに対して、敢えて1曲を付け加えているのである。この1曲には皮肉な意味があり、常に一歩を踏み出すベートーベンにとっては相応しいものでもあった。最終音は主和音とは言いながら、それまでの展開と整合せず、音長が短いので皮肉に響く。シフは最後に、これを堂々たる響きに変え、それだけで何が起こるかを知っていたのである。

【報酬、そして、明るい別れ】

祈りましょう、と呼びかける声が「聴こえた」。思えば、変奏曲のひとつのテーマは人間のこころのなかでの対話に設定されていて、シフの演奏は、正にその様々なあり方を私たちに教えてくれるようなものだった。「我々はキリスト教によって、こうした対話をおこなうが、日本人にはそうした拠りどころがないじゃないか。それなのに、どうして立派な態度がとれるのか」という声も「聴こえて」きた。先の震災においては、支援物資を奪い合ったり、無用な諍いを起こしたりはせずに、危機的状況で冷静な行動がとれる日本人のあり方は世界中から賞賛された。この日の演奏会では、私たちはシフから多くのものを得たが、最後の音が切れても身じろぎもせず、音楽家のこころが完全に鎮まるまで待ったサントリーホール客席の統一された雰囲気からは、シフ自身が受け取るものもあったのではなかろうか。彼がスピーチのなかで言及したことを、こうして追体験することができたという意味でも。そして、この体験は同時に、聴き手のほぼ全員が彼の音楽の前にひれ伏した、ということをも意味している。彼に対して、どんな大金にも勝る報酬だ。

ソナタ第30番を全曲弾くというアンコールは、そうした態度への答礼のようにも感じられた。第1楽章を弾き終え、私はそれがこのコンサートに響く最後の音だと思ったし、もしも拍手が起きれば、シフは演奏を止めたかもしれない。実際には別れを惜しむように、客席は沈黙を保ち、シフは何食わぬ顔で第2楽章に突入した。「全曲弾くつもりだ」。私は驚きの表情で、凍りついて演奏に聴き入った。なにしろ、私がベートーベンの後期ソナタで、もっとも愛している作品なのである。これは、天からの贈り物にちがいない。

ショパンとシューベルトをあわせたような第1楽章の繊細な叙情性、第2楽章の決然とした響き、そして、第3楽章はヴァリュエーションで天上へとのぼっていくような明るい響き。最初の変奏など、今回のようなテーマでは内面に響く寂しさもあるのだが、シフはそうしたものを過度に刺激しないように、今度はゆったりした魂で奏でてみた。ゆったりした「テンポ」や、「打鍵」ではない。こころのはなしである。すると、どうだろう。私たちはずっと、笑顔を保って聴くことができたのだ。あるいは、このホ長調のソナタは、ベートーベンのなかでも際立って明るい作品かもしれない。これに匹敵するのは、「第九」弦楽四重奏曲第16番ぐらいのものであろう。

しかし、その表情を素直に引き出したのは、シフの弾き方、そこに込められたメッセージの有り様なのである。シフはようやくにして、我々に笑顔をくれたのだろうか。これがなければ、どんな人間も健全に生きていくことはできないはずだ。人々を悲しみの淵に放り出すことなく、すっぽりと包み込んでしまう彼の心づかいに感動しない者がいるだろうか。物心両方を音楽だけで満たす、最高のもてなしだ。「東北に捧げるコンサート」。このような機会だからこそ、特別な成功を願っていた。そして、それは成就した。

なお、当夜の使用ピアノはベーゼンドルファー。日本とウィーンを結ぶ絆が、この公演に相応しい豊潤な音色を奏でたことも付記しておきたい。

【プログラム】 2014年3月16日

1、ベートーベン 6つのバガテル op.126
2、ベートーベン ピアノ・ソナタ第32番 op.111
3、ベートーベン ディアベッリのワルツの主題による33の変奏曲 op.120

 於:サントリーホール

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