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2014年3月11日 (火)

R.シュトラウス 歌劇『ナクソス島のアリアドネ』 新国立劇場研修所公演(Aキャスト) 3/2

【研修所について】

日本の新国立劇場が、欧米の伝統ある劇場と比べて、実質的に中身が空っぽの「なんちゃって劇場」であることは否めないが、そのなかで、本格的な劇場らしいところがあるとすれば、新国立劇場合唱団の素晴らしさと、高度な実績を誇る研修所の存在である。かつての欧米の劇場では、劇場がアンサンブル歌手の育成をおこなっていることが多く、著名な歌手は多く、このアンサンブルのなかから生まれ、歌手と合唱が劇場の個性を形作るひとつの要素になっていたのだということだ。ところが、劇場に市場経済におけるコスト計算の論理がつよく働くようになると、健全な運営を守るために劇場が真っ先に放棄することになった機能のなかに、育成部門があった。

劇場の声楽アンサンブルは完全に崩壊したわけではないだろうが、育成部門は徐々に集積化が進んでおり、例えば、新国立劇場研修所の第5期生であるソプラノの中村恵理は、オランダの3つの劇場の育成部門が統合したアカデミーで学び、さらに、英国ROHの提供する特別なプログラムを受けて、ドイツの主要劇場の専属歌手として組み込まれることになった。彼女は現在、もっとも成功している若手歌手のひとりといって間違いなく、世界的にみても、特に幸運な道を辿ったソプラノ歌手であるといえようか。

新国立劇場研修所の研修プログラムの詳細はわからないが、講師陣をみると、その大まかなところがわかる。音楽的なレッスンや言語指導は当然として、現代の演出をこなすのに必要な高度な演技能力を身に着けるためのプログラムや、西洋の舞踊、社交にも欠かせないダンスなどについて教える講師が参加している。また、すこしは日本人らしいこともできるようにというわけか、日本舞踊の指導まで入れており、さらに、声楽家に是非とも必要な身体づくりにも指導が及んでいるのだ。

今回、おこなわれたリヒャルト・シュトラウス『ナクソス島のアリアドネ』の公演でも、演出/演技面の指導でヘッドを務め、研修生の傍にあってプログラムに深く関わる三浦安浩氏が、研修所そのものをテーマとしたかのような興味ぶかい演出を組み立て、自分たちが教えてきたことのほぼすべてを投入しながら、良い舞台をつくることに成功した。例えば、前回のヒンデミット『カルディヤック』公演でも印象的だったモダン・ダンスの動きを組み入れたような動きは、今回も発展的に踏襲された。後半のナクソス島の場では、ほとんど動きのないアリアドネの伝統的なプリマドンナ的歌唱に対して、ツェルビネッタのチームが大道芸やモダン・ダンスを取り入れた動きが対比的に描かれている。

【バックステージと表舞台】

ナクソス島の場、ツェルビネッタらが乗ってきた「難破船」は海水浴場でよく見かける黄色と青のゴムボートであり、ツェルビネッタの取り巻きはまるで若い海水浴客のように見えて、海賊姿を模しているロック歌手グループ風の出で立ちにも思えた。前方のせりが下がって、スモークが焚かれ、客席側が海に擬されている。そこに男たちが潜り、ゴムボートにへばりついたりして、難破したというよりは、酒に酔い潰れた男たちが思い思いにぶっ倒れているかのような風景のなかで、アリアドネとニンフたちがやりとりをする仕掛けになっている。

孤島の風景はいかにも「セット」という感じで、岩山の洞窟の中央で出入りができる場所にも、露骨にカーテンがついているのは意図的な演出だ。プロローグのバックステージと、この表舞台は明らかに通じている。

これが効果的に用いられるのは、最後のほうで、ついに島へバッカス(ディオニュソス)が現れるところである。回転舞台が一回りする間、ナクソス島の風景から、裏でハルレキンとセックスするツェルビネッタの場景、さらに、プロローグで使ったバック・ステージでピアノを囲み、バッカス役とその他の人たちが必死に音楽を作り上げている風景などが意図的にみせられる。折角、登場の主役格=バッカスだが、すこし表で歌ったかと思うと、また裏にまわってみたり、音楽の起伏にあわせながら、なかなか表にハッキリとは姿を現さないのが特徴である。歌い演じる伊藤達人のファンは気を揉んだかもわからないが、それはそれでバッカスの隠喩にもなっているという感じに、皮肉が詰まっている。三浦の扱い方は、この作品のなかでのバッカスの役割には合致していると思われた。

つまり、『アリアドネ』のなかで、バッカスは女性たちの「鏡」のような役割を演じるので、彼自身が圧倒的な存在感をもつような舞台は好もしくない。歌手をみると、バッカスはプロローグ(バックステージ)のテノール歌手と対応しているが、前半、テノール歌手はそれほど貴重な役どころを歌わないことには誰しも気づくはずだ。プロローグの主役はなんといっても、作品の生みの親である作曲家。彼(彼女)はドアの傍で待たされ、「こんなところに私をとり残して!」とナクソス島における、アリアドネのテセウスに対する嘆きを、かなり早い段階で先取りしている。興味ぶかいことに、性別としては明らかに男性である作曲家に、シュトラウスはソプラノを当てた。それも、プリマドンナ=アリアドネよりレッジェーロな声質だ。

ところで、いま、イコールで結んでみたように、後半のアリアドネと対応するのは、プロローグではプリマドンナであり、同じ歌手がうたう。だが、ここには、ひとつのねじれがあるように思われるのだ。「現代」の舞台裏から、ナクソス島の場に移行したとき、本来、アリアドネに対応するのは作曲家の内面的モティーフであるべきだ。しかし、歌手の対応をみると、プリマドンナとつながってしまう。もっとも、プリマドンナがアリアドネを演じるので、この対応は自然なようにも見えるのだが、プロローグの女優さんは気の毒な境遇でも、常に高慢であり、アリアドネのような悲哀には満たされていない。それを一身に背負うのが、作曲家の嘆きなのである。別の歌手がうたうのに、作曲家とアリアドネが通じている。これは、どういう意味なのだろうか?

その点について、いま、私に明確なアイディアはない。だが、三浦演出の大きなポイントは、プロローグにおける作曲家役の視点を、基礎的な視点に置いたことである。クラウドな音楽が複雑に絡み、会話中心のジングシュピールの名残りのようなプロローグで、音楽は次第に2つの極に収束していく。つまり、作曲家とツェルビネッタである。軽妙でアイロニカルな会話的音楽が、いつしか重々しい2つの極を表現して厚みを増し、作曲家の台詞と音楽のクライマックス「変容」に被さる大不協和音を頂点にして、ぶつかりあう。ツェルビネッタによる色仕掛けも含んだ籠絡により、ついに衝突はおわり、作曲家はポリシーを捨てるが、この場の最後では再び音楽が暗転して、ツェルビネッタの一座は悪魔のように扱われることになった。

この悪魔のイメージが、音楽的にも、三浦演出にも色濃くナクソス島の場にも引き継がれている。セリ下がりにスモークを焚いた「海」で、餓鬼のようにボートにへばりついている男たちの風景は、三浦自身の趣味も相俟って怪奇映画に一場面のようにみえる。この前の『カルディヤック』の舞台で、映画”M”をモティーフに使っていたことを思い出すなら、演出家の好みがわかってくる。さて、アリアドネの住む洞窟はチンケなつくりの岩山で、プロローグの最後の場で、ツェルビネッタのチームがアクロバットを披露する背景に出たのが最初だが、このチープさにも重大な意味がある。

【音楽の勝利】

三浦はアリアドネの序盤には、ほとんど有効な演出をつけず、この時代にギリシア悲劇のオペラを演じることが、どれだけ無意味で、退屈なことだったかを象徴的に示すのだが、それにしても、前半のつまらなさは歌手にとって、あまりにも可愛そうではなかったか。ただし、その退屈さと、悪魔のモティーフが対応的にみられている点は十分に興味ぶかい。演出的意図とリンクして、音楽的にも序盤は非力で面白みに欠け、そこから、作品全体にいわゆる「ロッシーニ・クレッシェンド」がかかっているように、尻上がりに音楽的興趣と内面的モティーフが深まっていくような構造が明確に生かされていた。

余談だが、正統的な「ロッシーニ・クレッシェンド」には、ひとつの特色がある。それは途中で勢いが折れ、響きが収まるような場面があっても、実は、その場合も響きの膨らみが明確に保持されているということである。この秘密がわかっていない指揮者は、いったん声を潜めるような場面になると、最初のピアニッシモに戻ってしまい、途中からガーンと上げるようなことを平気でおこなっているものだ。反対に、アルベルト・ゼッダのような指揮者が振ると、必要な厚みが十分に確保されているので、再び盛り上がってきたときに、自然な上り坂の効果、響きの膨らみが得られる。今回の演出は、正に、このスタイルで一貫していたといっても過言ではない。

プロローグでは終盤、屈辱的な注文に絶望的な気分になった作曲家と、現実主義を貫くツェルビネッタが激しく衝突し、その結果として例の「変容」に至ると、2人は恋に落ちる。作曲家は生き返り、苦しみから解放されて、一時の歓喜を得るが、その結果として、ツェルビネッタはフープや大道芸の道具をもちこむことになり、作曲家としては結局、地獄に落ちたような芸術の憂き目を体験することになった。暗澹たる音楽。若干、ワーグナー風の。どこにも救いようもない、決然としているが止めどもない雰囲気。彼らの雇い主が示した、もっとも残酷な言葉・・・3日前から、ご主人は何の華やかさもない孤島を、舞台でご覧にならねばならないのを嘆いておられる、というような暴言にも勝るような最大の裏切りがここにはあった。

だが、後半の音楽は、徐々に純化が進んでいく。三浦の解釈で優れているのは、アリアドネ、バッカス、ツェルビネッタのうち、誰一人として勝者はいないという結論である。そうではなく、音楽そのものの圧倒的な勝利が語られるのだ。ナクソス島の劇の後半で、3人のニンフたちが声を揃えて、讃美歌のような旋律をうたうところがある。シューベルトの子守唄にそっくりな旋律の、あれである。今回の3人は声質が必ずしも一緒ではないが、これほど情感や響きのイメージが美しく重なったトリオはなかなか聴くことができず、同じシステムのなかで育てられた歌手アンサンブルの貴重性が、こうした部分で顕著に響いた。

そして、最後は『トリスタン』をイメージさせる涼やかな響きに収束していく。周到に、バッカスの英雄的な登場が茶化されていることは既に書いたが、最終盤で、バッカス&アリアドネと背景が分かたれ、その間に客席側を向いた、もうひとつの客席が現れて、前半の登場人物たちがこちらを向いて観劇しているのは、なんとなく予想の範疇にあった。だが、私のこころを掴んだのは、その「客席」の下手端で起こっていた出来事である。不満そうに佇んでいた作曲家に対して、裏から入ってきたツェルビネッタがポンと肩を叩いて声を掛け、前方のバッカス&アリアドネ組と一緒のタイミングでキスをする場面があったのだ。うすうす感じていた重ね合わせが、ここで明白な「真実」として出現し、三浦氏はついに、画竜に点睛を入れることを得たのである。

こうして舞台は、ツェルビネッタの機転によって救われたが・・・そして、それを演じた歌手が天羽明惠のような非の打ちどころのない歌役者だったことはあまりにも大きいが、しかしながら、この演出はよく考えてみると、全部を水に流すというような行為であり、結局のところ、そこに残ったのは音楽だけだった。私は正直、この場面で恥ずかしくもこみ上げてくるものがあり、シンとしたフィナーレの静かな響きのなかでは、その音が周りの人に聴こえてしまったかもしれないほどだが、いま考えてみれば、それはなによりも、音楽との対話のなかで深められた感動であったと断言してもよいと思う。

私は常に、音楽を聴いていた。シュトラウスらしいウィーン風の舞踊の音楽が、とんでもないところ出てきて苦笑させたり、普通だったら、聖句につくような神々しい響きが猥雑な表現に当てられて、そうしたところに重大な皮肉があることに気づくのは容易であり、正に、このような音楽の面白さがなにより、この作品の魅力であるのは言うまでもない。大体が、本自体はハチャメチャなのであるから、シュトラウスとしては、そんなものにでも自分が見事に音楽をつけられることを誇っているようにしか見えないのである。

【舞台は観客を鏡に映す】

ところで、前半のプロローグにおいて、当時、作曲家がどのような地位に置かれていたかはよくわかる。もはや、かつてのように、民族的な象徴、もしくは、国家・地域を代表する文化的カリスマというような位置づけはなく、これから上演するものに何の権利もない代わりに、それなりの報酬は得ている(この場合、半年は暮らせるぐらいの報酬が支払済)。この関係のなかで、公演をコントロールしているのは紛れもなく雇い主である。三浦演出では、黙り役の貴族(つまり、台詞で登場する執事長の主人)を子役が演じる形で登場させ、その皮肉を強調している。審美眼も、音楽や芸術に対する何らのこだわりもない金持ちが、気紛れな要求で芸術を動かしているというのだ。

そもそも、この作品が組み込まれていた戯曲『町人貴族』のオリジナル、つまり、初演ではモリエール自身が演じたという皮肉劇で描かれているのは、町人が財力を背景にして貴族に取り入り、何の利益にも、名誉にさえもならない貴族章を得ようとして、結局、すべてを失う話だという。歌劇『ばらの騎士』のフォン・ファーニナル氏の、前段の苦労が窺われるが、シュトラウスは芸術家の立場から、こうした成り上がりの主人に対して、どのようにして抵抗するかということをコンパクトに描いてみせたのかもしれない。だが、彼の面白いところは、もはや、このような主人を排除したところで、優れた芸術ができるとは思っていないところで、ツェルビネッタのように、その状況を楽しんでしまうことを可とすることだ。作曲家は、こうしてツェルビネッタと結びついている。よっぽど、ここでいう「作曲家」という言葉の意味は本来、複雑なものだが、三浦氏はその混線を敢えて解消することもなしに、ダイレクトに作中の作曲家とツェルビネッタを結びつけるというシンプルな機智を見せつけたのである。

これはプロローグにおいて、2人だけが唯一、全面的に衝突し、それが音楽的なクライマックスになっていることとも対応しており、簡単なことなのに、瓢箪から駒というようなアイディアであった。

付け加えるとするなら、あのように舞台上に客席が出現するのは、この舞台を鏡にして、私たちがみられているということの象徴なのである。時代が、舞台をつくる。あの雇い主(執事長)は、我々の代弁者だ。実際、この作品の上演では多くの場合、雇い主の我がままを上手に解決するツェルビネッタが好まれる。そのことが、我々の願望を示しているのは言うまでもない。最近の問題でいえば、誰が佐村河内守をつくったかということ問題と同じなのだ。それは、我々自身である。彼のついた嘘は嘘として、彼は我々の時代の鏡としては、あまりにもリアルである。シュールレアリスム(超現実主義、現実よりも現実らしい)だ。

【演奏者について】

以上のような演出から、歌い演じる研修生たちは、ひとりひとりが際立って目立つということは許されない舞台となった。テノール/バッカス役で、先日の『魔弾の射手』公演でも素晴らしいパフォーマンスを聴かせた伊藤達人にしても、三浦のちょっと茶化した演出意図を体現するなかでは、その立派な歌声をストレートにアピールすることにはならない。実際、世界中でそういうことが起こっていて、三浦氏はこの状況をよく知っているし、また、すこしは批判的にみる視点もあった。賢明な読者諸兄には、何のことか、おわかりになるだろう。オペラにおける演出の過剰な支配である。

だが、今回の伊藤のパフォーマンスのなかで、もっとも強く印象に残ったのは、舞台が回転するなか、ピアノの前で必死に練習している場景をうたう彼の姿だったのであり、それこそが今後、彼らが魑魅魍魎たるオペラの世界でとらねばならない態度と合致している。芸術家たちが困難な要求のなかで、ベストを尽くす姿勢を端的にイメージさせた点で、彼の果たすべき仕事は見事にこなしたというべきである。

作曲家役は今野沙知恵で、三鷹の『魔弾の射手』エンヒェン役で伊藤と共演したソプラノと同じである。こちらは演奏会形式(三鷹)では杓子定規な感じがして面白くなかったが、こうした舞台で、はるかに優れたパフォーマンスを発揮したのは嬉しい驚きだった。あのときからみると、伊藤はもともと完成度が高い分、それほど変化がないように思えたが、今野はメキメキ伸びてきている。やや細い感じのする歌唱も、36人の室内オーケストラ編成ではちょうどよく、言葉に想いを託す歌曲的な表現が味わいぶかい。

このオーケストラは「ボロニア・チェンバーオーケストラ」と名乗る臨時編成だが、連携するトウキョウ・モーツァルトプレーヤーズを軸に、この公演に向けてメンバーが加わったものとみられる。日フィルの江口有香がコンマスを務め、ティンパニにN響で首席並みの久保昌一、ハープに篠崎和子が加わるなど、著名なメンバーを多く含んでいる。編成が小さい分、シュトラウスはお得意の豪華なサウンドを捨て、室内楽的な響きの結びつきを劇の表現と密接に関連させることを望んだが、このオーケストラはその要求にうまく応えた。フルートの岩佐和弘、ファゴットの藤田旬が、特に素晴らしかった。ホルンも、安定していた。

指揮は前回の『カルディヤック』につづき、高橋直史が担当し、ドイツの地方劇場でキャリアを積む彼が、期待どおりの手堅い仕事をみせている。先に述べたロッシーニ・クレッシェンド的な構造をうまく出している。ただ、プロローグの冒頭だけは、もうすこし厚みのある響きが欲しかった。こういうところで、小編成でも「リヒャルト・シュトラウス」というところをガツンと表現しておくと、随分とちがうものである。しかし、ほんの何小節かを過ぎてからは、スンナリと舞台に入っていって、高いコミュニケーション能力と柔軟性で公演をガッチリ支えた。既存のオーケストラではない分、演目に合わせて一から構築されたオーガナイズが、かえって効果的に働いたというべきである。

【まとめ】

これほどの優れた公演を披露できる研修所のシステムでありながら、これが本公演のほうには十分、生かされておらず、修了生が端役でポツポツ起用されるぐらいなのは残念なことだ。一方で、二期会の公演でワーグナーのドラマティックな役柄などで高評価を得ている清水華澄や、同じく二期会の看板歌手のひとりに成長し、フランス語表現などでも高い評価を受ける林美智子など、劇場外では、ここでの研修を含めた高度な訓練により、相応の技能を身につけた人材が比較的、素直に評価されている。先刻、ナクソス島の場における3人の精霊について、同一システムで学んだ歌手たちのアンサンブルが利点として働くことを指摘したが、最初は経験不足でも、こうした素材を積極的に起用していくことで、新国立劇場は徐々に個性的な劇場へと仕上がっていくはずだ。

しかし、今回の劇の内容を踏まえていうならば、結局のところ、私たちが何を望むかという話なのである。既に実績のある歌手をパッチ・ワークして、一回的な成功がつづけばそれでよいのか。反対に、アンサンブル歌手の層がどんどん厚くなり、東京の新国立劇場らしい上演が中・長期的に増えていくように望むのか。いまの体たらくな運営は、多分に官僚的な事務サイドの責任というだけでなく、保守的で、享楽的な観客の趣向も反映したものというほかない。そのことについて、私はあまり批判したくないが、つまり、同じ愛好家の諸兄に対して上から目線でいうことを好まないが、それでも、残念に思うことは言っておかなくてはならない。

いずれにしても、良い公演だった。三浦安浩の演出では、首都オペラによる2006年の公演、ヴェルディ『仮面舞踏会』の舞台が傑作だったと思っているが、この舞台はそれに次ぐような成功となったのである。

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コメント

アリスさんの言葉はいつも含蓄が深く、文章の中の情報密度も大変高いと思います。そして問題の本質も的確だと思います。後少しだけ揶揄を減らして頂き、こちらに降りてきて頂くと一層アリスさんの素晴らしさが伝わるのではないかと思いました。

ご指摘に感謝します。仰るように努力いたします。

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