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2014年3月18日 (火)

準・メルクル with 新日本フィル モーツァルト『レクイエム』 ほか 平和祈念コンサート2014 3/9

【手の抜けない公演】

この公演はすみだトリフォニーホールによる企画だが、たった1度きりの臨時公演で、リハーサル時間も通常よりは若干、少ないはずだ。とはいえ、この下町を襲った昭和20年の東京大空襲メモリアル「平和祈念コンサート2014」の機会とあっては、演奏を任された地元の新日本フィルとしても、どうしても手の抜けない仕事だったのではないかと想像する。指揮者には当月の定期を振っている準・メルクルをそのまま確保し、1曲目にはシェーンベルクの合唱曲を入れた。合唱指揮に卓抜した手腕を振るう栗山文昭がついた栗友会合唱団なら、予め十分な完成度が保証されており、オケと合唱をあわせる手間は省ける。オケの側からみれば、2曲だけをしっかり仕上げればよいことになって、メインであるモーツァルトの『レクイエム』に力を入れやすくなった。しかも、シェーンベルク『地には平和』、メシアン『キリストの昇天』、そして、モーツァルトと並べば、信じること、祈ることを一から問いなおすような内容になって、クレバーな企画意図さえ感じられる。

それが実を結んだ、素晴らしいモーツァルトの『レクイエム』になった。私はこの曲に愛着があり、隅々までよく憶えている曲のひとつであるが、反面、そもそも未完の作品であり、中途半端な形で演奏されるのも我慢がならないということで、その愛着とは正反対に、実際に聴きにいくことは少ないものである。故ゲルハルト・ボッセ氏が紀尾井ホールでやったように、ラクリモサまでやって、バッハのコラールを入れておわるなんていうのが、いちばんファッショナルなことではないかと思う。モーツァルト自身が骨組みぐらいしかつくれなかった部分を、どのように演奏するか、中でも、なまじ本人の指示があったというだけに手の入れにくい終曲をどのように演奏するかは、実演における大きな課題である。

今回の準・メルクル氏の演奏ほど、何の疑問もなく、スッと通った演奏はこれまで、あまり耳にしたことがなかった。終曲では、冒頭のキリエと同じ旋律が復活し、それにまったく別の、いささか牽強付会的な歌詞が対応しているため、当時、慣例的なことだったとは言われてみても、実際には、なかなか納得しがたいものだと思ってきたのである。それが、今回はまるでなにも感じず、モーツァルトの意志がすべての部分をきっちりと律しているように聴こえたのだから不思議だ。この秘密を突き詰めていくと、多分、2つの理由に収束していくのではないかと思う。つまり、そのひとつは合唱のスタイルであり、もうひとつは低音とリズムの重視だ。

【グレート・コミュニケーター】

演奏の素晴らしさは、大抵、最初の数秒で予感できる。コンペティションなどにおいて、その数秒からドンドン悪化していくコンテスタントもいるにはいるが、新日本フィルのように熟達したアンサンブルなら、その印象が裏切られることはまず心配せずともよい。この日、彼らが発した数秒間は、世界中、どこに行っても通用するはずの数秒間だった。指揮者のイメージでは、この作品が流れるのはドイツの洗練されていない田舎の都市。鄙びた教会堂があるような、そんな架空のトコロである。カトリックというより、プロテスタント的な素朴な味わいがあるのは、幾分、ゆっくりしたテンポで、木管のふくよかな響きと低音の強調で表現されていたせいである。適度にスカスカな響きを無理に埋めようとするのではなく、与えられたリソースを節約して使うことで、まず、何かが失われた状態、つまり、祈りが必要な状態を想起させることから、彼は始めたのだ。

実は準・メルクルと聞いて、古典派の作品をどのように演奏するのかは疑問だった。日本における彼のイメージは、どちらかといえば、近代以降の規模の大きな作品に偏っている。ライプツィヒ時代のメンデルスゾーンの録音はあるが、こうした曲目で真価を発揮するという評価はあまり見られない。しかし、この演奏を聴くかぎり、彼には十分に適性がある。コンサートをきっかけに、メンデルスゾーンのオラトリオ『エリヤ』を改めて聴いてみても、大変に素晴らしい録音だ。この場合、準・メルクルという指揮者は、きわめて怜悧な表情をみせるが、その厳しさが作品によく見合った緊張感をつくる。彼はいわば、神の目となって、オーケストラや合唱を見つめている。ずっと目を見ながら、音を聴いている感じがする。そうなのだ。「平和祈念コンサート」である以外に、このこともまた、手の抜けない理由のひとつだったのである。

準・メルクルは私の愛する多くのマエストロたちと同じように、グレート・コミュニケーターである。エリシュカ、カンブルラン、ラザレフ・・・。こうした人たちと同じように、メッセージゆたかな演奏をし、それを聴き手にはっきりと伝えることができる。それをひとつひとつ読み解いていくのは多難だが、ごく大雑把にいえば、やはり「ラクリモサ」をひとつの頂点に、その後の音楽を一括りで扱っている。「涙の日」以前は過去であり、そのあとの部分は未来だ。実際、ボッセのときの経験からいえば、一応、モーツァルトの最終的な意思がはっきりと見通せる形で残っているのは、「ラクリモサ」の途中までである。形式的にみても、これはセクエンツァの最後であり、区切れの良い部分であろう。’Dona eis requiem. Amen.’と唱えられ、ミサが一区切りされるところだ。

だが、この「ラクリモサ」の哀切な旋律、荘重で厳かな響きはオッフェルトリウムの2曲目で忍んで顔をみせ、実は、「ラクリモサ」とオッフェルトリウムの2曲で三位一体が構成されていることがわかるのである。リアルタイムで意外だったのは、「ラクリモサ」のあとで、指揮者が必要最低限しか間を置かずにオッフェルトリウムに入ったことだったが、2曲がおわってみると、その深い意図に感心せざるを得なかった。このことから、正確にいえば、上の区切りでいえば、オッフェルトリウムまでが過去に属し、サンクトゥス以降が未来である。その象徴として扱われるのは、第11曲「サンクトゥス」の後半、「ホザンナ」の部分であり、この部分は際立って速いテンポで演奏された。ギョッとするほどの速いテンポだ。悠長なベネディクトゥスを挟み、再度、ホザンナが出現してみると、なるほど、このテンポが効いてくるのだが、それ以上に、指揮者の主張がつよく感じられる一幕だった。

この作品のなかで、ベネディクトゥスはいわば個人戦だ。4人の独唱者では、ここのところ、頻りにその声を聴く宿命に恵まれている天羽明惠の歌唱がやはり素晴らしく、最後、ようやくタップリと聴けた終曲冒頭のソロなどは、正に女王の気品を湛えていた。一方、もっとも問題があるのはテノールの松原友で、バスとの二重唱ではややフラット気味にも聴こえたし、あまりにオペラティックだった部分もあって気に入っていなかったのが、このベネディクトゥス以降、急によくなったのである。このせいもあって、音楽的感興が急速に整ってきたと感じられるのは「アニュス・デイ」以降となった。「ルークス・エテルナ」はこれにつづいて演奏され、天羽の導入も素晴らしかったがために、堂々と立ち上がった。

ただ、従来、もっとも違和感があるのは、「キリエ」と同じフーガが導入される部分だが、これもよかった。一体に、準・メルクルはコントラバスを中心に、低音弦の圧力を非常に有効に使っている。私が右翼寄りに陣取ったこともあろうが、モーツァルトの作品のコントラバスは、革命以後のバスの単純化の犠牲になっておらず、活き活きと動く。これをひとつの特徴と捉え、彼はコントラバス、チェロ、ヴィオラ、ファゴット、ティンパニ、ホルンなどが支える低音を重視し、そのリズムを生かしきることで、全体を通したのである。

その結果、宗教的な響きの荘重さはやや減じたものの、作品は死者のための追悼というよりは、いまを生きる者のエネルギーとして働くことが明らかに主張された。空襲で亡くなった人たちのなかで、もしも、この分野の音楽を愛してくれている人たちがいたとしたら、これで、きっと喜んでくれるであろうというような響きであった。

【信仰の様々】

その演奏姿勢は、前半のメシアンにも顕著に表れているものだ。冒頭から、金管は遠慮会釈なく、明るい響きを元気よく奏で、まったく意表をついたパフォーマンスを見せたのである。第1曲では微妙な強さ、微妙な響きが長くつづき、瞑想的な作品というイメージでいた私からみると、これもギョッとさせるような演奏だった。代わって、準・メルクルが訴えたかったのは、ラテン系の明るい特質である。私はメシアンについて、ほとんど何も知らないし、あまり好きな作風ともいえない。だが、今回のような演奏を聴くと、あたかもメシアンが我々の身近なところにいるように思えるのだ。遠慮がなく、屈託がない。信仰的精神といっても、口数少ない神父のようではなく、人間として積極的だ。構造的にもシンプルで、ドイツ的な交響曲よりもさらに素朴なものだという印象を抱かせる。

この印象は、シェーンベルクの合唱曲とも重なってくるところがあった。ただし、シェーンベルクはユダヤ系のドイツ人で、複雑な精神的背景がある。「地には平和」の一節は、新約聖書の「ルカによる福音書」にあり、ユダヤ教では、新約は外典扱いであるはずだ。そんなことは百も承知で、シェーンベルクはユダヤ教徒が、外典の新約から言葉をとることで、正に「平和」を成就しようとしたのである。もっとも、ユダヤ教徒にとって不利な社会思潮を慮ってか、彼は初め、カトリック教徒として育てられ、ウィーンからベルリンに移って教職に就く際にはプロテスタントに改宗している。政治的なプロテストの意図から、敢えて、そのルーツにこだわってユダヤ教に改宗したのは、ようやくナチス政権の時代のことであった。

このような経緯をみると、彼の信仰はフレキシブルなもので、宗派に対しては厳格というほどではなかったことが窺われる。マーラーもそうであったし、ブラームスにも宗派はない。だからといって、彼らが信仰に対して不真面目であったというのは早計である。彼らはいずれも、自らのこころと対話する相手として神を求める点では、その他、西洋の一般的な教養人と比べても何らえらぶところはなかった。ただ、彼らにとって、本当にピッタリくる宗派など、この世のどこにもなかったということだし、狭くまとまっていくことを嫌い、広い世界と対話していくことなしに、信仰が人間にとって有益であり得るということを信じられなかったにすぎないのだ。

この作品では、“Friede,Friede,auf der Erde!” の言葉が、各節を締め括るように現れて、繰り返し唱えられるが、この言葉がプログラム全体にわたってエコーのように響いていたのは、シェーンベルクがきわめて偉大な作曲家だったことの証拠だと思う。ほんの10分弱の作品で、彼は世界をひとつにする素晴らしい発想を表現しているのだ。しかも、シンプルで、わかりやすいやり方で。栗山文昭の指導を受け、本番で準・メルクルの指揮に従った栗友会のコーラスは、ひとつひとつの言葉を抱きしめるように歌い、かつ、器楽的なフレキシビリティを示した。

実は、このことがメインの『レクイエム』にも通じている。この作品の合唱スタイルにも様々あるが、栗山は徹底して、オーケストラの響きに従うことのできる柔軟性を育てて、本指揮に渡した。準・メルクルにとって幸運だったのは、このような合唱団を無理なく内包できる新日本フィルの優れたアンサンブルを手にしたことだ。彼らは近年、フランス・ブリュッヘンより、ハイドン、ベートーベンなどの曲目で特別な指導を受け、また、前音楽監督のアルミンクや、現任のアドヴァイザーであるダニエル・ハーディングをはじめ、ジャン・クリストフ・スピノージなど、古典/古典派音楽のスペシャリストたちに多大な影響を受けて、その演奏を骨身にしみるように身につけてきた経緯がある。モーツァルトの演奏では、特にブリュッヘンに習ったハイドンの「ルール」が応用できるだろう。そして、それは多分、声楽との相性がすこぶる良い。

このような好条件がかみあって、準・メルクルの鋭い演奏プランが実を結んだのである。

準・メルクルは三位一体のテーマを明確に押し出し、この三角形を美しく整然と並べて、ゆたかなフォルムを醸し出す一方、内面的には素朴で、屈託のないドイツの田舎の精神を肯定的に捉えた。『レクイエム』を離れれば、私たちは3つの信仰の形に触れたことになる。モーツァルトは基本的にカトリックの文化のなかに生きたが、最終的に、彼はそうした秩序から排除される傾向にあり、亡くなる直前の『レクイエム』には独特な宗教的美学が詰まっている。メシアンはもっとも典型的なカトリック信者でありながら、その音楽的表現はより明るく、屈託ない。そして、もっとも敬虔なシェーンベルクの響きは、実はユダヤ教徒という眼鏡を通しつつ、「平和」というキーワードで脚色されたものだった。

祈念コンサートというが、「祈る」ということの前提はみな、異なっている。半分、ドイツの血を受け、その文化のなかで育った指揮者は、聴き手に対して、表面的な「祈り」ではなく、その本質へと人々を導こうとしたのであろう。逆にいえば、外国育ちの準・メルクルが、東京の下町に昔、起こったことを実感として捉えることは簡単ではないはずだ。彼はこうしたディス・コミュニケーションを前提に、積極的な対話を試みたのだといえる。時折、西洋音楽はキリスト教の精神に基づくものが多く、日本人には本質的理解が難しいのではないかという議論を聞くことがある。そのせいか、西洋音楽をやる以上、キリスト教に改宗してしまおうという邦人作曲家もいた(例えば、原田敬子がそれである)。だが、私は彼女に賛成ではない。我々にとって異質のものだからこそ、興味がわくのではないか?

【まとめ】

ところで、もっとも悲劇的なディス・コミュニケーションとは、国家間、あるいは民族による戦争であることは言うまでもないだろう。1945年(昭和20年)3月10日は、2011年(平成23年)3月11日とともに、日本にとって、とても忘れがたい日になっている。今回は、3月10日のためにある機会。米軍が日本家屋を効率的に焼き、非戦闘員を無差別大量虐殺するためにつくった油脂式焼夷弾により、10万人以上の人々が犠牲となったという、その日の前日に当たっていた。死者の半分以上が、子どもや女性であったという調査が最近、公表されている。子どもは疎開させることになっていたのだが、実際には事情の許さない子も多く、空襲で犠牲になってしまったのだという。彼らに残されていたはずの無数の可能性が、モーツァルトの「未完」の傑作に重なり合ってくるだろう。

1度の爆撃による犠牲としては、世界的にみても、東京大空襲はもっとも大きな被害をもたらした。付け加えるなら、この「成功」はそのあと、日本中に広まって、当時の日本の主要都市のほとんどが同じように焼き払われたのである。原爆と匹敵するほどの、残虐な攻撃が日本中を襲った。現在の墨田区界隈は昔ながらの下町にもかかわらず、碁盤の目のようなきれいな区画をしていて、このトリフォニーホールから北に進路をとるとスカイツリーまで、あるいは、西に進路をとると両国国技館まで、ほぼ一直線で通じるのだが、それというのも、このように壊滅的な火災が下町を襲ったことに始まっている。クラシック音楽の愛好家にとっては、ごく身近な錦糸町を歩くときの気もちも、これですこしは変わってくるのではなかろうか?

忘却は、最大の罪である。

【プログラム】 2014年3月9日

1、シェーンベルク 地には平和
2、メシアン キリストの昇天
3、モーツァルト レクイエム

 chor:栗友会合唱団(合唱指揮/栗山文昭)

 コンサートマスター:崔 文珠

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