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2014年4月28日 (月)

デヴィッド・ビントレー振付 カルミナ・ブラーナ/ファスター 新国立劇場 バレエ部門 4/20

【ビントレー芸術監督の功績】

新国立劇場におけるデヴィッド・ビントレーの任期も、残りがあと数ヶ月となってしまった。私にとって、この劇場のバレエ部門への興味は、すなわち、ほとんどがビントレー振付のものに偏っていたので、この機知に溢れた巨匠の作品がいままでのように、この場所で観られなくなってしまうかもしれないということは本当に残念でならない。実際、来季の劇場では、ビントレー振付はゼロ。まるで彼の時代など、なかったかのようだ。劇場の運営にとっては、デヴィッド・ビントレーは演目からみても、カンパニー運営からみても、期待どおりの「英国紳士」ではなかったのだろう。

それどころか、彼は最左翼だったかもしれない。バレエにはそれほど詳しくないから、私の見方は間違っているかもしれない。しかし、私のもつごく狭い見地だけで判断させて頂くなら、彼はジョン・ノイマイヤーなどよりはるかに過激な考え方をもち、伝説的なグループを次々に生み出したUKロック・ミュージシャンと同じこころをもった芸術家だったように思える。ビントレーはもっとも伝統的なバレエの動き、その意味を継承し、熟知する存在でありながら、より現代的なダンスや世界の踊りを貪欲に吸収しつづけ、「クラシック・バレエ」という領域そのものを大きく広げようと試みている。日本で紹介されたのは、彼の作品のうちのごく一部にすぎず、純粋に我が国で生まれたものは『パゴダの王子』1本だけであった。それだけで判断したとしても、ビントレーの物凄さはハッキリと見て取れる。

そんな彼が、日本の官僚的バレエ・カンパニーの硬直した運営方式を見逃すはずはなく、バレエ・ダンサーの待遇改善やヒエラルキーの構造改革が急ピッチで進められた。新国には新国らしいアーティストが残り、小野絢子や米沢唯のようなダンサーが積極的に抜擢された。今回の『ファスター』、そして、6月の『パゴダの王子』で抜擢された奥田花純の存在は、芸術監督として最後の遺産となるだろう。実力からみて女性側より低く評価されがちだった男性ダンサーの評価も改めて、その個性の多彩さ(例えば、八幡や吉本のスピードなど)に劇場の個性があることを見抜いた点も大きく、自尊心を回復した男性ダンサーたちのパワー・アップや表現力の向上は、今回の舞台でもキーとなるものであった。

2005年の日本初演、『カルミナ・ブラーナ』によってビントレー起用を決断したとするなら、運営側の勇気は賞賛されるべきだろう。だが、実際に彼らが理解したのは、振付家が徹底的に表出した官能性の凄さだけであったと思われる。彼がセンセーショーナルな舞台をつくれば、話題になって集客にもよいのではないか。そういう思惑だったかもしれない。期待に反して、唯一、ビントレーが達成できなかったのは、オペラ部門と比べて見劣りする商業的な成果の改善だった。この日の公演でも、相当に残席が多く、私を暗澹たる気持ちにさせる。日本にバレエ教室は多く、その人口も決して少なくないが、生涯にわたる楽しみとして、プロフェッショナルな舞台をみるという層はまだまだ多くない。そうした層には、もっと視点の異なる工夫が必要である。

【ビントレーの予想できない発想力】

オルフの世俗カンタータ『カルミナ・ブラーナ』への振付というと、私は O.F.C という団体が繰り返し上演している佐多達枝の作品をよく知っている。このグループのコーラス・アンサンブルに大学の合唱団の先輩がいたことがあり、学生時代、チケットをもらって見に行ったのが最初だが、そのときはクラシック音楽への関心も薄かったし、開演にも遅れたので、まったく意味がわからなかった。佐多の振付は合唱にも動きをつけ、正に「全身」で表現する方式を採っていたが、それと比べると、ビントレーの振付は「個」が重んじられている。ソプラノとバリトンの二重唱では、ダンサーが台詞を歌いあっているように見え、舞踊というよりも、演劇的な要素がつよく感じられた。

私がビントレーを評価する理由のひとつには、音楽的な感性が鋭いこともある。彼は必ずしも、「クラシック音楽」や作品の「新しさ」にはこだわらないものの、選ぶ音楽は舞踊に独特のインスピレイションを与え、英国人に相応しい気品も備えているものだけで構成されている。スタイルの破壊は顕著だが、それでも彼の振付にはいつも、クラシックの動きが根ざしており、それによく合う語法が不可欠なのだ。同時代に生きていない作曲家の音楽を使う場合も、指揮者のポール・マーフィをはじめとする音楽スタッフの意見をよく聞いて、バレエ的事情と上手に組み合わせていくが、カルミナの創作はそうした手法の頂点に位置している。

ビントレーの代表作ともいえるカルミナをみるのはこれが初めてだったが、いま述べたような、2つの顕著な特徴をみつけることは容易である。すなわち、舞踊というよりは演劇性に基づいたメッセージの重視であり、もうひとつは音楽を重視して、綜合的な視点をいつも失わない感性の鋭さだ。彼の下で踊るダンサーは通常のダンサーよりも、多様な発想と踊りのヴァリュエーションを鍛えていかなくてはならない。バレエの基本的な動きやモダン・ダンスだけではなく、演劇的な動きや表情、ときには人間以外の動物の動きなど、固定観念を打ち破る様々なトレーニングを重ねていかねばならないし、強靭なフィジカルも鍛えていかなくてはならない。音楽的にみても、クラシック音楽をはじめとして、ジャズやロック、邦楽など、ユニヴァーサルな関心を払っていないと芸術監督の求めるものについていくことはできない。

ビントレーの振付作品のリストを眺めていると、彼はいつ、どんなときにインスピレイションを得るかわからない。英国では盛んな舞台公演や、ジャズやロックのコンサート、童話やフォルクローレを子どもたちに読み聞かせているとき、面白い科学書を読んでいるとき、どんなときでも、彼は踊りから発想する癖がついている。インタヴューによれば、カルミナは創作の以前から、頭の中にあったということだ。しかし、そのままの形では、彼の思うような表現を受け止めるには十分でなく、ある工夫を思いついたところで一気に道が開けたものと推察する。

彼はこのカンタータを、修道院を脱け出した3人の修道士たちによるものとして構想した。佐多の場合とは異なり、合唱と3人の独唱者はピットのなかに押し込められたが、その効果はパフォーマンスが始まって数秒で明らかになる。オルフの書いた壮麗の音楽が響くなか、なにもないステージのうえに、合唱に賛美される運命の女神フォルトゥナがひとり姿を現し、ヒールに目隠しをして踊るのだ。そこには一体、誰が侍ることができるというだろうか。このソロ・ダンスは、しかし、単に気高く、美しいものではない。いまや、我々がビントレーらしい動きとして認識するユニークなものだ。彼の振付は美しさや整然とした調和だけではなく、醜いもの、可笑しいもの、奇抜なもの、厭らしいもの、美しくないもの、不揃いなどを広く芸術的な動きとして認めている。

フォルトゥナは正に、そうしたものすべての象徴である。オルフは『カルミナ・ブラーナ』を含む3つの作品を一体として、トリオンフィ=勝利として表現したが、ビントレーはこの勝利を反転させることで、現代的な効果が挙げられることに気づいた。そこから道が開けたのである。このバレエは3人の修道士の視点から語られるが、その上に、絶対的なフォルトゥナの存在があった。彼女はギリシア=ローマ神話のゼウス=ユピテルのように、ときに世俗に遊ぶこともあるが、ゼウスと交わった者やその子孫たちが大抵は数奇な運命を辿るように、女神と契ろうとした修道士も憂き目をみる。序幕で12本あり、白く輝いて清らかだった十字架は、終幕で9本に減じて血塗られていた。このような物凄い発想をもつ振付家が、「芸術参与」時代も含めれば6年ちかくも、この劇場に関わってくれたことは夢のような出来事だ。

【寂しげな女神】

3人の修道士の悲劇は、幕を追うごとに滑稽さと悲哀を増しながら膨らんでいく。最初の幕では清純と思われた少女が、娼婦のような女であった。次の幕では「ロースト・スワン」をまんまと喰らったまではよかったが、気の大きくなった男が調子に乗ったところを別の強靭な男に痛めつけられる。最後の幕では、やや力づくのテクニックも交えて女を手にしたと思った瞬間、紗幕のトリックですべては無に帰していき、赤から黒に転じた悪魔のようなフォルトゥナに恐れをなして、修道士は駆け去っていく。3人の女性が実はひとりのフォルトゥナであるとか、世間知らずの色男が幻想のなかで痛めつけられ、不幸を滑り落ちていく筋書きはオッフェンバックの歌劇『ホフマン物語』を想起させるものだが、本来はもちろん、反転勝利を物語っているのに対して、ビントレーの描く女神はどこか寂しげである。この表情のなかに、彼は同時代の精神が詰まっているように思ったのだろう。

カルミナは1995年、彼の新しい任地であるバーミンガムで最初の作品として上演された。オルフがその作品で音楽家としての、本当のスタートを切ったように、彼もバーミンガムで、既に手にした名声を一から作り直そうと決めていたのだろう。そして、それに相応しい現代的な作品、現代的な解釈が是非とも必要だったことは想像に難くない。

第1の修道士は、まだ修道院から程遠くないところでつかまってしまう。古い聖歌の雰囲気が静かに、ピットのなかから聴こえてくることで、我々はそこから脱け出しながら、まだそう遠くには来ていないことを感じる。まだ引き返せないこともない。そんな距離で、第1の場面が幕を開けた。2人の腹のふくらんだ女性ダンサーが踊り、さらに、2人の乳飲み子を連れたダンサーが踊る。彼女たちは、やがてダブルに拡大される。これらのDNAを受け継いで、肝心の恋する少女は登場し、修道士と出会う。はじめて飛び出した街頭は、アロハ・シャツを着た夏の広島のチンピラ風の若者たちが闊歩するような場所で、上品そうではないものの、活気があった。

ダンスは音楽の繰り返しや構造を生かし、舞踊とセットで工夫されている。歌唱や管弦楽も単純に譜面どおりではなく、興味ぶかい工夫がなされている。例えば、’Floret silva nobilis’のところだったろうか、繰り返しがあるところで最初は女声が主導権を握り、繰り返しでは音楽的必然性を越えて、露骨に男声が主体となる。これは踊りの面で、修道士が徐々に「恋する乙女」を征服していく過程と重なっている。このように、一部で異常に強いルバートやフェルマータがみられるなど、バレエ的事情に基づく音楽面の歪みは排除できないが、それが音楽作品のダメージになるよりは、歌詞やその解釈である舞踊の雰囲気と噛み合って、有機的に組みあがっていく点で、ビントレーの音楽家に対する誠実が窺われるのである。

第1の修道士のところではまだ、バレエ的な動きが多いが、場面を追うごとに徐々に自由な身体的、演劇的表現が増えて、その分、修道院からの距離はいよいよ遠くなり、倫理的にも堕落していくという構造が明確だ。率直にいえば、第1の修道士の裏切られ方には、まだ、それほどの毒がなく、音楽の爽やかな印象を完全には損なっていない。女は積極的なアプローチがあれば、誰にでもついていくような愚かさだったというに過ぎない。ビントレーへのインタヴュー動画によれば、ブロンドの女性というと、彼の母国ではちょっと頭のゆるい女性をイメージさせるということだが、この場合、騙す女性に罪はなく(頭がアレなのだから)、男性の側の理性に疑問符がつくのは明らかである。第1の修道士はまるで、『ピーナッツ』のチャーリー・ブラウンのような愚かさをもっていて、憎めない。それなら、女はルーシー・ヴァン・ペルトのような、ませた無邪気さをもっている。

そこへいくと、第2の修道士はもっと積極的である。4人の不気味な太っちょうに囲まれ、登場する鳥の羽をもつショー・ガール風の美女「ロースト・スワン」は徹頭徹尾、食べられるために存在するのだ。問題はいつ、誰に、どうやって食べられるかということに過ぎない。今度は喜劇的なバレエの正統的な動きをもじり、太っちょうをやり込めて、ある意味ではロースト・スワンを面白おかしく「救出」するかのような場面が展開する。しかし、紗幕の向こうでロースト・スワンを喰らうと、どうだろう。彼は食べてはいけないものを食べたようになり、何でもできるような感じで気が大きくなる。自らが野獣となる。その結果として、再び登場した広島のチンピラを怒らせてしまい、ボコボコにされておわるのだ。

ビントレーはこの作品で、敢えて直接的な暴力的表現を取り入れている。いまの第2の修道士の場面が印象的だが、第3の修道士の場では、彼と、実はフォルトゥナの赤いドレスの美女が数ラウンド、リングで闘うような描写を入れ、男性が力で女性を支配していくモティーフを明確にしているかのようだ。グラン・パ・ド・ドゥは、作品の演劇的性格をもっとも如実に示し、1対1の踊りが1対1の声と対応し、スリリングなドラマ性を導いている。この関係は結局、2人の関係を隠す紗幕によって逆転され、勝ち誇った修道士は赤いドレスを着た恋人ではなく、悪魔のような黒いドレスに身を包んだフォルトゥナによって、地面に叩きつけられる。男は既にブリーフ・パンツ1枚の格好になっており、バレエ・ダンサーの鍛え抜かれた肉体でも、こうなってみると、みっともないことこの上なかった。

これを見下す女神の姿も、また切ない。

【カルミナ・ブラーナとその時代】

再び、何もないフラットな舞台にフォルトゥナひとり。ここから、エンディングに向けての豪華絢爛な飾りたてが常軌を逸している。既述のように、序幕と同じように天井から十字架が降りてくるが、それは12本から9本に減じている。バック・ダンサーが登場し、フォルトゥナに合従する。バックには日食の太陽で観察できる「ダイヤモンド・リング」が出現し、そこに季節はずれの雪が降る。新国立劇場得意の整然としたコール・ド・バレエに、'O,Fortune' の劇的で緊張感に満ち、程よい長さの音楽が調和した。3人の修道士からみると、単に滑稽な喜劇にすぎないようなバレエが、こうして急速にフォルトゥナの孤独と、それを賛美するディオニュソス的窮動の激しさによって、途端にホラーのような恐ろしい戦慄を放ち始めるのだ。私には、ゾッとする舞台。楽しかったという意見には首をひねる。

もしも、日本的な現代風男尊女卑に悩む女性たちだったら、すべてを断ち切るフォルトゥナの強さにスカッした気持ちを抱くのだろうか。

だが、この作品をオルフが書いたのは、1936年というのを憶えておいたほうがよい。ちょうど、この公演のあとに、私は「大戦間を生きた作曲家たち」というテーマをつけた演奏会に接することがあったが、オルフも正に、その時期に作品を書いていた。ストラヴィンスキーが『春の祭典』を書いたのが1913年、昨年、私たちはその初演から100周年を記念して、頻りに演目を取り上げた。後期ロマン派の円熟から、社会的パニックを起こすような強烈なモダーニズムが、こうした作品によって推し進められた。ところが、1914年になると、バルカン半島のサラエボ事件を機に、第1次世界大戦が勃発。欧州じゅうが「総力戦」に切り替わった。いま、それから100年が経とうとしている。1919年のヴェルサイユ条約で戦争は仮初めの終結を迎える。多くの人々が命を喪った空隙を埋めるように、ビーダーマイヤー的な享楽の時代が訪れ、1929年の世界恐慌まで夢がつづく。もちろん、その間、最後は強引にとりまとめられた講和条約の矛盾は噴き出し、第2次世界大戦の種が着実に播かれていた。

1936年にはドイツが講和条約によって非武装地帯と定められていたラインラントに軍を駐留させ、戦争の靴音も近づいている。ドイツ、イタリア、スペイン、そして日本でファシズムが高揚し、ソヴィエトでは独裁者、スターリンが大粛清を始める。そのなかで書かれたフォルトゥナであり、その賛美なのだということを考えれば、私の感覚もあながち歪んだものではない。このような事態に至れば、もはや宗教さえ、何のくびきにもならないものだ。実際、ローマ教会はナチスによるホロコーストに対して、十分な批判を加えることができなかっただけではなく、むしろ協力的だったという見方さえあるほどだ。

結局、十字架は今後とも減っていく運命にあった。それは人間の煩悩があまりに多いことを示す以外に、このような歴史的事情を汲んだものであろう。そして、ビントレーはそれが単に過去の事実としてあるだけではなく、これからも変わらぬ真理として、世の中を支配していくとみているのである。実際、20世紀型の戦争が一応、封じ込められたと見えた(米ソの和解がその象徴である)あとでも、争いは形を変えて人間を支配している。テロリズム、ナショナリズム、経済戦争、資源戦争などという形で。そして、ときには、それが旧世紀型戦争の異物と結びついて、露骨な危機へと発展することもある。エジプトでの政治的動乱とも関連した、激しい緊張関係が醸成されたシリアにおける米ソ対立、その第2ラウンドとしてのウクライナ紛争。いま、十字架は一本一本、数を減らしているところかもしれない。

ビントレーは1995年の時点で、こうした未来と対話していた。日本ではオウム事件の端緒となる散発的な事件が社会を騒がせていたその年に、例えば、フランスでは当初、バリバリの右派と見られたシラク大統領が誕生している。その前の年は、ルワンダで内戦を契機とした民族浄化事件が発生、バルカンのボスニア紛争は血生臭さを増していた。そのような社会的背景が、ビントレーを衝き動かしたとするのは自然な考えであろう。フォルトゥナは正に、死を象徴している。誰も、彼女に触ることは赦されない。もしも、それが美の象徴であるというなら、人間にとって美とは何なのか。しかし、世の中では、そうした美がもてはやされていたのであろう。人々は官能に責められ、本来、宗教によって培われるべき高度な倫理観から離れて、ただ夢でしかない美に惹きつけられた。

芸術家として、そのような孤高の美に否応なく惹きつけられながらも、人間として、片方の心臓がこれを赦さない複雑な状況のなかで、ビントレーは作品を振り付けた。

【声高には語られない闇】

前半の『ファスター』では、カルミナとはまた異なるビントレーの個性が味わえるのだが、わりあいに娯楽性の高いこの作品のなかでも、やはり、声高には語られない闇の部分が描かれているのが面白い。科学史を背景とした高等な知的娯楽エッセイ ”E=em2” で音楽を担当したマシュー・ハインドソンが起用され、英国のロンドン五輪に関連するプロジェクトのなかで作成された。同作品でひときわ印象的な部分は、原爆のところで日本的な舞踊が取り入れられ、神主のような格好をした男がひとつに塗りこめられた爆音のなかで踊る場面である。

この場面と同じように、輝かしい夢のなかにも一点の闇が挿入されるのは、音楽が一通りのシーケンスをおえて、いったん高揚してコーダを迎えたあとのシーンとなる。舞台上には主要ペアの1組だけとなり、それまで競技の動きをもじって、知的に組み合わされたフォルムを愉しむものだったはずの場面が急速に展開する。洗練された動きはなかなか出なくなり、停滞的な音楽のなかで、カメラは選手の内面の焦点を合わせていくようだ。この選手は多分、まだ選び抜かれていく前の、迷いの多い状態にある。選手が選手としてあることの苦しさ、結果が出ないときに、息が詰まりそうな想いをする、そんな姿を想像させるものだった。女性ダンサーが選手で、男性ダンサーが指導者ともとれるかもしれない。この日は外国人ゲストダンサーと、群舞クラスから抜擢され、小柄な奥田花純の組み合わせということで、この関係がひときわシュールに見えたのも皮肉なことである。

この場面を経由して、マラソンの第2クライマックスが描かれることで、作品の求心力はぐっと高まっていく。コーダでは、これまでの動きが巧みに組み合わされて、やはり、新国立劇場の鋭いコール・ド・バレエが踊りに含まれる深い内面性を、たちどころに浮き彫りにしていくのが面白かった。基本的にはオリンピック・ムードを盛り上げるためのものであり、あくまで競技そのものの動きの面白さを、舞踊家独特の視点から楽しむためのものであるという前提は変わらない。しかし、言外に、よく言われるようなオリンピック精神に反するものの存在(行き過ぎた商業主義やドーピングなど)や、そこから導かれる選手たちの悩みが描かれているのは、さすがにビントレーらしいところである。

ハイ・ジャンプ(あるいは棒高跳び?)を模した場面では、鍛え抜かれたバレエ・ダンサーでさえ、選手の動きにはかなわないことは明らかでも、バレエらしいリフトの動きで、チームとして、その動きを見事に模するところが描かれ、確かにスポーツとは異質なものながら、バレエもまた、人々が助け合って面白いものをつくろうとしている舞台であることを訴えようとするものになっていた。

無論、スポーツにおいても、それは大事な要素である。先日、閉幕したソチ五輪でもっとも感動的な場面のひとつに、スキーの距離競技でレース中のアクシンデントからスキーを折ってしまい、転倒を繰り返しながらゴールを目指す地元選手に対して、別の国のコーチが堪らずに走り寄って、新しいスキーを渡すという一幕があった。ビントレーのつくった動きのなかにも、スポーツが競い合いながら、助け合うなかで成立していることをコミカルに示している場面がある。例えば、フェンシングの動きはそのひとつだろう。

2つの作品は享楽的なテーマのなかに、声高には語られない闇をもっていることや、コミカルで個性的な動きで
通じ合うものがある。いずれも典型的なバレエの動きからは遠く、これを踊るに、バレエ・ダンサーたちが私たちの想像もつかないような苦労を払ったことはイメージできる。しかし、一方では特に男性陣の力づよいリフトは、6年前なら、あまり見られなかったもので、日本のダンサーが著しく苦手とするものであった。それがいまや、このレヴェルでみられるようになったというのは、本当にうれしいことである。ビントレーの振付には、生き馬の目を抜くような発想のなかに、これまで身に着けてきた伝統的な動きが組み合わされている。その分、通常よりも高い表現力を発揮できるのである。

【帰ってきた高橋淳】

なお、『カルミナ・ブラーナ』で、もっとも熱烈な賞賛を得たのは合唱団であった。ソプラノに安井陽子、バリトンに萩原潤、1場面のみのテノールに高橋淳がクレジットされ、いずれも舞踊的な制限を受けながら、立派な歌唱で舞台を支えてくれた。安井のパフォーマンスも見事だったが、それ以上に感動的で、笑わせてくれたのが高橋だった。以前から、つまり、独特なキャラクターとして鳴らした頃も、彼のカルミナが突き抜けた表現で、素晴らしいことはよく知られていたし、私の場合は、児玉宏指揮都響(東京オラトリオ研究会)の公演で、彼がこの役を歌ったときのことは忘れることができない。その後、彼はキャラクターとして道を究めるのではなく、より重く、中心的な役柄で舞台に貢献することを選んだが、その反動か、最近はキャンセルがつづき、自由に舞台に上がれない状態になっていた。

既に復帰の噂は聞いていたが、この日、彼は完全に元通りというか、以前にも増して強力なキャラクターとして演じきった。ピットのなかで演技はできぬが(照明はダークなものが当てられた)、声だけで、彼は酔人の鬱積、孤独な叫びを鮮やかに表現する。それは病に沈んだ、彼の最近の想いと重なるものであったかもしれない。そして、オルフが密かに埋め込んだ時代の声でもある。彼の声は舞台の動きと完全に調和し、ところが、思いがけないところで言葉を強調し、その滑稽さで「笑わせる」というよりは、心臓を一突きするような衝撃を与えた。あの歌唱を聴くだけでも、元が取れるといったようなパフォーマンスに感心しきり。いろんな人に迷惑をかけ、こころも弱っているのではないかと想像していたが、以前にも増して、作品の核心をつくような歌唱になっていたのは、この日、いちばんの驚きであった。

なお、音楽面でいえば、カルミナには管弦楽版2台ピアノと打楽器版の2つがよく知られているが、ビントレーはこれらを折衷的に扱った。ピアノとパーカッションのほうが舞踊的な機動力に満ち、私は好きなのだが、ビントレーも同意見のようだ。基本的にはピアノと打楽器のヴァージョンのテイストをベースに、管弦楽の魅力的な響きを付け足すような感じになっていたと思う。

【まとめ】

確かに、これまで観てきたようなビントレー振付作品のなかでは、かなり異色なものだとは思う。初演から10年以上を経て、ビントレーはさらに柔軟に、面白い発想をみせている。『ファスター』でも、その一部は感じられたはずだ。だが、その中心はぶれていないし、いわば、彼にとっての原点に置かれるべき、このような作品が、同時に未来と対話していることは本当に得がたい幸運・・・というよりは、時代を見つめるセンスの勝利というべきである。そのことは、オルフの作品そのものについても言えることだろう。それをいま、日本に持ってきたときに、ぴったり合うリソースが揃っていたことも重要だ。誠実で、向上心に溢れたソリストたち。整然として規律正しく、表現力に満ちた群舞の素晴らしさ。オペラ部門でも評価の高い、合唱団の高い技術と表現に対するあくなき探求心。柔軟で吸収力の高い東京フィルの優れたアンサンブル力。そして、個性的な独唱者たちによる歌唱パフォーマンス。これらをビントレー、マーフィといった英国側の指導陣が巧みに導いた好舞台だった。

終演後、新国立劇場とビントレーの歩みを振り返り、最後の演目『パゴダの王子』をPRするスペシャル・ヴィデオが舞台上に設えられたスクリーンで上演された。そこには監督とダンサーたちがフラットに対話し、新しい領域を切り開いていくときの新鮮な雰囲気が収められていたのである。日本のダンサー1組が参加し、英国に凱旋した『パゴダ』の公演についても、言及があった。このような演目を粘り強く育てていくことで、カンパニーは強固で、揺らぎない個性を獲得していくものだろう。芸術監督はこのような新しいPR手法を考え、またまた、新しいダンサーを抜擢したりして、任期ギリギリまで劇場を作り変えようとして闘っているようにみえる。後任がどれほど優れた人であろうとも、これほどの人がやってきたことを受け継いでいくことは難しいだろう。多くの観客が、それを実感する舞台だったのではないかと思うのである。

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高橋淳先生の歌う(カルミナブラーナの)白鳥とご一緒したことがあります。その演技と歌唱に度肝を抜かれました。

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