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2014年5月18日 (日)

ジャン・クロード・ペヌティエ フォーレ/ショパン/オアナのプレリュード集 & シューベルト D960 5/9

【ペヌティエと日本】

ジャン・クロード・ペヌティエというピアニストを知ったのは、ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンを通してのことだった。このイベントでは、各事務所がこれから売り出したいと狙う若手アーティストによる公演が中心になってはいるが、一方で、彼らの活動をバックアップする目的か、それまで商業的な活動にそれほど積極的ではなく、アカデミーや室内楽の分野でコツコツ活動してきたベテラン・アーティストの参加も欠かせないものになっていた。日本公演の場合は、アンヌ・ケフェレックブリジット・エンゲラージェラール・コセレジス・パスキエアンリ・ドマルケットアブデル・ラーマン・エル・バシャトリオ・ヴァンダラー、それに指揮者のミシェル・コルボの存在などがクローズ・アップされてきた。ペヌティエ(当初はペネティエ)は多分、2006年の2回目の開催から参加して、徐々に重みを増していき、いまでは欠かせないキャラクターとなっている。

余談だが、2007年には、田村響が優勝した国際コンクール・マルグリット・ロン=ジャック・ティボーでは、アルド・チッコリーニ審査員長の下、彼が副審査員長を務めていたことから、日本との縁も深まったという側面がある。この2007年のコンペティションはあとから振り返ると、やや低落傾向のロン=ティボー・コンクールの歴史のなかでは、近年、稀にみる当たり年とも言える結果を残した。田村を中心に、キム・ジュンヒソフィヤ・グルャク(リーズ優勝)、キム・テヒョン(浜コンでも第2位)などの才能をきれいに掘り起こしたからである。

さて、今年もLFJで来日のペヌティエだが、音楽祭直後の9日には、トッパンホールでリサイタルを開いた。音楽祭を除けば、これが日本で初めての本格的なリサイタルということで、待望の機会である。しかも、内容が凝りに凝っており、前半は得意のフォーレ、ショパン、オアナのプレリュードを調性を考えながら精緻に配置し、自由に並べ替えた特別プログラム。後半は、シューベルトのピアノ・ソナタ D960 の演奏であった。

【時代そのものであるフォーレ】

ガブリエル・フォーレはペヌティエにとって、ほとんど心血を共有するような自然さで弾ける作曲家である。初めて彼の演奏を聴いたとき、ノクターンの6番と13番を弾いて、フォーレがいかに感情ゆたかな人物であるかを教えられた。6番で瑞々しく、ゆたかな才能を追っていたフォーレは、ピアノ作品の最後に書かれた晩年の13番では、何も包み隠さず、まるで神さまの前にいるかのような真っ白な悲しさを歌っている。これには涙を堪えることができないほど動揺し、そのあとに聴いたQイザイの演奏は何も憶えていないほど、その衝撃は忘れがたいものとして私のなかに残った。たった2曲での「マジック」である。それと比べれば、数えてみれば21曲でのパフォーマンスは豪華すぎるというものであろう。フォーレのみ、op.103 の9曲をすべて演奏し、ショパンは op.28 から11曲、オアナは1曲のみだった。

フォーレのプレリュードは多様で、彼の生きている時代のすべてが詰まっているかのような感覚を受ける。未来を追う斬新な書法も窺える第1曲から、民俗的なものや地方色を反映したもの、時代を象徴するノクターン的なロマンを感じさせる作品、自由な舞曲風、バッハのような古典作品への敬慕、対位法に基づいた宗教性ゆたかな作品が揃っている。これらの作品は1910~13年の間に書かれ、ノクターン第13番ほどの悲愴な叫びは聴かれないが、既にフォーレ晩年の秘めやかな寂しさを内包している。フォーレはそれを、神さまに聴いてもらいたかったのだと思うが、ペヌティエは東方正教会の司祭を務めるという顔もあるそうで、フォーレのそんな気持ちはよくわかるはずだろう。

【ショパンに見るペヌティエの凄さ】

ショパンにおいては、最初の数曲を聴いて、ペヌティエが知性や内面の素晴らしさに加えて、技巧的な面でも天才的なものをもっていることがわかった。最初の op.28-15 では、低音連打のベース音がとにかく強靭で、ぶれないのである。ジョルジュ・サンドの言ったという「雨だれ」とは、まあ、とれなくもないほどのギリギリの強さだが、あまり具象的になりすぎないがために、よりゆたかな広がりを感じさせる音楽になっている。このイメージは実は後半、シューベルトの冒頭でデジャヴを引き起こし、前半と後半との大事な結節点になっていることも忘れてはならない。

そのあと、ショパンでは2曲目となる10番、そして、1曲フォーレを挟んで、8番、13番、14番と弾いていくが、特に速いナンバーの演奏では驚嘆が走る。技巧的に精確であるだけではなく、強拍だけをきれいに浮き上がらせ、弱拍を自然に打つことで、優雅なフォルムが姿を現すのだ。マズルカやワルツではないので、独特なルバートはさほど問題にならない。それよりも、ショパンでは全体的に通常の演奏よりはダイナミズムが幅広くとられ、劇的な効果を高めている点は注目される。最初の15番でも、ムソルグスキーの『展覧会の絵』のような雰囲気だったが、このような解釈は、ショパンのもつ綜合的な特徴をよく物語っている。その意味は単にショパンがマリブランに代表されるオペラや、バレエなどの舞台芸術に造詣が深かったということに止まらず、そこに集積された西欧文化全体の象徴として、プレリュードを書いたということである。

しかし、ペヌティエの演奏を聴くと、単純にショパンのプレリュードはオペラのアリアや重唱、管弦楽曲のように聴こえる場合も多かった。

【ゼロからの奇跡的な再起動】

そのせいか、フォーレの音楽と並べてみたときには、ショパンの音楽の特徴はスケールが大きく、未来を向いている反面、若干の青臭さを印象づけるところもある。ペヌティエがショパンの最後のナンバーに選んだ22番を頂点に、彼の音楽は増長していった。そして、多分、その最後の数音は断ち切られて、唯一のオアナに入るのである。生前、ペヌティエとは親しかったというオアナは、微分音を駆使した無調の音楽を得意とし、『24の前奏曲』は1973年、ペヌティエによって世界初演された作品ということだ。それまで演奏してきたすべての要素をもたないオアナの作品で、ショパンの高い鼻は圧し折られた。「トレ(ス)・レント,ソンブレ」で奏でられる第23番は、速度も強さも、すべてがゼロであるような音楽。ここから音楽を再構築するのは、やはり神の領域に属することなのだろう。フォーレのプレリュードの終曲は厳格な対位法で構築され、しかし、そこから生じるゆたかな夢はフォーレ独特のものであった。手助けしているのは、なにか超越的な霊力とでもいうほかない。

この終盤3曲の力づよい構成については、もう、言葉がなかった。オアナの挿入で私が連想したのは、モーツァルトの歌劇『ドン・ジョヴァンニ』の地獄落ちのシーンである。それほどの強い衝撃から、あれほど冷静で、透明な対位法が浮かび上がってくるのは奇跡のようなことだった。

【2楽章でおわらせる作曲家】

この前奏曲集に対して、後半の演奏は比較的、言葉にはしにくい洗練が見て取れたが、そのレヴェルは最高級のものに属する。バドゥラ・スコダプレスラーの演奏に感動したのとソックリ同じクラスの演奏だったことは間違いない。無論、彼らの演奏は、まったく異なっている。特にフランス系の音楽家は、シューベルトを「個人的なもの」(愛想曲のような)として弾くことが多いが、ペヌティエはその極致を行っている。温かく、感情に満ちたゆたかなカンタービレ。鼻歌まじりに、楽しそうに弾いているのであった。しかし、構造観はしっかりしている。彼はきっちりと、第2楽章までに音楽を「終わらせた」。後半2楽章は二重のスケルッツォで、さして意味をもたない。

いま、そう言うことにって思い出すのは、有名な「未完成」交響曲が2楽章しかないことである。この作品が2楽章で既に完成していると感じる音楽家と、まだ先があったはずだと感じる音楽家は二分されている。例えば、新日本フィルを相手に、この2楽章だけで40分ちかくもかけて演奏したヴァレリー・アファナシエフ(指揮)などは前者の最右翼とみなされる。本質的に、シューベルトは音楽を2楽章で終わらせてしまうような傾向の持ち主だったのかもしれないし、「未完成」交響曲も日の目をみなかった後半2楽章で、劇的に印象がひっくり返る可能性は低い。この正真正銘、完成形をみせる D960 でも、終楽章のコーダの展開は、第1楽章の終盤のあらゆる部分から接続可能なようにも思われ、その点で、シューベルトはかなり簡潔な構造を好んだことは議論の余地がないであろう。

ただ、前半の前奏曲集で21曲をかけたような調性の旅がここにも隠れており、無論、シューベルトは構造の重みを十分に理解して、モティーフに組み込んでいることは疑いない。

第2楽章のアンダンテ・ソステヌートには、早くも本論が書かれている。それはフォーレがプレリュードの第9番で追い求めたものとほぼ同様のメッセージを持っている。背筋も凍る繊細さで以って奏でられた緩徐楽章の響き、特に、高音に飛び、低音に返ってくるたったひとつの音の動きに、我々は息を呑んだ。嬰ハ短調の主部と、イ長調のトリオの対比もきつい。多分、モーツァルトだけがこういうドキッとする動きを思いつくことができた。シューベルトがそれを丁寧に、自分のなかに取り込んでいる。イ長調では舞曲の味わいが深く浮かび上がり、葬送的な雰囲気をもつ主部とは対照的である。

【シューベルトと舞踊性】

後半の二重スケルッツォも含め、ペヌティエはシューベルトの舞曲的な特徴にやはり注目している。これは先日、ジョナサン・ノットが東響の演奏会で示した発想と通じているが、決定的なのは終楽章である。ペヌティエはさして工夫をせず、ロンドー形式のように、素材を丁寧に積み上げていくのにすぎない。過去の録音を聴いても、この楽章のスタイルは様々に工夫されている。テンポやアーティキュレーションを粘りづよく入れ替え、音楽の詩情を深めていこうとするエッシェンバッハ。決然とした響きを揺るぎないテンポで保ち、ショパンを連想させるめまぐるしい響きのマジックで包んでしまったハスキル。かなり窮屈なアーティキュレーションを組み、コケティッシュな響きを多様なヴァリュエーションと強弱のユーモアで示すニコラーエワ。厚みのある強打音でゆたかな響きを引き出し、旋律線のシンプルな動作と鋭く対比させたリヒテル。これらと比べると、ペヌティエの演奏はシンプルそのものだ。そして、それこそがいちばん優れている。そうすることで、シューベルトの音楽のもつ舞踊的な特徴がもっともよく浮かび上がるからだ。

この味わいによって、ペヌティエは前半2楽章で「終わった」音楽を再起動することを得た。そして、いまや、その舞曲の優雅さと活力が音楽を超越しているのである。

【まとめ】

こうして、演奏会は終わった。よくよく見てみると、ペヌティエがこれまで、「熱狂の日」音楽祭で披露してきたものばかりだが、しかし、その組み合わせはファンタジーに満ちていた。商業主義の見地からは絶対に浮かび上がってこないピアニストとはいえ、メカニカル、知性、感情のどれをとっても、貴種のハイ・グレードな音楽家であることは疑いない。私は今年については、音楽祭そのものよりもこのリサイタルが魅力的に見えたし、その選択に誤りはなかっただろう。ペヌティエの正体、いよいよ明らかになった。

脱帽したまえ、天才だ!

なお、調性の旅というもうひとつのテーマについては、私の知見の不足もあり、いちど聴くだけで、その意図を十分に看破することはできなかった。そのごく一部、何らかの意図が感じられた部分のみは本文中でちょっとだけ触れてみたものの、あとは向後の課題とし、以下にその展開だけを示しておく。

【プログラム】 2014年5月9日

1、フォーレ(F)/ショパン(C)/オアナ(O) 前奏曲集

 F1 変ニ長調
 C15 変ニ長調
 F2 嬰ハ短調
 C10 嬰ハ短調
 F7 イ長調
 C8、13、14 嬰ヘ短調/嬰ヘ長調/変ホ短調
 F6 変ホ短調
 C19、20 変ホ長調/ハ短調
 F8 ハ短調
 C1、2 ハ長調/イ短調
 F4、5 ヘ長調/ニ短調
 C21 変ロ長調
 F3 ト短調
 C22 ト短調
 O23 無調
 F9 ホ短調

2、シューベルト ピアノ・ソナタ第21番 D960 変ロ長調

 於:トッパンホール

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