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2014年5月12日 (月)

ピアノ・デュオ 春の祭典2014 ~東日本大震災復興への祈りを込めて~ 連弾ネット/国際ピアノデュオ協会/仙台ピアノデュオの会 共催 @東京公演 5/4

【ピアノ連弾音楽の可能性】

音楽学者の西原稔氏は著書のなかで、ロマン派やウィーン古典派など、私たちがよく知っていると思い込んでいる19世紀の音楽は、実のところ、一部に偏った研究しかなされておらず、この時代に生み出され、流通した音楽の大部分は現在、ブラックボックスに入ったままだと指摘しています。音楽史の発展にはほとんど無関係とみられ、研究対象から排除されてきた娯楽性のつよい作品は、当時、貴族や上流階級のサロンが支える文化のなかでもっともよく消費されたと思われています。その時代で有名だったオペラのアリアなどからつくった編曲もの、幻想曲やロンド、ノクターン、メヌエットなどの舞曲など。ピアノ連弾で、著名な作品の編曲版を演奏してみるなどの需要は非常に多かったのです。こうした音楽には現在でも、当時とは若干ことなる意味ながら、豊富なポテンシャルが潜んでいます。

単に見知らぬ名曲があるというだけではなく、その豊富なリソースを用いたピアノ・デュオの多彩な活動がイメージできるからです。NPO連弾ネット、国際ピアノデュオ協会、仙台ピアノデュオの会の3団体共催による仙台と東京の演奏会に参加した10組のデュオも、芸術性と娯楽性のバランスや、楽曲を用いたオーディエンスとのコミュニケーションを含めて、多様な需要をそれぞれに工夫して満たそうとしていることがわかります。イロモノ的な存在もいないわけではありませんが、それはそれで広範な音楽需要の一部には応えているわけで、彼らが誠実な演奏に徹する限り、それだけで批判に晒される理由はないはずです。

【ヴルダヴァと鍵盤】

聴き慣れたオーケストラ作品の編曲ものであっても、ピアノで弾くことでまた新たな一面に光が当たることもあります。ここに述べるのは東京公演の模様ですが、その最初に演奏した若い姉妹デュオ「ピアノデュオ ベルゼール」が弾いたスメタナ『わが祖国』の「ヴルダヴァ」を聴いて、私はつよい感銘を受けました。なぜなら、その旋律がこれほど見事にピアノの音階にフィットして、作曲されているとは思いも寄らなかったからです。特に序奏の部分の細やかな音の動きは、ピアノで弾くと驚くほど滑らかに聴こえます。先日、知人からチャイコフスキーが「音階の作曲家」と言われていることを教えられ、単純な音階からメロディをつくってしまう大家だという話を聞いたのですが、スメタナも同じ才能をもっていたのかもしれません。

スメタナは音楽家としてのキャリアのはじめにはピアニストとして鳴らし、生涯で100曲を越えるピアノ作品を書き残しています。ベルゼールの演奏を聴きながら、私はピアノに向かって、あつい情熱を傾けながら作品をものにしていくスメタナの姿を想像しました。しかし、主部に入ると、作品はやや空疎なものに聴こえ、それは舞曲のところに入って顕著となります。こうした部分は、ピアノを用いながらも、それで具体的な形を追っていくのではなく、もうはじめから、自分のなかに残っている響きをピアノに表出していった(そして、それを楽譜に起こしていった)にすぎないと思われます。しかし、牧歌的な舞曲のあとで静かになる部分はピアニスティックで、この時代、よく流行したノクターンの雰囲気が応用されています。

ベルゼールは著名なオーケストラ曲を弾いて楽しませるのを得意とする美人姉妹といったところで、娯楽的で、社会性の高い演奏活動をしていますが、その範囲で面白い特徴をもっています。技術的にはそれぞれが高いレヴェルに達しており、自分たちにあった作品を弾いています。双子とは言いながら、2人の演奏から感じるのは姉妹の大きなちがいです。ほんの印象にすぎませんが、プリモを弾く姉のほうが積極的で開かれた性格をもっており、妹のほうは彼女をよく理解する親友のような献身的なフォローをしています。大人しい性格なのでしょう。いま、調べてみると、愛媛の出身のようですが、確かに川というよりは海を想像させる演奏だったかもしれません。特に、響きが膨らむ分、最後のほうがそのように聴こえます。

【ピアノが明らかにするストラヴィンスキーの本質】

メインの『春の祭典』も、ピアノ連弾で聴くと面白い作品でした。演奏は ZOFO duet といって、スイス人のエヴァ・マリア・ツィンマーマンと日本人の中越啓介によるデュオが担当しました。主に米国で活躍し、グラミー賞の候補にもなった一線級のアンサンブルで、今回のメイン・ゲストとなっています。2人は、その前に英国ミニマリズムの作曲家として知られるテリー・ライリーの作品を演奏します。UKのミニマムは米国ほど単純ではなく、アダムズがオペラを書いたりするなどして、応用範囲が広いのが特徴になりますが、この『5月5日』(Cinco de Mayo/メキシコでは、ナポレオンⅢの派兵したフランス軍を撃退した名誉の日)は2回ずつ、きっちりと繰り返しがあり、勇ましい祝日を表現するにはやや冗長な感じのする作品です。ただ、繰り返しされる細胞の大きさはより大型で、後世のミニマルよりも大らかな印象をもっています。

ストラヴィンスキーの作品も、同様に繰り返しの多いミニマルといえるかもしれません。4手連弾で弾くハルサイはより単純で、荒々しい要素の羅列と見えますし、変拍子などの要素も、オーケストラで聴くほどは複雑ではなく、アンサンブルとしては、むしろ平明な感じを与えるのです。ところが、ライリーの場合、1つずつ足し算で細胞が増えていくのに対して、ストラヴィンスキーは2乗2乗で、エネルギーが膨れ上がっていくのを感じることができます。ひとつひとつの繰り返しに含まれる緊張感が並大抵ではなく、それがこの作曲家の作品のもつ顕著な特徴になっています。ライリーと比べると、ずっと深刻な音楽が聴こえてくるのはそのためでしょう。

ハルサイほど、繰り返しの要素はつよくないものの、『ペトルーシュカ』でも、その中心に細かい運動性から増幅された激しいエネルギーが来ていることがわかります。瀬尾久仁&加藤真一郎ピアノデュオは、恩師の野本由紀夫氏による編曲版を弾きましたが、その特徴は2台ピアノを使いながら、プリモとセコンドの役割を1台ずつに fix することにあります。連弾の場合のように、隣の奏者に遠慮しなくてもよいことで、1台ずつの奏者が目いっぱいにその声部を使うことで音楽が本質的にもつ獰猛なエネルギーを搾り出そうとしたのでしょうが、この意図は見事に当たっています。作曲者編でソロで演奏できる「3楽章」もありますが、室内楽、さらにオーケストラの味わいも内包している野本編の2台版は独特の光彩を放っているといえそうです。プリモとセコンドに1台ずつピアノが宛がわれるのは贅沢な発想ですが、各々がその役割を最大限に発揮するには好アイディアで、オーケストラ版に迫るようなポエジーの揺道を感じさせます。

これら2曲を弾いた ZOFO と瀬尾久仁&加藤真一郎のデュオが、東京出演の8組のなかでも際立って素晴らしいのは、前述のように、自分たちの演奏に対する深い客観性を備えているからです。恐らくは、瀬尾&加藤は並み居る出演者たちのなかで、もっとも強い音を出しました。それまでの演奏も、私は十分に楽しんではいましたが、強奏部のやや粗い磨きこみが聴かれると、真剣に入り込めないものを感じていたのです。それが彼らの打つ力づよい打鍵ともなると、素直に私のこころのなかに響いて、ストラヴィンスキーの音楽の何たるかを実感として教えてくれたのです。ファンタジーに溢れた『ペトルーシュカ』からも、やがてハルサイで結実する暴力的な風刺の響きは聴こえています。ストラヴィンスキーは、人形ペトルーシュカが人間に憧れ、その人間からひどい仕打ちを受けて亡霊に身をやつすという悲劇を書きましたが、同時に謝肉祭の場面では、同じ人間の生み出すゆたかなファンタジーの素晴らしさをも描いています。

デュオは、そうした二面性を華やかに弾きあげていますが、あれだけクリアな強奏をつくりだすには、多くの苦労が必要なことは想像に難くありません。なにより感動的なのは、互いが互いの特徴を生かしあうために、常によく聴きあって、最高のタイミングとダイナミズム、波動のようなものまで緻密に共有しあっていることです。その意味では、ZOFO よりも、彼らは優れていると思います。

この演奏会はピアノ・デュオのための祭典であると同時に、震災復興への祈りもこめた演奏会になっていました。そのことについて、もっとも明瞭にコメントしたのはピアノデュオ ドゥオールでしたが、そのほかの演奏者たちも、その表現のなかに特別な意味を込めています。瀬尾&加藤の演奏にも、そのメッセージは潜んでいるのですが、彼らは敢えて、それを一瞬でおわらせるという独特の発想をみせました。確かに厳粛な事実ではあるけれど、そんな悲劇も人間の長い営みから見れば一瞬のこと・・・やがて、苦しみは幸福によって報われていくというメッセージが確かに読み取れました。

【ZOFOの素晴らしさ】

そんな2人が憧れたというのが、先輩の ZOFO duet です。いまリンクした録音よりも、(当然ではありますが、)立体的な響きで粒よりの厳しい音を出します。2人とも素晴らしい奏者ではありますが、中越の雄弁なリードがまず特徴的であり、パートナーのツィンマーマンがバレーボールのリベロのような瞬発力で、大事な響きを拾っていくスタイルが確立しています。その表現性の素晴らしさ・・・特にピアノ演奏でハルサイを聴いた特別な印象については改めて繰り返しませんが、2部30分以上もある大作をこうしたスタイルで演奏するには、例えば、ピアノを弦楽器のような響きで聴かせるようなテクニックも欠かせません。彼らはよく知られたオーケストラの響きも頭に入れて、ピアノに驚くべき多様なキャラクターをもたせるように工夫しました。

【夏の前奏曲】

演奏会の最後には、西澤健一氏への委嘱作品『夏の前奏曲』が演奏されました。2台ピアノがそれぞれ連弾となり、2台8手での壮麗なスタイルとなります。ZOFO と連弾ネットの代表である Duo T&M による演奏。後者も一般的な知名度に関わらず、筋金入りの優れたデュオです。より若いアンサンブルに負けない強靭で、妥協のない響きは作品の魅力をはっきりと物語るものでした。この世代にはよくあるように、技術的にはやや大味なところもありますが、なにより音(のメッセージ)をつかむ能力に優れているのです

西澤氏の作品はこのページでも、しばしば取り上げています。まだまだ若い世代に属する彼は非常に柔軟な思考力をもちながらも、厳しい音楽的姿勢を崩さず、昔の文士気質を思い出させるような独特の活動スタイルを採っているように見えます。作曲以外に、最近では佐村河内某への楽曲提供が物議を醸した新垣隆氏に対するフォロー活動でも存在感を発揮しておられ、同世代として感銘を抱く行動力の高さです。これまで僅かですが、彼の作品に触れてきましたが、現時点ではピアノ作品の分野で、もっとも自由なインスピレイションを発揮できている印象をもち、このデュオ作品はそのなかでも彼のもつユーモアが効果的に発揮された作品と言えそうです。

今回は、そこに尺八を加える特別エディションとなりました。尺八は作品冒頭に奏でられ、その音色にあわせて4人の演奏者が能楽師のように登場します。この演出を西澤がどういう気持ちでおこなったかはわかりませんが、少なくとも私には喜劇的なものに思われました。ふざけているわけではありません。西澤の作品は全体的に、爽やかで明るい響きに満ち、小沼丹の私小説のような独特の雰囲気をもっています。この催しの司会を誠実に務めた連弾ネット監事の松永晴紀氏は、『ラ・ヴァルス』から喚起される暗い思い出(この作品を弾いた10年前の演奏会の直後、同ネットの前身となるウェブ・サイトを立ち上げたピアニストが亡くなったのだという)を埋めてくれるものだと言っていましたが、その形容は作品を聴くとシックリ来ました。

西澤氏はもともとは、前衛的な作風を突っ張っていたそうですが、やがて、そうしたものの矛盾に悩み、現在のように、人々が作品から確固とした手ごたえを感じられるようなモノの創造へと大きく舵を取ったと聞いています。ピアノ作品ではやや冗長になりがちな点を除けば、独創的で力づよい音楽性をもっており、ほかの誰にも似ていない音楽を書くことができています。旋律には頼っていませんし、頑強な構造がありますが、それはあくまで背景をつくっているにすぎません。彼の音楽の本体は、ポエジーなのです。西澤健一は、俳句や和歌のような定型詩をつくっているといっても過言ではないですが、ウェーベルンのような凝縮はこころよしとせず、キレのいい短編小説のような味わいを感じさせます。それは個展において、横光利一の短編をモティーフに、彼が見事な作品を書いたのを聴いているせいなのでしょうか?

この作品のモティーフに含まれるのは、私が昨年の仙台旅行で若林区荒浜の海辺を訪れ、慰霊塔の上から眺めた誰もいない広い砂浜と、青い海がつくる風景とソックリなものでした。巨大津波が襲ったということを別にすれば、あまりにも美しく、広々とした眺めに、私は思わず涙を溜めたものです。海によっていのちを奪われながらも、この地区の人たちはそれでも、ふかく海を愛しているのです。そのことが、胸に響いてきたからです。喜劇なのか、悲劇なのか。私は、最初からそのことばかりに注目して聴いていたような気がします。そして、あと何小節かでおわりそうだというところになって、客席後方から再び尺八が登場しました。

立花茂生の吹く尺八の音色は西洋のフルートのように涼やかで、かつてLFJの講演で、作曲家の細川俊夫氏が自分の原点であるとして聴かせたものとは印象が異なります。その透明な響きが、それまでの喜劇性を一気に吹き飛ばしてしまいます。こころが重くなり、先程まで会場を包んでいた微笑みが嘘のように消えてしまうのを感じました。ただ、立花は舞台上のアンサンブルと絡むことはなく、そのまま通行人のように去っていきます。おずおずと演奏は再開され、しかし、ここからの残す何小節かで作品は再び喜劇性を取り戻していきます。ここに、西澤の本領が発揮されました。

作品は基本的に底堅く、どのように弾いても、西澤らしい個性がきっちり浮かび上がるようにできています。先に述べたように、西澤の作品は緻密で頑強な骨組みをもっているからです。和歌をつくるとき、五七五七七の決まりは誰も変えることができないように、演奏によって、本質的に西澤の作品を別のものに作り変えることはできませんが、西澤の作品には、その決まりごとにほかの人にはない微妙な特徴があり、それがこの作品では重要なモティーフにすらなっています。フォルムによって演奏者を作曲家が縛るような弊を演じたいわけではなく、むしろ、そのことによって、演奏者の全体を受け止めるような作品を書きたいと望んだのでしょう。実際、ZOFO は前段のようなピアニズムを貫き通していましたし、T&M も十分に羽を伸ばして演奏することができました。しかし、最後は4人がユニゾンを弾いておわります。確かに、これは喜劇的な特徴です。

【その他のデュオについて】

ほかのデュオについて、少しずつ触れていきたいと思います。必ずしも良い感想ばかりではありませんが、思ったままを包み隠さずに申し述べます。

ラヴェルの『ラ・ヴァルス』を2台ピアノで弾いたのはピアノデュオ 中井恒人&武田美和子でした。瀬尾久仁&加藤真一郎ペアと同じくキャリア15年を誇り、ハキハキした骨太の音楽づくりで客席を楽しませました。しかし、松永氏同様、この作品には私も独自の特別な体験をもっています。新潟中越地震の起こったその時間、私はこの曲を小川典子と田部京子のデュオによる演奏で聴いていたのです。実際に揺れを感じながら、沈みいくタイタニックの上で音楽を聴く絶望的な船客のように、だらだらつづく震動と、それに引けをとらない音楽のもつ旋回運動のなかで聴いた音楽は、あまりにも戦慄に私の身体のなかに叩き込まれてしまいました。中井&武田の演奏は、それと比べると、いささか直線的なものです。しかし、この上もなく誠実に、音楽と真正面から向き合うデュオの姿にはある程度の共感を感じないはずがありません。

白水芳枝と藤井隆史によるピアノデュオ ドゥオールは、その魅力のほとんどが白水の弾くゆたかな音楽のポエジーによって支えられています。無論、藤井に才能がないと言っているわけではなく、非常に手堅いテクニックをもってパートナーを丁重に支えているわけですが、逆にリードするほどの胆力までは感じません。例えば弦楽四重奏でいうと、セカンド・ヴァイオリンが鍵を握っているようなアンサンブルが私は好きです。ピアノ・デュオにおいて、その役割を担うのは藤井のようなポジションの人だから、彼が唯々諾々とパートナーに寄り添っている姿は無難ですが、物足りなく感じるのです。リストの『悲愴協奏曲』は独特な雰囲気をもった作品ですが、率直にいうと、彼らの演奏から特別なインスピレイションを得ることはありませんでした。2人の技量が作品に相応しくないはずはありませんが、特にリストの弟子だった、のちの大指揮者=ハンス・フォン・ビューローが付け足した40小節というのがかなり冗長な印象をもたらしたこともあります。

このドゥオールと、AMUSiqueという2つのアンサンブルは、それぞれ社交ダンスのような派手な衣装を着ており、イロモノ的な雰囲気も漂わせています。ただ、ドゥオールのほうがいくらか真摯に作品と向き合っていて、技量も安定しているように聴こえました。AMUSique はローゼンブラットのジャズ風のヴァリュエーションを弾いて娯楽性に傾いたパフォーマンスを見せました。衣装も華やかにして、気を惹きやすい作品に特化し、これを味わい深く演奏するという個性を培っていることは十分に理解できます。アンコール的に演奏したのは、坂本龍一風の脱力によって演出された久石譲の『魔女の宅急便』のテーマ曲でした。現在、実写映画化で話題になっていますので、目敏いというほかありませんが、世のなかで起こっていることに即応して、聴き手の関心を上手に満たしていくということも、それはそれで重要なことなのかもしれません。

斉藤デュオは端正に整って、2人のシンクロ度の高さで勝負しています。その芸風ではラフマニノフの深い表現性をカヴァーするのは至難の業ですが、いま、調べてみるとオクタヴィア系のレーベルで録音もあり、よく喰らいついていたと思います。NMLのリストをみると、ゴリデンヴェイゼル&ギンズブルクという夢のコンビによる録音もありますが、これを基準にすれば、やはり、ラフマニノフはそれほど緻密な同調性を求めてはいないように聴こえます。むしろ、この曲で試されているのは、2人がどこまで離れていけるかということです。歴史的録音と比べても仕方ありませんが、このデュオの取り柄である深い密着性はある種の音楽においてしか、上手に適用できないだろうと思います。

デュオにも一長一短がありますが、それぞれのもつ個性をよく生かしながら、現に各々の活動領域を切り開いていることは尊重しなくてはなりません。すべての人が、私と同じように音楽を受け取るとは限らないし、そもそも連弾の音楽の成り立ちが家族や親しいもの同士が肩を並べて、サロンなどでゲストを楽しませるために演奏する「おもてなし」の一環として発展してきたわけですから、そうした方向にも十分なポテンシャルがあるわけです。

【まとめ】

とにかく、この形態には使い尽くされてはいない、成長力のある可能性がたくさん秘められているのは確かです。西澤が最後の曲で、ピアノ・デュオに尺八を組み合わせてみたのは、その一端を示すにすぎません。2台ピアノ&合唱とか、そういうのは珍しくもないですが、柔軟性と凝縮性を併せもつピアノ・デュオは、同時に幅広く俊敏なアジリティをもち、室内楽として発展性の高い領域をまだ残しているといえます。尺八というのは、そのあまりにも極端な例であり、思わず笑いを誘うものではありますが、西澤のメッセージは私のなかに強く響きました。

しかし、そもそも、そのような可能性を育てるのはピアニストたちと我々、聴き手の両方の課題になってきます。私のような聴き手の努力としては、2台ピアノや連弾の音楽に対する関心を深め、彼らの活動を多少なりとも支えていくということが大事になると思います。

私の場合、この分野の音楽が十分に魅力的なものだと気づいたのは、今月24日に一時帰国リサイタルを控える濱倫子と、ルーベン・メリクセティアンによるデュオを聴いたとき。ラ・フォル・ジュルネにおける故ブリジット・エンゲラーとボリス・ベレゾフスキーによるパフォーマンスに接したとき。そして、今回も出演した瀬尾久仁&加藤真一郎ピアノデュオによる演奏を聴いたことがきっかけです。多くの人たちによって、連弾やピアノ・デュオの音楽はほとんど価値のないものとして認識されており、それゆえに愛好家の関心の外に置かれがちです。最近はラベック姉妹のように派手な活躍をする人も出てきたことは確かで、ZOFO もグラミー賞候補に挙がるわけですから、欧米ではそのポテンシャルが徐々に活用されてきているのでしょうが、日本ではまだ遅れが激しいと言えます。

NPO登録されている連弾ネットでは楽譜の普及を中心に、デュオの活動を広げるための様々な活動をしているようで、自分自身はピアノが弾けるわけでもありませんが、「アリスの音楽館」はその活動を陰ながら支持したいと思います。デュオへの関心を育てるためにはまず、連弾ネットのホームページのなかで、「メディア・コレクション」のところで紹介されている動画をみるだけでも、大分、楽しんで頂けると思います。日本ではピアノ教育はきわめて盛んであり、そこから生まれた能力あるピアニストの卵のうち、ほんの一握りだけがプロフェッショナルな活動を展開しているのにすぎません。逆にいえば、社会のなかで有効に使われていないリソースも多く、それらは優秀なピアノ・デュオを輩出する豊富なシード(種)としても見られるのです。現に、「メディア・コレクション」に紹介されている人たちはほぼ例外なく、一般的にあまり広く知られているとはいえない人たちですが、その演奏レヴェルはきわめて高いものになっています。

今回、このような大規模な公演を張るのは大変なことだったと思いますし、意義ぶかく、なにより楽しいイベントだったことを喜ぶとともに、関係者の努力に敬意を払いたいと思います。東京公演ではコンペティションのときのような客席の状況で、各デュオの関係者や知り合いが入れ替わり、立ち代わりする感じでしたが、最後まで残ったオーディエンスのうち、多分、半数ちかくは仙台からのお客様でした。彼らには残り半数のオーディエンスと、舞台上から、盛大に歓迎の拍手が送られました。この方たちに楽しんでいただけたのなら、イベントは成功であろうと思います。

最後は変わった趣向で、ピアノも得意な西澤と、尺八の立花が組み、被災地の復興を願って寄せられた作品を演奏して、オーディエンスを送り出しました。しかし、最後まで待っていた一部の人たちはかえって、彼らのサーヴィスに感謝して拍手を送り、舞台上からはようやく誰もいなくなったのです。15時に始まったコンサートが、19時すぎになっていたと思います。

【プログラム】 2014年5月4日

1、スメタナ/連弾ネット編 ヴルダヴァ~交響詩『わが祖国』
 (pf:ピアノデュオ ベルゼール)
2、ローゼンブラット 2つのロシアの主題によるコンチェルティーノ
 (pf:AMUSique)
3、ラフマニノフ 6つの小品 op.11 より
 (pf:斉藤デュオ)
4、リスト 悲愴交響曲
 (pf:ピアノデュオ ドゥオ-ル)
5、ストラヴィンスキー/野本由紀夫 ペトルーシュカからの3楽章(2台版)
 (pf:瀬尾久仁&加藤真一郎ピアノデュオ)
6、ラヴェル ラ・ヴァルス(2台版)
 (pf:中井恒仁&武田美和子)
7、T.ライリー:5月5日
8、ストラヴィンスキー バレエ音楽『春の祭典』(連弾版)
 (以上、pf:ZOFO duet)
9、西澤健一  夏の前奏曲
 (pf:ZOFO duet,Duo T&M 尺八:立花 茂生)

 於:東京オペラシティ(リサイタルホール)

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コメント

アリス様

このたびは「ピアノ・デュオ 春の祭典2014」東京公演にお出でいただき、誠にありがとうございました。また嬉しくそして励まされるブログ記事に、改めて勇気づけられました。心より感謝申し上げます。勝手ながら、公式サイトで紹介させていただきました。これからもデュオの魅力を真摯に追求し、志を同じくする仲間とともにできる限りの前進を続けてまいります。今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。

豊岡さん、素晴らしい公演をありがとうございます。いつものように好き勝手なことを書いていますが、ご寛恕くださるこころの広さに感動します。非常に幅広い世代、多様な活動スタイルをもった可能性あるデュオにたくさん出会えたことは、私としても大きな喜びです。これに触発され、ピアノ連弾音楽、2台ピアノ作品に対する何らかのシリーズ的な記事をつくりたいと考えておりますが、なにぶん余裕のない職業ゆえ、実現はいつになるかわかりません。貴会のますますのご発展と、このジャンルの音楽が根本的に見直されてくる日が来ることを願って止みません。また、仙台との提携は素晴らしい発想だったと思います。一向に復興の進まない現状のなかで、両会がより一層の深い友情を育まれていけますように、かげながら応援しております。

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