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2014年5月23日 (金)

アルベルト・ゼッダ マリピエロ 交響曲第2番/ロッシーニ 『セミラーミデ』序曲 ほか オーチャード定期 5/18

【ゼッダと日本】

アルベルト・ゼッダと日本との交流が始まったのは、2005年の藤原歌劇団『ラ・チェネレントラ』の公演が初めのようだが、その後、欧米では1960-70年代以降、断続的に成し遂げられてきたロッシーニ・ルネッサンスの風を日本にも吹かせることに、ゼッダ翁は成功した。ほとんど『セビリャの理髪師』ぐらいしか上演がなく、その価値も長く軽視されてきた日本で、ゼッダは驚くべき知見を発揮して、それまでの常識をガラリと変えてしまったのである。つまり、ロッシーニはヴェルディを大分、先取りしていたし、イタリア音楽の以後100年以上をゆうに支配できる実力をもった作曲家だったということだ。『ランスへの旅』『マオメットⅡ』のような、これまでロッシーニ的とは見做されてこなかった作品をしっかり上演し、最新の研究成果を踏まえて、十二分に価値あるものとして紹介したことで、そうしたことも明らかになってきた。当初は指揮者というよりはアカデミシャンとして見られたが、公演を経てみれば、指揮者としても傑出して優秀なのは明らかだった。彼の手腕は、日本のロッシーニ演奏のベースを計り知れないほど押し上げてくれたが、それを支えるオーケストラといえば、ROF(ペーザロのロッシーニ・オペラ・フェスティヴァル)日本公演のときを除けば、大抵は東京フィルだったものである。

その分厚い関係から、ゼッダは東京フィルの定期公演にも出演するようになり、2010年の演奏会形式による『ギョーム・テル』ハイライト公演などは語り草になっている。そのゼッダが昨年は、本国のROFの公演中に急病でダウン、東京フィルにも呼ばれていたが、その公演に出ることはかなわなかった。メンデルスゾーンを中心とする興味ぶかいプログラムだっただけに、日本のファンは落胆したし、高齢ゆえに心配もされたが、幸い、健康は回復して精力的な活動をつづけているとのことで、今回の来日公演を迎えることもできた。今回はロッシーニを柱に据えながらも、シューベルトやマリピエロの交響曲と組み合わせ、多彩なガラ的公演となっている。しかし、その内容は濃い。

【なんか悲しい・・・と向き合った傑作】

まず、ゼッダが「傑作」と惚れ込むマリピエロの交響曲第2番から触れたい。ジャン・フランチェスコ・マリピエロは1882年にヴェネツィアで生まれて、1973年まで長生きした。ストラヴィンスキーと同じ年の生まれである。富裕な生まれではなく、親の理解もなかったので、一端の音楽家となるには苦労した。しかし、若いころ、石にかじりつくように自力でガスコアを研究した経験は後に、モンテヴェルディやヴィヴァルディの校訂で名前を残すきかっけとなった。日本ではほとんど知られていないが、非常な多作家であり、交響曲だけで11曲を数え、歌劇も数多く手がけている。ブルーノ・マデルナの師であり、この弟子の活躍によって、イタリア音楽のモダーニズムは急速に進展するが、作品を聴く限りでは、マリピエロの作風自体はごく穏やかなものである。

NAXOSの録音で、アントニオ・デ・アルメイダという指揮者が交響曲全曲をコンプリートしているが、その録音と比べ、ゼッダの示す舌鋒はさすがに鋭い。いま、思い出すとシェーンベルクの初期のころの味わいもあったかと思う。しかし、リアルタイムで私が感じたのは、容赦ない独特の作風だ。

イタリア・オペラとドイツ・オペラのちがいとして、私がもっとも大きいと思うのは、イタリア・オペラが一時の感情を大げさに表現するのに比べて、ドイツ・オペラはそうしたものを相対化し、より客観的で、応用範囲の広い哲学に結びつけていくということである。人々の喜びや悲しみを、イタリア・オペラは真正面から引き受ける。ワグネリアンからみれば、そのようなところに軽佻浮薄な印象があり、まともに見ることができないのである。だが、人間の感情とは、そんな簡単に見きわめることができるようなものなのであろうか。マリピエロの交響曲第2番「悲歌」は、そんなところに焦点を絞った作品のように思われる。時代や物語といった背景をもたないなかで、ある日、偶然に感じられる「なんか悲しい」という感情に、マリピエロは音楽の歴史上、はじめて挑戦したのではないかと私は思うのだ。

【マリピエロの思い描く楽器の性格】

作風自体も、際立って個性的な特徴を示している。例えば、コントラバスの動きをみていると、その面白さに気づくことができる。普通は「弦楽五部」と言って、ストリングスはなんとなく役割を分けながらも、グループで用いられることが多い。コントラバスは、ヴィオラやチェロと一緒に「低音弦」ともいわれ、作品の旋律や和声の美を土台から支える役割をもつパートとしてグルーピングされる。ところが、この作品を聴いていると、コントラバスの響きを入れることにはきわめて慎重で、いま書いてきたような当たり前の組み合わせが、マリピエロにとっては我慢ならないものであることが明らかなのだ。コントラバスはむしろ、ホルンやティンパニなどと同種の扱いをされて、あらゆる楽器のなかで特別な響きをもつもののひとつとして分類され、ここぞというところで重みを加える場合以外には、極力、用いないようにしているのである。これに象徴されるように、マリピエロの頭のなかでは、ひとつひとつの楽器のもつ響きに明確な性格がイメージされており、いま、書いている部分にそれが合わないなら、躊躇なく外していくという面白さがあった。

反対に、第2楽章のヴィオラのように、思い描くイメージにピッタリあう響きがあれば、これでもかというほどに重用する。だから、マリピエロの作品を研究するにはまず、ひとつひとつの楽器に彼がどのようなイメージをもち、どのような役割を期待しているのかということによく注意する必要があるだろう。

【イタリア+ウィーン=フランス】

ゼッダのプログラミングで面白いのは、このマリピエロ以外の作品では大抵、ダンサブルな特徴をもった作品を選び、これをオペラ以上にイタリア的なものとイメージさせていることだ。演奏会の最初にシューベルトの交響曲第3番が置かれたのは、その点で示唆的なことである。独墺系音楽のように構造の重みが価値をもつ世界のなかにあっても、活力に満ちた舞踊的な特徴はイタリア的な要素に結びつきやすい。この作品では息の長い上昇的なフレーズなどの特徴もあわせて、ロッシーニを中心とするイタリア的な影響が濃厚なのは議論の余地なく明らかである。ただ、イタリアとウィーンを足すと、フランスが生成する。ゼッダの奏でるシューベルトの音楽を聴いていると、イタリア・バロックというよりは、リュリのような優雅さが勝っているように思えてならないが、この場合、浮かび上がるフランスとは「何でもあり」「無限の可能性」を示している。

フランスは敬虔で、力づよく、挑戦的で、そして、なによりも美しい文化をもっている。この特徴がジョヴァンナ・ダルコ、つまり、ジャンヌ・ダルクに象徴されるのは面白いところだ。ロッシーニのカンタータ、原曲は鍵盤伴奏による歌曲を、ゼッダの管掌するROFのアニヴァーサリー企画で管弦楽版に編曲したのは、1990年の音楽祭10周年を祝うプロジェクトでのこと。編曲者は「スペクトル楽派」の巨魁として有名なサルヴァトーレ・シャッリーノだが、プッチーニの『トゥーランドット』を補筆したルチアーノ・ベリオとは異なり、シャッリーノは生前のロッシーニと架空の対話を開いて、その当時、あり得た響きというのを前提に仕事を進めたようだ。結局、シャッリーノの仕事は、彼の母国のオペラ作品に対する豊富な教養を物語るものになっていく。ロッシーニは明らかに、ヴェルディの手本であって、その後の数百年を支配したのである。

歌い手のメゾ・ソプラノはまだ20代中盤のテレーザ・イェルヴォリーノという若手で、見た目の横幅以上に大きなスケールを感じさせる。だが、序盤はアジリタも巧みなら、言葉の発音も奇跡的に美しく聴こえて、さらに、ここぞというところでのスピントが強烈なのに驚かされたが、作品が進むにしたがって、その驚きを越えるものがなかったのは課題となってくるだろう。作品自体はジョヴァンナのいう ’mia madre’ はいつでも聖母マリアに擬することができるし、彼女自身はイエス・キリストになぞらえることができる。簡単なトリックを使っての、敬虔なロッシーニの仕掛けた巧妙な遊びの一種として見られるだろう。しかし、作品は3つの声を同時に併せもっている。すなわち、ジョヴァンナ自身と母親、それに民衆の声だ。この要素が、作品に立体的な振幅をもたらす役割を果たしている。

ジョヴァンナと同じように、フランスをイメージさせる作品として、歌劇『ギョーム・テル』がある。本来の題名の読み方からもわかるように、ロッシーニはフランス語で、この作品をパリに上陸させた。

ところで、オルレアンの乙女が犠牲を捧げた主君、シャルルⅦはフランス史上、まれに見る狡猾で頭のきれる王であった。もとは戴冠すらままならないような力しかもたなかったのが、ジャンヌのカリスマ性を利用して身を立て、不要になれば、彼女はブリテン島に売り渡し、文化、経済、軍事力のどれでも、王を凌ぐ実力を誇ったブルゴーニュ公から富と権力を奪っては、プランタジュネ朝と対等以上に勝負ができる王家の実力を急速に整えて、英国に奪われた領土を回復し、100年戦争をついに終結させたのである。イタリアはしばしば、このフランスから勢力を招き入れて痛い目をみたが、キャリア後期のロッシーニにとってはフランスは避けて通れない巨大市場であった。作品をパリで上演するだけでなく、フランス語の作品を書いたことがその本気度を示しているだろう。結果的に、フランスの大きさは、精神までも狭小な当時のイタリア都市国家よりもロッシーニの価値に深く報いたという側面がある。

今回のプログラムは、そのようなフランスへのオマージュも含まれている。『ギョーム・テル』に含まれる皮肉な意図については、オペラの抜粋公演についての過去の記事を参照して頂くことにして、今回は「パ・ド・シス」「兵士の踊り」というところだけが抜き出されていることもあり、政治的な風刺性についてはさほど強調されていない。例えば、後者は作品のなかで悪役を務めるハプスブルク側の総督ゲスレルの命によって踊られるものだが、踊りの音楽自体に皮肉な意図は少なく、その意味はいったん脇に置かれている。

【のんびりした舞曲の響きで】

このコンサートでは、数々の舞曲が多彩に奏でられたが、その多くは舞曲のスタイルに関わらず、穏やかなものである。このコンサートに登場する作曲家は、ほぼすべてがエリート階層の出身ではない。シューベルトはウィーン近郊で生まれ、ウィーン圏内から生涯、一歩も出なかったというが、実は、出自がモラヴィア系の農夫の「家系」であったことはよく知られており、田舎くさい舞踊音楽ではドヴォルザークの先駆けのような響きも示している。マリピエロはヴェネツィアの生まれだが、19世紀後半には既に往時の繁栄はなく、彼もまた貧しい家庭に育った。ろくな教育も受けないで、手ずからスコアに当たって知見を深めたのだ。ロッシーニは音楽祭のおこなわれるペーザロの出身で、いまでは美しい砂浜が有名な避暑地として知られているが、要するに都会ではないということだろう。両親は音楽の素養があったが、田舎の楽士というにすぎず、ほかに生業をもっていた。ジョアキーノ自身はティーンネイジで最初のオペラを発表する天才型だが、スタート地点はそう恵まれていなかったのである。彼らのつくる音楽は、そのキャリアや、勉強のなかで十分に優雅なスタイルを取り込んだとしても、大衆的で、牧歌的な雰囲気を自然と備え、民俗的な味わいをたっぷりと含んでいる。ゼッダは慌てず騒がず、この雰囲気を大事にして演奏した。

特に、彼の音楽の本質を示すのは、この演奏会における管楽器の響きだろう。私はこれまで、何度か、オーケストラのリハーサルを目にする機会があったが、そこで指揮者たちが中心的に手をかけたのは、ほぼ例外なく弦のほうであった。弦、特に第1ヴァイオリンの動きがどうなるかで、指揮者の望むフォルムが得られるかどうかの半ば以上は決まってしまう。その点で、この日のシューベルトの演奏など、ウィーン古典派の分野で、スダーンやブリュッヘン、ハーディングなどによって計画的に鍛えられてきた東響や新日本フィルのつくるフォルムとは比べものにならないほど、フヤフヤなスタイルであることは事実であった。だが、作品から流れてくる舞踊的な動きの傑出した機動力としなやかさ、そして、管楽器の響きのぼうとまあるく、柔らかなことといったらどうだろう!

この点、当日の東京フィルにかなうオーケストラは少なくとも、日本に存在するとは思えない。

以上のような事実からみて、ゼッダは縦線でフォルムを区切っていくような練習法、それも、弦への指導に合わせて、管楽器が工夫して自分のパフォーマンスを合わせていくような形をとらず、ひとつひとつのフレーズで管楽器の出すクオリティに徹底的にこだわっていくような、そういう指導を徹底したことが窺われるのである。このスタイルが特に後半は、非常によく決まった印象をもつ。素人目からみた戯言だが、前半の曲目は弦が5プルトあれば、そのうちの2-3プルトだけが聴き手に意味のある響きを奏でていた。コントラバスは、黒木岩寿ひとりが百人力で奏でているようにみえた。だが、後半の演目ではそうはいかない。そこで大事となる要素を生かすために必要なのは音楽の呼吸、つまり、緩急の妙である。そして、それはアンサンブルのなかでつくられるからだ。例えば、『ギョーム・テル』の舞曲を演奏する場合、ゼッダはそれほど細かくは振っていない。自分の棒にあわせるのではなく、アンサンブルでやれというメッセージがここに表れていて、その意識がなければ、全体が踊っているような音楽など生まれ得ないのである。

一方で、ここぞという起点には全体で一斉に入り、そこからロッシーニらしい長大な構造が丁寧に形作られていく。ポイントごとに、親指を押し当てるような窪みが感じられ、それを踏みしめるようにして舞い上がる呼吸は、プログラムを重ねて追求してきた舞踊の要素と関係がある。面白いことに、ロッシーニの演奏は一歩一歩、足し算で積み上げていくよりほかにない音楽で、全体の深い連動と粘りづよいアクションが求められるが、これらの点において、東京フィルの演奏はどこに出しても恥ずかしくない・・・否、誇らしい出来に達している。ロッシーニの音楽はしばしば「シャンパンの泡」に譬えられ、今度の演奏ではその形容がギリギリ当たっているとはいえ、ゼッダの解釈ではその泡のひとつひとつにもうすこしの重みが感じられることが重要となりそうだ。オーケストラはその課題を見事にクリアして、上の要素に加え、活き活きとした弾力性を響かせることにも成功した。

【東京フィル独自の演奏】

後半の4曲は、『ギョーム・テル』からの2曲だけに限らず、全体を通しで演奏しても面白いぐらいの内容だった。まず、まったく異質で、イタリア音楽の幅を広げるマリピエロで前半のイメージをまっさらにし、ロッシーニ2曲で再びシステムを起動。抜粋上演など、これまでの積み重ねもあって馴染みのところがある分、見事なロッシーニ・クレッシェンドもまだ「途中」の印象を残す余裕のこし。それはしかし、『セミラーミデ』序曲でいっせいに花開くようにするための周到な罠!

参考までに書くが、歌劇『セミラーミデ』は古代アッシリアを舞台とするオペラ・セリアであり、子が闇くもに剣を振るって、既に和解したはずの罪ぶかい母親を討ってしまうのがクライマックスの悲劇になっている。これは誰が味方で、誰が敵かもわからずに、外国勢力を含め、互いに争っている当時のイタリアの状況を象徴しているのだろう。父親の主義を受け継いでいることも計算に入れるなら、ロッシーニ自身はフランスに傾倒していたかもしれない。その場合、最大の仇敵はハプスブルク=ドイツ帝国となるが、その旗幟は最後のオペラで、スイスがハプスブルク家支配から独立する嚆矢となった『ギョーム・テル』の話を取り上げることで、いよいよ鮮明となっている。

ゼッダの録音では特殊な音色が古い時代をものの見事に語り、イタリア・バロックを中心に、一家言あるピリオド研究の成果を物語っているが、この要素は東京フィルにおける演奏では、それほど強く追求するものではなかった。その分、親子の不幸なねじれや、権力や愛情にまつわる怨念が渦巻くような音楽が深い声で奏でられる点は厳しく求められたといえる。これは必ずしも妥協ではなく、東京フィルのもつ表現を徹底的に突き詰めたときに、当然、浮かび上がるような発想であったのだろう。この幅の中にこそ、東京フィルとゼッダの深い信頼関係が窺われるのである。彼らの対話は、互いに建設的な提案力に基づいており、ゼッダはその分野における権威と呼ばれる人であるにもかかわらず、多分、多くの提案を是として表現に組み込んでくれた。脇からみていて、そんな良い瞬間が輝いたときには、ゼッダの横顔に浮かぶ笑みが音楽以上に多くのものを物語っていたかもしれない。

ツィッターで「ゼッダ」のキーワードでみてみると、多くの団員がゼッダとの音楽を誇らしげに、楽しく、そして、名残惜しそうに振り返っているのがわかる。リップ・サ-ヴィスもあるとはいえ、ある団員はゼッダの楽屋を訪れ、「東フィルはロッシーニの演奏させたら、どこの国のオーケストラよりも、イタリアのオーケストラよりも(‼︎)素晴らしい!」という趣旨のことを言われたという。このことは決して、お世辞ばかりではないと思う。世界のなかでもっとも素直で、透明で、輝きに満ちたロッシーニをいま、東京フィルが奏でるのだ。エリシュカ&札響と同じくらい、この組み合わせには価値があるといっても過言ではない。2人に共通するのは、非常に高齢であることだ。だから、彼らが来てくれるうちは、なるべく逃さずに聴いておきたい。そして、その演奏を決して忘れないでいようと思う。

グラン・マエストロ!グラッツィエ!

素晴らしい内容だった。

【プログラム】 2014年5月18日

1、シューベルト 交響曲第3番
2、ロッシーニ/シャッリーノ カンタータ『ジョヴァンナ・ダルコ』
 (Ms:テレーザ・イェルヴォリーノ)
3、マリピエロ 交響曲第2番「悲歌」
4、ロッシーニ パ・ド・シス/兵士の踊り~歌劇『ギョーム・テル』
5、ロッシーニ 歌劇『セミラーミデ』序曲

 コンサートマスター:青木 高志

 於:オーチャードホール

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