2017年10月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        
無料ブログはココログ

« アルベルト・ゼッダ マリピエロ 交響曲第2番/ロッシーニ 『セミラーミデ』序曲 ほか オーチャード定期 5/18 | トップページ | 新国立劇場 リヒャルト・シュトラウス 歌劇『アラベッラ』 P.アルロー演出 2日目 5/25 »

2014年5月28日 (水)

濱倫子 リスト ピアノ・ソナタ ロ短調 ほか @浜離宮朝日ホール 5/24

【アンサンブル・ピアニストの資質】

ウィットに富み、含蓄があり、優しく、リラックスできる演奏会だった。2年ぶりとなる濱倫子のピアノ・リサイタルのことだが、これまで(アンサンブルではなく)ひとり(独奏)になると、音楽の緊張度が増して、すこしだけ神経質になるきらいがあった。それが今回、アンサンブルのときと同じクオリティで演奏ができたというのは、まさか、お腹にいるという子どものせいではないであろう。演奏会の冒頭、濱はお腹がふくらんできたことを報告し、いま、妊娠していることを告げたのだ。そんな状態で、演奏がどうなるのか、男性であり、もちろん、妊娠の経験もなければ、ピアノも弾けない私にはわからないが、まだ演奏の邪魔になるほど太ってきてもいなければ、視野が狭窄するレヴェルでもなかったのは確かだろう。彼女は、見つけたのかもしれない。自分のピアニズムの本質が、一体、どこに置かれるべきなのか?

濱倫子は、アンサンブル・ピアニストである。このように書くと、彼女の可能性がそこに限定されてしまうような印象を受け、なんだか、ソロ中心の弾き手よりも劣っているように私が言っているのではないか、と誤解する人もあるかもしれない。だが、しばしば書いているように、私はアンサンブル・ピアニストや、やや役割はちがうけれども、「コレペティ(トゥール)」と呼ばれる人たちに対して抱く敬意が高い。例えば、アンサンブル・ピアニストの最高峰に位置するメナヘム・プレスラーは、私の尊敬する音楽の英雄たちのなかでも、常に筆頭のほうに属している存在だ。彼らが演奏することで、作品はまた別の表情を示す。この日の演奏もまた、同じだった。

【指1本の重みで】

一緒くたに語ることはできないが、総じてアンサンブル・ピアニストに求められる資質として、鍵盤のどの音域でも響きが均一で、強すぎず、弱すぎず、指1本の重みだけで表現に十分な呼吸をつけられるという要素は必須であると思われる。濱は当然のように、その能力をもっている。2曲目のベートーベンのソナタ第31番は先日、1つ前の30番と32番をアンドラーシュ・シフの演奏で聴いたばかり。このべたべたした甘ったるい打鍵はなんだろうかと、はじめは不満を覚えたのだが、よくよく聴いてみると、いま申し上げたような特徴そのままの響きなのである。これはまた、別の感覚で聴くべき音楽だというのは明らかなことだった。

それは、メインに据えられたリストのロ短調ソナタでも同じことである。後半が1曲となったことで、ある程度、彼女の演奏が遅いテンポで奏でられることは想像がついた。もちろん、それはアファナシエフのように、異常な感じのものではないとしても、ゆったりと自然な速さで奏でられる音楽はなるほど「ソナタ」らしいものである。風格があるというよりは、慶派の職人が木を彫ると、当たり前のように仏像が浮かぶという、そんな感覚がしたのだ。西原稔氏の著書によれば、クラシック音楽がもっとも広範に愛されたと思われる19世紀において、ソナタは不人気な分野であった。それはロンドーとか、ノクターン、ファンタジーといったような曲目に比べると、後付けの論理でつくられたものであり、高度に加工されてはいるが、あまりにも、あまりにも人工的なものとして見られたのであろう。これはフランスであろうが、英国であろうが、はたまたドイツ/ウィーンであろうが、ほとんど変わりのない傾向だったという。

だが、濱はそうした硬直的な歴史的見解に疑問を呈したのだ・・・というのが言いすぎなら、ソナタにも、ものによっては人間らしい物語があり、ピアニストが愛おしく弾くことのできるような作品があることを、是非とも示したかったのにちがいない。実際、この演奏会は、「ソナタという物語」と副題されている。ピアニスト直筆の充実したプログラム解説がある以上、私はその意図をくどくどと語っていくことには、ある種のトートロジー(同じことを表現をかえて繰り返すこと)を感じるが、濱はそれぞれの作品に秘められたメッセージ、作曲家たちが作品を通じて語りかけてくるこころの叫びに耳を傾け、実に知的な文章を書いていることはココでも報告しておきたい。

そのなかでも、スクリャービンは彼女の恩師のひとり、アナトール・ウゴルスキと親交があった作曲家で、彼を通じて伝えられ、ここでまた聴き手にも伝えられた秘密のひとつは、実に興味ぶかいものだった。ソナタ4番に寄せられたスクリャービン自身の詩の文句と、散歩をするときは飛び跳ねるように歩き、そのまま速度が上がれば跳べもしようし、そんなことが起こるといいなと本気で願ったという逸話を組み合わせて、次のように書いている。「最後になだれ込むかのように突入するコーダでは、1楽章冒頭の主題が高らかに歌い上げられます。(中略)遠くの星が太陽となり、彼自身が光と化した瞬間がここにあります」。また、スクリャービンが第2楽章のプレスティッシモについて、学生たちに指導していたという言葉も引用されている。「可能な限り早くとばすのだ。光の速さで太陽に向かって」。これらの言葉を、濱は見事に体現した。それもただ、飛ばすだけではない。同時に、太陽をめざすためのエネルギーがどこに生じるかをしっかり表現しているのだ。それが、指1本の重みなのである。

【ある食いちがいについて】

ベートーベンに戻れば、シフと比べて、彼女の打鍵はじめじめして重く、ベートーベン晩年のからっとした作風にはあまりあわなかったという感想が正直なところだ。梅雨どきの空気で、5月の爽やかさを包むことはできまい。だが、そこには彼女らしいひとつの真実が隠れてもいる。特に第3楽章の演奏からは鋭いインスピレイションも得た。この楽章を構造的にざっくりいうと、「嘆きの歌」と「フーガ」が交互に来ているのだが、その第1シーケンスと第2シーケンスの鏡のような構造を、濱はものの見事に捉えた。だが、いまプログラムを読み返してみると、彼女は第1のシーケンスに希望や明るさがあり、第2シーケンスではそれが打ち砕かれ、すすり泣いているような感じだとしている。これは当たり前の見解だろう。しかし実際に、濱の演奏から私が感じたのはこれと正反対のことだった。あとのシーケンスで例の重みが抜けて、濱がこれ以上ないというほど優しい響きを奏でたのがあまりにも印象的だったのである!

その謎について、私は十分に説明がつかないでいる。しかし、この優しさこそが、今回の演奏会を語るためのキーワードだということはハッキリしている。それはまず、最初のハイドンの冒頭の打鍵で染み入るように私を捉えたものだった。彼女のハイドンは、絶品だ。近年、ハイドンの鍵盤作品をピアノ(チェンバロやフォルテピアノではなく)で弾いたものでも、じっくり楽しめるような優れた録音は増えてきた。多くのピアニストは、かつてのD.スカルラッティのような位置づけで、ハイドンに愛情を感じるようになってきたらしい。しかし、濱の場合は、スクリャービンとハイドンで、特に彼女らしい演奏が聴かれる。いま書いていることのほとんどは、彼女がハイドンを弾いているとき、既に言葉として生成されつつあって、ベートーベンでの一瞬の迷いを経て、スクリャービンまでに確定した。ハイドンには、ほぼ「すべて」が出ていたのである。指1本の重み、優しさというようなキーワードを思いつくのは容易なことだった。

【濱の変化】

今回のリサイタルを通じて、私はあらゆる面において、しばらくぶりに聴いた濱の変化を認めないわけにはいかなかった。これまでの彼女は、真打になったばかりの若手の噺家のような特徴をもっていた。その語り口は鋭く、ドライでありながら、美しい詩情も逃さず、いわば性別を忘れさせるような、物怖じしない気風を感じさせたものだ。ソロにおける彼女は、アンサンブルにおけるほど神秘的ではなく、ハキハキしていたのだが、私はそれがどこか強いられたもののように感じられたのだ。それがいまは、右手と左手だけで、アンサンブルができるようになった。まだ未完成だが、彼女はじきに、ソロでもさらに印象的な演奏ができるようになると確信する。

こうした変化が起きた理由としては、もちろん、妊娠はあまり関係がないだろうが、人生の大事な時期に、いろいろなことが狙ったようにまとめて襲いかかってくるというのは、よく聞くはなしである。濱の場合、いまがその時期なのかもしれない。そんなときには、ピアニストなら、リストのロ短調ソナタに挑戦しようと思い立つものだ。例えば、小川典子がキャリア20周年を祝うコンサートで、メインに選んだのもこの曲だった。濱はこの作品を通じて、リストのすべてを物語ろうと思った。

すべて?

あまりにも派手なエピソードに彩られて、フランツ・リストという作曲家の真の人物像をイメージすることは、かえって難しくなっている。社交界の花形として活躍したリストが、晩年には僧籍に入り、聖チェチーリア運動のために身を捧げるのだが、かといって派手な人生がまるきりおわりを告げたわけでもない。死ぬまで、リストは引っ張りだこだった。作曲家、演奏家、教師、社交界の名士、宗教家として。それらの面が、このソナタほど見事に表れている作品もあまりない。だが、多くの場合、この作品のシンフォニックで、派手な特徴ばかりが印象に残っていくことが、彼女には解せなかったのである。「すべて」を描くには、この作品の静かで、宗教的な、落ち着いた表情をふかく捉える必要があった。構造観としては様々ある可能性のなかで、「厳格な」ソナタ形式をベースに据えた。だからこそ、美しい間奏的な部分を経て、冒頭部分が調性をかえて後半部分に出現するときには、あれほど親密な喜びを感じたのである。

なお、リストのソナタの冒頭部分を構成する断片的なモティーフは、ベートーベンのソナタ第31番のイメージと共有できる。また、モティーフをつなぐ単純な音階の利用は、彼の従う音楽律の神秘的な様相を物語っていそうだ。つまり、マイケル・ファラデーがこの世の中が神さまの美しい創造物であるなら、きっと、こんな磁力線が描けるだろうと思い、正に、そうなっていたように、音階を逆さまに奏でれば、それだけで神秘的な響きが得られるのである。ジュリアス・カッチェンの録音が雄弁に物語るように、ここからの展開は対位法的な美学とふかい関係にあるが、濱もそのような感覚をずっと静謐に教えてくれる。このあたりを境に、リストのちっぽけな人生が変わっていくかのようだ。もっとも濱の演奏は過度に文学的なものではなく、このあたりも緻密で隙がない。派手なところも巧みに弾くが、そんなのは人生の一瞬のひらめきにすぎないだろう。指1本の重みで、粘りづよく奏でる mp が彼女の表現における生命線なのだ。

ここまで聴いてきて、ショパンとシューマンが抜けていると感じる聴き手は多かっただろうが、それらは、アンコールでしっかりカヴァーされた。いわゆる「エオリアン・ハープ」は、細かいモティーフを連ねて深い詩情を抉る、今回のリサイタルを象徴するような意味があるし、シューマンの「見知らぬ国と人々について」(『子どもの情景』)も奥ゆかしいメッセージを秘めている。まだ明転せず、場合によってはもう1曲くらい弾く準備もあったのではないかと思うが、総じて学内リサイタル風の雰囲気でアプローズは短めのため、これにてしまいとなった。どの曲でも、弾き始めるとサッと作曲家ごとの特徴が浮かび、見事なものだと思う。最近、ペヌティエのリサイタルを聴いたせいか、これでフォーレでも出てくればと思ったのはあまりにも贅沢なことだった。

これから出産を控え、生後3年間、精神的に乳幼児と母親とをつなぐ「へその緒」は切れないというのだから、今度、濱の演奏が聴けるのはいつのことになるのか、本人を含め、誰にも予想がつかないことだろうが、まあ、気長に待つほかはない。そのとき、さらに彼女のピアノが変わっていたら、この記事を思い出してもらえるとありがたいものだ。濱さん、おめでとう!

【プログラム】 2014年5月24日

1、ハイドン ソナタ HobⅩⅥ/48
2、ベートーベン ソナタ第31番
3、スクリャービン ソナタ第4番
4、リスト ソナタ ロ短調

 於:浜離宮朝日ホール

« アルベルト・ゼッダ マリピエロ 交響曲第2番/ロッシーニ 『セミラーミデ』序曲 ほか オーチャード定期 5/18 | トップページ | 新国立劇場 リヒャルト・シュトラウス 歌劇『アラベッラ』 P.アルロー演出 2日目 5/25 »

ピアノ」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/543421/59706133

この記事へのトラックバック一覧です: 濱倫子 リスト ピアノ・ソナタ ロ短調 ほか @浜離宮朝日ホール 5/24:

« アルベルト・ゼッダ マリピエロ 交響曲第2番/ロッシーニ 『セミラーミデ』序曲 ほか オーチャード定期 5/18 | トップページ | 新国立劇場 リヒャルト・シュトラウス 歌劇『アラベッラ』 P.アルロー演出 2日目 5/25 »

ツイッター

  • ツイッター

最近のコメント