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2014年5月 6日 (火)

ジョナサン・ノット ブラームス ピアノ協奏曲第1番/シューベルト 交響曲第4番「悲劇的」 ほか 東京交響楽団 東京オペラシティシリーズ 4/27

【スムーズな移行】

今季からユベール・スダーンからジョナサン・ノットに音楽監督が変わった東京交響楽団であるが、この移行は思ったよりもスムーズに進みそうである。客演から関係を深めた場合であっても、多くの指揮者は楽団への影響力を手にした場合には、自らの思い描く長期プランに相応しい新たな要求を据えることがほとんどで、就任から数年間はまだ普請中の関係を見守らねばならないものだ。最初の契約は大抵、3年程度であり、この間、ファンはやきもきしながら、思い入れのある楽団がどうなっていくのかを見極めるのである。もしも1期でおわった場合は、もはや、この人を棟梁とする限り、普請は半永久的に完成しないと楽団が態度を決めたことになるだろう。

そこへもってくると、この日の演奏を聴いて、「この段階で、もう、これだけのレヴェルにあるのか」という驚きがまずあって、そこから、ノットという人物の器量を推し量ることができるであろう。彼は既に、東響が獲得しているあらゆる要素を否定する気は毛頭ない。だが、同時に、それを一段ブラッシュ・アップするための手堅いメソッドをもっている。彼に対して、人々がどんな期待をもっているかはわからないが、もしもスダーン時代と比べて、生き馬の目を抜くような変貌を期待する向きがあるなら、ノットの演奏ではすこぶる物足りない印象を残すかもしれない。反対に、前時代の成果を上手に吸収して、その土台をさらに強固なものにしてほしいと願う人たちからみれば、彼の仕事からは、驚きにも似た意外な満足感を味わうであろう。

【ノットの経歴から】

私が後者のほうに属しているのは、言うまでもないが、しかし、ノットがめざす音楽の究極的な目標とは一体、何だろうか。それは古いクラシック音楽であれ、現代作品であれ、常に呼吸し、新陳代謝を繰り返さなければ、博物館入りになってしまうという強い意識だ。

ノットの経歴をみると、いくつかの顔がある。彼はイギリス中部で生まれ、まずは、ケンブリッジ大学で音楽学を修めた異色の経歴の持ち主だ。指揮はドイツの劇場を支えるカペル型のキャリアで始まり、オペラ指揮者としても経験豊富であることは、就任披露の会見の際にも発言があったとおり。今回の演奏会のプログラムでも、ルツェルンでの演奏会形式『ニーベルングの指環』のリポートが載っていた。コンサート指揮者としては、バンベルク響を10年以上も率いていて、一足飛びにキャリアを積み上げていくよりは、腰を据えた長期的プロジェクトを好む傾向が窺える。2000年からは世界屈指の現代音楽専門演奏集団「アンサンブル・アンテルコンタンポラン」と関わり、音楽監督からは1期=3年のみで離任したが、その後も首席客演指揮者として残ったことから、十分に良い関係を築いていたことが推測できる。現代音楽の分野で、世界の潮流をよく知る指導者のひとりという特徴もある。そして、彼はドイツでユンゲ・ドイチェ・フィルにポストを求めるなど、教育/育成型のプロジェクトにも関心が高い。多忙のなか、教職にも関係しているようだ。

1週前のマーラーを見送り、このプログラムに賭けた私だが、それは単純に内容が興味深かったからにすぎない。しかし、おわってみれば、こうしたキャリア(優れたキャリアからは、その人の生きる哲学が見えてくる)の多くの部分がコンパクトに、よく表現された演奏会でもあった。ブラームスのピアノ協奏曲第1番では、船出を飾るに相応しいキャリア十分の大物ゲストを起用せず、まだこれからの素材である佐藤卓史を独奏に据えた。彼の演奏は決して、完璧なものではなかったにしろ、これをメインに据えて、自分は後ろに下がり、ソリストを立てておわる演奏会の風景からは、ノットがこの楽団を縁の下で支えるつもりという決意がよく表れているようだった。

【プログラム構成の意味】

演奏会のプログラム構成について、最初に一言しておくなら、秋山時代から積極的に取り組んできた現代もの、スダーン時代に獲得した最大の成果のひとつであるシューベルトの交響曲に加え、これから、彼によるブラッシュ・アップが求められるであろう(ブラームスの)ダイナミックの作品が並び、時代がひとつひとつ積み重なっていくような印象を受けた。メインでは前述のように、若手ピアニストの佐藤卓史を起用。前週の公演ではマーラーの交響曲第9番を演奏し、彼に与えられたミッションはよく理解していることを端的に示した。しかし、サヨナラのシンフォニーであるマーラーの9番を取り上げることで、前時代へのオマージュに使うなど、そのメッセージはすこぶる明快だ。そして、厳粛な武満徹の『セレモニアル』。

この演奏会は、ウェーベルンの『管弦楽のための5つの小品』(op.10)で始まった。私はこの1曲で、ノットに対する印象を決めようと考えていた。作品はそれぞれの小品が大抵、1分にも及ばないミニマムなもので、全体を通しても5-6分あるかないかというところである。たったそれだけのことで、この演奏家はどれだけのことを語ることができるのか。それとも、彼は現代ものを取り上げることで、メディアの注目を集めようとする小賢しい器用やにすぎないのだろうか。否、安心しよう。実際には、ちゃんとしたメッセージがあったことを喜ぶべきだ。ノットは書いてあることをきれいに形にするだけではなく、ときには楽譜にはなさそうな強調(ダイナミズム)を入れて、自由に表現ができる音楽家だった。これは現代ものの支持者からすると、一瞬、信頼を裏切るもの(現代作品ではダイナミズムや規制の音響概念を疑うことが主流なので)であるが、敢えて、そこに抵触することも辞さない。

メッセージを補足し、明瞭にするために、彼はウェーベルンにつづき、すぐにシューベルトの演奏を始めるという仕掛けを用意した。この2人に共通するのは、前時代に普通、受け止めきれないほどの大きな「事件」があったということだ。シューベルトにとっては、ベートーベンやハイドン、モーツァルトといったウィーン古典派の存在がそれであり、一方、ウェーベルンにとっては、リヒャルト・シュトラウスやブラームスといったウィーン後期ロマン派の精華がそれに当たる。彼らの作品を聴くと、その前にあった「衝撃的なこと」が想像される。ある意味では、素直な作曲家たちなのだ。シューベルトやウェーベルンといった天才は、前時代の巨匠たちとはまた別の工夫で新たな時代に踏み出した。ノットは視点をウィーンに固定し、時代から時代への継承、あるいは、リ・ストラクチャリング(再構築)がどのように進んだのかを見つめ、客席にも訴えようとした。それはいま、彼が東響という新しい任地で、同じような局面に立っているからでもある。

そして、後半は正に、その衝撃的なことそれ自体に注目したというわけだ。面白いことに、メインはブラームスだ。彼にとっては、それ以前にもっと衝撃的なことがあった。それはシューベルトと同じように、ウィーン古典派への敬意として表現されているものだ。だから、シューベルトとブラームスの比較を通じて、私たちは遠い時代を隔てて、2人の天才的な音楽家が、まったく同じ衝撃的なことから、どのように自分らしい表現を見出していったのか、探ることができるのである。一口にいえば、ブラームスはハイドン的な機知と、バロック全体を包む舞踊の要素を排除した。一方、これらを活き活きと生まれ変わらせたのがシューベルトである。

【衝撃的なこと】

そのような意味で、ノットのシューベルトは期待を大きく上回る凄い演奏だった。第1楽章には、まだウェーベルンの残響が容赦なく、空間を支配していた。5つの小品は曲を追うごとに、全体的なアクションは減り、室内楽的な要素に落ち着いていく感じがある。曲がおわると、シューベルトが始まるということで、なんとなく、(出番がないので)だらんとしていたオケ奏者たちが、大事な商談で相手先に入る営業マンがスーツのしわを伸ばすように、シャキッと起き上がる風景があった。最初の音は、この上もなく強烈な一撃。何が言いたいのかは既に明らかだろう。先程来、よく使っている「衝撃的なこと」というフレーズはこの瞬間に思いついたものだ。

1ヶ月前、スダーンの指揮でシューベルトの交響曲第2番に改めて接する機会があった。やはり、演奏を重ねることで、クラシック音楽はまた別の味わいを獲得する。この交響曲第4番「悲劇的」も、2回目になるが、指揮者が変わった。私の場合、この曲はスダーンの指揮で聴いて、はじめて知ったというにちかいものがある。オケと指揮者が筋肉で結ばれ、活き活きと優雅な演奏を繰り広げるスタイルは当初から、話題を集めた。昨年、ハウシルトが同じ作品を新日本フィルで演奏し、まったく別の重厚な解釈も存在することを知った。ノットはスダーンの方向性を基本的には踏襲するものだが、より優雅で高貴な響きをもっていて、また別の演奏スタイルになっている。これまでの録音と比較すれば、ブロムシュテットのものにちかい立体性が浮かび上がったのは、丁寧にひとつひとつの声部を磨き上げていき、粘りづよく突き合わせていったことを示す。だが、以下に示す点において、彼の録音とはまったく異なる性質を示すこととなった。

【特別な感覚】

その特別な感覚が顕著に表れたのは第3楽章である。後半がすっと軽くなる主要モティーフを、ダンスをリードするような仕種で指揮し、その性質を見事に体現していたのだ。この柔らかいアンサンブルには、明らかに多大な時間がかけられている。ここから逆算的になるが、第2楽章を思い出すと、アンダンテでも、こころなし流れが速かったのを思い出す。ハイドンの弦楽四重奏曲「皇帝」との旋律の類似はハウシルトのときにも指摘したが、ウィーンを取り囲む自然のゆたかさなどを表現する音楽的風景の広がりは、1ヶ月前、スダーンがベートーベンの「皇帝」で示したものとソックリ同じだ。だが、シューベルトはそれを、いかにもウィーンらしい舞踏会のイメージのなかで捉えた。これでメヌエットが連続し、全体を統合する舞踊的イメージが整えられたのである。

最終楽章は、バレエ音楽のコーダに置かれるヴァリュエーションのような響きをもっている。チャイコフスキーの『白鳥の湖』を先取りするような、悲劇性と室内楽的な活力の同居するような尖鋭なフォルムのなかに、レントラー舞曲のノンビリした感じが踊る独特の雰囲気であり、それがジャンルに捉われない高貴なドラマとして高められて、聴き手のこころをやさしく捉えた。既にスダーンの時代に獲得していた手厚く、情熱的な表現性に加えて、ノットはこれを常に舞踊的な表現と引き離さない見事なコントロールで、オーケストラにとって新鮮な輝きと、独特の気品を提供して驚かせたものである。

【若手の感性でブラッシュ・アップ】

シューベルトの驚きと比べれば、ブラームスではそれほど大きなインスピレイションを得ることはなかったが、オーケストラの演奏は隙なく、強靭な響きをしなやかに出していた。独奏者が若い人であるのにもかかわらず、ノットは彼の主張を大胆に引き受ける指揮をしていて、それは彼の追い求める音楽の形を端的に物語ってもいるだろう。彼は若い佐藤を「指導」したり、「正しい」道に従わせるという方針はもっていない。むしろ、新鮮なアーティストたちがもっている手垢のつかない感覚に乗っかってみることで、また新たな視点が切り開けるのではないかという考えをもっているのだ。国際コンペティションなどをみるとき、優れたコンテスタントがみせるような鋭い感性に、彼はそれまで見慣れた楽曲を新しくするキーがあると考えているのだろうか。

それにしても、佐藤の序盤の演奏には、私はあまりにもつよい違和感を抱いた。細切れで、十分でない保持。それでいて、ゆったり逍遥するような響きのつくり方。特に、音符の保持は最近、特に軽んじられているものだろう。ジョン・リルの弾くピアノの響きや、エリシュカのつくるオーケストラの音を聴いていると、単に音符を精確に保持するだけのことで、どれだけ美しく、整然と作品を輝かせることか、改めて思い知らせてくれるのだ。近年はピリオド研究の影響により、全体のテンポが速めにとられることもあり、音楽全体が以前のような伸びやかな呼吸を失い、せかせかとしたものになってしまう傾向がある。佐藤のピアニズムは決して、せかせかしているわけではなく、それは現在もつづくドイツでの研鑽の賜物と思われるが、32分音符ひとつ分くらいずつ、いつも音符が欠けている印象を抱かせた。

ノットはしかし、そういう部分も彼の音楽として、オーケストラに我慢させることを惜しまなかった。最終的には、多くの聴き手が、佐藤のよく考えられた丁寧な筆致に感心し、それに対して多大な理解を示したノットの手腕に同様の支持を与えたのではないかと思う。もしも、シューベルトの協奏曲があったら、どれだけよかったろうか。彼がその作曲家の演目で、長大なプロジェクトを始めたばかりであることは偶然ではなかったのだ。ただし、個人的な感想を率直に申し述べれば、彼が真の意味で成功したキャリアを築き上げるためには、まだ、プロとしての活動をなるべく少なくしたほうがよさそうだ。それは勝手な願いにすぎないと自覚してはいるが、私は彼がより完成したピアニストとして、聴き手の全幅の信頼を集めることができる存在になってほしいし、そうなる前に、あまりにも多くの舞台に立つことを望まない。準備ができている部分と、そうでない部分の差はあまりにも激しかった。

幸いにも、この日のオーディエンスは温かく見守るという姿勢を十分にもっており、そのこころを受けるのに佐藤は十分な素質と誠意をもっている。かつて、国際コンペティションの映像でみていたときと比べると、無駄なアクションは減り、その分、表現に幅が出てきているのがわかるだろう。ブラームスの協奏曲においては、まだ、彼の強烈な個性を感じるには至らないが、正しい道を行っているのだなと感じる。音楽家にとって大事なことはいくらもあるが、聴き手との関係でみれば、たとえすぐには理解できなくとも、この人の演奏を理解したいと思わせるものがあるかどうかは、いちばん肝要な問題である。佐藤の場合、その点では申し分ないチャーミングさを備えているといえるだろう。

特に、第3楽章はオーケストラとピアノの言語がようやく、非常に高いレヴェルで噛み合うことを得て、わかりあう喜びが客席にも露骨に伝わったのである。

【まとめ】

さて、全体的な傾向からすると、新しい音楽監督のジョナサン・ノット氏は、さきごろ亡くなったクラウディオ・アッバード氏の信奉者のひとりのように見做し得るし、同国人の英雄、サイモン・ラトル氏の影も見え隠れするような音楽的哲学の持ち主だと思われる。そのなかでも、彼は常に自分らしい音楽、自分らしい表現というのを見失わない、少なくとも、そうしようと最大限の努力を尽くす賢者であろう。この人は明らかにホンモノであり、東響の演奏を必ずや、もっと良いものに引き上げてくれる。その確信は、弾いているほうの人たちが、より切実に感じていることだろう。東響はもともと一体感の濃厚なアンサンブルだが、トップがノットに替わって、見えない障壁もなにも取っ払われたかのような爽やかさを見せているのは、果たして気のせいなのであろうか。

しかも、今季は年間4回の来日を予定しており、欧州で一線級の指揮者にしては手厚い契約になっている。新日本フィルや東京フィルのトップが、同様の知名度を誇る指揮者を戴きながら、彼らが限定的な期間しか日本に来ないのとは対照的なことである。今後の東響は、在京9楽団のなかでもっとも有望なポテンシャルを手にしたことになるだろう。そのなかで、新国立劇場には是非、ノットをピットに入れることを画策して頂きたいものだ。彼の指揮で、ヴォツェックでも、軍人たちでもよい。ピーター・グライムズでもよい。劇場とパートナーシップを結ぶ東響を指揮して、演奏してくれるなら、こんな幸福なことはないだろう!

東響のなかの人たち、きっと、いろいろなプランを夢見ているにちがいない。そして、それらの多くが現実となるのは疑いようもないように思われるのだ。

【プログラム】 2014年4月27日

1、ウェーベルン 管弦楽のための5つの小品 op.10
2、シューベルト 交響曲第4番「悲劇的」
3、ブラームス ピアノ協奏曲第1番
 (pf:佐藤 卓史)

 コンサートマスター:大谷 康子

 於:東京オペラシティ

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