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2014年6月 5日 (木)

新国立劇場 リヒャルト・シュトラウス 歌劇『アラベッラ』 P.アルロー演出 2日目 5/25

【概要】

歌劇『アラベッラ』は、リヒャルト・シュトラウス中・後期を代表する傑作のひとつである。初期の『エレクトゥラ』以来、関係を温めた台本作家、フーゴー・フォン・ホフマンスタールとは最後となる共作であり、後述のように独特の特徴がみられる作品である。2人の姉妹が主役で、1人は美貌をもち、社交界の花形で、その結婚に没落した伯爵家の行く末が賭けられている。もうひとりは経済的理由から、男性として育てられていた。姉に言い寄る男たちのうち、誠実な仕官に肩入れした妹が姉に代わって偽の恋文を出し、彼が失望のショックから自殺しないようにと慮るあまり、姉の格好をして閨を共にするという過ちを犯す。姉は運命の出会いを果たした富豪で、スラヴ系領主の若頭領と首尾よく関係を開くが、この妹の行動が仇となってあらぬ誤解を蒙ることになる。妹の恥ずかしい独白で潔白は明らかとなり、姉は疑った富豪の罪を寛大に赦してハッピー・エンドとなる。イタリア・オペラのドタバタ劇と、戯曲『シラノ・ド・ベルジュラック』を模したような内容で、プロットは実に下らない。しかし、このような台本からも、ドイツ的にエレガントな哲学を導くことに成功し、シュトラウスは大いに面目を施すのだ。

新国立劇場の今回の上演は、フィリップ・アルロー演出で2010年のプレミエ。尾高監督にとっては劇場のポストに正式就任して最初の演目であったが、それで最後のシーズンを閉じることになった。300種類もの「青」を使ったという壮麗な舞台で、衣裳は世界的なファッション・デザイナーの森英恵女史が担当したことでも話題になったが、私にとってはこれが、はじめての鑑賞となる。アンダー39対象の割引を利用した。

印象的だったのは、3つの独特な要素である。①声質を役で固定せず、場面や台詞に合わせて適切な声質を当てていること。②合唱や多重唱は必要最小限とし、主に二重唱で物語が展開すること。③オペラ的な倫理観が拡張され、人間が過ちを犯すことや、欲望に従うことが前提的なものとされ、それに正面から向き合い、赦すという行為が重要なモティーフを構成していること。

【アラベッラにおける声質の特殊性】

まず、①の声質についてみてみよう。従来のほとんどのオペラは、役柄によって声質が固められていた。主役はスピント系のテノール、ヒロインはドラマティック・ソプラノ、おつきの侍女はレッジェーロなスーブレットで、悪役はドスの効いたバス。占い師は重い声質のメゾ・・・というようになっていれば、歌手たちはその声質を上手にこなせばよかった。昔の歌手たちはこうした声質に自分があうかどうかを厳しく判断し、役を選んできたため、「ロール・デヴュー」には特別な意味があった。それは単にはじめて歌うだけではなくて、その役に相応しい声へと歌手の声質が熟して、ようやく辿り着いたという証拠だったからである。

ところが、『アラベッラ』ではすこし事情が異なる。基本となる声質はあるが、歌手たちはいつも、そのポジションに止まっていればよいのではなく、場面や台詞によっては、それを越える声の出し方を求められているのである。だから、例えば第2幕で、アラベッラに言い寄るこれまでの男たちがすべて、英雄的な発声で次々に襲いかかってくるというようなことが起こる。多くの作品では、これらの男たちは大抵、本命のマンドリカとはかけ離れた軽い声で歌う場合が多い。例えば、ワーグナーの『ニュルンベルクのマイスタージンガー』では、ザックスやヴァルターに対して、ベックメッサーはまったく異質の発声になっており、その歌の内容も踏まえて、キャラクター自体がイタリア・オペラに対する揶揄を含んでいるのは明らかである。

マンドリカは軍人上がりのスラヴ系領主の息子で、目もくらむような大富豪という設定から、バリトンだが、ヘルデン系の声質が求められている。ワグネリアンのシュトラウスは、多分、ワーグナーのキャラクターをイメージしてマンドリカを造形し、パロディ的なライトモティーフらしきものをつけて表現した。野生的で、力づよく、自分を曲げないキャラクターが、作品のなかでは面白いように力を発揮してくれる。しかしながら、ワーグナーの作品では、英雄は常に英雄らしく歌うのみだ。途中で、フィガロのような役に転じることはない。そうではないのが、このオペラの面白いところである。第2幕では、マンドリカとアラベッラが婚約の約束を交わし、アラベッラが昔の男たちに絶縁を告げると、マンドリカが中心で物語が進むようになる。士官マッテオに妹が鍵を託す場面を最後に、姉妹は舞台から姿を消し、アジリタ満載の舞踏会の歌姫、ミッリ(フィアカーミッリ)役が補われるものの、大体はマンドリカの太い声が全体の動きを取り仕切るようになる。

この結果として起こることは、マンドリカが英雄的な特徴をどこかに保持しながらも、同時にフィガロの役回りをしなければならなくなるということだ。ヴォルフガング・コッホはまだ未完成の歌手だが、誠実さを感じさせる歌い手であり、威圧的な力づよさもなくはない。だから、第1幕でアラベッラの父母ををたちまち説得してしまう場面や、第2幕の前半でついにアラベッラ自身を口説き落とすところなどは十分な説得力をもって演じられている。しかし、その後、嫉妬に狂った情夫となってしまう場面は、いかにも退屈さを禁じ難かった。悪いことに、この場面をストーリーとは関係なく、盛り上げてくれるはずのミッリもこの役では聴きぐるしいばかりなのである。モーツァルト『魔笛』の「夜の女王」を中心とするような安井陽子の起用法は、私からみれば、幅広い高音部にふくよかな叙情性を秘めた彼女のゆたかな才能を潰す愚挙でしかない。

いずれにしても、この作品を歌い演じる場合は、マンドリカのように、まったく異なる声質と役割を柔軟に使い分けるような資質が求められ、この点で、どの役を歌うにしても、『アラベッラ』は難しいと思った。

主役について言えば、アラベッラもズデンカも技巧的な役だが、基本的に2人にちがいがない点が、プロット上の要求からいっても重要である。ただし、アラベッラにはバロックやそれにちかい時代の作品にみられる「狂乱の場」のような長大な見せ場が終幕にあり、これを歌いきることのできる声の持続性は是非とも必要だ。ズデンカの場合、それはないが、より細かい部分で聴き手の関心を惹きつけるような情念が必要であり、それだけで、題名役と同等の印象を残すのは簡単でない。こうした点からみたときに、アンナ・ガブラーの題名役、アニヤ・ニーナ・バーマンのズデンカ役というのは良い組み合わせだったといえるだろう。特にバーマンが出ている場面はいつも、歌のアンサンブルに深い陰影と緊張感が満ちみちていたし、舞台のクオリティをひとつ押し上げるような表現力を彼女はもっているらしい。ガブラーにそこまでの資質はないが、コッホ同様に誠実な歌い手で、発声に無理がないため、第3幕では常に自分を中心に置くポジションを積極的に選べていたことがわかる。

【無策な美しさ】

ここで演出のことについて触れておくなら、アルローの演出はただきれいなだけで、特に気を惹くようなアイディアはみられない。率直にいえば、300種類という「青」も驚くほど美しくはなかったのである。森英恵の衣裳とはいっても、それが効果的に生きるのは第1幕でアラベッラが高貴な旋律にあわせて歌うとき、舞踏会で衆目を集めるであろうその豪華な衣裳がついにベールを脱ぐ場面だけが唯一であり、その後の展開では衣裳が誰のデザインであろうとも、さほど大事とは思えないのだ。この演出家はかえって、この劇が贅沢にも詰め込んだアイディアを大胆に刈り込むことで、筋書きをわかりやすくしたいのかと思えるほどの無策ぶりを示している。

例えば、彼の演出では、ヴァルトナー伯爵家がどれほどの苦境にあるかは印象的でない。せいぜい、最初のほうに登場する借金取りの数体のシルエットが組み込まれていることぐらいで、苦境は言葉で語られるのみでしかない。しかし、実際には、これは重要なモティーフだ。ヴァルトナー家にとっては、このウィーン滞在が生死を賭けたものであり、そのうち最大の投資はアラベッラが謝肉祭の舞踏会シーズンに最高の相手を見つけてくれるように、着飾らせることだけであった。おそらく荘園は抵当に入り、ホテル暮らしも後はなく、僅かに残った資金を父親が賭博に使っているという事情なのだ。

父親の賭け癖と、母親の占いだのみはともに病的なものだが、それは彼らの心理を物語るものでもある。つまり、彼らは現実的ないかなる手段をもってしても、その衰勢をはね返すようなアイディアがなく、できることは何でもしている。軍で知己を得たシニア・マンドリカ氏に手紙を書いたのも、本来、どうせ実るはずもないとわかっている、闇くもに放った矢のひとつだったにすぎないのだろう。アルロー氏はこのような問題をすべて無視して、あの虚栄の象徴のような「青」だけにすべてを賭けると決めたのだ。ばかばかしい話である。

作品は様々なオペラや、演劇作品のパロディを含んだ傑作だ。例えば、アラベッラは『ローエングリン』の禁問を先取りして、見つめあったら、もう疑うことも、問うことも必要ないような相手を見つけるのだと息巻いている。だが、実際には妹の行動から、エルザの運命を引き継いでいるわけだ。序盤の占い師の予言がほぼ当たり、大事なところが抜けているのはヴェルディ由来のパロディであろうし、『カルメン』の世界もイメージさせる。だが、これらのオペラの世界観とは異なり、『アラベッラ』ではカードの運命はいつでも変わり得るものにすぎない。第1幕冒頭の占い師の台詞が、象徴的だろう。「先ほどよりも、いいカードです」。唯一、こうした重ねあわせからアルローが取り入れたのは、マンドリカがワーグナーのオペラのキャラクターのような姿で登場するところだけであった。

【歌手たちの工夫が求められる舞台】

演出家のアイディアが乏しい場合は、歌手たちがそれを補うよりほかにないのである。そのなかで、主役姉妹は劇場専属から叩き上げの似たようなキャリアをもつせいか、よく話し合い、助け合って舞台を良いものにしている。もうひとり、ベテランとして舞台を正に父親のような力づよさで支えているようにみえたのは、ヴァルトナー伯爵役のバス歌手、妻屋秀和である。この父親役は多くの場面でちょっとずつ、顔を出す部分があるせいか、なんとなく舞台全体をずっと見まわすような役回りが与えられている。妻屋は声も良く、技術も高いし、ユーモアにも溢れていることから、『アラベッラ』のような作品ではもっともよくフィットする。ドイツの劇場専属で歌っていた経験もあり、彼はきっと、周りの歌手たちにたくさんのアドヴァイスを送っているはずだ。舞台から、そんな関係がみえてくる。私が観たのは2日目の公演だが、それが効いて全体的な積極性が高まってくれば、アルロー演出もいますこし活気を放つであろうと思われる。

【室内楽的アンサンブル】

歌劇『アラベッラ』の特徴として、室内楽的なアンサンブルで構成されるという点もきわめて重要である。今回の指揮はベルトラン・ド・ビリーが担当しているが、冒頭部分、この特徴を包み隠さずシンプルに示し、我々になるほど、そのような作品なのだということを端的に印象づけてから、長い旅に入っていくのは適切なことだ。豪華絢爛な管弦楽、特に舞踊の輝かしく華やかな音楽や、多重唱、合唱もないわけではないが、それらは必要最小限に抑えられている。基本的には1:1の対話で進み、管弦楽はその対話を拾うような形で言葉や表現と連動し、実に繊細な、しかし、大胆な表情を基礎づけているのである。

【倫理的価値の動揺】

既に述べてきたように、多くのパロディが入っていることから、オペラに対する造詣が深ければ深いほど、この作品は可笑しいものである。この時期、新国立劇場はイタリア・ヴェリズモのもっともポピュラーなダブル・ビルで、プレミエを出しているが、作品のなかには、そうしたものに対する揶揄も見られなくはない。例えば、第1幕のマッテオとズデンコの対話では、前者がよりフィジカルで、強いスピントをもって直情的な歌い方をした場合、ヴェリズモのような印象をより強くするだろう。しかし、それを消火するズデンコの歌いまわしがあまりにも見事なので、それでシュトラウスは自らの勝利を誇ることができる。

この「田舎の騎士道」は第3幕でもちょうどよいパロディとして用いられ、ヴァルトナー伯爵はさすがに軍人上がりだけあり、娘の名誉のために勝負を挑もうとはするが、肝心のピストルが質に入っており、混乱するマッテオはもはや、アラベッラのために闘うような気力はない。マッテオとズデンカがベッド・インするシーンはなく、アラベッラにも裏切りの兆候がないことから、多くの人たちはマッテオが少しおかしいのではないかと感じる。だが、実際にはズデンカがベッドで閨をともにしたことがわかり、観客は青くなるだろう。そこから、価値の逆転が始まるのである。

一体に終幕の前半は、謎めいた特質をもたせている。ひとつひとつの言葉が別の意味で捉えなおされ、あたかも対位法のように拡大していくので、本来、ばかばかしいドタバタ劇のはずが容易に理解できないようになっている。言葉の対位法である。その傾向は最終場で緩むどころか、いよいよ尖鋭になっていくのだが、妹の告白によって、すべては曝け出されたかのようにみえる。しかし、ここからは宗教的なモティーフをもじって、倫理的な価値が激しく動揺するのである。

従来のオペラは、その表現スタイルは様々としても、どのような表現が倫理的で、または倫理にもとるのかということは、頑丈な枠によって固められていた。その倫理観はもちろん、神によって支配され、いつも二元論ではないにしても、大抵の場合、善悪はわかりやすかった。『トリスタン』のように倫理観を打ち破るはなしであっても、倫理そのものが揺らぐことはなかったのである。ただ、ケツをまくって、倫理に逆らうことが赦されただけのことだ。しかも、ワーグナーはその罪を犯すために、「媚薬」というシステムの助けを借りた。ドニゼッティの『愛の妙薬』にアイディアを借りたかのような、この安直なシステムがなければ、ワーグナーはトリスタンをマルケ王に逆らわせることができなかったのである。

【オペラにおけるより広い倫理観】

ところが、リヒャルト・シュトラウスはここで、その枠そのものを宗教的、社会的倫理に見合った調和的なものではなく、より現実的な世界に照応するような広さをもつものにしたいと考えたのであろう。彼の見方によれば、人間が過ちを犯すのは当たり前のことであり、なにも特別なことではない。『ばらの騎士』では、その過ちによってオックス男爵は厳しいダメージを受けることになり、尻拭いに登場するマルシャリンも手痛い喪失に晒されることになるが、実際には、こうした過ちだけで人間が根本的に傷つけられることはない。あるいは、傷ついたとしても、人間はまた立ち上がることができるはずなのだ。多くのオペラはこうした現実を無視し、清廉潔白で、人に対しても天に対しても、なにひとつ翳りのない人だけが真の意味で幸福になり得るという倫理観の下で書かれてきた。ロッシーニやモーツァルトの作品に、僅かな例外があるぐらいである。

『アラベッラ』では、人間の本質である誤りにこそ真実があるという特別な視点がある。言うまでもなく、この作品でもっとも美しい部分は最後、上階に運ばれてきた水によってマンドリカがまだ残っているかもしれないことを知り、再び姿を現したアラベッラがマンドリカのことを赦し、その水を彼に飲ませることによって、第2幕でマンドリカが語った婚約のしきたりに復帰する場面である。このしきたりには、実はマンドリカがまだ語っていない部分があり、彼はグラスを高く掲げると、「私の後には、もうこのグラスから飲む者はいません。そう。永遠にあなたは私のもので、
私はあなたのものなのです」と言って、グラスを叩き割る重要なシーンがある。言いようもなく素晴らしいリブレットである。このように大事な部分をまずは隠しておく、というのがこの作品の重要なモティーフになっている。占いにもそれはあり、第3幕で士官が戸惑う理由も妹が出てくるまでは隠されていた。そして、結局のところ、この隠されている部分が過ちの種にもなっていることは興味ぶかいことだろう。

ズデンカの告白を境に、主要人物がすべて過ちを犯していたことは明らかとなるが、同時に、これらの過ちが倫理的に赦せないものとは思えなくて、ほとんどの観客は自分たちが犯してきた数々の過ちに思い当たり、涙するのである。もちろん、こうした問題は西洋では容易に、信仰の問題と直結してくるはずであろう。キリスト教では、人々が過ちを犯し、その罪を背負って(本来は罪のない)イエスが亡くなるというところから信仰が始まっているからだ。ただ、このシュトラウス=ホフマンスタールの台本の場合は、そうした意味で寓意的な物語とはとてもいえない事情がある。なぜなら、ズデンカは姉のふりをして、士官と閨を共にした。罪びとを赦すイエスの役割を果たすのは、もともと性的に放縦な志向をもった姉のアラベッラ。事件が片付くと、父親は再び賭け事に戻ろうとし、根本的な問題はなにも変わっていないからである。しかも、それでいいのだという表現になっている。

【作品と時代】

現代においては、このようなシュトラウスの新しい哲学が、どれほどスキャンダラスなものだったかは想像もつかない。正確にいえば、それはシュトラウスがいつも懐かしげに振り返っている古い時代の倫理観に基づいている。マンドリカは最後、「ずっと、今のままのあなたでいてくださいますね」とアラベッラに問うているが、これがヒントになっているだろう。作品は1929年から数年をかけて仕上げられた。WWⅠと、その後のビーダーマイヤー的な時代を経て、世界恐慌が起こったあとのことである。かつて音楽をゆたかに彩った貴族的な雰囲気はいよいよ後退し、現実的な雰囲気のなかで、シュトラウスは「いま」を守ろうとした。これは彼の作品で、一貫している哲学だ。新しい時代など、彼の求めるところではなかった。第3幕前半で地獄落ちを体験するアラベッラの姿からは『ドン・ジョヴァンニ』の亡霊がちらつき、恋人の入れ替わりという点では『コジ・ファン・トゥッテ』を想像させるが、このような重ねあわせを経て、シュトラウスはより深い真実に到達した。

「どうしたら別のものになれるというの? あるがままの私を受けとめて!」

ところで、カラーに関する哲学はいろいろとありそうだが、アルロー演出で基本モティーフとなった「青」は平和を象徴しているというのはある程度、共通したイメージである。彼はこのドタバタ劇のなかに、いつも平和を求める視点があるということを喝破している点で唯一、評価に値するだろう。しかし、それだけでは、リヒャルト・シュトラウスの思い描く複雑な哲学をものにすることは難しい。例えば、彼の書いた次のような(物凄い)台詞は、どのようにして視覚化し得るのだろうか。「真実は、私のなかだけにあります。それ以外は敵だわ」。簡単な作業ではないことはわかっているが、アルローはこうした細部において、ことごとく敗北している。きれいなだけでは、面白くない。表面上の美しさや落ち着きだけで、平和が訪れることはないのである。作品の素晴らしさに比べて、プロダクションの質は低いと言わざるを得ない。

【ピットからくる響きはワールド・クラス】

しかし、そのなかでも、今公演はガブラー、バーマン、コッホ、それに妻屋を中心に、比較的、声楽的には印象がよく、ベルトラン・ド・ビリーがピットを固めて、そこから響いてくる管弦楽の素晴らしさは正にワールド・クラスのものに属していた。指揮のド・ビリーはウィーン放送響を長く率いるなどしたキャリアをもつが、ウィーンのスタイルに対する過度な印象づけはなく、むしろ、短い走句でパッパと印象をつけていく洒落た趣向で観客を楽しませた。あるいは、こうしたものこそが真正のウィーン気質なのかもしれぬ。2日目の時点では、歌手だけではなく、オーケストラにもまだ積極的な動きを求めたい部分が多かったが、それでも、要所で客席に届いてくる響きはいつも優雅で、鮮やかなものだった。ただ、第2幕の最後のほうに出てくるソロ・ワークはやや粗雑で、個々の磨き上げに期待したい。いずれにしても、録音などを聴き、ド・ビリーのピット・ワークには深く注目していたが、思いどおり、高いクオリティのパフォーマンスを見せてくれたことは賞賛に値するだろう。

しかし、最後に感じたのは、やっぱり、こういうことだ。リヒャルト・シュトラウスは凄かった!

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