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2014年6月26日 (木)

河原泰則、ライナー・ホーネック、野平一郎 ほか シューベルトの”鱒” 一橋の生んだ世界的演奏家シリーズ vol.1 6/8

【素晴らしかった兼松講堂】

一橋大学の兼松講堂で、同大出身のコントラバス奏者、河原泰則を中心とするコンサートが企画された。河原は一橋大学商学部に通いながら、桐朋で聴講生として音楽の道にも見聞を深めたということは、この日、初めて知ったことであり、驚きの事実だ。出演者のうち、ヴィルタス・クァルテットの3人(水谷晃、馬渕昌子、丸山泰雄)はこれまでに河原と共演の実績があり、特に馬渕と丸山は紀尾井シンフォニエッタ東京(KST)でも一緒に弾いている。そして、三上亮に代わり出演のライナー・ホーネックも同じKSTで、指揮者、コンサートマスター、ソリストとして、出演を重ねている。ピアニストの野平一郎とは、河原は録音も残している。

まず、兼松講堂についてだが、1927年(昭和2年)、国際貿易商として活躍した兼松房治郎の遺訓によって学校に贈られた寄付をもとに建設され、日本の建築史に残る偉人、伊藤忠太の設計によりロマネスク様式で創建された施設である。怪物のあしらわれた独特のデザインが特徴となっているが、旧帝大系からは独立した異色の国立大学で、定員も少ないことを反映して、講堂も手ごろなサイズでつくられた。2003-2004年には空調設備を欠くなどの欠陥を補うため、寄付により講堂の改修がおこなわれた結果、河原によれば、少し明るくなったということだ。2Fでは昔の日本人サイズの狭い座席がきつく、その空調も後付けだから風が吹くとうるさく、演奏中は停止するようにしている。古さは感じるものの、窓からの自然調光ができ、その外側には緑が窺えて、雰囲気のある独特なホールである。

綿密に音響設計された音楽専用ホールではないものの、意外にも響きは素晴らしかった。2Fから見下ろしたときにはデッドな音響が想定されたが、ホール全体が狭いため、舞台上から発した響きは無駄な音響の「旅」を経ずして、直截に客席に届くので、何も付け足さず、欠けることもないハートフルなベルカントの響きが楽しめる。音響設計の粋を尽くしたミューザ川崎と、このようなホールが同等の特色をもっているのは楽しい符合であった。

【音響にも印象を借りたドヴォルザーク】

演奏は、ドヴォルザークの弦楽五重奏曲 op.77 から始まった。序盤はまだ探り合いの感じもあったし、私自身がここの音響に慣れる必要があった。ドヴォルザークらしい音楽の活力は十分でないものの、それに代わる十分な強度を感じる演奏だったことをまずは強調したい。ドヴォルザークの音楽はなによりもフィジカルで、舞踊的な動きに特徴があるが、そうではなく、より詩的な音の内面がよく響くようなパフォーマンスだったのである。既に述べたように、兼松講堂の音響は室内楽を聴くにはちょうどよいレヴェルだが、ただ、それを適切に生かすためには、ある程度、がっしりした響きが必要である。その点で、繊細なヴィオラを弾く馬渕には多少、厳しめの環境であった。一方、よく伸びるヴァイオリンの響きや、河原のようなガツガツした低音の響きは、深い立体性を伴ってよく鳴っていた。

最初のドヴォルザークでは、こうした環境的な特性が印象に大きな影響をもたらしたと思われる。ヴィルタスQの3人が中核にいるからというのもあるが、5人のアンサンブルは臨時的とは思えないほど、ゆたかな動きを感じさせる。その中心に、常に河原が陣取っているというのも凄いことだが、彼だけではない。例えば、印象に残った第2楽章では、河原のつくるベースの上で、躍動するクァルテットがひそかにベートーベンやシューマンの印象を隠し持っていることに気づくのは容易だった。私はよくドヴォルザークをヤドカリに譬えるが、このクィンテットもまた、彼の尊敬する過去の巨匠たちの作品のフォルムを借りながら、ドヴォルザーク自身がもつ舞踊性やリズムのスペシャリティと自由に組み合わせたものであることがわかる。

念のため言っておくと、ここで私がイメージするのはベートーベンの弦楽四重奏曲第14番のプレスト楽章や、シューマンのピアノ・クィンテットの感じである。

私がドヴォルザークの演奏に期待するようなノンビリした感じや、奔放な感性といったものは優勢でないが、第1ヴァイオリンにホーネックがいたせいもあってか、これをウィーン側から見つめるような視点が感じられ、プログラム全体を俯瞰した印象とも符合する。すなわち、ドヴォルザーク、エネスコ、シューベルトというのは、ウィーン=ハプスブルク帝国の外縁部に活躍した(出身の)作曲家であり(シューベルトはウィーン文化圏のなかでも、モラヴィアに在ったドイツ系農夫の家に生まれた)、田舎の農村的な文化から生じる素朴な舞曲や、そのリズムが常に活き活きと描かれることに特徴がある。これに対し、ウィーンの中核的な文化は優雅なものであり、ある程度、定まった枠を緩めておいて、独特な形で利用した遊びの感覚に基づくという特徴があるようだ。

【シューベルトのモダンな特徴】

シューベルトのピアノ五重奏曲「ます」を聴くと、いま述べた前後者の特徴が適度に混ざり合った傑作であり、当時としてはモダンな特徴をもっていたことがわかる。ウィーン文化は新古典主義から、印象派や民族楽派を取り込んでロマン主義を爛熟させていくが、シューベルトのこの作品には、それらほとんどの可能性が詰まっているといっても過言ではない。時代的に、シューベルトが「印象派」とされることはないが、写実的といわれる第4楽章のヴァリエーションだけではなく、第1楽章がなんといっても刺激的だった。急速な上昇音型が水面から顔を出すサカナをイメージさせるような部分もあれば、後のスメタナの描く「ヴルダヴァ」のような表現もある。モティーフのひとつにはベルリオーズ『幻想交響曲』の旋律とよく似たものがあるが、その表情は片やウィーン都会風の舞踊的表現と、片やウィーン外縁部の農村における祭りのような雰囲気を併せもっている。

【野平の名人的伴奏】

なお、この作品では第2ヴァイオリンを欠くため、水谷が外れ、ピアノに野平一郎が加わっている。野平の弾くピアノの腕前の素晴らしさについては既に承知のつもりでいたが、前半のエネスコでも、目を瞠る精緻な演奏に圧倒された。ルッドの編曲によるこのピアノ六重奏ヴァージョン(vn×2、va、vc、cb、pf)ではピアノがオブリガートを弾いて、一応、バロック様式を模しているようだが、その響きの特徴はまるで別物として印象づけられる。民謡調の力づよい旋律を、見事にカヴァーする野平のピアノは音をカヴァーするだけではなく、弦の響きをソックリそのままアンプ増幅し、どこにピアノが張りついているのか、即座には判断できないぐらいの見事な名人技なのである。

シューベルトでは、ピアノ声部は中心的に世界を構築するところもあるので、アンプの役割に徹するわけにはいかないが、ソロでカンタービレを発揮する場合も、やや後ろにまわってダイナモに徹する場合でも、驚くほど完璧だ。第1楽章の冒頭部分はやや響きを浮き上がらせ、サカナの動きを髣髴とさせる。彼が伴奏に潜ると、弦の描く情景的なものがふわっと浮かび上がる。やがて装飾がつき始めると、ピアノのトレモロのゆたかな響きにまた驚かされた。本業が作曲家だけに、構造がよく見えているということもあるのだろうが、エネスコで示したように、そこだけに特化するわけでもなく、アンサンブル全体と対話して、柔軟に変わっていく能力が凄い。

もしも彼の本業がこの分野だったら、我々はメナヘム・プレスラーと同等の優れたアンサンブル・ピアニストを手にすることができるのだが。

【新しさのための隠された秘密】

このピアノ・パートはしかし、どこかで聴いたことがあると思ったが、それがやがて、ラ・フォル・ジュルネで聴いたフンメルの作品と似通っていることに気づくのに苦労はなかった。実際、あとで調べてみると、この作品は1922年にシューベルトが書いたのだが、その独特な編成からもわかるように、フンメルの作品を演奏するアンサンブルのために用意されたとのことである。第4曲では先行する歌曲『ます』が引用され、華麗なヴァリエーションとして展開されるのは当時の時代背景と合致している。ここからイメージを広げ、フンメルへのオマージュを贈ったわけだが、独立した作曲機会に書かれたのではないせいか、これだけの傑作にもかかわらず、(彼の場合、そうした例は少なくないのだが、)シューベルトはその価値を省みず、生前、作品が出版されなかった遺作として死後に楽譜が発見されるに至っている。

ただし、作品はフンメル以外に、幅広い音楽的要素を網羅的に盛り込んだものであり、その点でも、ドヴォルザークとは共通点が多い。このように古典的な発想に基づいていながらも、響きはどこまでも新しい。その秘密がどこにあるのか、私はまだ、その問いに相応しい回答を得ないのだ。

今回、ホーネックは日本で、KSTのオーケストラ公演/室内楽公演を中心に、数々のプログラムに参加している。この公演もそのひとつだが、いつも完璧なパフォーマンスをみせる彼としては、出来栄えはいささか冴えなかった。その範囲でも彼の演奏は十分に誠実で、室内楽は彼にとって親密な分野であることは明らかだが、本来であれば、彼はもっとインスピレイションゆたかな演奏をできる。そのとき、シューベルトの音楽が備えている秘密はたちどころに明らかとなるだろう。

【ホールと響きあうコントラバス】

主役のコントラバスに注目すれば、古典派からロマン派にかけて簡素化されていくバス・パートのゆたかなアクションが、まだ色濃く残されている点が大事なのだろう。河原はいずれも、そうした作風の名品をチョイスして、オーケストラのなかにあってさえ際立つアンサンブルへの高い構成力を見せつけた。近年は河原氏も年齢を重ね、高い椅子にお尻を引っ掛けて演奏するようになったせいか、ドヴォルザークの最初の楽章では若干、響きの圧力に薄みが出ることもあったが、やがて、そのような懸念も払拭し、元気いっぱいで弾いてくださるので、聴くほうも気持ちがスカッとする。シューベルトではピアノとコントラバスが、表現の鍵を握っていることがよくわかるが、特にこのホールは前述のように、バスの響きが客席によく伝わるという特色をもっていたことも大きいだろう。

【変化にみちている音楽】

もうひとつ面白かったのは、アンコールの演奏だった。シューベルトのリピートだったが、ホーネックが先刻と比べ、活き活きとした牧歌的なフォルムをとって演奏すると、即座にほかのメンバーも反応して、リズムやアーティキュレーションを調節した。本番とアンコールで演奏姿勢を変えることはよくあるが、ここまで見事に嵌ることは珍しい。最近のヴィオラ・スペース公演に際するレヴューで、私は「そもそもひとつの楽曲に対して、ひととおりの演奏しかできないというのは愚か者である」と書き、アントワン・タメスティがいくつものヴァリエーションを持って演奏していることを賞賛したが、ここでも同じことが言えるだろう。当日のアンコール・ステージでは音楽が変化に満ちているものだという、常識的ではあるものの、なかなか表現しにくいメッセージを端的に示していたのではないかと思う。
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.特に、室内楽では、その部分が本質的な愉しみになっている。ちょっとした出のタイミングや響きの合わせ方の調節で、音楽はまったく別の表情を示してくれる。それを見抜き、味わうのが聴き手の楽しみのひとつでもあるし、難しさでもある。今回の「ちがい」はややオーケストラ的に大きなものだが、それでも室内楽本来の味わいと通底するレヴェルの話を含んでいた。急造だが、5人のアンサンブルはより繊細なちがいを追求できる可能性を明らかに示していたことで、聴き手の楽しみも倍加したといえる。実に良いコンサートであったし、雰囲気の素晴らしいコンサートだった。掘り出しものの公演である。

【プログラム】 2014年6月8日

1、ドヴォルザーク 弦楽五重奏曲第2番
2、エネスコ ルーマニア狂詩曲第1番(N.Rudd編)
3、シューベルト ピアノ五重奏曲「ます」

 於:一橋大学兼松講堂

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