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2014年6月10日 (火)

ヴィオラスペース2014 ヴォーン・ウィリアムズ 組曲『野の花』 ほか 東京公演 コンサートⅡ 5/28

【概要】

前年より今井信子女史のサポートを受けつつも、アントワン・タメスティを新しいディレクターに迎えたヴィオラスペースだが、本年は歴史的な英国の名ヴィオリスト、ライオネル・ターティスとウィリアム・プリムローズの2人に関連するプログラムを組み、ヒンデミット、そして、バッハを中心に据えた昨年のイベントからコンセプトの拡張を図った。昨年の学生クァルテットによるヒンデミットの弦楽四重奏曲ツィクルスのような骨組みは失われて、やや企画規模を凝縮した感じはあるが、それでもヴィオラ好きには堪らないイベントという点では今年も何遜色ないものに仕上がっている。私は28日「コンサートⅡ」の1公演だけになってしまったが、当初の予想よりも奥のあるコンサートになっていて、深い感銘を受けた。

【2本のヴィオラが描く2つの国】

まずは、ジョージ・ベンジャミンの『ヴィオラ、ヴィオラ』を前回のコンペティションの優勝者であるカン・ウェンティンと、第3位の牧野葵美で演奏した。ベンジャミンは1960年生まれの作曲家で、ある意味で英国を象徴する「天才」の持ち主で、早い時期から活躍した。現在も、まだ50代と若いのだが、作曲、教育、演奏の各分野で世界的な活躍をみせている。弟子としては売り出し中の藤倉大がおり、師匠譲りの早熟で、英国を主な拠点にインディペンデントな活躍をみせているのは周知のとおりだ。彼についてはしばしばブーレーズの影響が指摘されるが、今回の作品を聴いてみると、こと器楽の分野においては、むしろベンジャミンの影響が濃厚であることがわかる。『ヴィオラ、ヴィオラ』をベンジャミンに委嘱したのは東京オペラシティ文化財団で、ホール完成を記念して、当時の芸術監督であった故武満徹氏から友人のベンジャミンにオファーされた。演奏は今井信子とユーリ・バシュメットのデュオが想定され、実際、1997年に2人の演奏で初演されている。日本とは縁のふかい作品を最初にもってきたわけだが、この演奏会の隠れたテーマのひとつには「英国と日本」というキーワードもあった。

実際の演奏は、若い2人が息のあったパフォーマンスで立派に弾き上げた。プリモをカン、セコンドを牧野が弾いたのだが、特にカンは年を追うごとに、もとから優れていた技術的完成度に加え、表現的な柔らかさが飛躍的に高まっているのを感じる。ユニークなアイロニーも感じる作品だが、演奏中は笑顔ひとつ見せずに女王の風格を保ち、常にプリモのプライドをもって演奏していたようだ。よく伸びて、隙のない、安定したゆたかな音色はどのヴィオリストからも羨ましがられるようなものだろう。この天才と比べると、さすがに牧野の資質でも見劣りする部分があるとはいえ、並みの弾き手なら、『カルミナ』のフォルトゥナのような女神には近づくことさえかなわないはずだ。しかし、牧野もさるものだった。3本の譜面台とスコアを挟んで、左右に分かれた2人はとにかくも、対等に向き合ったのである。

作品は2本のヴィオラをいわば、ひとつひとつの国として描いている。張り合うときもあれば、助け合うときもあるが、戦争のような恐慌状態を来たすことは決してなく、互いへの敬意を常に距離を保ちながらも抱きつづけることがきわめて重要になってくる。序盤の丁々発止につづき、中盤は対決ムードが漂い、それぞれが良さを出し合うなかで成立する音楽のように思える。一時、プリモが交代するところでは、もとのプリモ奏者がふかく退けば退くほど、いっそう、その魅力がハッキリするところが面白かった。終盤は様々な形で偽終止を繰り返し、変化がなくなっても偽終止のリピートがつづいて、何回目かでようやくおわるのだが、もしかしたら、それは奏者が好きなだけ引き延ばせることをいみするのかもしれない。このことから、最終的にはジョークでおわることになっていると見做すこともでき、本当に奥のふかい作品と思えた。

アプローズに応え、ようやく柔らかい笑顔をみせたカン。スタイルが良く、それを際立たせるタイトなブラック・レザー・ドレスに敢えてアクセント・カラーを入れず、黒のローズだけが胸もとを飾るという衣裳は魅力的で、厭でも頑丈な華やかさを浮き立たせる。これは、いかにも彼女らしい演奏姿勢と見合ったもので、いっそう印象に残りやすかったが、テレビマン・ユニオンのページに掲載の動画をみると、この衣装は昨年、着ていたものと同じである。

【レベッカ・クラ-ク】

2曲目にはヴィオラとクラリネットという珍しい編成によるレベッカ・クラークの『前奏曲、アレグロと田園曲』という作品が演奏される予定だったが、演奏者の篠崎友美が急病でキャンセルという事態が出来し、急遽、タメスティ監督自身が有吉亮治の伴奏で、同じ作曲家のソナタから第3楽章を演奏することになった。

レベッカ・クラークは1886年生まれ、ターティスの弟子で優れた演奏家でもあり、作曲家としてはスタンフォードに師事し、同門では先のベンジャミンよりも先輩で、ヴォーン・ウィリアムズの後輩に当たる。1979年まで寿命があるが、クラークの時代には女性が作曲することへの風当たりが特につよく、戦争も激しさを増す1941年を最後に、作曲からは身を引くことになったのだという。上記の曲はその最後の時期の作品で、独特の味わいをもっており、篠崎に加え、クラリネットが元N響首席奏者で、我が尊崇する横川晴児氏だったことから残念さも大いにあったが、タメスティの演奏ならば、これは悪かろうはずもなかった。先日、清水直子の演奏で聴いたばかりの作品であったが、彼女には悪いが、まったくモノがちがう演奏というほかはない。記事を書いていないことからもわかるように、その日の演奏からは、私はクラークに対する確固とした印象をイメージすることができなかったのだ。

タメスティの演奏からは、彼女がいかに感情ゆたかであり「、それを作品のなかにエレガントに写し込んでいく天才であったかがよくわかる。レベッカの才能は、ある意味ではバロック的なものである。つまり、音楽自体が言葉の機能をもっているような、そんな瞬間をたくさん感じることができる。ただ、音型がどうこうというよりは、唇をそのまま読んでいる(読唇術)ような感覚もする。慎重に企図されたアーティキュレーションで大事に弾いた前半部分から、ピアニストの煽りを上手に拾いながら力づよく決めた終盤戦まで、同曲は21日に名古屋で披露したばかりだったとはいえ、独特の緊張感がつづき、昨年のヒンデミットの再現をみた感じがした人たちも多いことだろう。有吉のパフォーマンスはヒンデミットのときほど嵌らず、この作品では動きすぎの感もなくはないが、かといって不快感を誘うほどのものではなく、タメスティとの相性はかわらず良い。監督自ら穴を埋めた心遣いの素晴らしさ、期待どおりの妙技、力の入ったパフォーマンスに会場のヴォルテージはいきなり最高潮を迎えた。そして、少しばかりだが、レベッカ・クラークという作曲家の格別な資質についても意識は及んだかもしれない。

【愛情】

このステージのあとは、4人の奏者が一緒に舞台に上がる。上手にはメゾ・ソプラノの波多野睦美とリュートの金子浩、下手には今井信子とピアノの草冬香である。まず、波多野組がダウランドの歌曲を2曲うたい、その2曲目からインスパイアされたブリテンのオマージュ作品を今井組が演奏するという趣向であった。その作品はプリムローズのために作曲され、1950年、彼と作曲者のピアノによって初演。さらに、70年には改訂され、その後、弦楽合奏の伴奏によるヴァージョンまで編まれたという。

前半のメイン・イベントといえる、このプログラムで、まず印象ぶかいことはバロックとヴィオラの共通性だ。つまり、それは表面的な華やかさを追うことなく、じっくりと内側から聴き手の内面に浸透していくという重要な特徴である。波多野はたった2曲の出演ながら、それぞれの作品の多様な表情を存分に引き出して、丁寧に歌い上げた。波多野のパフォーマンスは昨秋、『フィガロの結婚』のときはトラブルがあって残念なことになったので、今回、すこぶる好調だったのは嬉しいことで、彼女らしい深みのある発声を聴けたのも幸いだった。英語は僕たちも学校で多少は習っていることから、他の外国語に比べ、言葉の美しさや印象も理解しやすい。奥ゆかしくも官能的な表現から逆様に生じる ’shadows’’darkness’ などという言葉が、哀切な『流れよ、わが涙』(A)のイメージを支配するように波多野は歌っていた。

一方で、『もし私の訴えが(If my complaints could passions move)』(B)は歌詞というよりは、響きに注目した歌唱に思える。アイロニカルな歌詞がついているが、波多野&金子はその毒の部分を極力、隠しておくことで、前曲とのコントラストを明快にしていた。大勢としては悲恋を表現する曲として歌われることが多いように思うが、今回は、それを下地に人間のこころが強くなるという明るさの面が優勢とされた。これはNMLでざっと調べてみたところでは、歴史的な名歌手(CT)、アルフレット・デラーによる薄明かりが射すかのような解釈にちかいものだが、それよりもさらに楽天的なようである。波多野は普段、つのだたかしと組むことが多いが、この日の伴奏者、金子浩は日常性に根ざした肩の凝らない表現を好むつのだと比べて、いささか格調高い劇的表現を静かに演じることを好み、ダウランド歌曲に独特の味わいを付け加えていた。

ブリテンの作品『ラクリメ~ダウランドの投影』は、Bを基礎にしながら、Aからの引用が挿入されるが、単なる編曲作品ではなく、チェロの無伴奏などで、ブリテンが時折みせる晦渋な書法も含まれている。言葉のイメージはいったん脇に置き、純器楽的な書法が優先しているが、そこから今井は丁寧に歌を選び出すことも忘れない。「時代」対「時代」が尖鋭にぶつかる表現のなかには、同時代のショスタコーヴィチの作風を援用するような激しい部分もあり、そんな部分では隣で聴く波多野も、なんだか複雑な表情をしているように見えた。疑問というよりは、驚きだろうか。時代を行き来する多彩な表現。序盤と終盤には明らかにバロック的な編曲部分があり、結局のところ、そうした表現がもっとも美しく、こころに響くというオチになってはいるのだが、そうした部分ではバロック組も納得の表情をしている。Aからの引用部分はリュートの見せ場になっており、こうしたものも含め、ブリテンの止みがたいバロックへの憧憬が節々を埋め尽くしている作品であるが、特に、最後に今井が厳しい技巧的表現からバロックのモティーフに戻って、いかにもヴィオラらしい音を彼女らしく素直に出すときに、我々のテンションはクライマックスに達したといえるだろう。

常に笑顔を絶やさず、伴奏した草も含め、バロック側、ヴィオラ側4人の「愛情」が静かに浮かび上がる構成は見事で、ふかい涙は休憩の半ばぐらいまでずっと続いたのである。

【桐朋のオーケストラ】

後半は恒例となっている、桐朋の学生オーケストラを迎えての演奏となった。まず、パーセルの『シャコンヌ』を学生だけで演奏した。編曲はフランス・ブリュッヘンの弟子であるワルター・フォン・ハウヴェである。2日間のコンサートで、タメスティは今回、ターティスとプリムローズの名前に引っ掛けて、英国の主要な作曲家を幅広くカヴァーする内容を構成したが、ヘンデル以前のブリテン島ではもっとも重要な作曲家、パーセルを取り上げることには重大な意味があったろう。ただ、演奏自体に特別なインスピレイションは感じなかった。舞台下手の後方に通奏低音のハープシコード(チェンバロ)を置いているものの、かなり前列に位置する私の席でもまったく聴こえず、バランスを欠いたこともあったが。

次のウォルトンの協奏曲は、都響の鈴木学が独奏を務め、先の曲とは比べものにならない高い出来に仕上がっていた。所属のオーケストラではまだ披露していないと思うが、これは一刻も早くやるべきだろう。ヴィオリストにとったら誰にでも特別な曲であるとはいえ、鈴木はこの作品のことなら隅から隅までよく知っていて、自分にあった表現をよく研究しているのは明らかだ。冷静で安定した響きのコントロールはそのままに、構造の支点では頑強な粘りをみせ、力づよく響きを燃焼させながら、すっきりしたアーティキュレーションで、爽快な切り替えも楽しませる。第1楽章をはじめ、ハーモニクスの美しさは無類。音色も深く、緊張感に満ちていた。

オーケストラもこの世代では、まだ、豪華さのある曲に共感が強いであろうし、パーセルよりもずっと積極的で、華やかなパフォーマンスが独奏者を引き立てたという側面もある。ただ、近年の桐朋の学生はあまりにも素直で、ああやってみよう、こういうチャレンジもやってみたいという工夫はあまり感じない。ここ何年か継続的にみてきて、メンバーはどうも1-2年次くらいにある学生から選ばれているイメージがあり、それなら、指揮の原田幸一郎も経験の少ない学生にそこまでは求めないという姿勢をとっても当たり前だろう。しかし、年々、その生真面目さはむしろ増してきている感覚があり、例えば下野竜也が指揮してバルカウスカスの作品を演奏した2005年あたりと比較すると、個の欠損が激しすぎるのだ。独奏者と向き合い、この人の表現を上手に引き出すにはどうすればいいんだろう・・・という試行錯誤のあとはハッキリと窺われるのはよいことで、誠実な演奏姿勢かと思う。ただ、これが将来の音楽家としての音大生たちに求められる、理想的な姿勢なのかどうかは俄かに判断しがたいのではないか。

閑話休題。

【タメスティの広い視野】

メインはタメスティの独奏で、ヴォーン・ウィリアムズの組曲『野の花』という作品が演奏された。独奏部が多く、演奏時間は20分前後、オーケストラ以外に合唱によるヴォカリーズ(今回は桐朋の学生とコラボして、上野学園大のコーラスが初参加)がつき、なかなかオーケストラの演奏会では取り上げることが難しい条件がつく作品なので、こうした機会に聴けたことは貴重なことだったかもしれない。プログラム執筆のなかたあけみ女史によれば、この作曲家の「最高傑作とされる」ものとされており、実際、耳にするとその言葉は素直に首肯できるものでもあった。旧約聖書『ソロモンの雅歌』に収められた恋愛詩をモティーフとし、6つのパートに題辞が付されているということだが、作曲家にとって、これがどれほど決定的な要素なのかについてはわからず、個人的な意見としては、ほんのヒントのようなものにすぎないのではないかという見方をとる。

さて、第Ⅳ部では、日本の漁師さん達がうたう大漁節にちかい旋律が現れ、船が波に揺れるような反復のリズムをもつアーティキュレーションも相俟って、わが国と同じ島国としての共通性をつよく感じさせるものだった。このことは例えば、ブリテンの歌曲集『この島国で』などにも顕著に感じられる要素である。ただ、英国は緯度が高く、日本近海よりもずっと寒い海である分、北欧の作品と共通するような謎めいた雰囲気も同時にもっており、この要素はヴォカリーズによって象徴されていた。ソロモン王の恋愛譚についてはよく知らないので、あんまり気の利いたことも言えないが、少なくとも音楽には非常に爽やかな官能性が明快に流れており、ゆたかな可能性を秘めた作品の雰囲気からは多彩なイメージを引き出すことができる。例えば、大勢の人にこの作品を聴いてもらって、敢えて種明かしをしないでイメージを述べあうとしたら、きっと100人が100人異なったことを言うのではないかと思えるほどだ。一応、答えはあるのだろうが、あまりそれに拘泥する必要もない。

アントワン・タメスティという奏者の押しの強いパフォーマンスのせいか、前半は特に、ヴィオラ独奏のイメージの喚起力が前面に出る演奏姿勢が窺われた。だが、彼はいつも、誰かの動きをみて演奏することに音楽家としての本能を据えている。先の鈴木も独奏がながく休みとなる部分では、オーケストラのほうを振り返ってじっと見ているときがあったが、奇しくもタメスティも同じようにじっと向こうを見ているときがあって、この2つの姿勢が私にとって、音の出ている箇所以上に示唆的だったのも興味ぶかいことだ。また、演奏前にも面白いことがあった。といっても、譜面台の高さを変えただけであるが、もとから低く下げられた譜面台を彼はさらに下げたのだ。そういえば、昨年も彼は随分と低く譜面台を下げていたのを思い出した。そうして視野を広くとることで、演奏に自分以外の何かの要素を加え、幅をもたせたいと考えているのだろう。

無伴奏のときでさえ、何か自分以外のものと対話しながら、音楽を進めていくのが彼のスタイルだ。そんなとき、彼を厳しく見つめてくれるのは、きっと、神さまの存在であろう。彼の演奏は絶えず繰り返されるダイアローグに誠実で、いつもちがっているのが特徴である。

【過ちを乗り越え、絆を結ぶ】

そもそもひとつの楽曲に対して、ひととおりの演奏しかできないというのは愚か者である。対照的に、タメスティには幾通りものパターンがあるのだ。理想的な答えを知っているのに、それに代わる新しい答えの選択肢をいくつも用意している。今回の演奏の場合は幾分、抑えた解釈といえるだろう。彼は既に、日本人がどのような音楽を好むかを心得ているから、そんな表現を選ぶのかもしれない。キーワードとして、メリハリということが挙げられる。一方、なにが我々と決定的に異なるのかについても勘付いている。昨年のマスタークラスで日本の学生に教えるとき、彼はそう言えば早いのに「それは神さまのイメージだよ」とは決して言おうとしなかった。こういう些細なところに、人の考え方がよく表れるものである。

組曲『野の花』にも最後、宗教的な響きがある。そもそも素材は、旧約聖書から採られているのだ。そして、ヴォーン・ウィリアムズは民謡調の素材以外に、対位法やバロック音楽のような古い要素を洗いなおして作品のなかに組み入れたが、もちろん、こうしたものも信仰と関係がふかい。作品自体はミサ曲のように、直接、信仰と結びつくものではないとしても、タメスティが締め括りに選んだのは、こうした要素を踏まえて、英国と日本の絆をつよく感じさせることだったのではないかと思う。つまり、その前提となるのは「ちがい」があるということだ。そのなかで多くの音楽家や、私のような愛好家が悩むのはなんといっても、宗教的な見方に決定的な差があることではなかろうか。だからといって、タメスティは日本を西洋音楽から弾き出そうとするわけではない。むしろ、その逆だろう。ちがうからこそ、新しい絆が生まれる余地がある。実際、内田光子や今井信子、藤村実穂子、小澤征爾、武満徹、近藤譲といったような「異分子」が欧州の音楽を力づよく変えている(きた)事実があろう。アントワン・タメスティという音楽家は、いつも、そんなちがいを探そうとして周りを注意ぶかく睨んでいる。

ところで、ターティスとプリムローズを生んだ英国と日本は70年ちかく前、戦争という決定的な亀裂を経験した。確かに、我々のあいだに過ちはあったのだ。

今回、敢えてヴィオラスペースでは再三、演奏され、コンペティションでも課題曲の柱になっているウォルトンの協奏曲を取り上げたところにも相応の意味があるかもしれない。つまり、この作品はライオネル・ターティスのために若きウォルトンが筆を揮ったものであるが、ターティスは当初、この作品の価値を認めることができず、衝撃を受けたウォルトンはヒンデミットに相談し、彼の独奏によりようやく初演を迎えることを得た。ターティスのような巨匠でさえ、作品の価値を見誤ったということになるが、その過ちに気づくや、作品に改めて十分な敬意を払うようになったことはさらに重要なことである。過ちを乗り越え、絆を結ぶということが、今回のイベントのもうひとつの隠れたテーマだったとすればどうだろう!

今回の作品の多くは日本だけではない、大きな過ちの連鎖がつづく時代背景のなかで書かれ、派手な作品でも、どこか一枚のヴェールを被って悲しみがあって、先日、紹介した鶴園紫磯子の言葉を借りれば、多種多様な「ペーソス」を感じさせるものが多い。レベッカ・クラークについていえば、彼女は明らかに傑出した、時代的価値のある作曲家であったにもかかわらず、戦争だけではなく、性差別とも闘わなければならなかったという事情がある。しかし、多かれ少なかれ、20世紀の音楽家は人類規模で増幅される大いなる過ちのなかに曝され、その苦しみのなかで才能を育てられたともいえるだろう。ダウランドの歌曲の題名、「流れよ、わが涙」「もしも、私の訴えが誰かのこころを動かせるとしたら」は奇しくも、こうした悲劇をダイレクトに受け止めてくれる音楽の器量を象徴している。あのときの涙は、こうして周到に用意されたものだったのかもしれない。ここで、ジョン・ダウランドについても語りたいことがあるが、中途半端な知識であり、あまりにも演奏会の内容からかけ離れてしまいそうなので自制しようかと思う。

いずれにしても、毎年、質の高い公演を提供してくれるヴィオラスペースは、今年も期待に違わなかったのだ。そのシンプルな事実だけを、最後に強調しておきたいと思う。補足として、今年はプリムローズの生誕110年を祝うべき記念の年、そして、来年はライオネル・ターティスの歿後40年のメモリアル(翌年が生誕140年の記念年)が控えていることを付け加えておきたい。この2人がいたからこそ、今日、ヴィオラの可能性が大きく開かれているというのは、間違いのない事実のようである。

【プログラム】 2014年5月28日

1、ベンジャミン ヴィオラ、ヴィオラ
 (va:カン・ウェンティン、牧野 葵美)
2、R.クラーク ヴィオラ・ソナタ(第3楽章)
 (va:アントワン・タメスティ pf:有吉 亮治)
3、ダウランド 『流れよ、わが涙』『もしも私の訴えが』
 (Ms:波多野 睦美 lt:金子 浩)
4、ブリテン ラクリメ~ダウランドの投影
 (va:今井 信子 pf:草 冬香)

5、パーセル/ハウヴェ シャコンヌ
 (桐朋学園オーケストラ cond:原田 幸一郎)
6、ウォルトン ヴィオラ協奏曲
 (va:鈴木 学 管弦楽/指揮:同)
7、ヴォーン・ウィリアムズ 組曲『野の花』
 (va:A.タメスティ 管弦楽/指揮:同)

 於:上野学園大学石橋メモリアルホール

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