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2014年7月16日 (水)

東京シンフォニエッタ ベンジャミン 曙光/クセナキス ジャロン ほか 音楽・演奏の変遷~20年の時を経て 7/3

【演奏会の概要】

日本にある常設の現代音楽アンサンブルを代表する団体は2つあり、それは東京シンフォニエッタとアンサンブル・ノマドである(ほかに、アール・レスピラン、アンサンブル室町、エクスドットなどの団体がある)。以上2つのアンサンブルはきれいに特徴が分かれており、アンサンブル・ノマドはギタリストでもある佐藤紀雄氏のゆたかな発想力に基づき、ミニマルからロックにちかいものまで分け隔てなく、自由に取り上げているのに比べて、クラリネット奏者でもある板倉康明氏を芸術監督に迎える東京シンフォニエッタは、板倉がコツコツと築いてきた人脈を背景に、IRCAM系を中心とする現代音楽の歴史を丁寧に固めてきている感がある。そして、ノマドは東京オペラシティのリサイタルホールをよく使用し、オペラシティ財団を後ろ盾にしているようにみえるし、板倉のグループはこの日、サントリーホール/ブルーローズを会場にしたことからもわかるように、サントリー芸術財団と関係が深そうである。

その東京シンフォニエッタも20周年のシーズンを迎え、過去の演奏会の復刻のような内容をやることになったらしい。ベンジャミンを皮切りに、リンドベルイ、グリゼイ、クセナキスという第1回公演の復刻ラインナップをみると、1974年~1986年までの作品をカヴァーしており、いまからみると、もう30-40年ちかくも昔の作品になる。ということは、20年前であっても、初演から10-20年ほどの歳月が経っていたとわかるだろう。それだけ、こうした音楽を取り上げることには障壁が大きかった事情が窺えようというものだ。個々の作曲家について見てみると、もっとも若いベンジャミンは20代前半の作品で、グリゼイでも30代に入ったころ、ひとりクセナキスの作品のみが60代の重鎮になってからの作品という具合である。

【ターナーとベンジャミン】

この時期の作品は人間性の範疇を逸脱し、見たこともない新しい種類の音響や、人間が普通、直視するのを避けてきたようなもの(騒音など)に焦点が当てられていたような気がする。そのなかで、ベンジャミンの作品はまだ、人間らしい怒りや疑問と切り離されていない。解説を読むと、『曙光』”At first light”という題名はウィリアム・ターナーの未完の名画『ノラムの城 日の出』に基づくとされるが、ベンジャミンが触発されたのはその表面的な印象ではなく、これを生み出す内面の激しい叫びでのほうであったのではないか。

ターナーの絵は一瞬、見えるはずのものが見えないという点で、ある種の不快感を呼び起こすかもしれないが、その一次的なリアクションに堪えて、よく目を凝らし、見れば見るほどに想像力が膨らんでいくのを感じることができる。この絵には50年以上も前に、ちょうどベンジャミンと同じぐらいの齢のころ、写実的な作風で書かれた習作があることがよく知られている。もちろん、それだけでも十分に美しい絵ではあるが、後世のものと比べると、多彩なイメージの広がりに欠けているのは明らかだ。積み重なる創作の旅のなかで、ターナーは一瞬でわかるものには一瞬の価値しかないことを学び、自分のなかのより深いところにあるものを引き出すことができる表現を模索した。この作品は同じ画題で書かれた作品群のうちで最後期のものであり、傑作として名高いものの、未完であることが知られている。スペクトルを表現に組み入れた発想は、のちに音楽にも導入されるものだが、様々な意味で先駆者であったターナーへの想いを含めて、作品は特別な意味をもっていると考えられる。

【遭遇、受容と再遭遇、解決】

響きの記憶を辿っていくと、私のなかに残るのは下手に配置された打楽器の役割である。ベンジャミンも他の作曲家と同じように、耳障りなノイズから出発したが、そのなかでも顕著なのが打楽器の響きであった。率直にいえば、全体のなかでいささか煩い存在である。全体的に強度が強すぎて、バランスを得ない。ウッドブロックの響きなどはユーモラスなものでもあり、若干、東洋的なイディオムに関心をもっていたフシも窺われるが、アンサンブルの不釣り合いに慣れるまでには時間がかかった。作品は大きくいって3つの部分に分かれるとのことだが、その構造は感覚的には若干、ずれて観察される印象をもった。それは遭遇、受容、再遭遇から解決というイディオムによって区切られていく。この作品ではいうまでもなく、第1の「遭遇」の過程に聴き手にとっての重大な課題が潜んでいる。ただ、最後のクセナキスほどは超越的でなく、多少、こころを開くタイプの聴き手ならば、受容に至るまでの道程はさほど険しくもない。

受容とともに、私たちはこの作曲家のふかい内面へと引きずり込まれていく。いかにも優しそうなこころの内に比べても、この20代前半の作品では時代に対する感覚のほうがより強く出ている。彼は怒りというよりは、煩悶に包まれているようで、時折、それは宗教テーマに接近するようでもあるが、またぞろ離れていってしまう。我々はその孤独な魂とじかに接触すると、恐ろしく哀切な気分になってくるのだ。この流れにも慣れてきたところで、第3のムーヴメントに移行する。打楽器はピアノの内部奏法とコネクトされ、これを機に私たちは「受容」のときに出遭ったものと再び向き合うことになる。これもまた、辛い経験だ。この人のなかに、どうしてこれだけ苦しい要素が芽生えるのか・・・否、芽生えねばならないのかと思うと、もう堪らなくなってしまう。そこからが、すこし長い。「解決」の神秘的な様相はそれ自体が生き物のようであり、この作曲家のゆたかな未来を眩い光で照らしているのではなかろうか。

東京シンフォニエッタの演奏は、特にこうした内面的モティーフを強調することはなく、ドライである。全曲を通じて、その姿勢に変わりはないが、彼らの演奏に賭ける情熱は、アンサンブル・ノマドとはまた異なっているのかもしれない。彼らの理想とするものは、鏡である。スコアに書かれたことを、客席へと映す鏡なのだ。そう考えてみれば、ベンジャミンの作品がいかにこの時代、聖別されたものであるかがわかるような気がする。それは弟子の藤倉大にも上手に受け継がれているが、師匠の誠実さと比べれば、彼はまだ子どものような段階にしかないのが明らかだ。

ベンジャミンは、この時代の明らかに傑出した天才にちがいない。

【リンドベルイの解体】

ほかの作品はよくできてはいるものの、これほどの深い内面的衝撃を伴うものではない。リンドベルイの作品はそもそも、システムの醸成段階に生まれた副産物のようなものであるようだ。IRCAMの歴史やその存在意義について、私は誰かよくわかった人の解説を読みたいと思うのだが、ほんの一握りではあるが、作品に接してきて思うことは、IRCAMとはコンピュータ・システムや言語を媒介とした音楽テクノロジーの未完の結晶体であり、ガウディの遺したサグラダ・ファミーリアに寄り添って、世界の優れた石工たちが腕と知恵を競っているのと、同じような様相が窺えるということである。そのときどきのシステムの構築に際して、それに貢献したアーティストたちは科学の論文のような形で、一定の作品を手にしていく。だが、彼らの仕事は一生、完成しそうもないガウディの構想と同じで、決して満たされることを知らない完璧さと向き合っている。

リンドベルイの作品はあまり好みでないが、この”UR”は彼の生み出した音響システムのなかでは、比較的、親しみやすいものと言えるのではなかろうか。作品はまず、目の前にはない録音された音層から始まっている。システムの詳細はわからないが、この作品は事前に録音された架空的な音と、目の前で響く生の響き、さらに、そこから合成した第3の響きの融合によって層化されている。これら3つの関係をいちど聴いただけで簡単に分析することはできないが、”UR”は結局、3つの層を使って聴き手の感覚を揺さぶり、時間的、空間的な混乱のなかから、ひとつの衝撃を引き出そうとするものであるように思われた。

録音ではピアノの存在感がつよく、ピアノ五重奏的な味わいも著しいが、今回の生演奏ではその面にほとんど気づかず、それがシステムの入力装置のような役割を担っているように聴こえた。実相ではクラリネットを中心とする立体的な音像と、機動的なストリングスの質的な対立が耳につくが、ここにエレクトリックが絡むことで、聴き手の関心はまた分散していく。私の場合、この分散から適度な解を得るのに失敗したという可能性もあるが、そもそも、そのように聴き手の感覚を解体することに作曲者の意図があったとすれば、リンドベルイは一定の成果を得たことになろうか。

【演劇的なグリゼイ作品】

グリゼイの『周期』は、より巨大な作品『音響空間』の第2部に当たり、ヴィオラ独奏の小品としても名高い『プロローグ』に次ぐパートである。何年か前に、『音響空間』が通しで日本初演されたが、私はデカいものほどありがたがる我が国の風潮に馴染まず、この公演は早々に完売となったこともあって、惜しくも聴いていない。『プロローグ』はヴィオラのコンペティションなどでも、よく演奏されるので身近である。さて、本公演のプログラム解説にある「しり取り」という表現は言い得て妙だが、『プロローグ』のおわりからこの作品へは自然に導入が進むと思われる。音響やスコアの分析は得意分野でないので放棄するが、この作品にはまったく別の相からみられる特徴がある。途中、いきなり演奏が中断して、ヴィオラ奏者が所在なげにあたりを見回し、何事もなかったかのように、チューニングからやりなおす部分である。

このような表現によって、グリゼイが何事を表現したかったのかは定かでないが、この作品には一種の演劇的要素があるということは確かである。本公演では、そうした部分を多少、脚色的に扱ったのだが、肝心のヴィオラ奏者、吉田篤の演技力は甚だ形式的なものに止まり、明らかな大根役者であることは残念だが、それはそれでぶっきらぼうの味わいがあるというものだろう。全体を通してみれば、ヴィオラ系から、コントラバス系(そして、その奏者が『吉田』秀なのも偶然とは思えない偶然だ)に作品が移行し、のちのダイナミックな拡大を連想させる要素もあるにはあるが、先の演劇的な部分から先ではまた、少しずつヴィオラ系に主導権が戻されていくようでもあり、少なくとも『周期』の段階では、まだ室内楽的な要素が丁寧に拾われるべきであることが、東京シンフォニエッタの表現からみえてくるようだった。

【クセナキスの砂漠】

最後は、クセナキスの『ジャロン』が演奏された。この作品で感じられるのは、ベンジャミンとはまったく対照的な要素である。つまり、徹底的な人間性の排除。それどころか、秩序を伴うすべての要素の除外。作曲家や時代に対して、聴き手が決して関心をもたないようにすること。なぜ、そのような音楽をクセナキスがつくらねばならないのかはわからないが、彼の孤独はベンジャミンよりもはるかに根深いようである。現代音楽において、「孤独」や「疎外」はポピュラーなテーマだが、それらの感覚に対して一切の理解を求めない点でクセナキスの作品は異質である。つまり、私は彼の作品が理解できなかったと言っているのであろうか。そうでもあろうが、にもかかわらず、私はこの作品にもっとも保守的な様相を感じざるを得なかったのだ。

現代音楽は未聴感を切り開き、新しい感覚に旅する音楽ともいわれるが、少なくとも『ジャロン』は何らかの新しい世界を切り開くエネルギーを単独ではもっていない。私が感じるのは、その閉鎖的な音響のパターンであり、発想の驚くべき自由さにもかかわらず、自分のいる場所がすこしも動じないという不思議な現象についてである。これこそが、いわばクセナキスの重大な特徴といえないであろうか。この作品はリンドベルイの”UR”と同じ年に書かれているが、いわば、これから先に行くためのチケットのようであるリンドベルイの作品と比べると、クセナキスの作品はもう、数世紀も前からそこにいて、今後は、梃子でもそこから動きそうにない大蛇のような姿をしている。

クセナキスの作品は安定して、手で触れることができる・・・とでも言ったら、可笑しいのであろうか。あるいは、人々はリンドベルイのようなところから出発して、クセナキスのような境地に至るのかもしれない。彼もIRCAMのシステムに深くコミットした1人だが、この空中楼閣と『ジャロン』の間にはいかなる関係も見出せないだろう。この時期の彼の模範としたのは、砂漠に暮らしたランボーあたりの精神であったのだろうか。ハープが重要な役割を担っているというが、その響きは砂に埋もれたように感じにくい。もはやクセナキスの前方に、進むべき空間は広がっていなかった。ただ、荒涼たる砂漠があるばかりである。

このような場所から、東京シンフォニエッタがスタートしたのは、また象徴的なことだったかもしれない。今日、彼らが無事に、音楽家として生存していることは素直に喜ぶべきことだろう。音楽家として、板倉は確かに優れているであろうが、それ以上に、人間としてあまりにも誠実な人柄は2007年、サイトウキネンのコンサートで江村哲二氏を追悼するときにも、厭というほど感じられた。私にとってはそれが目当ての松本行きであり、忘れがたい機会のひとつとなった。今後とも、板倉氏の誠実は、この国の現代音楽を勇気づけるものでありつづけるだろう。

さて、演奏会はアプローズを受けるのもほどほどに、音楽家がさっと引き上げておわった。

【プログラム】 2014年7月3日

1、ベンジャミン 曙光
2、リンドベルイ UR(ウア)
3、グリゼイ 周期~音響空間
4、クセナキス ジャロン

 於:サントリーホール(ブルーローズ)

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