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2014年7月30日 (水)

山田和樹 メンデルスゾーン 交響曲第2番「讃歌」 ほか 武蔵野合唱団 主催 with スイス・ロマンド管 7/9

【山田和樹とスイス・ロマンド管】

山田和樹は代演を契機に楽団員の支持を集め、スイスの名門、スイス・ロマンド管弦楽団の首席客演指揮者に就任した。最近、当初の2年契約が延長され、倍になったことから、それが一時のものではなく、良い関係としてつづいていることが窺われる。エルネスト・アンセルメの手兵として高名なスイス・ロマンド管だが、時代の波に削られ、往時の輝きを失っているのは明らかで、驚くほどレヴェルの高いオーケストラではない。名前や面構えから判断して、人種のるつぼのスイスのなかでも、東欧、ロシア系、そして、イタリア系、ドイツ系の奏者がひしめきあっているように見受けられ、演奏を聴くと、それらの個性のバラツキはいよいよ明らかである。ところが、山田はそうした差異がぶつかり合うことを畏れず、よく聴きあって、互いに認めあうというレヴェルまでオーケストラを導くことに成功した。

無論、その功績の半ばは前の首席指揮者であるマレク・ヤノフスキや、現在のシェフ、ネーメ・ヤルヴィの功績でもあろうが、楽団員の反応をみると、彼らはよりステイタスの高いこれらの指導者よりも、山田のほうへ素直に心服しているように見えた。現実問題として、日本と図太いコネクションを持ち、2度の来日ツアーを実現させているという音楽外の事情もあったにせよ、そのなかで、山田が母国で指導する合唱団=武蔵野合唱団の主催公演にも参加するべく、厳しいスケジュールを調整するなど、楽団が特別の苦労を払ったのもひとえに若いマエストロのためであろう。この日は同時に、本年のスイス=日本国交樹立150年を祝う機会でもあったので、それに相応しい演目がチョイスされてもいた。

【世界の音楽からのイイトコどり】

すなわち、前半の作品は日本の抒情歌5編を選んで三善晃が合唱用に編曲した作品であり、これを鈴木輝昭が豪華なオーケストラ伴奏に再編曲したものであった。抒情歌は『朧月夜』『茶摘』『紅葉』『雪』の四季を素材とした4曲に、プロローグとして『夕焼小焼』を加えた5曲である。プロのオーケストラにとっては、技術的には比較的、優しいものだが、スイス・ロマンド管は我々の旋律に十分な敬意を払ってくれて、コーラスの声にしばしば興味ぶかげに耳を傾けたりしながら、丁寧な演奏に徹する姿が見て取れた。鈴木の編曲では特に、日本の抒情歌が歴史が浅いものであるだけに、かえって世界の歌からのイイトコどりになっている事情がよく読み取れた。

よく知られているように、日本の唱歌の歴史は明治時代以降のものである。文部省の音楽取調掛で伊沢修二がアメリカの音楽教育の専門家、ルーサー・メイソンらの助言に基づいて、初等教育用に整備を進めたのが初めであった。我々が懐かしいと感じるような抒情歌のほとんどは、西洋から導入された音楽システムのなかで導入され、やや日本風にアレンジされたものにほかならない。例えば、『雪』は通常、唱歌としてうたわれるよりも快速なテンポをとることで、ロシア民謡のような性格が明らかになっている。ロシア、東欧系の楽団員なら、きっと彼らの故郷にあった響きを思い出したのではなかろうか?

冬の『雪』でおわっても問題はないが、三善はさらに『夕焼小焼』を付け足して終曲にしている。家路をめざす夕焼の田舎の光景は、その具体性以上に切実な郷愁を感じさせはしないだろうか。四季の4曲は特に秋・冬で手の込んだ仕掛けを施しながら、それでも不思議と素朴な印象をもたらすが、『夕焼小焼』はいささか異色である。鈴木の編曲はこの作品において爆発した三善のイマジネイションの深さを徹底的に掘り起こすものであり、それを効果的に表現するためには、ブラスとコーラスの国=イギリスの雄大なイメージが援用された。山田は自然ではあるが、合理的なヤマを築き、鈴木のこうしたアイディアに完璧な答えを出したといえそうだ。

【オーケストラから自然さを引き出すコツ】

後半は、メンデルスゾーンの交響曲第2番「讃歌」の演奏であるが、この作品も先日のブルックナーの交響曲第6番と同じように、ヘンな作品である。前半3楽章は管弦楽だけによる演奏で、後半は9曲構成のカンタータで合唱と3人の独唱者がつく。ベートーベンの交響曲第9番の先例があるとはいえ、それとはまた異なるインディペンデントな作風である。クールト・マズアの録音など聴くと、その素晴らしさもよくわかるが、以前、東京アカデミッシェカペレの演奏(指揮は広上淳一)を聴いたときには、正直、意味がわからなかった。断っておくが、当時、このアンサンブル&コーラスには飯守泰次郎、高関健、山下一史、ゲルハルト・ボッセなど、錚々たる顔ぶれが定期的に出入りし、優れた演奏集団だったはずである。この作品を見通しよく演奏することは、相当、難しいのだと思われる。

この作品を演奏する山田の哲学を読み解くうえで、重要な鍵となるのは自然体というキーワードではなかろうか。メンデルスゾーンは我々とはちがう文化的背景をもっているので、即座にそれとはわからぬものだが、彼の音楽には日本の唱歌のような素朴な印象がある・・・彼の想いは、そこに集約していくように思えてならないのだ。休憩後、エール交換のように吹き始められたテーマが、ヒントである。スイス・ロマンド管が昔の栄華をどのくらい現在に留めているのか、そんなことは知らない。しかし、このテーマを聴くかぎり、彼らの根もとに染みついたものは数百年の歴史を踏み越える力があった。そして、スイスという複雑な地勢を思わせるところもある。欧州の歴史あるオーケストラがときに醸し出す鄙びた音色と、輝かしいスイスの山々、そして、それを越えたアドリア海を照らす光のまばゆさ。

結局、山田はこうした要素を丁寧に煮詰めるだけでよかった、ちょうどホルスタイン牛の乳をやさしく搾るときのように。

だが、このオーケストラを操るには、ちょっとしたコツがありそうだ。今公演でフルート首席を務めた、見かけとしてはイタリア系の、小柄で、アクションの大きな弾き手は、先に述べたような雰囲気とはちょっと異質なものを感じさせる。アンサンブル全体のなかでも、かなり目立つ技巧的な特徴をもっているものの、音楽的なセンスでは大多数の団員とは異なっており、一言でいえば、カンタービレが踊っている。例えば、チェロ2列目で弾く、若干、学者肌という感じの女性奏者が怪訝な表情で彼の演奏を聴いている。彼女は全体のなかでも、山田の音楽にもっとも興味ぶかいような態度をとっているプレイヤーのひとりであった。こうした場合、山田は矯正的な態度をとることなく、彼のスタイルを作品に沿って生かす道を探すことを選ぶようだ。直後のクラリネット奏者が、彼の真似をして、独特なフレージングでつづけるのがその証拠である。そうかといって、メンデルスゾーンがヴェルディになってしまうわけではない。良いアンサンブルには、吸収力があるということの適度な例である。

全体としては、ひとつひとつの楽章が、1枚の絵のように扱われているというべきだろうか。その手法はベートーベンの交響曲第9番よりは、バロック音楽の構成にちかい自由さを思わせる。言語を思わせるというほど繊細ではないが、よく磨かれた丁寧なアーティキュレーション。3つの楽章からなる第1楽章は旋律の太さを遺憾なく生かし、堂々たる演奏に仕上がっている。

【ユーモラスなメンデルスゾーン】

山田は多彩な活動を展開し、こうして外国のトップ・オーケストラを率いることもあれば、日本のアマオケや合唱団でも指導をつづけている。一方、トップ・ポストにはつかず、「首席客演指揮者」のような純粋に音楽的な関係だけを好むのも、そうした活動を手放したくない想いがあるからだろう。首席指揮者/音楽監督/芸術監督のようなポストに就けば、政治向きや経済的な活動、楽団運営の責任者、管理職、顔役としても振る舞わねばならなくなるからだ。自然、我々が彼の指揮に接する機会も多いが、そのなかで著しい特徴は、山田が常にアンサンブルのなかに溶け込んで先頭に立っていることと、最近の若手指揮者にしてはシャープになりすぎず、柔らかくユーモアのあるフォルムを自然に引き出してくることだ。ネゼ・セガンにしろ、ハーディングにしろ、ネルソンスにしろ、ノーブルで貴公子然とした雰囲気を演出し、それが音楽とも無関係ではないようだが、山田はひとり咄家さんのような雰囲気を醸し出しており、独特なムードで音楽が仕上がってくるのだ。

そういう目でみてみると、メンデルスゾーンの音楽にはユーモラスなところが大きい。もちろん、宗教的なモティーフは最初のファンファーレが響いてから、長い旅を経て、最後にそれが回帰するまで、作品全体を律しているのは言うまでもない。その素朴なモティーフに加えて、メンデルスゾーンはあの手この手で、人々が見たこともないような発想を出そうとして、知恵を絞っている様子が目に浮かんでくる。例えば、第1部の中間楽章では、木管楽器を中心とする根太くロマンティックな旋律線が持続し、しかも、シューベルトの「グレート」的な繰り返しとずらしの連続だけには終わっていない。第3楽章は型通りのトリオ形式だが、ときにオペラの一場面をみるような多彩さであり、このなかの動機が第2部で登場するのはもっともなことであった。

【独特のイメージ】

ベートーベンの「第九」でも、合唱が始まると、管弦楽の味わいが後退してしまう演奏は実に多いが、この日の演奏では、第2部に入り、管弦楽も合唱も同様に活き活きとしてくるのが特徴だ。武蔵野合唱団は新国立劇場合唱団や東京オペラシンガーズほど技術的に巧みでないが、発声が伸び伸びとしており、声量がゆたか(人数が多い)で機動性も十分に優れている。しかし、山田はそこへもってきて、合唱団の面倒をよく見てくれるので、言葉と音楽の結びつきがまことに自然である。例えば、ティーレマンが来日公演で「第九」を振った映像をみたとき、ほとんど合唱は指揮していないようにみえて、実際、それらの間に有機的な関係を見出すのが難しかったのとは対照的である。

そのなかで、独特なアイディアもみられた。例えば、第3曲の男声独唱によるレチタティーボを受け継いで、合唱が同じ歌詞をうたうときは、そのきれぎれのモティーフで子音を極端に立て、人々がこころのなかで静かに、しかし、ハッキリと祈りの言葉を「唱えて」いる(saget)ことを紛れもなく表現するのである。この部分ではオーケストラの響きが重要な意味をもっていて、コーラスは歌よりも雰囲気に徹する。こうしたバランスがうまくいかなければ、作品は混沌としたフォルムの複雑さを脱せない。その点、山田とこの日のオーケストラ&合唱の表現は、常に素朴さを失わない良い演奏であった。

独唱者はテノールが西村悟、第1ソプラノに林正子、第2ソプラノに市原愛が配された。林は技巧的にもゆたかな表現をもち、もっとも強い声と多彩なテクニックをもつが、この作品ではやや表現過多な面も見え隠れする。その点、彼女より経験が劣るものの、西村はバッハのエヴァンゲリストのような発声で、作品にいちばん相応しいパフォーマンスを見せてくれた。山田の音楽づくりで、当夜、常に忘れてはいけないキーワードは「素朴」であることだった。第6曲ではのちのワーグナーが参考にしたのではないかと思われるような、劇的な表現がある。だが、こうしたものも、正にワーグナーそのもののような表現でやることは大げさになってしまうのであろう。素朴であるためには、バロック的な表現を越えてはならない。そして、ひとつひとつの楽器が丁寧に味わいを重ねていけるように、丁寧な盛り上げに徹しなければならないのである。

例えば、そこになんでオルガンが入っているのか、意味がわからないような演奏であってはならない。メンデルスゾーンはコントラバスの低音と、オルガンの低音は明らかに区別して使っているのだから、そういうところも、しっかり感じさせる演奏でなければならないのだ。そして、オルガンが入ることも、きわめてバロック的な特徴なのである。

頂点は、あくまで最初のモティーフの回帰する最終曲に来るべきだろう(その前奏的な意味をもつ第9曲と第10曲、そして、コーダ)。こうした構造的な規則にもかかわらず、メンデルスゾーンは敢えて、大きな迂回を経て、無伴奏で歌い始められる第8曲のコラールに全体を入れる。8-10番で三位一体である。ソリストも3人で、三位一体。2部構成は天と地を表し、天は三位一体の構成、地は3×3の構成。計算しつくされている。この作品は出版の歴史的事情で第2番と呼ばれているが、実際には、作品番号のついたものでは4番目の交響曲に当たる。天才メンデルスゾーンが辿り着いた最盛期に位置するひとつの作品で、既に彼は交響曲第1番、第5番、そして、つとに有名な第4番をものにし、オラトリオ『パウロ』で成功を収めていた。それらの結晶が、この交響曲第2番に流れ込んでいる。交響曲では、第5番「宗教改革」の影響が色濃くなっているのがわかる。

さて、終楽章を彩るもうひとつのモティーフは、対位法的フーガであるが、演奏の全体を通して、このオーケストラのフーガの作り方は傑出して優秀であったことも特筆に値する。日本のオーケストラも良い指導者の下では、美しく清楚なフーガを奏でるものの、彼らの奏でるフーガはやはり敬虔で、あまりにも活き活きとしているのだ。欧州のオーケストラなら必ずこうなるということはない、スイス・ロマンド管だけの特徴であり、我々には真似のできない世界である。既に述べたように、スイス・ロマンド管の技術レヴェルは日本のオーケストラからみても隔絶したものとは言えないだけに、こうした特長をみると目もくらむ想いがするものだ。世界のオーケストラをみる楽しみも、いまでは希薄になっている。私の狭い経験では、古楽オーケストラや現代アンサンブルを除くと、ここのほかではロッテルダム・フィルとモスクワのチャイコフスキー・オーケストラが際立って個性的だった。そこにはゲルギエフやフェドセーエフという独特のキャラクター(指導者)がいたが、いま、スイス・ロマンド管を動かしているのが山田和樹というのはあまりにも痛快である。

【まとめ】

恐らく、山田はスイス・ロマンド管の経験豊富なメンバーにとっては、驚きを与える指揮者である。しかし、彼の温かくユーモアに満ちあふれ、親しげな人柄にかかっては、その驚きに抗する術もないという感じになっているようだ。そして、彼を中心に異なる個性が互いに認め合い、ちがいを恐れることなく、いかにもスイスらしい多彩な個性を備えたオーケストラがここに存在している。この公演ではさらに「日本」という要素を加え、その個性が際立った独特の公演であったともいえるだろう。そして、この1年を通しても、印象ぶかい演奏会になることは確実である。

整理してみると、山田和樹&スイス・ロマンド管による、交響曲第2番「讃歌」を通してみえるメンデルスゾーンのイメージは、音色やアーティキュレーションに染み込んだ奥深い特徴からみえるバロック的な自由さと、知的な子末井。宗教的雰囲気に基づく計算高いフォルムと、素朴な雰囲気。紛れなく、ユーモアにあふれた自然な響き。時代的な新しい潮流に基づく、息の長いロマンティックな旋律が出現sする場面も。そして、見事で、洒落たフーガの美しさが決め手になっている。こうしたイメージをあまり時間もないはずなのに、そうとは思えないほど丁寧に磨き上げ、異なるセンスをもったプレイヤー同士の発想を削ることなく、上手に生かして演奏したのだ。会場の盛り上がりたるや、推して知るべしであろう。

こんな演奏をある方の好意により、最高席でも半額ほどで聴くことができたのだから、本当についていた。やはり、音楽の神さまはいるのである!ハレルヤ!

【プログラム】 2014年7月9日

1、三善晃編 唱歌の四季~混声合唱とオーケストラのための
 (鈴木 輝昭による再編曲)
2、メンデルスゾーン 交響曲第2番「讃歌」

 於:東京芸術劇場

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時々思い出しては読み返しています。とても深くて, ありがたいコメントです。

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