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2014年7月 3日 (木)

イザベル・ファウスト vn & アレクサンドル・メルニコフ pf モーツァルト/シューベルト/シューマン/ブラームス @東京芸術劇場 6/26

【自然体の姿勢】

チッコリーニに次いで、またも世界的なアーティストの登場とあって、東京芸術劇場に再び足を運ぶことになった。ヴァイオリニストのイザべル・ファウストの演奏には2011年の新日本フィルの演奏会(ブリテンの協奏曲)で接しているが、ブログの過去記事を辿ってみると、本編のブリテンではその技巧的な素晴らしさを高く称賛しながらも批判的な言辞を最後に書いている。ところが、私の印象につよく残ったのは、バッハのアンコールを中心に彼女の素晴らしい部分についてなのであった。最初のモーツァルトで、その印象が爆発的に甦ってきたということもあるのかもしれないが。

モーツァルトのソナタ K305 の演奏では、こんな素晴らしい曲があるのかというほど、ファウストの技が冴え渡った。特に、第2楽章の主題と変奏は、音楽のモデルが自由に展開していた当時の様相を如実に物語っており、突如としてピアノ・ソロが現れるなど、独特の形式がある。多分、当時はこの鍵盤をモーツァルト自身が弾いたのではないかと想像する。こうした入り組んだフォルムを、2人(ピアノとヴァイオリン)が互いに磨き上げたエレメントを集めながら対話的に埋め合わせ、聴き手のこころをつかむ輝かしい結晶として表現することに成功していたのは特筆に値するだろう。

やはり、バッハの記憶が鮮烈なこともあるのか、ファウストの場合は、バロック以前の印象を残した作品にアドヴァンテージがあるように思われた。そうした曲目では、彼女の持ち味である自然体の姿勢がより作品にフィットしやすく、表現に力みが生じる余地も少ないからだ。ここで注目すべきは、彼女の「自然体の姿勢」は古楽的な言語機能的表現と親密そうだという事実である。ファウストによるモーツァルトで特に強いインスピレイションを受けたのは、言葉を語るように雄弁な楽句づけと、2つの楽章でそれぞれ異なるオペラの場面をみるような、リアリティの高い歌唱性の気高さについてであった。

ここで改めてプロフィールを調べてみると、ファウストはクリストフ・ポッペンとデネス・ジグモンティ(ザルツブルク・モーツァルテウム音楽院)に師事しており、バロック×モーツァルトにつよい背景をもつことが確認された。

【シューマンの古典性】

今回の演奏会では独墺系音楽の王道、モーツァルト、シューベルト、シューマン、ブラームスがプログラムされたわけだが、このなかで古典派の時代に在ったモーツァルトを除けば、シューマンが後世におけるもっとも典型的な古楽的表現の継承者であったようにみえたのは面白いところである。そういえば、新日本フィルとの演奏会で、フランス・ブリュッヘンが初登場のときに選んだのもシューマンだったし、古楽系の指揮者、例えばニクラウス・アーノンクールなどが好んで取り上げる演目にシューマンのオラトリオ『楽園とペリ』があることも思い出される。ファウストが古典的な演目や演奏スタイルに適した特性をもつなら、シューマンは絶好の素材なのである。モーツァルトの演奏が10点満点にちかい演奏だったとするなら、シューマンもそれにちかい9点台後半の優れたパフォーマンスを与えてもよかろうと思う。

作品は1849年に書かれ、シューマン中-後期屈指の名品のひとつと言ってよく、オーボエとピアノによる版がオリジナルだが、ほかにクラリネットやヴァイオリン演奏が可能なように書かれており、また、それ以外のあらゆる楽器に編曲が試みられている。それらの多くはロマン派的な美しい旋律美に偏ったものだが、オリジナルが最古参の楽器であるオーボエに指定されているように、本来は質素で素朴な響きで奏でられるのが正しいように思われる。すると、もちろん、時代柄の抒情的な音楽性も浮かび上がりはするものの、それ以上に、西洋文化の価値観でいうとより上位に位置づけられる神的な情緒が浮かび上がってくるのが面白いのだが、ファウストの演奏は正にそれであった。響きを絞り、歌うというよりは語るような落ち着いた物腰で、この作品を織り上げた彼女のパフォーマンスは、いくら賞賛してもしすぎるということはないだろう。

以上、2曲においては、私はファウストの表現に全面的に屈服することを決めた。しかし、よりロマン派的な性格が勝る2つの演目では、そこまでつよい共感は感じなかった。

【良くも悪くもファウストらしいシューベルト】

シューベルトの『幻想曲』は決して悪い演奏だったとは思わないが、この曲の表現によってファウストが示したものは唯一、モーツァルトに輪をかけた静謐な音楽性だった。この演奏姿勢自体は気に入っているが、一方でシューベルトらしい牧歌的な快活さ、そこから生じる薄皮一枚の寂しさまでは踏み込めなかったというべきではなかろうか。私はこの曲を好んでおり、優しく弾いた演奏にとりわけ強い共感を得るが、ファウストの場合は風景画的な動かない表情ばかりが印象に残ったのだ。あるいは、ドイツの田舎でおこなわれる音楽祭などで聴いたら、こういう演奏は格別の感興があるかもしれないし、この曲目については良くも悪くもファウストらしさが際立って、特徴的だ。

なお、ツイッターやブログなどのメディアにおいて、このような印象について、ホールの問題にするような論調も見受けられるが、少なくとも1F席で聴いた場合には問題なかった。オルガン席を覆うように反響板を被せた状態では、このホールでも十分に上質なアコースティックが得られ、これはチッコリーニの演奏会でも確認済みのことである。老翁もまた叩かないピアニストで、音量は小さく聴こえるけれど、それでも表現が損なわれることはなく、氏は少なくとも演奏面で絶好調なコンディションにあることをきっちりと示した。ピアノとヴァイオリンの響きのちがいを計算に入れても、ファウスト&メルニコフの場合のみ、ロスが多かったという根拠は薄弱である。

【酷かったブラームス】

メインのブラームスでは奇しくも、先に確認した過去記事とまったく同じ印象になった。本人の意識はともかくとして、彼女はこのように表現性の強度が求められる作品については得意としていないのかもしれない。第1楽章のクライマックスでみせた押し潰すようなレガートなどは酷かった。そういえば、シューマンでは、第2曲でそのレガートが独特な味わいで表現されていたことを思い出す。op.94-2 は、ほとんどバッハの模写といっても過言ではないだろう。それにレガートを被せ、ある意味、皮肉に満ちた表現を構築しているのだが、そのことをおくびにも出さずに美しくまとめているのは彼の歪んだ才能だろう。ブラームスでは、これをさらに推し進めた結果とでもいうのであろうか。それはわからないが、あの濁った吐き捨てるような表現は、それまでのファウストの表現からみて決して理想的なものとは思えなかったのだ。

この原因のひとつには、メルニコフのピアノ演奏が絡んでいた。序盤、ファウストはゆったりと、風が吹くような独特のアーティキュレーションで作品の構造を見事に描き上げることに成功した。この瞬間の印象をつよく保持する人たちは、彼女の描く「静かなフォルム」というのを最後まで頼りに聴いていったようである。ところが、そうした人たちにとっても、次にピアノが主導権を握る場所でメルニコフが出した強い響きには困惑の表情が浮かべている。ここで、先に述べたようなホールの音響の話が出たり、いろんなことが言われているのはココである。このあとの曲間、厳しい表情でメルニコフがファウストと言葉を交わす場面があったので、ファウストに注文をつけられていていたというような憶測もみられ、いろいろなことが言われている。

しかし、2人の間に表現に対する齟齬があったとは、私には思えないのだ。ファウストにとって、この作品はタフな、精神の図太い衝撃を表現するものにほかならない。それゆえ、古典そのものであるモーツァルトや、それを模したシューマンとは異なった表現が必要なのであり、メルニコフの姿勢とは完全に対応しあっていたと思うのである。確かに、そうであっても、第1楽章は行き過ぎの感があり、第2楽章では再びシューベルトのベースに戻って弾きなおしたといえるだろう。第3楽章も無難だったが、第4楽章はまた酷くなった。特に、最後の盛り上げで2人が採った表現は、あまりにも強引で、粗暴である。

もしもメルニコフのピアノがもうすこし弦側の響きにセンシティヴに寄り添えるような性質のものであれば、あるいは、表現の全体がもうすこし柔らかく聴こえた可能性もなくはない。だが、彼は基本的に、ピアノ的な響きしか出すことができず、メナヘム・プレスラーのように弦の響きを奏者にあわせて真似るような名人芸には通じていない。メルニコフは優れたソロ・ピアニストであろうが、アンサンブル・ピアニストとしての才能は限定的である。ハルモニア・ムンディの看板アーティストとして、メルニコフ&ファウストは、さらにケラスなどを加えて録音も多数残しているが、ライヴの印象もそれらのものとさほど隔たりがない。つまり、アンサンブルに混ざらない孤独なピアノである。

いわゆる『F.A.E.ソナタ』から2つの楽章を演奏したアンコール・ステージも、シューマンのインテルメッツォはこの曲で、これほど美しい表現が他にあるかというほどに、まことに素晴らしかったのに、ブラームスのスケルッツォは多分、練習もそこそこにした程度という感じで、酷いものだった。このクラスの演奏家で、始めから終わりまで音程すら安定しないゆらゆらする演奏を聴かせられるとは想像もしなかったので、ゲンナリするばかりである。得意なはずの最後のハーモニクスも、雑音にしか聴こえなかった。ハイ・テンションでは彼女の表現は必ず硬くなり、いかにもファウストらしい伸びやかで美しい表現は見られなくなってしまうのが残念であった。

【まとめ】

しかし、私は敢えて、悪い印象を自分のなかに残してしまおうとは思わない。宗教カンタータのような雰囲気で、丁寧にエレメントを描いたシューマンの第3曲のような演奏は、ヴァイオリンではなかなか難しいと思われる。どの曲にしても先に述べたように、ドイツの夏の音楽祭とか、そういうところで聴いたら、また異なった印象も生じるのではないかと思う。彼女のもつような音楽性が本当に輝く曲目には、ある一定の条件があり、恐らくは目立って起伏のない優雅な、あるいは牧歌的な作品がいちばんよい。それを押さえておけば、本当に天才的な手腕と感覚をもった凄いヴァイオリニストの味わいを楽しむことができるだろう。いかにもドイツ的な手練れのアーティストとは異なる個性として、彼女を印象づけたいと思うのだ。

【プログラム】 2014年6月26日

1、モーツァルト ヴァイオリン・ソナタ K305
2、シューベルト 幻想曲 D934
3、シューマン 3つのロマンス op.94
4、ブラームス ヴァイオリン・ソナタ第3番 op.108

 於:東京芸術劇場(大ホール)

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