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2014年7月 7日 (月)

フルシャ スク おとぎ話/交響詩『夏の物語』 都響 「作曲家の肖像」 vol.97 6/29

【フルーシャについて】

指揮者のヤクブ・フルシャ(フルーシャ)には、良い印象がなかった。エリシュカやビエロフラーヴェクの薫陶を受け、チェコの若手指揮者ではネトピルと並び、インターナショナルに活躍する人材として注目されている。過去の発言ではエリシュカに対する深い敬意についても述べているが、プラハ・フィルハーモニアのディレクターを譲られたり、具体的な関係や、音楽性の面ではビエロフラーヴェクの影響がより色濃い。マルティヌーを得意とするレパートリーからみても、そのことは窺われるだろう。しかし、録音を通して聴く限りでは、私は彼の才能には疑問を感じていた。例えば、プラハ・フィルハーモニアとの録音でも、前任者のビエロフラーヴェクの時代と比べても、明らかにアンサンブルの鋭さが鈍っており、メンバーの交代などに鑑みても、十分に納得のいくパフォーマンスとは言えない。エリシュカのように、クニの歴史そのものであるような指揮ができないのは当然としても、単純なドライヴ能力においても課題が多いことが推測できた。

日本では都響とのコンビネーションにおいて、フルシャは特別な成功を収めたが、私にとっては興味のないことである。録音で聴いて気に入らなかったものが、実演ではよかったという経験は私の場合、まずないので、ほかの人がどれだけ誉めそやしたとしても、敢えて批判しに出かけるような愚は避けてきた。しかし、今回はヨゼフ・スクの2曲がプログラミングされ、エリシュカも演奏した『おとぎ話』を聴くことで、彼がどれほどのものかを知るには相応しい機会と思ったので、芸劇に足を運んだ。

実際には、以前の録音と比べれば、彼の指揮者としての力量は逞しさを増していた。都響のアンサンブルは良くも悪くも、インバルにゴリゴリ鍛えられて、ドイツ的な深いまとまりをもつようになっている。フルシャはその美点を損なうことなく、演奏者の自主性を引き出すことで活き活きとした演奏をつくろうとしているようだ。ラトルやアッバードが蒔いた種は、こうして確実に若手の演奏哲学のなかへと染み込んでいる。こうして「先進」国における自由民主主義の社会的風潮と、音楽的事情は一致するようになったが、かつての指揮者たちのように、自分の音楽をコツコツとアンサンブルに擦り込んで、然る後、自由に華々しく展開するような芸術の王道は採りにくくなってしまった。商業的な問題もあり、人格的に開放的で、知性に溢れ、手さばきのよい指揮者だけが効率的に世界をまわる時代が始まっている。フルーシャも残念ながら、そのひとりにちがいない。

だが、彼は少なくとも誠実な音楽家だろう。ややアイディアは足りないが、演奏家に敬意を払うことはなにも悪いことではなく、1つ1つの楽器をしっかり鳴らすことでしか、その良さを引き出せないという信念をもつことでは、エリシュカの薫陶もよく効いている。だが、これは非常にリスキーなことだ。亡くなったアッバードの偉大さは、こうしたリスクを完全に我が身ひとつに引き受ける姿勢を崩さなかったことである。より正確にいえば、そのリスクを聴き手との不信が生じないレヴェルでコントロールする能力が、きわめて高かったのである。フルーシャの場合も、こうしたリスクを引き受けようとする誠実さは十分に感じるが、アッバードのようなコントロールの能力には恵まれていないのが難点となろう。

【フルーシャの問題点】

この日の会場は東京芸術劇場であったが、後半にオルガンの使用もあることから、目隠し用の反響板を下ろすこともできなかった。この反響板が下りると、3階建ての巨大ホールも比較的、包容感のある落ち着いた響きを獲得するのだが、それがないと、ホール全体のアコースティックは若干、不安定なものになる。そのことも手伝ってか、『おとぎ話』の第4楽章でおどろおどろしい呪いのテーマが印象的に奏でられるのが、これにかぶせられる打楽器の音、特にシンバルの響きによって、旋律や和音そのものがもつ効果を台無しにする弊が生じた。また、第1楽章にも構造の詰まった部分で、押し潰されたような響きがする部分があり、このような点ではアンサンブル全体のインバルから受けた悪い影響が窺われたと思う。

彼の演奏では、良い部分と悪い部分が波のようにやってくる。良い部分では、彼の音楽はきわめて見通しがよく、切れ味がよい。ラテン系の指揮者のような明るさがあり、あるいは、同じチェコ人でも、イタリア系の血を引いているような感覚もあって面白かった。例えば、エリシュカが夕暮れの音楽として奏でた『おとぎ話』も、フルーシャの感覚では朝日につよく照らされた音楽のようである。実際、尊敬するドヴォルザークの教えを受け、幸運にもその女婿となって幸運の絶頂にあったスクにとって、この時期は朝日が昇るようなときであったから、彼の発想は決して誤りではない。だが、当時のチェコ楽壇は、そんなに簡単ではなかったと彼も習ったにちがいない。ウィーンにおけるハンスリックのような、しかし、よりアクの強いズデニェク・ネイェドリーという批評家が幅を利かせ、フィビヒやジフ、オストルチルなどを持ち上げる一方、ドヴォルザークの流れを汲むような作曲家たちがつよく排斥されたのである。被害者にはドヴォルザーク自身のほか、スクやヤナーチェクがいた。

スクの初期作品には、そのような党派対立のなかで身を削りながら作品をつくった若き芸術家の、鉄のような意志が感じられるのである。エリシュカが夕暮れとみたものは、そうしたものを革命後のチェコ国内で追体験した者の共感と照らし合わせながら表現されたものであり、文字どおり、涙が流れるような劇的なメッセージに感動した。それと比べることもないが、フルーシャの音楽には日の出の音楽なら日の出の音楽で、それを実際に正当なものと感じさせるようなメッセージが足りない。美しく、爽やかなサウンドだけでは不十分だ。

具体的な音響のコントロールについて言えば、表現の濃淡がダイナミズムのみに頼りきりであるのも疑問である。確かに、つよく絞った微弱音の魅力もないわけではないが、例えばテンポや音楽の呼吸によっても、表現の構築は可能である。ダイナミズムが豊富である分、先に述べたようなバランスの問題で安定感がなく、結果として、アンサンブルが慣れ親しんだ表現手法に引きずられた印象はネガティヴである。印象としてはスクというよりは、リヒャルト・シュトラウスの華やかさがあって、作品がもつべき趣とはいささか異なった結果を招いていたように思う。だから、都響と録音も残しているように、シュトラウスなら、この指揮者にも納得いくのかもしれないが、この際、そのような印象が生じるのは好ましい事態ではないはずだ。

とにかく、フルーシャの音楽でまず、真っ先に検討しなければならない課題は、彼が鋭く、丁寧に分析した要素に対して、適切な音響、構造、表現的なアイディアを明確につけ、聴き手に示していくことではなかろうか。それがいまは、プレイヤー止まりになっている印象を受ける。

【快挙も虚しく】

ところで、後半で、同じスクの交響詩『夏の物語』が取り上げられたのはひとつの快挙と言えるだろう。この作品は『おとぎ話』から6年後、義父のドヴォルザークと妻が相次いで逝去した哀しみのなかで書かれた『アスラエル交響曲』の創作からさらに3年、その陰鬱な空気を打ち払うように作曲された穏やかな作品である。スクは時代の流れのなかでもがき、時代的な晦渋さのなかにも、独特な華やかさをもった管弦楽作品をいくつかものにしていくが、『夏の物語』はその最初のシーケンスに属している。

だが、フルーシャが使った50分で、この作品の価値を十分に実感できたとはとても思えないのだ。私からみると、今回の演奏は新日本フィルでアルミンクがロクシンを取り上げたとき以来の、虚しい結果になってしまった。ただ、そのなかでも印象的だったのは、マーラーが『大地の歌』などでよく用いた ewig 主題の多用である。このことからもわかるように、作品では「アスラエル」と同様、改めて彼の愛したものとの別れが問題になっているようにみえるが、マーラーの場合がそうであったように、この言葉を口にするときは、もう彼はすべてを悟っていたというべきだろう。ewig というキーワードは嘆きの文句というよりは、出発の合図である。5つのエピソードからなる楽曲とはいえ、それらが結局は第3のエピソードでハープ伴奏にのる2本のコーラングレから開かれていくように、この作品はスクの創作にとって、ある種の鍵となるような作品だった。このことは間違いない。

演奏自体は、やや退屈なものだった。作品そのものは派手な聴きどころをもたず、独特な味わいをもっているのだが、それにしてもというところである。都響にとっては、『おとぎ話』は近年、タン・ムーハイの指揮で演奏経験があるはずだが、『夏の物語』は多分、これが初めてである。こうした演目は積み重ねも大事であるし、今回の出来だけで直ちにフルーシャの力量について判断するのは適切ではないかもしれない。私はなにも、ネイェドリーと同じことがしたいわけではないのだ。彼の演奏にはもういちど、じっくりと接してみたいものだ。多分、チェコ音楽というよりは、現代音楽や、リヒャルト・シュトラウスのような派手な特徴をもつ作品がピッタリ来るのではないかと思う。

ガッカリはしたが、まだすべてを諦めたわけではない。フルーシャが、私のこころを変えてくれるような出会いを与えてくれること、そのことにまだ望みをもっている。結局、私はそのために、音楽を聴きつづけるのだから。

【プログラム】 2014年6月29日

1、スク おとぎ話
2、スク 交響詩『夏の物語』

 コンサートマスター:四方 恭子

 於:東京芸術劇場

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初めまして。2012年日本初演『プラテ』にお越し頂きました、ジョイ・バレエストゥーディオと申します。今月24日に、『プラテ…ジュノンの嫉妬』として再演致します。是非、御招待させて頂きたく思っております。

2014年7月24日(木)練馬文化センターにて 19:00開演

今回はお仕事でいかれませんが、再び盛会たることを祈っております。

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