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2014年9月 4日 (木)

パスカル・デュサパン サントリー音楽財団 サマーフェスティバル2014 テーマ作曲家 管弦楽/室内楽 8/21、25

【さっきと同じ!?】

サントリー芸術財団のサマーフェスティバルには毎年のように足を運んでいたが、プロデュース体制が変わってからは、若干、足が遠のく結果になった。今年の公演も、アルディッティQの参加がなければ、見送った可能性がある。私はデュサパンについて、ほとんど何も知らなかった。今度のシリーズを聴くかぎり、私のイメージでは、彼はフランス右派を構成する保守的な作曲家である。左派はブーレーズをはじめとするIRCAM系作曲家のアクティヴィストたちによって固められるが、「フランス」は現代音楽でもバロックでも、とにかく娯楽的にしてしまう民族の代名詞のようであり、右派はそうした民族性を基盤にしたノマド的存在のことを指す。いずれにしても、彼らの音楽の目的は自分たちにしかできないものの構築へと向いている。

デュサパンの作品を今回、管弦楽および室内楽で聴く機会を得たが、ある意味、もっとも衝撃的な瞬間は室内楽の演奏会の休憩後、弦楽四重奏曲第7番(以下、SQ7)が演奏されたときのことだろう。しかし、それは決してポジティヴな感覚ではなかった。

「さっきと同じじゃない!?」

これが、正直な感想だったのである。実際、前半で演奏された弦楽四重奏曲第2番(以下、SQ2)、管弦楽のときに演奏された弦楽四重奏曲第6番(以下、SQ6)は、大差のない音楽といえるように思われた。デュサパンが1980-90年以降、なにも前に進んでいないという印象が語られるのも無理からぬことだろう。ある作曲家のこの時期の作品はよかったが、最近はもう見る影もないというのは、現代音楽をみるときによく言われる台詞である。誰かが言っていたように、芸術家が本当にクリエイティヴでいられるのは全人生のうちでも、たかだか10年ぐらいのことにすぎないので、そのような言説もある意味では間違っていないのだが、そうした言葉を聞くとき、いつも、どこかひがみっぽい響きをもっているのは気のせいなのであろうか?

【完成と未完成の同居】

SQ6は、私にとってはミニマリズムのように聴こえた。しかし、あとから述べる理由によって、その印象は恐らく正しくないと思われる。結論を先にいえば、デュサパンの特徴は以下のようになる。①シンプルな発想やシステムを好む。②舞踊性や機動性が音楽的な原動力のほぼすべてになっている。③いちどつくった作品を持ち出してきては、何度でもつくりなおすということに躊躇いがない。SQ6においては、①の要素と、②の要素がきわめて重要だ。そして、②の要素は、当夜の管弦楽曲編を貫くテーマのひとつになっている。②について述べるときには、まず、この日の最初に演奏されたクリストフ・ベルトランの作品について触れたいので、ここでは一旦、話を飛ばす。

SQ6に関して注目されるのは、その無機質な連続性についてである。この作品のクライマックスは冒頭、クァルテットの響きが周囲の管弦楽によって巧みに強調され、稲妻のように閃く瞬間である。今回はアルディッティQが弾いているので、この印象は殊更に凄いものになったが、これが室内楽演奏会のときに、激しくフラッシュ・バックしたのも忘れがたい。中でもアービン・アルディッティの奏でる響きの、不思議と滋味あふれるヴァイオリンの音色の素晴らしさは、どうして生まれるのであろうか。彼らのレパートリーからすれば、響きのキレや透明感、それに技術的な精確性が第一の問題となりそうなのに、アービンの音楽がいつも底堅いのは、この優しさのせいであるようにさえ思えてくるのだ。デュサパンはSQ6の冒頭だけで、人々に幸福をもたらした。ところが、その偉大な要素が次第に硬直し、痩せ衰え、ついに動きがなくなってしまうのを私たちは目撃する。

だが、こうした部分から作曲家のもつ「イマジネイションの枯渇」という結論を導くのはあまりにも早計だ。この現象は、SQ7の最後で同様に表れたが、デュサパンにとって、よくある「ポーズ」といえるかもしれない。もちろん、この現象自体は聴き手に対し、決して良い印象を与えるはずがないのだが、彼の創作姿勢を考えれば、これも避けては通れない一過程という気もする。つまり、彼の作品は一個一個がある程度、完成した作品でありながら、同時に未完成な部分を残しているのである。

SQ6とSQ7の最初の部分は、単純な繰り返しのシステムによって構成される点で、「ひとつのもの」と言っても差し支えない。かつてバッハがそうしたように、デュサパンは過去の作品を1回きりで終わらせるのではなく、いつでも必要に応じて引っ張り出すことに躊躇いがないようだ。今回、来春の初演が予定されているオペラ作品を凝縮し、1人の(メゾ・)ソプラノによって歌える作品を委嘱作品として独立させたのも、いかにもデュサパンらしい態度ではなかろうか。一見、手抜きのようにも見えるが、彼はそうして作品を少しずつ磨き上げていくことで、前よりも新しいものにできると信じているし、既に単純な新しさを追い求める1周目の周回を終えて、2周目には何ができるかと問うているのである。いまのデュサパンにとっては、アカデミックな新奇さよりは、自分なりに納得できるフォルムを何度でも追っていくこと、そのことによって、思うとおりの理想に少しずつでも近づいていくことが大事なようにみえる。

【時代的象徴としてのペンテジレーア】

実際、歌劇『ペンテジレーア』のモティーフから編み込まれた3つの場面「風に耳をすませば」は、ちかい将来に上演されるオペラよりも凝縮した雰囲気をもち、オペラ全体からの抜粋というよりは、長大な交響的歌曲(あるいは歌付きの交響詩)の味わいをもっている。まず、ハープとツィンバロンが独特の孤独を歌いだし、ペンテジレーアの登場をゆっくりと待つ。このペンテジレーア(ペンテシレイア)はトロイ戦争をめぐる神話に出てくるアマゾネスの勇猛な女王による武勇譚とは別に、これをモティーフにハインリヒ・フォン・クライストが1806年に書いた独特の戯曲台本に基づいている。ペンテジレーアはアキレスの催眠術によって負けながら、勝ったと思い込ませられる。そこから運命はもつれていき、女王はついに、自らへの想いを断ち切れないアキレスをそれと知らずに食ってしまう筋書きになっているそうだ。

作品は主にペンテジレーアの内面的な起伏に従って音楽が構成されているが、さらに彼女に仕える家来と祭司を加えて、3つの人格が合成されて複層的になっている。デュサパンの愛するシンプルなモティーフから、徐々に音楽は複雑さを増し、その抑揚にあわせて自然な音楽が見事にデザインされているのは賞賛すべきことだ。ただし、衝撃音などを巧みに盛り込んだサウンドの特徴には既視感があり、近年、日生劇場の公演で上演されて大きな話題を呼んだアリベルト・ライマンの作風などにちかいものを感じる瞬間は多い。歌い手のナターシャ・ペトリンスキーはベルギーでのオペラ初演でも出演が予定されている歌手ということだが、それを前にした東京公演は重要なステップだったと思われる。歌い込むごとに気品を増し、女王に相応しい貫禄へと脱皮していく。一方で、歌われる女王は理性から解き放たれていき、野性的になっていった。このようなギャップが、そもそもデュサパンの構想のなかに含まれているのかどうかはわからないが、奇しくも、それが作品の主要モティーフを構成していることは間違いないだろう。

自分が勝っているのか負けているのか、あなたの人生はどのようにみられるだろうか。

例えば、戦国時代なら、築き上げた版図や動員力によって、あるいは、戦争の結果によって、大名の勝ち負けはある程度、明確にみることができた。しかし、現代では、たとえ戦争に勝ったとしても、アメリカのように勝ちつづけたとしても、誰も賞賛してはくれない。あるいは、企業であなたが巨万の富を得たとする。だが、その名声さえも、今では微妙なものになった。ビル・ゲイツや故スティーヴ・ジョブズはカリスマ的成功者として賞賛もされるものの、同時に、いつも厳しい批判が同時に存在しているのも現実だ。まして、市井にある我々の人生がどのような価値をもつものなのか、しかと自信をもって判断できる人は少ないだろう。

ペンテジレーアの悲劇は、トロイア戦争における彼女のわかりやすい活躍とは切り離され、まったく別の価値体系に切り離されたところから起こる。例えば、ビル・ゲイツをアフガニスタンの米軍司令官として送り込んだとしても、巨大企業マイクロソフトの創業者がこのクラウドな現実を支配し、適切なソリューションを与えて、全人類的な意味をもつ勝利へと導くことには困難が伴う。ゲイツがそうなるであろうように、ペンテジレーアは自分を取り巻く状況の複雑さについて、その半ばしか気づくことができないで混乱する。周知のように、そもそも男女の関係は決して単純なものではないので、すべてを擲ったアキレスが決死の想いで彼女と添い遂げようとしても、その状況を十分には理解できずに、「不実の男」を八つ裂きにして食うという行為に走ってしまう悲劇は避けられないのである。

アキレスを食っているペンテジレーアの問題は、既に述べたようにきわめて現代的なものだ。現代音楽の世界も、勝ち負けは決して単純に割りきれない。こうしてデュサパンが近作を発表しても、周囲から称賛の声ばかりが上がるわけではなく、逆にいえば、たくさんの称賛の声が、その作曲家の本質的価値を示しているかどうも疑わしい。結局、このようなバランスがとれないなかで、佐村河内問題のようなものも生じてくるのである。もしも新垣隆の価値がその誠実な音楽的努力に見合って評価されるのであれば、佐村河内のように強欲なペテン師の窺い出るような隙もなかったはずだ。音楽というのは、特に評価の難しい分野だが、それだけに音楽家の叫びは切実な共感を呼ぶ。ペンテジレーアの混乱は、時代的な象徴でもあるのだ。

【デュサパンの皮肉な構成】

思えば、この日の演奏会も皮肉な構成になっている。このシリーズはテーマ作曲家の近作と委嘱新作に加え、過去の作品でその作曲家が影響を受けた重要な作品、そして、新しい世代の作品のなかで注目に値するものがパッケージされて紹介されるのが通例だ。だが、今回、紹介された「新しい世代」は既にその歴史が途絶えている。生きていれば30代中盤だったはずのクリストフ・ベルトラン(1881年生まれ)は、4年前の2010年に自ら命を絶ったらしいからである。ベルトランの作品が素晴らしかったという理由もあろうが、彼が既に亡くなっていることも、デュサパンにとっては象徴的に思えたはずだ。しかも、自殺であることが。まず、これが第一の象徴である。

彼の作品『マナ』が冒頭に置かれ、結局、この作品がもつダンサブルな特徴が、全体の演奏会を貫くモティーフを提供する。これが第2の象徴だ。ベルトランはチェロを中心に、きれいにシンメトリカルになった鶴翼の陣を布き、その隊形から自然にイメージされる整然たるサウンドを引き出して、私たちを唸らせた。このようなタイプの作品は、確かに芥川賞でも武満賞でもよくお目にかかるものだが、ベルトランの音楽はそれらとは明らかにちがう特徴を示している。それは多分、表面的なサウンドの特徴だけに注目してはわからないものである。ベルトランの凄さとは、響きをイメージする力だからだ。どの楽器がどのように演奏すると、このように響くというイメージが異常に尖鋭で、もしもそれが天性のものでないなら、ひとつひとつの楽器を死ぬほど鳴らして、実験し尽くさなければできるものではないような性質のものになっていた。18歳の彼に、そんな権利も余裕もなかったであろうことを考えれば、彼の驚くべき才能に気づくのも容易だろう。

彼はそうしてイメージされた鮮鋭なサウンドを、ごくシンプルな舞曲的構造に落とし込むことで、作品を味わいぶかいものにした。「マナ」とは、オセアニアの先住民に伝わるスピリテュアルなエネルギーを象徴する言葉であり、音楽的には例えば、ラグビーで有名な「ハカ」のような原始的な舞踊性を備えている。ベルトランはこれを徐々に優雅なバレエの味わいへと高めていき、結局、4曲のなかでもっとも気位が高く、エレガントな音響的イメージを生み出すことに成功した。デュサパンはいわば、こうした死者の力によって、自分たちがむしろ支配されていることを物語っているのだ。死者のもつ素朴なエネルギーによって、生きているものが自然と高められるのである。

このような文脈からみても、『マナ』とともに、シベリウスの交響詩『タピオラ』が果たす役割も大きかったはずである。ところが、このプログラムのなかでは、限られた練度しか出せないのは止むを得ないこととしても、それでも、『タピオラ』の演奏はあまりにも酷かったので、ここで詳述することは適切でない。この日の指揮者、才能に乏しい整理屋であるアレクサンダー・リープライヒ氏のもつ、僅かばかりのイマジネイションではコントロールできない作品であったのは明らかだ。しかし、作品の奥から響いてくる舞踊的な特徴は、こんな演奏でも辛うじて読み取ることができる。リンクには、フィンランドにおけるターリヒ的存在ともいうべきカヤヌスの録音を添えておこう。

【迷いのない直球勝負】

デュサパンの音楽も、いつも舞踊性、もしくは、それにつながる機動性によってエネルギーを得ている。だが、単純な伝統的な舞踊性では、そのエンジンの役割を果たすことはできず、なにか特殊な交換あるいは、変容を経て、独特の気品を醸し出しているのが特徴だ。そのようなシステムをもつ作品のなかでも、SQ2は稀にみる傑作のひとつというべきである。この場合、特殊な交換は「タイム・ゾーン」をめぐって起きている。タイム・ゾーンとはある地域で共有される「標準時」のことで、例えば、日本時間は原子時計をもとにした「協定世界時」(UTC)から9時間進めた’UTC+9’として表現される。自然、このタイム・ゾーンを追っていくと世界旅行の感覚を呈し、同時間のなかで世界がいかに多様であるかという譬えが鮮やかに浮かび上がるのである。

デュサパンはこれを24の部分にわけて表現したが、そのうち12の部分は他の部分と結合しているということである。その構造を1回だけの視聴で完璧に確認するのは無理な話だが、面白いのは、いま述べたように、24のうち12の部分が他と結合するというときの発想力であり、この組み合わせこそが構想された作品のモティーフの中核にあったというべきではなかろうか。実際には「1989年東京」を皮切りに、地域と日付も付されているようで、暗号的な意味も見出せそうな気がするが、それらに何らかの意味があるのかどうかはいま、判然としない。タイム・ゾーンについてはプログラム中でも、比喩にすぎないとした本人のコメントが載っており、それほど深刻に考える必要はないだろう。

登場するあらゆるコード(タイム・ゾーン)の合成とみえる終結部分の力づよく、自壊的なフォルムには、単に技巧的な妙味だけには止まらない不可解な味わいがあり、この時期、デュサパンが迷いなく直球を投げていた事実を思わせた。

【デュサパンの率直さ】

SQ7の冒頭部分は、SQ2、もしくは、SQ6で既に体験した形の機動性が感じられた。しかし、既視感を徐々に脱し、洗練が感じられる部分も少なくない。この作品ではクァルテットらしい声部の独立がひとつの課題となっており、ヴァイオリンとチェロにきわめて技巧的で、長大なソロがあるほか、ヴィオラ、第2ヴァイオリンにも、味わいぶかい特徴的な部分が用意されている。これらの点において、作品はより古典的なSQに近づいているといえるだろうし、その分、4つの楽器の関係が重要な鍵を握ってくる。だから、アルディッティQの魅力がこの作品でもっともよく表現されたのは当然である。様変わりした音像の世界とはなっても、室内楽の魅力がどこに生じるかは結局、同じなのであった。

ただ、この方向にまだ、デュサパンは決定的な答えを見出してはいないらしいことは、最後のメッセージがゴニョゴニョしていることでよくわかるが、これはSQ6のときとまったく同じ現象であろう。デュサパンの進化は、こうして徐々に成し遂げられていくのである。多くの作曲家のように、すべての秘密を自分が握っているとは主張しない。知らないことは、知らないという。それこそが、作曲家の誠実というべきである。

例えば、国際作曲委嘱シリーズの第8回(1987年)に登場したルイジ・ノーノも、そうした率直さをもつことが特徴だった。その作品は正に現代における創作の困難を象徴するものとなったが、『進むべき道はない・・・だが進まねばならない』と題されていたのである。これがシリーズ全委嘱作品のうちでも、もっとも重要な作品と言えるのは衆目の一致するところではなかろうか。ところで、デュサパンの創作は「進まねばならない」作曲家の、普段の机の上をみせるように率直な作品というべきだと思う。完成など、遠い未来の話。いつ来るかもわからない。来ないかもしれない。デュサパンはそうした世界において、自分のノートを公開しながら研究を進める。かといって、学者タイプというわけでもない。過ちを恐れない、不屈の実践家なのであった。

我々は彼のノートから、とるべきものをとればよい。そして、今度は自分のノートをつくり、公開するべきだ。ところが、現代の作曲家たちはまるで神秘主義者のように振る舞う。自分のノートを決して公開しない。本来なら、誰のノートがいちばん良い線をいっているのか、比べてみるべきなのに!

【プログラム】 2014年8月21日(管弦楽)/25日(室内楽)

8月21日(管弦楽)
1、C.ベルトラン マナ
2、デュサパン 弦楽四重奏曲第6番「ヒンターランド」
 (SQ:アルディッティQ)
3、シベリウス 交響詩『タピオラ』
4、デュサパン 風に耳をすませば
 ~H.v.クライストの戯曲『ペンテジレーア』に基づく歌劇からの3つの場面
 (Ms:ナターシャ・ペトリンスキー)

 orch:東京交響楽団(cond:A.リープライヒ/コンマス:ニキティン・グレブ)

 於:サントリーホール

8月25日(室内楽)
1、弦楽四重奏曲第2番
2、弦楽四重奏曲第7番

 SQ:アルディッティQ

 於:サントリーホール(ブルーローズ)

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