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2014年9月19日 (金)

二期会 モーツァルト 歌劇『イドメネオ』 Aキャスト 与儀巧、山下牧子 ほか 初日 9/12

【イドメネオのもつ背景】

二期会がダミアーノ・ミキエレットの演出で、モーツァルトの歌劇『クレタの王イドメネオ』を上演した。先進的なアン・デア・ウィーン劇場のプロダクションで、演出のミキエレットも来日したらしいが、コンセプトの説明のみで帰国し、演出補が残って稽古をつけたとのこと。なお、本公演は読み替え演出になっており、舞台が必ずしもクレタ島ではなくなっているためか、表記の題名から「クレタの王」は基本的に除かれている。

作品解釈の上でまあまあ大切だと思うから書くが、作品は1781年、バイエルン選帝侯カール・テオドール(同時にプファルツ選帝侯)の宮廷から求められて製作された。カール・テオドールは名君とは言い難い存在だったようで、あとから手に入れたバイエルン地方の統治には消極的だったが、その時代、バイエルンとプファルツで分裂していた家系の一方が断裂したことから、両方の君主を兼ねることになった。音楽の面からいえば、宮廷に優れた楽士を多く集めたことでも知られている。それらの事情から連想して、ギリシア神話に登場するクレタ島のイドメネウスの苦難の逸話をヒントに、アテナイ(ギリシア)系の息子とイリオス(トロイヤ)系の姫が結ばれる物語を構想したものと思われる。基本的には祝祭的な意味合いが強く、グルックのようなフランス式グランド・オペラの伝統を模して、本筋とは関係なくお約束のバレエ音楽をつけるなどして豪華に仕上げてある。

音楽と演劇的な表現には、モンテヴェルディを中心とするイタリア・バロック・オペラについての教養が溢れており、ここでもモーツァルトの天才性が窺えるであろう。ところで、このページでは繰り返し述べているように、「モーツァルトの天才性」とは普通、教養を積んだ年輩の者だけが知っているような常識を若くして身につけている・・・の意味で言っている。モーツァルトは父親レオポルトによる英才教育によって、過去の偉大な作品の特徴や、フィグーラのような音楽言語機能を自由自在に駆使できる頭脳を鍛えられていて、それらが市民社会の勃興のなかで忘れ去られていくなかにあっても、巧みに作品のなかに練り込んでいくという工夫を施していった。この『イドメネオ』にもそのようなメッセージが聴かれるものの、故意に皮肉な形で出現させるなどして、作品に描かれている物語の混乱した背景と、音楽的事情を見事に対応させているのがわかる(ような気がする)。準・メルクル&東響の音楽づくりで最高の成果といえば、正にこのことを望み得る最高の形で、ハッキリと示した点にある。

【音楽スタッフの素晴らしさ】

だから、極端なことをいえば、今回の演奏に対して、視覚的な付加的情報はさほど必要性がなかったであろう。歌手陣も含め、音楽的成果は特筆に値し、ほとんど申し分ない。特に、題名役=与儀巧、イダマンテ役=山下牧子、および、エレットラ役の大隅智佳子はどこに出しても恥ずかしくない出来で、この3人によるアンサンブル、例えば、第2幕のフィナーレで、海神の生贄になるのを避けるよう、イダマンテの出航を決める場面の迫力は言いようもないほど素晴らしかった。単独で素晴らしいだけでなく、アンサンブルでも変わらず緻密な特長を加えられる舞台は芯が強くなる。特に、大隅の演じるエレットラはミキエレットの演出で、後述のように一癖を加えた造形になっており、これを保持しながら、アンサンブルの精度を高いレヴェルで維持することは簡単でないはずだ。

今回のキャストたちの素晴らしさは、単に歌うだけではなく、その範疇のなかで、もっとも難しい種類の造形を求められ、ほとんどの場合、それらがうまくいっていることに表れている。ミキエレットの演出は悪趣味きわまりないものだが、彼らの誠実で、柔軟な演唱だけがすべてを変える力をもっていた。また、これにつける管弦楽の質の良さも終始、目立っていたといえるだろう。東響はスダーン政権下で古典派の演目に相応しい響きや語法を時間をかけて身につけてきたが、そのベースを生かしながら、時折、強烈なインパクトを加えた準・メルクル独特の要素を添えて、高雅で、ドラマティックなベースを組み立て、歌手陣の表現に寄り添ったのである。

【コンティヌオにピアノを使用の過ち】

しかし、このなかで、音楽的にいくつか疑問に思える箇所は存在した。そして、この上演のなかでもっとも酷い問題と思えるのは、コンティヌオにチェンバロではなく、ピアノを入れたことである。かつての上演で、モーツァルトのレチタティーボにピアノを用いることは決して珍しことではなかったと思うが、ピリオド研究とそれに基づく実践が進んだ今日では、小規模の上演で予算的制約がある場合などは除き、そのことはもう、容易に許されないだろうと認識している。それが、ウィーンでは受けたというのには耳を疑うところだ。

チェンバロではなく、ピアノを使うことによる問題はいくつかあるが、特に重要な問題は音色である。故ブリジット・エンゲラー女史も言っていたのを思い出すが、モダン・ピアノはチェンバロの持っていた音色の多彩さを奪い、代わりに豊富な音量や自由な強弱のダイナミズム、それに表現のインパクトを手に入れた。西原稔氏の著書によれば、ピアノは18世紀ごろから、諸国の産業水準に応じて高レヴェルな発展を遂げ、例えば、その普及にはバッハ父子(ヨハン・セバスチャンとカール・フィリップ・エマヌエル)が多大な貢献をしている。彼の関係したベルリンの宮廷では、フリードリヒ大王が15台程度のジルバーマン・ピアノを導入したことが知られており、これが当時、世界中でも最多を誇っているという。モーツァルトの時代まで下れば、ピアノはそれなりに豊富に存在したはずであるが、それはベルリンやウィーンのような大都市に限定され、ベートーベンのいたボンにピアノが入ってきたのは、ようやく1787年ごろのことだという。しかも、当時のピアノはまだ問題が多く、モーツァルトは決して、コンティヌオの鍵盤楽器をピアノになおそうと思ったことはなかったにちがいない。この伝統はロッシーニのころまでは残り、コンティヌオ全体の消滅とともにおわりを告げた。やがて通奏低音をもたず、管弦楽の占めるウェイトが増して、劇的要素が高められたヴェルディやワーグナーの作品がやってくることになる。

ミキエレットの構想において、最近では、その使用が既に当たり前になっているチェンバロをわざわざピアノにしたことは、意味のあることだったように思える。彼はモーツァルトの作品を徹底的に新しいものとして捉え、それに逆らう保守的な層をエレットラと一緒に埋葬しようとしていた。ピアノは新しい時代から吹いてくる風を思わせ、オリジナル/ピリオド主義のもつ、いまや硬直した価値観を問いなおすものだったのかもしれない。しかし、実際には音楽的な面からみれば、この選択には多大な犠牲を伴うことになった。つまり、それは通奏低音の活き活きとしたベースから歌手たちを引き離し、また、これとセットになっているチェロが果たす役割からも遠ざけてしまうことになったからである。モーツァルトはレチタティーボでも、鋭い皮肉を織り交ぜながら大事なことを歌わせているが、そこに繊細なコンティヌオ群を上手に配置して、シンプルな劇性を実現させている。本来、耳から飛び込んでくるはずの色彩ゆたかで、キラキラした音の効果は、鈍くさい軍艦ピアノの響きに取って代わられてしまう。まだ古いタイプのクリストーフォリやジルバーマン、エラールのようなピアノだったら、印象はちがったかもしれないが、現代スタインウェイの響きでは、モーツァルトのレチタティーボには明らかに不向きだ。特に、前半の2幕がひどい。これはそれらの幕が特にレチタティーボの連結によって、美しく縫い上げられたペルシャ絨毯のような作品であることを示しているのだろう。

【イドメネオ、イダマンテ、エレットラ】

ミキエレットの演出は、音楽的なものの視覚的実現よりは、小賢しい社会風刺や、実は何の驚きもないその場限りの発想を以って芸術的と考えるような、腐った西洋音楽の頽廃を象徴している。我々は、劣化した伝統に従う必要などないはずだ。今回の演出を基礎づける発想のうちでもっとも特徴的な要素は、最後の幕でイリアがイダマンテの子どもを身ごもっていることがわかり、先に示したバレエ音楽の一部を利用して出産シーンまで描くという奇知のなかにあるのではなかろうか。思えば、この上演は序曲において、イドメネオが幼いイダマンテ少年を着替えさせ、正装にするのをカーテンのスクリーンに映し出すところから始まった。私からみれば、この場面が既にヴィジュアル的に滑稽だったが、父親と息子の関係を中心に作品を描きあげること自体はあとに書くような問題はあるとしても、決して間違いとは言いきれないないだろう。

しかし、過ちの根本を見誤ってはならない。それは全幕が始まる以前、クレタ島への帰還のための航海中、海神の悪意に苦しめられたイドメネオが、誰でもいいから、最初に岸辺で出会った人物を生贄とするという無責任な誓いを立てたことに他ならない。まさか彼は我が子=イダマンテに出会うとは思わず、誰か名のない島民を犠牲にする腹づもりだったのであろう。ギリシア神話ではよくあるように、舞台が変わると、英雄は途端に魅力を失ってしまう。イドメネオ自体はここでは、非常に冴えない人物だ。まっさらなイダマンテとイリアが取って代わるには相応しい人物だろう。モーツァルト自身は当然、イダマンテに肩入れしている。例えば、イダマンテがトロイヤ系の住民の解放を宣言したとき、イリアとの関係がうまくいっていないことを前提に、彼は「なんで自分は解放されないんだ」と嘆く。これはそのまま、素晴らしい音楽を書いて、これほど人々の幸福を実現しているにもかかわらず、自分自身はどうして世間に認められないのかという嘆きにつながっている。モーツァルトは当時、ザルツブルクのアタマの固い司教サマと訣別したばかりのころだった。

作品の終盤では、エレットラが必ず話題になる凄絶なアリアを歌い、舞台から消えていく(今回は舞台奥で斃れたまま放置)。この役割はドン・ジョヴァンニの地獄落ちとよく似ているが、自ら運命を断ち切る分だけ、色男の最期よりは好意的に迎えられる。なにしろ、内容が凄いだけに。バレエ音楽を上演しない場合は、そのあと、ほんのわずかなエピローグがついただけで終わってしまうので、よく考える観客をすこし戸惑わせることだろう(例えば、2006年の新国立劇場の公演)。あの人は、何のために死んだのだろうか。私はこの疑問のなかに、モーツァルトの表現の核心があると思っているのだ。

エレットラは多分、それまでの時代のすべてを象徴している。モーツァルトにとって、それは正にすべてである。彼女が自噴して死ぬのは辛い。自分は、何のためにいるのかと言って・・・。彼女の歴史はリヒャルト・シュトラウスの名品の存在もあり、みんながよく知っているだろう。弟のオレステ(ス)と共謀し、父を裏切った母親とその情夫に復讐したのだが、その代償として弟のいのちは奪われ、自らは他所に逃れて、こころを落ち着けようとしているところなのである。その希望が、イダマンテのなかにあった。イダマンテとは、モーツァルトのことである。彼は古い音楽のもつ巧妙なルールを生かして、この世の中に神の王国を再建しようと試みた。そして、モーツァルトにとって最大のテーマは、神の平和である。2つの国がひとつになるという、プファルツ/バイエルン選帝侯家の歴史は、それに相応しい背景をもっていると思ったにちがいない。そして、その地の王は音楽を愛していた!

【女性に対する冒涜的モティーフ】

ところで、ミキエレットはエレットラをただプライドの高いギリシア人で、放っておけば贅沢三昧を尽くす異国の姫様として笑い者にした。彼女は、マリー・アントワネットだったのか。3枚目の。あるいは、世界情勢における米国のような存在とみれば、政治的奥行きが生まれるかもしれない。無論、そんな必要はなかった。彼女は理由もなく、悲しい女でよい。クレタ島に、なぜいるのかもわからない。イドメネオの息子でも、トロイヤから連れ帰られた人質でもない。ただのよそ者だ。その彼女が絶望して、あのように死ぬ意味はもっと深く検討されねばならない。それを知るためには、音楽を突き詰めねばならないだろう。バレエ音楽も含めて。だから、私はツイッター上でこういう風に言った。バレエ音楽を積極的に評価し、明るく、グッと来るような演出を見たいと。それだからこそ、バレエ音楽をひとつだけ導入して、ああした馬鹿げた使い方をしたのは赦せないのである。

私は保守的な思考をもっているかもしれないが(例えば、女性はなるたけ家庭にいるほうが丸く収まると思う)、今回の演出はフェミニズム的な視点からみて2つの問題を犯した。それはいま述べたようなエレットラに対する扱いの酷さであり、また、イリアに対しては、「出産」という女性にとって最大にして、もっとも困難なイベントを笑いものにしていることが挙げられる。この殺伐とした演出のなかで、彼女の出産が希望なのだとすれば、こんな冒涜的なこともない。否、私は、モラルのことを言っているのではない。ただ、そのことが本当に必要なのかと問うているつもりだ。イリアはなぜに、砂浜で出産しなければならないのか。そして、それはなぜ、あんな滑稽な感じで描かれねばならないのか。出産時のリアルな場景とはいえ、彼女は演出家によって、馬鹿でかい声でいきみを上げることを強要され、それが演出的なキーだと教えられた。本当に、そうなのだろうか。ミキエレットにとっては、そうだろう。だが、それはモーツァルトの作品と、なにか有機的な関係をもっているのであろうか。特に音楽と!

【プロダクションのその他の問題点】

音楽的観点からいえば、既に述べたようなポジティヴな要素ばかりにもかかわらず、目の前で繰り広げられていることとのギャップがあまりにも大きい。まして音楽の言語機能など、振り向きもされない。チェンバロがピアノに、そして、複数の箇所で利用されたPAの響き。最後のデウス・エクス・マキナの声を放送で流すのはまだありだと思うが、その前のいくつかの場面は遠くから聞こえてくることをイメージして裏で歌うのではなく、放送で流したと思われるのに、実際にはよりちかくから聴こえてくる点で明らかな失敗だ(観客とスピーカーは近い)。

また、このプロダクションの大きな問題点のひとつに、日本公演におけるヴィジュアルの問題がある。例えば、最初の幕で、イダマンテはイリアへの想いを歌うために、徐々に服を脱ぎ棄てて、ついに肌着だけになってうたうシーンがある。その演出意図は決して陳腐ではないが、見た目はきわめて陳腐になってしまった。背の高い向こうの歌手ならば、中肉程度なら、この演出もそれほど滑稽にはみえないだろう。だが、日本の女性のように中背なら、中肉ぐらいでも見た目はすこぶる悪くなってしまう。これは、この場面を歌う山下牧子がきれいだとか、そうでないとかいう話をしているのではない。また、日本人の感覚にとって、すぐに裸になったり、乳繰り合って寝転んでしまうような西洋の感覚は馴染まないことがある。私だけだろうか。だが、多分、ここで表現したいことの内容からすれば、全部脱いでしまわないでも、例えば、上着のボタンを全部外すだけでも、日本人にとっては、十分にラフにみえるのではなかろうか。

共同制作だから、全部が同じであればよいというわけではない。「共同」といっても、演出家の動きをみても、このプロダクションはウィーン側に従属している。演出補は、それを日本にそのまま移すだけの仕事をしたのにすぎないだろう。コンヴィチュニイのときのように、日本の歌手たちにインディペンデントな表現をつけたのではないのが問題だ。先程のコンティヌオの問題と、このヴィジュアルの問題で、休憩前までは非常に悩まされた。何度も言うが、音楽スタッフがあれほど頑張っているというのに!

後半も、それほど良くはない。よくカットされるアルバーチェのアリアは、第3幕のみ残された。この忠臣はシェイクスピア『リア王』のケントの役割を果たしているので、その役割に相応しいアリアの復活は喜ばしい。大川信之も唯一の見せ場だけに、しっかりと歌っていた。だが、演出はある意味で報われないものだった。つまり、彼のおこなったことは、演出家が自ら散らかしたものを片付ける作業にすぎない。散らばったトランクの残りをひとつひとつ、放り投げて。これが今回の演出の無残な特徴を示している。自ら取り散らかして、意味あるように見せる。赤ん坊も、そのひとつだ。

それで、命の大切さを訴えている?

とんでもない!

終幕の最後に戻れば、私が観たいのは、エレットラの地獄落ちをどのように描くかということである。命の大切さを訴えるというなら、作品に直接、描かれてはいない赤ん坊や靴(トロイや戦争の犠牲者の象徴)のことよりも、私にはエレットラがどう扱われるかということがより大きな関心事だ。例えば、モーツァルトはドン・ジョヴァンニを愛しているのか、貶しているのかという問題に似ている。彼は君主制的な支配者の横暴に抗議しているが、同時に、その欲望の素朴さには敬意を払っている。エレットラも同じだ。多くの観客は彼女がこの時代、あるはずもないデパートか、ブティックの袋をいっぱいぶら下げてきては、そのほとんどを新品のまま放り投げて、贅沢の限りを尽くすことに共感するだろう。歌手がユニークで、面白い発想をもっている人なら、尚更のことである。今回の大隅智佳子は昨年、私がリポートした実験的な公演でエルヴィラ役をバリトンの黒田博とシェアしたときと同じような輝きを放った。コミカルで、可愛らしい。独特のエレットラだ。そして、声は劇的で、ポジションが深い。この日、もっとも大きな賞賛を得た。だが、そうであるならば、彼女の生き方はもっと希望に満ちたものであってほしい。毒蛇か角蛇にかまれて・・・という歌詞を真正面から受けるのではなく、もっと彼女らしい未来があるはずなのだ。

彼女が放置されたことと、イリアの一件で私は完全にアタマに来た。おまけに、イドメネオまでが斃れたのも滑稽である。しかし、私がさんざん毒気づいたところで、私のような存在はいずれ、モーツァルトによって地獄落ちにされるのがオチなのであろうか。それに、新国立劇場のアサガロフ演出と比べれば、ミキエレットは演出家として十分な対価を払ったかもしれない。Bキャストの題名役、又吉のページなどをみても、キャストたちはそれなりに納得して演じ歌ったようなのも認めるべきだと思う。しかしながら、年に飽きるほどたくさんの上演があるウィーンで、このような舞台があるのは仕方のないことだが、二期会で年に4-5回くらいしかやらないプロダクションのうちのひとつとしては、すこぶる残念なものだと思う。

【親はなくとも子は育つ】

山下牧子、大隅智佳子と、私の肩入れする歌手が主要役に起用された公演で、従来、その高い実力を噛みしめてきた彼女たちに加えて、題名役の与儀巧の健闘が光った公演でもあった。山下と与儀のスピントの充実は公演全体を高いレヴェルに導いたが、半面、イリア役は経験不足が露呈した。新垣由紀子は前半のうちはまだ良かったが、前半最後の三重唱に対して、休憩後の第3幕冒頭ではイリアの音程は不安定で、先程のトリオと比べると、表現の強度も明らかに見劣りがした。しかし、彼女はいかにもに二期会的な荒削りの新人であるものの、そうした人はかえって伸びしろが大きいということにもなる。特に生贄がイダマンテと分かったとき、地を叩く仕種の演技が素晴らしかったのは印象ぶかい。

そして、イダマンテだが、先の演出で最初のアリアなどはまともに聴く気になれなかったものの、目を瞑ると、かつて同役で聴いた藤村実穂子にも見劣りしない充実のベースを完成し、山下牧子がすこぶる高いレヴェルで歌い演じているのも明らかだった。イダマンテは結局、モーツァルトがこう生きなさいと提示する理想像になっている。イリアは、それに従うだけで聖女になれる。彼女の夫となる人は領民からも、父からも、純真な恋人からも、性悪のエレットラからも、同じように慕われた。それだけに、イドメネオが彼のことを生贄だと告白したときの音楽は、なんとも衝撃的である。面白いことに、イダマンテには母親がない。彼が幼いころに出征した父親の存在もないに等しかった。父子の関係・・・特に父親の愛情に固執した今回の演出だが、モーツァルトは逆に親はなくとも子は育つという考えだったのかもしれない。確かに、モーツァルトの「天才」を確立したのは父親だったが、彼はレオポルトの養育に感謝こそすれ、長じてからは相当に反発も感じていたところが窺える。

一例として、モーツァルトはウェーバー姉妹に惚れ込み、まず姉を歌役者として起用しようとして父親に反対され、その次は妹と結婚しようとして、これまた反対された。周知のように、後者コンスタンツェとは実際に結婚に至り、それを機に、父親との関係は冷え込んだという。教養ゆたかで、厳格、算段だかい父親に対して、モーツァルトはその才能を自由に発揮して、檻から脱出し、羽を伸ばすことを必要としていた。「窓辺に出でよ」と彼は自分自身に語りかけるのである。イダマンテはそれほど自由ではないが、少なくともクレタ島において、イドメネオの留守中は青春の自由を謳歌することができた。親の手厚い養育がないために。第3幕第9場の素晴らしい歌唱などは、こうしたイダマンテの自立した精神を土台として聴くと、また別の感慨が湧く。この日、山下が落ち着いた雰囲気で歌ったように。凛々しい若者が神風特攻隊への参加を決めるような、決死の覚悟で歌うのとはまたちがった雰囲気で。かつて、彼女の見事な『冬の旅』の歌唱を聴いたせいか、シューベルトの主人公が混ざり込んでいるような・・・。

シューベルトだけではない。この作品は、確かにその後100年程度のオペラの歴史を呑みこんでいる。例えば、民衆の悲痛な合唱は、のちのヴェルディ作品を思わせる。その緻密で、インパクトの強い描写は『トリスタン』など、ワーグナーの作品に転用された。わかるだろう。モーツァルト→ウェーバー→ワーグナーがドイツ・オペラの直系を構成しているのだ。ミキエレットの主張のなかで、作品がこうした新しさのなかにあることを示した点だけは唯一、評価に値する。ただ、その表現には別の工夫が必要だった。無論、『イドメネオ』は台本上のあらゆる舌足らずさにもかかわらず、きわめて先進的で、優れた作品なのである。その舌足らずさを補うために、新たな要素は必要ない。むしろ、付け足しよりは簡素化にこだわるべきだった。つまり、音楽なのである。そこが、この作品のいちばん素晴らしいところで、これを生かさないでどうするのか。ミキエレットはすべての構想を組み立てる前に、まず、音楽に耳をすまして聴き入るべきであったのだ。

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