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2014年9月23日 (火)

下野竜也 カレル・フサ この地球を神と崇める ほか 読売日本交響楽団 サントリーホール名曲シリーズ 9/16

【悲願達成】

カレル・フサのこの作品を取り上げることは、下野竜也にとって悲願であったにちがいない。簡単には、できる作品ではない。まず、フサは日本であまり知名度がなく、「吹奏楽の作曲家」として見られている。クラシック音楽の分野で、吹奏楽はまた独特のフィールドを形成しているから、互いのファンも、専門家もあまり交じり合うことを望んでいないかのようにみえる。また、『この地球を神と崇める』の管弦楽版は編成も大きく、技術的にも高度なものを求められるが、それよりもなによりも、このために特殊な唱法等を徹底的に鍛えた合唱団の存在が不可欠となるのが問題だ。この作品を演奏するためには、まず、オーケストラの団員とマネジメントの双方から相当の信頼を得ている必要があるし、ある程度、まとまった予算も必要になる。下野は、こうしたものを引き出せるためのベースを何年もかけて、コツコツと構築してきたのであろう。読響の客演から正指揮者、そして、首席客演指揮者として。また、その名声を高める段階では、上野学園大学教授としても席を得た。そして、もうひとつ重要なことは、そのなかで多くのオーディエンスに喜びと驚きを与えることで、「アイツがやるなら間違いない」という雰囲気を築き上げてきたことだ。

フサの『この地球を神と崇める』は、凄まじい作品だった。テーマと音響、演奏法など、現代までに積み上げられてきた技術と音楽語法の総決算といえるような作品といっても過言ではない。フサは1970年、生物学者レイチェル・カーソンの『沈黙の春』をモティーフにとって、この作品を制作したという。はじめは吹奏楽版で、のちに改訂して管弦楽版を編んだが、このときに合唱を導入している。カーソンの描いたテーマは今日、ますます重要な意味をもっていることは言うまでもなく、彼女の鋭い警告にもかかわらず、我々は未だに地球の酷使を止めていないどころか、それをさらに進めている。象徴的なこととして、残念なことに我らが日本のフクシマという土地で起こっていることが挙げられようか。東日本大震災と大津波を機にメルトダウンした炉は未だに不安定な管理下にあり、大地や海に漏れ出す汚染水も膨大で打つ手がないのに、安倍首相はこれらの過酷な現実にもかかわらず、状況は完全に政府の管理下に置かれていると国内外へ向けて主張している。無論、多くの人たちはこの主張を信じていない。

楽団の親会社はといえば、このような問題に決して疑問を感じていない姿勢を明確に示しているのだから、下野が決死の想いで作品を取り上げたことは想像に難くないだろう。無論のこと、これだけの壮大な企画にもかかわらず、記録用マイクは数々立っていても、NTVによるテレビ・カメラの用意はなくて、同局の番組で放送の予定はなさそうである。

作品は3つの部分に分かれ、それぞれの楽章は「神格化」「破壊の悲劇」「その後」と副題されている。最初の楽章は神秘的で、謎めいた美しいサウンドのなかに、ときどき黒い汚物が混ざるような音楽で、12分ばかりの張り詰めた緊張感が印象に残る。中間楽章が激烈で、動的なモティーフに貫かれた10分弱の、正に破壊的な音楽だ。そして、第3楽章は合唱の特殊な唱法が印象的な、無重力の虚脱した音楽となる。

ナクソス・ミュージック・ライブラリではフサ自身が指揮した管弦楽版の録音を聴くことができ、確かに凄い作品であることは間違いないが、ときに怪奇映画か、SF宇宙映画の音楽のような雰囲気になったり、ホルストの組曲『惑星』を思わせるようなメロディアスなサウンドもあって、あるいは、実演では俗っぽく聴こえるところも多いのではないかと想像した。しかし、実際には音楽は常に厳格で、容赦のないものだったのである。下野は作品がメイン・プログラムとしては若干、短いことを考慮してか、バッハの BWV487 「ゲッセマネのわが主よ」を前に置き、つづけて演奏するという工夫を施した。これは作品がバッハと同じようなレヴェルで、真実の作品であることを印象づける配慮でもある。しかも、そこに描かれているのはゲッセマネという歴史的な時間だった。

【ゲッセマネの夜に】

周知のように、「ゲッセマネ」は聖なる空間といえるだろう。イエス・クリストはここで、しばしば神への祈りを捧げたというが、「最後の晩餐」のあとに生涯で最後の祈りを捧げ、イスカリオテのユダに裏切られて捕縛されるという、その舞台も同じところである。下野の企画は、そのゲッセマネをひとつの軸にとっている。ゲッセマネとは人間の生きることを阻む不条理の象徴であり、死へと一直線につながっている旅路の源流、そして、それを運命づける宗教の存在を示している。そして、この演奏会の源流として選ばれたのは、松村禎三の書いた『ゲッセマネの夜に』である。松村はキリスト教の教師も務めたことがあり、同じくクリスチャンであった遠藤周作の作品に基づく歌劇『沈黙』も近年、大阪のカンパニー(大阪音楽大学ザ・カレッジ・オペラハウス)でプロダクションが構成され、それが新国立劇場でも紹介された。松村は前衛的な実験闘争的主張や実践とは距離を置き、時間をかけて、丁寧にメッセージを練り上げた作品を多く遺したが、結果としてどの分野でも寡作となっている。この作品は、そのなかでも数の少ない管弦楽作品の名品であるといえそうだ。

特に私がこの作品について注目するのは、一見、型どおりの交響詩のような身振りをとりながら、リンクのアマチュア・オーケストラ=新交響楽団プログラム解説の筆者(団員)によれば、ここはどういう場面だとかいう情報とか、ヒントになる副題のようなものをすこしも残していないという事実に衝撃を受けるからである。かといって、松村は抽象画を描きたかったわけではあるまい。もしも自分のつくりだした音楽に霊感が生じるなら、それは否応なく聴き手にも、もちろん、弾き手にも伝わるはずだという確信に基づいて、そのような試みがおこなわれたのは想像に難くない。逆にいえば、それがないのなら、いくら詳しい解説を付しても無駄だということである。実際には、霊感は明らかに生じており、ほぼすべてのメッセージが我々のところに届いてきた。

しかし、このゲッセマネはどういう瞬間を描いているのだろうか。最後の祈りや、ユダの裏切りが中心点に来ているのは当たり前だが、決定的な瞬間はついに訪れない。深く、明瞭な仄めかしが見えるだけである。下野と読響が描き出したのは、神秘的な静寂である。美しく、透明なベースのなかで、時折、ヴィジョンが夢のように広がっていく。弟子たちに眠りを禁じたイエス自身も、眠っているのだろうか。この深い眠りのなかに、松村は恐ろしい裏切りと恐怖を閉じ込めようとした。事件は、まだ起こっていない。将来、必ず起こるのはキリスト教徒でなくっても、誰でも知っているのだが、この瞬間には、まだなにも起こってはいないということが重要なのだ。作品は現実の静寂と、これから起こることを暗示する、やや激しい響きとが交代でやってくる。クライマックスはユダの裏切りと捕縛の場面と思われるが、あくまでも暗示に止まるため、響きは突き抜けないまま、ダニエル・ゲーデの弾くヴァイオリン・ソロが現れる。美しい神秘的な響きというよりは、オロオロした格好の悪いヴィブラートを奏でると、嗚呼、これはユダのこころの叫びじゃないかということが想像されるのだ。

【テーマにあわせたモーツァルト】

2曲目はモーツァルトのピアノ協奏曲第24番で、独奏は小川典子だった。この演目のなかでは客寄せパンダ的な位置づけとなり、華やかなソリストが選ばれているが、期待どおり、小川典子は『白鳥の湖』の黒鳥のような幻想的で、底光りのするインパクトに満ちた出で立ちで登場した。序盤は直近に、準・メルクル&東響の模範的なモーツァルトに接していただけに、下野&読響の演奏には微妙な点で満足せず、ハイドンの音楽について、故ブリュッヘンが言っていたような「ルール」に対する細かなイメージのずれが散見されるように思われた。小川の打鍵も重く、ラフマニノフのようで、私は彼女の演奏を聴いてはじめて、ふかい疑問を感じることになった。しかし、演奏が進むにつれて、このパフォーマンスはもちろん、客寄せなどではなく、プログラム全体のなかでアジャストされた表現で貫かれていることが明らかになってくる。例えば、それは終楽章の終わりに現れる渦巻き構造のふかい表現をとってみても印象的に感じられた。

この24番は、私としてもディノ・チアーニの録音などでもっともよく聴いている作品のひとつである。そのイメージはともかく、ダンサブルな特徴などはすべて消えてしまい、その代わりに、死の味わいだけが辛口の葡萄酒のように苦く抽出された演奏だった。この演奏の是非については正直、判断に迷ったが、全体を終わってからみなおしてみたときには、自分への評価も省みず、下野のめざす表現に多大な貢献をした小川のパフォーマンスは十分に評価すべきものだと断じざるを得なかった。なお、事情通の知り合い=カンタータ氏のツイートをみると、シュニトケ作カデンツァを繰り出して、彼女がこの日のパフォーマンスに対して、積極的につきあったことがさらにはっきりとわかるはずだ。

【apotheosis】

後半は前述のように、フサの前にバッハの作品を置いた。この作品はしかし、レオポールト・ストコフスキが弦楽合奏用に編曲したものである。松村と同じゲッセマネを背景に、言葉が取り除かれて、2人(あるいは3人)は同じ静寂を表現しているように思われる。さほど間を置かず、フサが始まった瞬間、私は驚きを禁じ得なかった。なぜなら、自分が思っているような弱音ではなかったからだ。最初の木管の響きは p か、 pp の強さであるのは確かだが、感覚的にはバッハの弦楽合奏全体の響きよりも強度があるように聴こえ、私はまず、オーケストラの訓練不足について思いを巡らした。オスモ・ヴァンスカが言うように、美しい弱音をつくるにはそれなりの訓練が必要なのである。そのとおり、打楽器と管楽器のタイミングなど、点から宇宙が広がっていくようなフサ自身の録音と比べると、今回の演奏でも準備不足は否定できなかった。

そのことを前提としても、私の否定は長くつづく性質のものではなかった。つまり、これには別に、訓練不足とは関係ない表現意図が関係していることをも読み取れたからである。バッハの響きに対して、楽器1本でもインパクトがある木管楽器の響きは、あとあとまで影響する見事な発想を象徴していた。第1楽章はいわば、この世にある生きとし生けるものすべての肯定として描かれている。「神格化」である。また、もしくは極限とか、限界という意味もある。この apotheosis とよく似た言葉に、医学や細胞工学の分野でよく使われる apoptosis という言葉があり、これは人の身体のなかにある細胞がその機能のなかに予め組み込まれているプログラムに従って自ら死に、新陳代謝を繰り返していくメカニズムのことを指している。細胞の自殺・・・などというやや物騒な語感の訳もあるが、この「自殺」は人間の身体を新鮮に保つためには必要不可欠なものであって、例えば、これができないと、人間の皮膚は保水などが十分にできなくなって、カサカサになってしまっても、ずっと古いまま保たれねばならないのである。

私は2つの似通った言葉を、互いちがいにイメージしながら聴いていたから、こんなことを書いているのである。

当たり前のことだが、物事には複数の異なった見方がある。最初の「神格化」とは確かに肯定の楽章で、いま地球上に在るあらゆる美しい現象や、人間をはじめとする掛け替えのない命について考えさせるものだが、同時に、それらに対する行きすぎた愛情が欲望を生むことも教えてくれるものだった。作品はもう、これ以上はどうにもならないほど、極端に膨らんだフォルムで描かれていることに気づかなくてはならない。それを象徴する言葉として、フサは例えば、「アーメン」という言葉を取り上げてみるが、この言葉の意味が素晴らしければ素晴らしいほど、エネルギーは極大となり、反面に破壊的なエネルギーを備えることになる。「アーメン」とは、そうです、そのとおりです・・・という言葉であり、普通は神の言葉や聖書の教えを伝える教師の言葉を追認する役割を果たす。つまり、それは信仰そのものである。

【破壊の悲劇、と、その後】

そのあとに来る「破壊の悲劇」はやはり、必要不可欠なものだ。皮膚がこれ以上は、人間の身体を有機的に守ることができないと判断されるそのときに、プログラムされたアポトーシスがちょうどよく起こるように、第2楽章は自然な形で出現する。しかし、福島第一原発の例をみてもわかるように、我々が扱うエネルギーが大きければ大きいほど・・・つまり、アポテオシス(極限)にちかければちかいほど、そのコントロールは困難で、反動も大きなものとならざるを得ない。だから、この作品の第2楽章は膨らみすぎた風船がたまらず破裂してしまうような、自虐的なエネルギーを放っている。確かに、ホルストのようなサウンドも聴かれるが、フサの音楽はそのようにうまく統制されることはなく、そこからまた別の変容を無限に起こしていって、ちょうど核分裂反応のように手のつけられない動きをとるのだ。

やがて、音楽は合唱を含む、それぞれの楽器の全機関を限界まで使いきるようなアクションを要求するようになる。例えば、合唱の場合は人間が歌うのに用いる横隔膜から口腔に至るほとんどの機関を限界まで使いきるように要求している。否、フサはそれでも足りずに荒々しく手を叩かせ、まだそれでも満足せずに、すばやく地団太を踏ませて、ほとんどダンスのような要素まで引き出すことで、ようやく対価を払ったと認めてくれるのだ。しかも、これはその動きを煽るかのようなオーケストラの足踏みと連動しており、この件までくると、さすがに悪寒が来る。これは神とか、そういう要素を超えて、地球の怒りそのものであるようにも思えた。

しかし、こうしたモティーフはより繊細に、第1楽章の最初のシーケンスに象徴されている。つまり、それがバッハの弦楽合奏よりも音圧の強い冒頭の木管楽器の響きなのであった。そのとき、弱奏ではあるものの、通常、その楽器らしい響きをつくる部分以外の、木管楽器のいろいろな部分・・・例えば、黒檀の木目のところとか、そうした断片の響きが巧みに引き出されている感じがして面白かったのだが、そのスタンスが作品全体に行き渡っているのは明らかだった。シロフォンやビブラフォンのような単純な楽器さえ、極限でそのクオリティを響かせる。特に人声の変容は、言い得ない恐怖に似た驚きを生じさせるであろう。この合唱部分は通常のものとはちがう、特殊な練習を積み重ねることでしか到達し得ない独特の響きをもっている。例えば、新国立劇場合唱団や東京オペラシンガーズのようなハイテク集団でも、簡単にできるような発声ではないと誰にでもわかるはずだろう。しばしば器楽的だが、ヴォカリ-ズのような単純さは皆無で、はっきりした言葉がない部分でも、言葉があるように歌っている感じもして、なにかと複雑だ。

最終的には、この人声の美しさが apotheosis に組み込まれ、下野はフサが決して絶望的なイメージで作品を描いているわけではないことを訴えるのだ。実際、合唱以外にも、最終的に人間の必死に奏でるものの美しさへと集約していく音楽は感動的だ。無窮動で、機械的なリズムだが、ひとつひとつの音がトレモロにはならずに粒よりで叩かれる打楽器の音。これに被せられる弦楽器の踊るような動き。特に、重いコントラバスの波打つようなアクションには感動を覚える。さらに、人声の自由な叫び。全体のフォルムを強烈に整える指揮者の動きも、エネルギーの持続には欠かせない。いまも申し述べたように、この作品の面白さのひとつはリズムやアーティキュレーションはなにも見慣れない発想に基づくというわけでなく、比較的、単純で、読みやすいものであるが、同時にそれらは決してトレモロや塊にならないで、自由にひとつひとつが踊るように演奏されねばならないという点にある。

「その後」は、’This beautiful earth’の簡単なフレーズが上手に言えず、微分的合唱でススススススス・・・と言葉が解けてしまうことによる面白さを追ったワン・メッセージだけで構成される。最後はいくら繰り返してもよいというシロフォンの響きで結ばれ、全体の帰結としては、あまりにも皮肉である。しかし、下野が指揮棒を下ろしても、まだ会場全体はシンとして衝撃に包まれているように静かで、もういちど指揮者がハッキリとおわりの合図をするまで、なお数秒間の静寂がつづいた。

【過去と現在、そして、未来】

松村の作品についても同じようなことを語ったが、フサのイメージする地球の崩壊も、まだ起こってはいないのかもしれない。ゲッセマネについていえば、それは聖書のなかの、大昔の物語だ。しかし、同時に我々が生きるうえで何らかの意味で体験することであるかもしれないとは思えないだろうか。神父さんたちは、信徒に対してどのように教えているのであろうか。少なくとも私なら、大昔、イスカリオテにいたユダという人がイエス様を裏切ったがために、自らに罪もないのにそれを背負って、この上もなく純潔な方が亡くなられました、又、彼を直接的に殺したのは邪な信仰をもつユダヤ人です・・・というだけでは、まったくこころに響かない。いま、もしくは将来において、あなたが・・・私が、ユダでありイエスを不当に誅したユダヤ人であり得るという現実を受け止めることなしに、ゲッセマネに真実を思い描くことはできないだろう。フサが言いたかったのは、正にそのことではなかろうか。地球を今後、破裂させるのはあなたである。そう、私たちの責任である。

なお、ユダについては、外典として扱われる資料であるが、いわゆる『ユダ福音書』によって、グノーシス主義(キリスト教的主知主義)の一派では、その行為は決して倫理にもとる行為ではないと見做されていたことが知られている。イスカリオテのユダによる裏切りはそもそもイエスに指示されたものであって、その成就によって、ユダは彼にしかできない真理を達成したというのである。この場合、ユダはイエスによって特別に信頼された者であり、ほかの使徒よりも上位に置かれ、裏切りはユダだけが知る真理であったから、これを理解できないほかの使徒たちが彼の裏切りを激しく非難するのも理解ができる。ユダについて、特に悪く記述しているのはマタイとヨハネの2福音書や、『使徒言行録』などである。それらの見方が封建的な中世の土壌のなかで育てられれば、ユダの立場は回復不能なほどに毀損されてしまうのも止むを得ない。

このことは今回の作品とはさほど関係ないが、ひとつの考えるヒントとして書かせてもらった。つまり、ゲッセマネには、いろいろなヴァリエーションがある。それは過去に起こったことのようであっても、いつも、これから起こることを内包して生きている。歴史は、息をしているのである。今回、そこに息を吹き込んだ下野竜也と読響のパフォーマンスには賞賛を惜しまないものである。ドゥダメル&シモン・ボリヴァル・ユース管もかくやと思われるほどの、圧倒的な運動性能と、表現に賭けるストレートな情熱、対照的に冷徹な知性を見せつけた公演であった。なお、合唱指揮者の記載はないので、誰か信頼できるスタッフの手助けはあったにしても、概ね合唱にも下野自身が稽古をつけたものと思われる。あらゆる意味で、記念碑公演であった!

なお、ここに書いた宗教的知見は付け焼刃のものであり、誤解があれば指摘を願いたいと思う。

【プログラム】 2014年9月16日

1、松村禎三 ゲッセマネの夜に
2、モーツァルト ピアノ協奏曲第24番
 (pf:小川 典子)
3、バッハ/ストコフスキ ゲッセマネのわが主よ BWV487
 ~フサ この地球を神と崇める(管弦楽編)
 (chor:上野学園大学)

 コンサートマスター:ダニエル・ゲーデ

 於:サントリーホール

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