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2014年10月23日 (木)

メッツマッハー ベートーベン ミサ・ソレムニス ほか 新日本フィル サントリー定期(初日) 10/3

【祈りの実現のために何ができるか】

ベートーベンの『ミサ・ソレムニス』は、数ある宗教曲のなかでも独特のポジションを占めている。一応、自らのパトロンであったルドルフ大公のオロモウツ大司教就任を祝って献呈を申し出たという作曲動機は明らかになっているものの、実際、作曲は大公の就任には間に合わず、実際の作品を聴いてみても、確かに敬虔なところは感じられないわけでもないけれど、バッハのロ短調ミサ曲のように素朴なものではなく、テクストの扱い方も伝統的なミサ曲とは異なっている。例えば、最後にアーメンを唱えると、普通、その曲のなかで後に言葉を継ぐことはないが、ベートーベンの場合は、もういちど大事な句が継がれることで、ギョッとさせるような効果をもたらす。しかし、強調される語はほぼ決まって、「ミゼレーレ」と「パーチェム」という具合である。

ベートーベンの創作にとって、最大のテーマとは魂と社会(国際関係)、そして、宗教(宗教的対立)の平和であったと思われる。ルドルフ大公は神聖ローマ帝の末子であり、大司教になっていることからも保守的なカトリックの宗教的背景をもっているのは当然と推察されるが、一方、ベートーベンは生地のボンでオイロギウス・シュナイダー教授の講義を受けて以来、強烈な自由主義的啓蒙主義を奉じていたというのだから、他のパトロンたちが去っていくなかで、大公が最後までベートーベンへの支援を欠かさなかったのは殊勝なことである。察するところ、病気がちで穏健なルドルフ大公も、ベートーベンの思想の大部分には深い共感を感じていたのであろう。ミゼレーレ、そして、パーチェムのために。つまり、身を低くして、宗教的な和解を信じるこころ。その願いを乗せて、ベートーベンは旅立っていく。未来へと向かって!

この演奏会を前に、前週のベートーベンとB.A.ツィンマーマンの演奏に接した私は、期待で胸を膨らませていた。彼らの演奏のなかで特に私を喜ばせたものは、演奏ベースの他ではみられないような特別な美しさだった。ブリュッヘンに習った柔らかい弦の使い方。しなやかで、自然に任せた音楽の推移(アーティキュレーション)。そのときとはコンマスが西江辰郎から崔文珠に交代したとしても、彼もまたブリュッヘンの指導を手厚く受けたひとりだったと記憶している。前週の演奏会では、メッツマッハーが以前よりも楽団のもつ独特な経験を鋭く感じ、うまく引き出していることに驚いたが、そのクオリティはこのような大曲になっても損なわれず、さらに前進した。その端緒はグロリアの冒頭部分など、急速な場面で窺われた早弾きなどに表れていただろうか。

正直にいうと、例えば4人のソリストのクオリティには十分な満足を感じない。しかし、その不満を購う多くのインスピレイションがあがり、演奏は素晴らしいものだったと談じざるを得ないのだ。そのための前提条件として、栗友会合唱団の下手に技巧に奔らないノビノビしたパフォーマンスは欠かせないものだった。メッツマッハーはこの作品に秘められた、いくつかのエネルギーを浮き彫りにしたが、そのひとつは困難と闘うことによって生じるものである。ベートーベンはただ祈ることだけが、困難を克服する唯一の道とは考えなかった。そう考えるには、もはや時代は複雑さを増していたからである。魂と社会、および宗教の平安は、どれも容易に実現しないというなかで、むしろ、祈りの実現のために、自分が何をできるかを考えたのだ。

その結果が、このミサ・ソレムニスであった。

【全人類的な願い=静寂と、現実=反転】

これまでの録音を聴く限り、題名を『荘厳ミサ曲』とはいうものの、この作品を「荘厳」にしようとしたあらゆる挑戦は失敗におわっていると思う。中でも、シューリヒトの例が偉大なる例外とはなりそうだが、バッハを規範にしたようなノーブルで、調和的な美しさからは生じない喜劇的な美しさこそ、この作品の本質であることは、今回、教えられたことである。そう聴かなければ、どうにも理解ができない。リンクするガーディナーの録音では、ほとんど野生の叫びにちかいが、メッツマッハーの場合は、もうすこし統制的だ。そう聴かせるのはライヴの分もあるが、言葉の部分をより丁寧に彫り出そうとしたせいであり、弦を中心とするオーケストラと声の関係も美しく重ねたいと願ったことによる。これはシューリヒトの美点と一致する。メッツマッハーはあくまで理知的に、ウィットに富んだ解釈をした。

つまり、全体的にみて、グロリアは均整のとれた美観がある。強調的な部分では手綱をしごいても、それ以外の部分では、先日の演奏と同じような寛いだ弦の素晴らしさを損なわない。この日はブリュッヘンが亡くなってから、ちょうど2ヶ月で、再び氏の顔が浮かんできた。もっとも当世に在りし日のブリュッヘン氏はこの曲を録音せず、新日本フィルもベートーベン・シリーズのときには演奏をオファーしたというが、氏の意向で、バッハのロ短調ミサ曲がこれに代わることになったという記事がある。しかし、オーケストラのメンバーには応用力があった。彼らはベートーベンのもつ2つの顔、つまり、ブリュッヘンの言っていた「アップ」と「ダウン」を上手に使い分けて、作品のフォルムをゆたかなものにした。ブリュッヘンの言うもうひとつのキーワード「ルール」は、こうした作品ではむしろ、読みやすいものだろう。だが、言葉と音楽に与えられた抑揚に従わず、作品の自然な流れを断ち切る演奏のいかに多いことだろうか。

メッツマッハーと新日本フィルの演奏では、ベートーベンが聴かせたかった言葉が生のまま客席に伝わってくる。例えば、ドミネ、ミゼレーレ(・ノビス)、パーチェムといった言葉がそれだ。イエス・キリストの名前も。そして、アーメン。だが、このグロリアでは、ミサでは最後に司祭の言葉に続いて承認を表するアーメンの言葉を飛び越して、またほかの言葉が暴れ出す。それまでにアーメン・コーラスそのものにも様々な言葉が被り、これを構成するのが対位法的な音楽的テクニックということもあって、信仰の混乱が明らかに示されていた。まったくはじめて聴く曲ではないにしろ、ドキリとする。このメッセージを引き出すために必要なことは、言葉と響きの解像度が十分に高いことだ。ここに、あの早弾きが関係してくる。鋭く、速いトレモロ自体はいまどき特に珍しくもないが、メッツマッハーの演奏にはさらにプラス・アルファがあった。うまく言葉にできないが、表現に厚みがある。

さて、ラテン語の歌詞を読んでいると、作品のなかでグロリアと並ぶ焦点をつくるクレドは、私の感覚ではグロリアほど活き活きとしたリズムはもたない言葉である。これは仮定の仮定の仮定のそのまた仮定のような話で、ラテン語の知識もほとんどないことは、もちろん、書いておくべきだろう。しかし、なんとなく角張っていて、引っ掛かりがある。逆にいえば、その引っ掛かりが「信仰告白」として相応しい雰囲気をもつのではないかと思われた。これはシューリヒトの演奏を聴いても、そんな感じを抱く。例えば、イタリア・オペラをドイツ語の翻訳で聴くときのような味わいがあるのだ。しかし、メッツマッハーの演奏ではクレドがグロリアと同じだけ、詩的なリズムをもっているというのが特長であった。この日の演奏では、先に述べたようにグロリアのニュアンスゆたかで、整然とした演奏が白眉を飾るが、クレドはまた別の驚きをもっていた。

そのニュアンスは、このあたりからソリストの声がようやく熟し始めたのと無関係ではなかったかもしれない。

グロリア/クレドの双生児を見事に描き上げたあと、サンクトゥスは奇形の第3児という感じで描かれる。信仰告白によってミサ前半が終了し、サンクトゥス/ベネディクトゥスは「いと高きところにホザンナ」を伴って、やや華やかになるのが普通であるが、ベートーベンのサンクトゥスにはそれほどの華はなく、静かで、言葉の意味どおりの緩徐楽章的な雰囲気がある。メッツマッハーの演奏では、ソプラノを先鋒としてのソリストの切り込みもやや押さえめで、その特徴はより強調的だ。この構成はつづくアニュス・デイと連携的であり、フォーカスは人間の内面に集約されていく。サンクトゥスの最後では、オブリガートのようなコンサートマスターのソロがブリッジ役を務めるのも示唆的なことである。

キリエと、グロリア/クレド、サンクトゥス/アニュス・デイで、三位一体の構造が完成した。

終曲のアニュス・デイでは、ミゼレーレ、パーチェムの言葉が執拗に繰り返される。その言葉に反応してか、いったん響きは調和を得て静まるかと思いきや、再び太鼓のマーチがさりげなく立ち上がり、人々の願いは踏みにじられる。だから、この2つの叫びはエンドレスで、人々のこころを包まねばならないようにできている。困難なことだからこそ、より真剣に、深く祈ることが必要なのだ。ベートーベンは、そのように考えたにちがいない。見かけや格好の荘厳さではなく、祈ることそのものの荘厳さこそが、真の信仰につながっている。アニュス・デイ(神の子羊)、ミゼレーレ(憐れみ給え)、ドナ・ノビス・パーチェム(我らに平和を)。それらが全人類的な願いであり、至高の祈りの言葉となるのは自明の理だ。

今回、メッツマッハーはさらに、この作品の前にB.A.ツィンマーマンの作品『静寂と反転』をつけ、間をあけずにつづけて演奏することを要求した。ニ音→ニ長調、つまり単音から和声へと拡大し、自殺した作曲家の最晩年の作品から救済を連結する試みは、実際、演奏してみると、まったく結びつきが自然でないことで破綻しているようにも見受けられるが、そうではない。むしろ、聴き手があのぶつかりに疑問を抱き、次の作品に入っていくことが重要なのだ。その違和感こそが、ツィンマーマンの死と結びついているからである。この作品は新ウィーン楽派以降の音楽を事実上、支配したウェーベルン的な簡潔性に対するツィンマーマンなりの結論である。しかし、彼はもう、論理によって道筋を示すということに希望を見出せず、それ自体が皮肉ととれるような作品を書くことで、世の中に何らかの警鐘を示していくようなことしかできなくなっていた。

これは実に、ベートーベンの作品と重なる発想ではなかろうか。

【数えられない音楽】

ところで、この指揮者の面白いところは、前々から言っているようにメッセージ性のゆたかさである。彼は百科事典的な知性派であり、バロックと近現代作品を有機的につなげる発想と、優れた知見をもっている。フィグーラのような古典的教養も豊富に身につけているはずだ。しかし、同時に彼はサウンド全体から誰にでも読み取れる力づよい印象を見つけ出し、聴き手に対して提示するということをも怠らない。例えば、『ミサ・ソレムニス』では先日、芥川作曲賞(前座)での委嘱作発表に際して、新井健歩氏が残したメッセージが参考になろう。つまり、現代の奏者たちは細かく数えすぎるが、過去の録音を聴くと、そういうことは感じないという点である。メッツマッハーは、この『ミサ・ソレムニス』でそうした「数えられない音楽」があることを前提に演奏している・・・とすれば、新井のいうことの数少ない例外ということになるのであろうか。正直いうと、いま、それが具体的にどこだったか、ハッキリと述べられるほど、記憶が残っていないのは残念なことだ。

しかし、明らかに、私は体験した。単なる静止でもなければ、停滞でもなく、時が止まったような・・・というのでもなく、言うなれば、ほんの一瞬だけ記憶が抜かれてしまうような、そんな小さく、掛け替えのない時間があったのを。宇宙ビッグバンの前に在ったはずの微小な空間のような、そんな部分から作品は大きく広がっていくことになる。ジュリーニの録音のクレドなどを聴くと、よくわかるかもしれない。声がクレード、クレードの大合唱に発展したとき、過去の時点に在ったごく小さく、静かな単位と完全に対応しているということが。これは非常に新しい発想だったと思うが、同時に、ごく古いものでもあったのではなかろうか。例えば、グレゴリオ・チャント(正確にはそのもとになった伝承的な曲)のように、素朴な音楽の生成を思えばよい。

そう思うと、B.A.ツィンマーマンのこころの叫びは、ムンクの「叫び」よりもいっそう苛酷なもののように思えるが、さすがにこれ以上はあまりに専門的で、私には論じることのできない領域に入りそうだ。例えば、『静寂と反転』のニ音には、どのような意味があるのか。そもそも、ニ音とはなにか。もっとも単純な音階であるハ長調では「レ」と呼ばれ、ベートーベン『ミサ・ソレムニス』の二長調では主音「ド」を構成するという、それ以上のことを、私が指摘することはできない。日経新聞の記事をみると、メッツマッハーの言葉として、ニ音がツィンマーマンの信仰心を表すという見解が紹介されているが、では、なぜハ音やホ音ではならなくて、ニ音であるのかという問いがない。ニ音への固執はベートーベンのもっていた個人的な感覚によるものなのか、あるいは、何らかの教養や宗教音楽的伝統に基づく発想なのか。神秘は、なおも残った。

しかし、この二音がすぐさまベートーベンの和音と衝突し、跳ね返されるアイロニカルな発想だけは不動である。

【まとめ】

今回は、メッツマッハーと新日本フィルがひとつ階段を上ったか・・・という演奏会になった。ベルント・アロイス・ツィンマーマンとベートーベンのリンクはきわめて興味ぶかい。この2人の作品からは驚きに満ちた多様な発想と、近接する、あるいは遠い昔とリンクする豊富な音楽が多層的に展開して聴こえてくる。彼らは先人に対する深い敬意を払い、それを自分たちの音楽のなかに消化していくという共通の特徴があった。彼らは同じ発想をもっているが、ベートーベンが現代の作曲家やアカデミシャンからも評価が高いのに対して、例えば、歌劇や管弦楽の作品が多少、厚く注目されるようになったとはいえ、ツィンマーマンに対する見方は依然、曖昧なままというほかないだろう。単に、生まれた時代がちがうというだけのことで。

メッツマッハーはそうした矛盾を鋭く突きながら、これを生じさせた時代全体に対する風刺を示してくれた。ベートーベンとはまた異なる苦しさのなかで、ツィンマーマンは死んだのである。しかし、これを反転させるような発想が、ベートーベンのなかに感じられる。演奏会ではあくまでポジティヴに、明るい雰囲気で語られねばならないのか。メッツマッハーは確かに賢いが、それをひけらかす哲学者の類ではないようだ。彼はいつも、我々の側から考えてくれるし、率直であるが、丁寧な態度で聴き手に接するうえに、粘りづよい。また、彼の音楽はしばしば独特だが、その意図はわかりやすく、伝わりやすいだろう。理路整然としているうえに、エレガントでもある。今回の演目は新日本フィルが近年、育ててきた個性にもよくあっていた。そういう条件が重なってこそ、このような素晴らしい機会とはなったのである。

楽団との連携と相互理解を深めたメッツマッハーの打つ、次の一手に期待は膨らむばかりだ。

【プログラム】 2014年10月3日

1、B.A.ツィンマーマン 静寂と反転 → 2、ベートーベン ミサ・ソレムニス

 コンサートマスター:崔 文珠

 於:すみだトリフォニーホール

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