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2014年10月 1日 (水)

松雪泰子&田中哲司&長塚圭史&ジョン・カミナリ ハロルド・ピンター 『背信』 葛河思潮社 第4回公演 東京公演 9/18、21

【概要】

ハロルド・ピンターの戯曲『背信』は、1978年に書かれたシニカルな心理劇である。画廊を経営する才女エマと、腕利きの出版マネージャーであるジェリーの不倫が描かれるのだが、エマのパートナーであるロバートもやり手の出版業者で、ジェリーの学生時分からの友人であるという設定。そのロバートもいつからか、エマのことを裏切っていた。詳しいプロットは原作本を当たってほしいが、1シーンで登場するイタリア料理店の給仕役を除くと、この3人だけで物語は展開する。今回は長塚圭史の演出で、葛河思潮社による4つ目のプロダクション。エマは松雪泰子、ジェリーは田中哲司、そして、ロバートに長塚。給仕は、ジョン・カミナリ。いまが旬というべき3人だけで織り成す舞台は、正に新鮮そのものだった。私は横浜のプレヴュー公演2日間と本公演を経ておこなわれた、東京公演の初日、および、21日の公演を拝見した。

まず、言っておかなければならないのは、この作品は観客がこうとイメージを定めた瞬間に、過ちが始まるという厄介な特徴をもっているという事実だ。ピンターの作品はハヤカワの『背信』が収められている巻だけを読んだにすぎないが、多かれ少なかれ、彼の作品はそのようなところをもっているのであろう。いま、私がここでエラソーに長々と語ったとしても、その後、あなたが反論したことはいかなる意味でも、正しいだろうと思う。結局、先に動いたほうが負けになるが、私はとりあえず、自分が思っただけのことを書いておきたいと思うのみで、やっぱり長いレヴューに挑むことになるだろう。

【後回しの行動】

私が作品を読んで、いちばん奇異に思ったことは、3人が行動を後回しにしているということである。最初の場で、エマは「ゆうべ」、自分の浮気についてすべてを話したと思い込んでいるようだが、その何年も前に、彼女はジェリーからの私信を押さえられて夫に遠まわしな詰問を受け、浮気を認めている。「私とあの人よ、よろしくって仲は」。しかし、正確にはロバートの気づきは、それよりもずっと前であった可能性もあるのだ。つまり、パーティを抜け出していたジェリーがはじめて、エマに激しく言い寄って、そこにロバートが踏み込んできた日(第9場=最終場)のこと。最初の幕で、エマは若干、あきれたような口調でジェリーに言っている。「みんな知ってたんじゃないかしら、最初からずっと」。ロバートがいつ気づいたにしても、彼はすぐにジェリーをとっちめたり、細君をなじったり、離婚に動くというような行動はとらない。彼はずっと、この事実を抱えたまま、行動を先延ばしにしている。

しかし、それによって、確実に彼らの行動は歪められている。ロバートだけではなく、エマもジェリーも実は、その事実に少しずつ影響されて、人生を歩んでいるようにみえる。明確にそう書いてあるわけでないが、3人はなにか異常な心理にとり憑かれているように思えてならない。とても、なにかを取り繕っているようには見えないだろう。例えば、家族関係や友情、ビジネスを守るために。そういう面では、彼らの関係はもう熟しきっているといえるのではなかろうか。例えば、第2場、ロバートに関係が発覚したことでジェリーが取り乱す場面でも、最後はビジネス上の、そして、友情の上での文学の話題に落ちていくことが可能なのだ。40歳、もしくは38歳(エマ)でスタートする3人だが、いずれも非常に知的で、鋭い感覚をもち、なにかを掴んでも、簡単には表に出さないタイプの成熟した人物である。ロバートは言う。「とにかく、大したことじゃないだろ」。

だから、このプロダクションで、ジェリーに田中哲司が起用されたことや、松雪演じるエマがジェリーとのいわば別れの場面で、最後、キーホルダーのことでちょっとした感情の発露をみせること、情事が発覚したあとの場面で、ロバートとエマが無神経なジェリーを迎え、彼が帰ったあと、ウェットに抱き合うようなシーンが大事になる。破綻が決定的となったあとでも、自分たちは互いに好きだったこともあるというジェリーに対して、ロバートは言っている。僕たちはいまもそうだと。感情も行動も、ないわけではないのだろう。ただ、ゆっくりと慎重に表れ、澱みながらも、確実に動いていく。物静かな刑事の、巧みな取り調べのように。ピンターの書いたものはその傾向が強く、私はもっとシニカルで、ゆっくりな劇を想像していた。

だが、長塚の演出はテンポがよい。そして、田中を中心にして、劇が起伏に満ちたものになるように解釈をゆたかにしているのが特徴だ。例えば、ロバートとジェリーが互いに複数の女性と関係し、子どもまでもうけているにもかかわらず、実はゲイである可能性や、本来、時間が緩やかに遡っていく作品であるにもかかわらず、場面の進行どおりに時間が進んでいくように見られる可能性まで許容する。もちろん、こうした解釈を思いつくことで、観客はより深い作品世界をつくるために、自らそれを掘り込んでいくことができるのだ。

第1場、松雪と田中による素早く、リアリティのある進行で突き進むのには本当にびっくりさせられた。初日は特に、ジェリーの酔いが雰囲気をつくっている。台詞を噛んだのではなくて、酔って呂律がまわっていない表現だと思った。いずれにしても、私の感覚では、この第1場ほど難しく演じにくい場面はないと思われた。長塚はこの場面をほとんど演出的なモノクローム、あるいは、アカペラで通すことにしたが、それは彼が、私とまったく同じ感覚を抱きながらも、松雪&田中のペアには、それを乗り越える強いエネルギーがあると信じていたからこそ、できることなのだ。実際、初日の演技では第1場はエマの最後の台詞「何もかも、もう終ったのよ」に向かって、一直線に流れ込む。この終焉から、われわれ観客と劇の関係がようやく始まるようになっている。確かに、2人の関係は完全に終息しているようだった。だが、2回目に観たときに、私はもうすこし先の場面になって、ようやく悟ったのだ。いちど終ったからって、2回目がないということはない!

【独特な3人の組み合わせ】

長塚圭史の演出はある意味、当然のことだが、キャスティングから始まっていたように思われる。まず私は、3人の声質に注目した。というのも、私は下読みの段階で、2人の男性には低声が似合うと感じていたからだ。特に、ロバートはバスで、重厚な役柄にしたい。そうすると、例えば最終場で、文語的な台詞が出るときにハッキリとキャラクターが出るからだ。テノールでは、その重さはわからない。実際には、長塚と田中はいずれもテノールだ。長塚のほうが若干、レッジェーロで(軽く)、田中は重いスピント系というちがいはあるとしても。正直にいえば、田中の演技でロバートのイメージと合致しない部分はいくつかある。最終場の文語体の台詞が象徴的だが、この場面は原作と、長塚の演出でまったくちがう場面になっているといっても差し支えないほどだ。

つまり、原作では最終場でジェリーが難しい言い回しを使いながら、巧みに気分を高揚させて、エマへの献辞とし、肉体的にも激しく迫っていく様子が窺われる。だが、あとで述べるように、彼は詩人というよりは、散文家なので、それが嵌っていないこともまた確かである。長塚はそういう重い言葉をすっ飛ばすことを選び、エマとジェリーには然るべき距離をとらせてから、ロバートを部屋に入れた。原作ではエマとジェリーの始まりが明らかで、多分、ロバートもそれをハッキリと意識するには十分な状況だったと思われる。つまり、ロバートの気づきはアメリカン・エクスプレスの一件よりもずっと早い可能性があったし、それは先に示したエマの台詞と対応しているはずだ。それが、ほんのりとぼかされているのが今回の舞台である。去っていくエマの腕を、ト書きどおりにジェリーが掴む。そして、ブラック・アウトだ。なにか次の場面がありそうなのに、明転すると長塚が戻ってきて、カーテンコールに移行する。この素っ気ない部分が、長塚の演技に対応しているようでもあった。

【2つの顔】

ロバートにとって、妻の浮気という状況はどのような性質のものだったのであろうか。それを知る手がかりとしては、彼がジェリーに話したトルチェロでの思い出がヒントになりそうだ。アメックスで手渡された配偶者への手紙で、すべてを悟ったというその次の日、彼は予定を翻して妻を置き去りにし、ひとりでブーンとトルチェロへ渡って日がな過ごしている。彼はそこでイェイツを読んだりして、最高の気分だったと述懐しているのだ。一見、ロバートは何のダメージも受けていないか、あるいは妻の浮気を歓迎しているように見えるが、これをさらに得意げに不倫相手のジェリーに語るのも妙だ。彼の心理は簡単に窺い知れないが、いわば、このことで全体を支配する視野を獲得したともいえる。

なお、W.B.イェイツはアイルランド国民文学を代表する詩人、戯曲作家で、ノーベル文学賞を1923年に受賞しているという人物で、いわば、ピンターにとっての大先輩である。なお、この作品には何人かの作家の名前が登場するが、それらが実在の名前なのかどうかは私たちには判別しにくい。例えば、スピンクスは私たちに身近な表記では「スフィンクス」のことであり、エジプトのピラミッドの近くに鎮座する聖獣であり、あるいは、ギリシア神話のオイディプス王の伝記に登場する意地悪な怪物のことである。このように2つの顔をもつことから、「スピンクス」がもしも実在の人物でないなら、この作品の多面性を示すひとつのヒントなのだとも考えられようか。また、しばしば登場する作家として、ケイシーの名前が挙げられる。この「ケイシー」はいわゆる仇名のようであり、第1場では彼と関係するらしいエマが、「あの人はロジャーよ」と訂正している。これも、2つの名前で構成されている。なお、本公演ではケイシーをさらに、ハートリーにして上演している。これはもしかすると、脚本家のハル・ハートリーのことかもしれないが、いわば今回の公演がここにあったと証明するような、印章のような形になっていた。さて、これで3つ目の顔ができた。

舞台はエマとジェリーが逢っていたアパートの一室を中心に、限定的な空間だけで構成されているものの、そのわりに多様な世界を感じさせるのが面白いところである。主な舞台はロンドン。有名な百貨店「フォートナム&メイソン」なども登場する。そして、ジェリーが作家のPRなどで、しばしば出掛けるのはアメリカだった。アメリカでは流行作家のケイシー(ハートリー)が幅を利かせ、地味だが、善良な作家、バーバラ・スプリングの評判を押さえ込んでいる。それに、アメリカン・エクスプレスも登場する。しかし、世界じゅうにあるアメックスのうち、ヴェニス支店のファジーな管理体制がプロットに重要な影響を及ぼす。ヴェニスはロバートとエマがはじめて、ジェリーとの微妙な関係を確認しあう場でもある。エマはその地で不倫が発覚したのに、大胆にもテーブル・クロスを買って、逢引のアパートに持ち帰る。その後、ロバートとジェリーが妙な雰囲気のなか、会食するのがイタリア料理店で、僅かにイタリア語の台詞も登場する。「シ、シニョーレ。モルテ・グラツィエス」。モーターボートでブーンといったトルチェロで、ロバートが読んだのはアイルランドの作家イェイツ。対面のジェリーが体調を紛らわすために飲むのはスコッチ・ウィスキー。かつて、アパートで情事の興奮を高めるためか、エマが飲んでいたのはロシアのウォッカであった。

小さなイギリスの社会に、これだけの世界が詰め込まれているというわけだ。それをたったの3人が占有しているかのようで、それ自体が深い皮肉を含んでいる。

よく言われるように、この作品は記憶の曖昧さや、その不思議なメカニズムも問題になっている。人間の備えた記憶の神秘がもっとも象徴的に語られるのは、ほとんど生まれたばかりのエマの娘、シャーロットをジェリーが放り投げてあやしたのを彼女自身が憶えているというエピソードだ。また同様に、男子の赤ん坊が、女子の赤ん坊よりも手が掛かるという話題に際しては、ジェリーがそんな赤ん坊でも、子宮から出る不安があるんじゃないかなどの珍説を披露し、意外に、ロバートもこれに賛意を表する。

反対に、大人たちの記憶はすこぶる混乱しており、どれがどこに置かれるべきなのか。あるいは、いま挙げたシャーロットの件がどこのキッチンであったことなのか。浮気は一体、いつバレて、ロバートの意識のなかに組み込まれたのか。こういう情報が嘘や取り繕いのなかにも紛れて、まったく区別がつかなくなってしまうのである。これに対応して、演出面では同じ部屋なのに、場面によって、ベッドが上手から下手に移動していたり、昼間のシーンのはずなのに、薄暗い夕方の照明が射し込んだり、いろいろなギミックに気づかされる。そして、それは後半に行くごとに統制のとれないものとなり、単に記憶の混乱ではすまされないレヴェルの、深い意識の乱れにつながっていくのだ。すると、そのベッドの脇にあって、不倫場所には似合わないと思えたはずの木馬の意味などが、いや増しに高まってくる。ただ、面白いことに、直接的な視覚からみると、それは闇に隠れていくという矛盾もあった。

【演出的視点】

演出的なところで、特に効果的なのは中央に置かれた窓付きの家である。この構造物は場面ごとに別々の建物として機能するが、さらに面白いことには、その左右奥の観客からは見えにくい空間(例えば、前方左翼の席に座ると、家の構造物を挟んで右奥のスペースはまったく見えない)にソファだの、ベッドが置かれた別の空間があり、これは別に、見えなくてもさほど芝居の本質には影響ないようにできているものの、なんとなく気になるのである。この秘密の異空間はいわば、風の通り道のような役割を果たしているようだ。つまり、それ自体に大きな意味はないけれど、そこが開いていなければ風は吹かない・・・というような。これが唯一、ゾクッとした意味をもつのはイタリアン・レストランの場で、ジェリーとロバートが何気なく、一緒に下手に目をやったときで、そこには次の場で姿を現すエマの姿が見え、彼女はなんとなく悲しげにしているのだ。

なお、同じ場には、この劇で唯一の他人である給仕が登場する。ここでもジェリーが、あの給仕は昔からいた親父か、そうではない息子かと問い、抜け目なく二重性が上塗りされている。2つのメロン。しかし、ひとつはプロシュート付。ハムのついたほうがどっちだったか、給仕は間違えそうになる。実に、徹底している。こんなところにまで。給仕は、ジョン・カミナリ。いわゆる演劇のプロという感じではない、彼の自由なパフォーマンスは作品をはっきりと明転させて、最後の場につなげる鍵だ。ここでは、重要な鞘当てがおこなわれているが、それを観客へ向けて露骨に晒してはならない。だが、ロバートはこんなことを言う。自分は散文が、現代小説が嫌いで、エマやジェリーはそれを好むと。つまり、リアリティのあるひと(=作家)の人生を。荒唐無稽なポエジーではなくて。

ピンターがどちらにちかいかは、もちろん、想像に易かろう。だが、もちろん、ロバート=ピンターゆえに、ロバート=善ではない。むしろ、ロバートは食えないオトコだ。ひとの人生に添えられた秘密を相手にそれと悟られず握っておいて、何年間も優位に立っている。いつでも彼は、手札を切れる状態にあった。その状態で、彼は相手の注意が逸れているのを良いことに、好き放題に過ごしていくことを選んでいた。最終的にエマと縁が切れたのは、そのような冷酷なトリックに気づかれたせいかもしれない。だが、そのことは彼にとって、それほど大きなダメージではないようだ。なぜなら、彼は何年にもわたって手札を整えてきたからで、一枚、エースを失ってもなにも痛くはない。いわば、これこそがピンターのイメージする詩人の姿である。だが、詩人に、本当に痛みがないのだろうか。長塚の冷酷そのものの演技それ自体が、包み隠すこともなき真実なのか。

そこにも、トリックがありそうだ。今回の演出は、舞台が松雪=エマの後姿からスタートしている。結局、この劇はエマの心象風景そのものであることを物語っている。けたたましい轟音をわざと鳴らし、不快な感情のなかで作品世界が扉を開くのだ。あまりにも美しいヴィジュアルとの、深い対立。男たちも、決してエマの言うなりではない。しかし、彼女の妄想のなかでは、作品は遡るように進んでいくべきなのだ。そうすると、既に第1場で破綻しているエマとジェリーの関係は第3場で絶望的に確認され、しかし、その後、劇的に復活する過程を辿る。最後には、ジェリーがエマに傅き、言葉を捧げるまでに至るのだ。無論、ピンターのような西洋人の場合、この「復活」とは宗教的なテーマと関係する面もあるのだろう。信仰とはこころの問題であり、このようなテーマと親近な関係にある。

その理由はわからないが、エマはジェリーとの関係に異常なほど執着している。ハートリーでは埋め合わせられないのだ。「もう終ったのよ」・・・その言葉はすべての始まりであり、おわりでもある。現実的なおわりと、夢の始まり。

ところで。3人のうちでは、ロバートはよくわからないキャラクターになっているだろう。それもこれも、エマが彼のことをまったく理解していなかったということに尽きるのではないか。だとすれば、彼がゲイだとする趣味の悪い想像も十分に成り立つだろう。書いていないことは何とでも言い得るし、解釈として面白ければ、無益ではない。ただ、ジェリーも本当は、彼を理解していない。正確にいえば、彼は自分以外にあまり興味がない種類の人間だろうか。否、そうではない。ロバートによれば、彼は現代の散文が好きだ。つまりは、現代の作家の生活に関心をもっているので、エマとも関係し得ることになるのだろう。

そのエマからみて、ジェリーほど愚かな男はない。彼はロバートがいうように、「何も知っちゃいなかった」。浮気の証拠が入りっぱなしで、上着がクローゼットにきれいにしまってあれば、それは奥方に筒抜けということだ。そんなこともわからないとすれば、おめでたいというほかはない。そのくせ、彼は会食の相手が浮気でもしようものなら、すぐにわかるもんだと豪語している。だが、実際には、なにひとつ見抜くことはできなかったのだ。エマにとって、彼は子どものように鈍く、なにもわからない愚か者だ。だが、それゆえに、彼女はジェリーにとって自分が必要だと感じる。善意ではない。むしろ、憐れみとして。これも実は、宗教的テーマと結びついていく。

しかし、繰り返すまでもないが、これはエマの心象風景に映るジェリーの姿でしかない。

【音楽について】

最後に私らしく、音楽について書く。まず、注意ぶかい人は、劇が始まる前にかかっているバック・ミュージックを憶えているだろう。これが最後に戻ってくるとき、とても驚いたにちがいない。この劇は、決して音楽が作品をつよく印象づけるタイプの作品ではない。だが、長塚は演劇と音楽の相互作用をごく自然に利用している。「音楽」とは、静寂も含んでいる。第1場はほぼ静寂のなかで、言葉だけが生きている。第2場もそれがつづくが、第3場への転換で情熱的なラテン系のカンテがかかる。第7場ではマスカーニの歌劇『カヴァレリア・ルスティカーナ』の不穏な場面がかかる。同じく不倫を扱った素材で、寝取られ亭主で事実を知ったアルフィオが、妻の不倫相手で、酒屋のトゥリッドゥに向かって「おめえの酒は飲めねえ」と息巻き、ついには決闘に発展する場面だ。題名を訳すと、「田舎の騎士道」。この作品のテーマとどこか響きあうヴェリズモ(写実)・オペラの傑作で、F.F.コッポラの著名な映画『ゴッド・ファーザー・パート3』にも引用され、離婚した奥方に引き取られ、堅気として育てられたドンの息子が演じる作品である。

【まとめ】

3人は個性をよく生かして、この劇を独特なものとして作り上げた。田中哲司は大河ドラマでも見せたように、ストレートな台詞の言い回しにゾクッと来る個性的な役者だが、この作品でもゆたかかな感情の起伏を担当し、現代的なイメージを代表している。これに対して、シェイクスピアでも何でも演じられそうな、教科書のような松雪泰子の演技が鏡のように作用し、さらに冷徹な長塚圭史の演技が鍵を握っている。しかし、松雪は髪形を少しいじったり、エプロンをしたり、姿勢を工夫することで、もっとも変化に富んだエマの個性に迫っている。3人の劇は1978年時点での40歳、もしくは38歳のイメージとは異なり、2014年の若々しい男女の姿によって、この作品を捉えなおすことを狙っているかのようだ。このように、人々は若返っている。1979年生まれの私が子どものとき、60歳というと相当な高齢者のイメージがあった。実際、年金もその年齢で配られていた。いま、60歳に高齢者のイメージはない。年金も下りてこないし・・・。

シニカルで、ゆっくり、慎重に・・・というのは、自分が35年の歳月を経ても、まだ、生まれたときの感覚でものを見ている証拠だ。自分の見方がピンターの意図により近いといっているのではないが、あるいは、彼らの舞台はピンターの意図したものとは別のものであるかもしれない。だが、それがなんだろう。ピンターはもともと、この作品に意図された多様なプログラムを詰め込んでおいた。こうした姿勢は音楽でも、芸術でも、この時代には普通のものだったと思われる。唯一の神の、絶対的なプログラムなど、もう存在しなかった。すべてのものは入れ替え可能で、そのこと自体が皮肉になっていた。だが、現代はその傾向がもう、手のつけられないほど深刻になっている。

スピンクスの小説をめぐって、エマはロバートに問いかける。「この小説のテーマは何だと思ってるの」。{背信だ」と答えるロバートの言葉を、すぐさま妻は否定する。「いいえ、それは違う」。この「背信」が戯曲の題名になっているが、もちろん、テーマは背信ではなかったようだ。背信のなかにある人間の情動。人はどうして人に背き、そうした自分に酔っていくのか。そうした人間の姿のなかには、多様なアイロニーが仕掛けられる。1978年とは、そういう時代だったのだ。皆が酔っていた。しかし、嬉しかったのではない。ジェリーのように、それでなにか体の不調を補っていたのかも。そして、誰もが騙しあっていた。例えばエマを通してみれば、上のような感じになるが、ほかの人から見たらどうなるだろう。そのことに対する、深い洞察がピンターの訴えたいところなのである。

以上、書いてきたところを見直してみると、2005年、彼がノーベル平和賞の受賞スピーチに代えて発表した文章とよく照合しあっていることがわかった。私も、長塚氏も、よくやったということになるのだろうか。否、そういうことよりは、ハロルド・ピンターの書いたものが、なんといっても真っ直ぐなんだと感じるほうが強い。だから、これだけ多様な可能性を示しながらも、ある程度、誠実に考える人なら、誰がみても結論は同じになってくるということになるのだろう。しかし、ピンターが描いたのは、あくまで抽象画だった。そして、抽象画とは大雑把にいえば、どのようにも見える絵のことである。

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