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2014年10月28日 (火)

ロウヴァリ with マイケル・バレンボイム プロコフィエフ バレエ音楽『ロメオとジュリエット』&ヴァイオリン協奏曲第2番 ほか 東京交響楽団 川崎定期 10/5

【天才的なマイケル・バレンボイム】

騒いでいるのは、周りだけだ。僕はいつもココにいるよ、いつものように、静かに楽器を弾きながら。

マイケル・バレンボイムのヴァイオリンを聴いていて、私はこんな台詞を思いついた。いつも言っているように、これは本当にリアルタイムでの話だ。私はそのとき感じたことを、さほど加工せずに書き残していくことをモットーとしており、そのためにあるピアニストを名乗る人から好ましくない言葉を頂いたこともある。そのことについては、特に気にも留めていない。さて、このマイケル・バレンボイムは著名なピアニストで、欧州の主要劇場やオーケストラに対して支配的な関係を築く音楽の政治家、ダニエル・バレンボイム氏のご子息である。デュ・プレのほうではなくて、後妻のピアニスト、エレーナ・バシュキロワ女史を母にもつ。現在は父親が率いるウェスト・イースタン・ディヴァン・オーケストラではコンサートマスターを務め、親の七光り的な印象もあろうが、実際にはまったく異なる個性の持ち主で、インディペンデントな音楽性が評価されているにちがいないし、それはやがて、大きく価値を高めることが確実だ。実際、このあと、マイケルは華やかな機会に次々と登場しすることになっていて、その評価次第では一挙にスターとなる可能性も秘めている。否、きっと彼はチャンスを掴むだろう!

一言でいって、マイケルは天才的な音楽家だ。私の狭い経験のなかでも、特に聖別されたヴァイオリニストだけがもつ特徴を示している。バレンボイム&バシュキロワの息子というわりには、その音楽は頑強でも、豪華絢爛でも、情熱的でも、何でもない。簡単にいえば、静かな個性を放っている青年だ。音量はさほど使わないが、広いホールでもよく響き、技術的には呆れるほどに精確だった。目立つアクションはさほどなく、楽器を揺さぶったり、身体を大きく動かすような身振りもないので、若さを感じない。しかし、その音楽はバンバンと我々のこころを捉える。コミュニケーションが深い。多分、彼が初期のキャリアのなかで突き詰めてきたのは、シンプルな音楽を通じて、どれだけ明確に自らが表現する意図を相手に伝えられるかという問題だった。アンコールで、バッハが素晴らしいのは当たり前だろう。彼はこうした音楽がもつ音色や響きのゆたかさを余さずに捉え、自然に引き出して、生かすということを徹底してきた。そのために、響きはベルカントだし、清楚なものにしようと努めている。ほとんど感情は表に出さないが、その分、音楽の表情は明らかに充実している。

レオニダス・カヴァコスが私のお気に入りのヴァイオリニストだが、マイケルの演奏を聴いていると、彼のことを思い出すのだ。

曲目は、プロコフィエフのヴァイオリン協奏曲第2番。この作品はコンペティションなどでもよく耳にするように、若手の奏者からすれば、自らの良さを引き出しやすい作品、つまりは派手なものであり、複雑な哲学や、窮屈な美学的見地から自由に、響きを思いどおりに構築することも容易い。また若々しい精神をぶつけるには格好の素材であり、技巧的な見せ場が満載であるのもよい。東響としては2年前、困難な状況ながら、鮮烈なデヴューを飾った若いロウヴァリを呼ぶにあたって、いっそ若いソリストを同時に当て、近年、若返る楽団そのものを象徴するような爽やかな快演たることを願ったのではないかと思う。しかし、マイケル・バレンボイムは彼らが期待した以上のものを語ることのできる奏者であった。

一見、ノウテンキな作風にもかかわらず、作品は1935年という難しい年に書かれた。当時の社会をめぐる情勢をみると、ドイツでは1934年にヒンデンブルクが亡くなり、いよいよナチス=ヒトラーによる全体主義体制が確立されつつあった。一方、プロコフィエフのソヴィエトでは1934年12月から、スターリンがいわゆる「大粛清」を推し進めつつあり、こうした暗い政治情勢は、作品でも第1楽章の重いコントラバスの響きなどに閉じ込められている。ただ、プロコフィエフにとっては1936年に自らの意志で完全帰国を果たす前後の時代で、1920年代後半以降は度々、ロシアに戻っていたため、この作品もある意味、ビーダーマイヤー的な特徴が作品を彩っているのがわかるだろう。プロコフィエフは、ただ歌っていたかった。1930年代半ばの作品は、子どもの時代からやりなおすんだというような感覚が窺える作品が実に多い。

マイケルの解釈はこうした時期の作品のもつ風刺性よりは、むしろ、作曲家の示した純粋な音楽的感性に共感したものであり、特に、第2楽章の素晴らしく美しい響きには息が止まりそうなほどだった。聞くところによれば、マイケルは初日、クライスラーをアンコール演奏したそうだが、2日目はバッハで、この2つの姿勢が批評的なものであることは言うまでもない。そして、マイケルはバッハの純粋さにおいて、プロコフィエフに挑んだのである。ダイナミズムはさほど使わず、しかし、それ以外のあらゆるもので作品に起伏が出せるということを、そのパフォーマンスによって如実に示した。情熱的な、荒々しいスラヴ的アクションはなく、まるでヴィヴァルディのように、プロコフィエフの作品を印象づける。例えば、コーガンにオイストラフ、パールマン、それにハイフェッツといった模範になりそうな録音はどれも、マイケルのようではなかった。

私が調べたなかでは唯一、ドゥヴィ・エルリーの録音は室内楽的で、メッセージが静かに語られ、オーケストラと同じフロア・レヴェルで踊っている点では共通点がある。この作品がフランス人のヴァイオリニストで、1990年代まで長寿をつづけたフランス生まれのベルギー人、ロベール・ソエタン(ソータン)に献呈され、マドリーで初演された事情を考えると、より力演を好む聴き手のイメージから自由であるためにも、マイケルにとって有利な事実となる。もっとも、そうした事情を汲まずとも、少なくとも私にとっては、彼の演奏は後を引く衝撃的なものだった。

【プログラム構成】

実際、休憩を挟み、バレエ音楽のメイン演奏に入ったあとも、私はまだ、マイケルの演奏のイメージが抜けきらなかった。といっても、サントゥ・マティアス・ロウヴァリの個性が際立たないということにはならない。彼の素晴らしさは既に愛好家どうしの話題として伝わっていたし、それを聞いて私もやってきたのだが、噂に聞いていたような評判がホンモノであることは最初の演目からも十分に感じ取られた。今回はオール・プロコフィエフ・プログラムで、ヴァイオリンが向かい合う対向配置を採ったが、それは「古典」交響曲の第2楽章の初めで、第2ヴァイオリンがファーストと分かれて主題を引き出す動きがあることで、早くも効果的に回収された。バレエ音楽でもプロコフィエフは第1/第2ヴァイオリンを分かつときがしばしばあり、それはロメオとジュリエットの境遇とあながち無関係ではないのかもしれない。

今回のプログラム構成は、ヴァイオリン協奏曲第2番と、バレエ音楽『ロメオとジュリエット』が先に述べた1930年代中盤の作品であり、交響曲第1番のみがキャリア初期に書かれている。そして、どの作品でも重要な楽器はファゴットであり、例えば、交響曲の古典的特徴のひとつはファゴットの多用に求められた。これを中心に、ロウヴァリは木管楽器の響きに独特のクオリティをもたらし、弦を中心とする一糸乱れぬ動きに優雅な印象が漂うスタイルは採らなかった。ただ、弦の細かいアクションなどに古典的特徴を読み込んだつもりなのか、終演後に唯一、起立させて賞賛したのは弦セクションのほうであり、このことは多少の驚きを与えるものだった。

メインのバレエ音楽は、基本的にはシンプルな音楽づくりを心掛けている。ロウヴァリは小柄だが、長めのタクトをもち、ピットにいるように高いところで全身を使って振るので、その指揮ぶりが音楽内容以上に話題になりやすいが、これはクラシック・ファンが面白おかしく語るための誇張にすぎない。しかし、音楽面での個性は間違いなく印象的なものである。今回はバレエ音楽から編まれた3つの組曲から抜粋し、かつての名指揮者、シャルル・ミュンシュが1957年にボストン響と録音したのと同じ構成を採っている。各組曲からの抜粋/再構成による演奏は珍しくもないが、このミュンシュの構成はバレエ全体のクオリティを効果的に引き出す工夫に満ちている。

例えば、最初の「情景」(第1組曲の第2曲)は大曲に対して身構える聴き手をいなすノンビリした曲であり、こうしたナンバーから、「朝の踊り」(第3組曲の第2曲)、「少女ジュリエット」とつづく序盤戦は重要なモティーフをさりげなく印象づけながらも、プロコフィエフに染みついたイメージをまずは浄化する役割を果たす。そして、中盤ではぐっと内面的な情緒が深まり、後半は「ティボールトの死」と、「ロメオの墓の前のジュリエット」&「ジュリエットの死」を動と静のクライマックスとして、バレエ音楽全体を聴いたかのようなドラマティックな印象を残しておわるようになっている。ロウヴァリはこうした構成をよく理解し、先人の知恵に従ったわけであるが、その見事さはなかなか筆舌に尽くしがたい。

【独特のバランス感覚】

例えば、その特徴のひとつは独特のバランスに求められる。例えば、有名な「モンタギュー家とキャピュレット家」と「僧ロレンス」の間に挟まった「踊り」(第2組曲の第4曲)では衝突する響きをかなり際立たせ、ヘンテコな音型を図太く生かして、魅力的な表現に仕立て上げている。この作品ではバレエ的な事情から、メリハリを効かせ、硬軟織り交ぜた構成が聴かれるが、ロウヴァリは基本的に、作品をしっかり鳴らすという方向性にブレがなく、風刺的なサウンドの特徴は色濃く取り出すようにしている。例えば、「マスク」では強烈なルバートをかけ、2人の出会いがかなり異常な心理のなかで起こるものであることを象徴しているようだ。ロウヴァリは自らが若いこともあるのか、この作品を子どもの悪戯のように描いている。いまのルバートなど、子どもがふざけてレコードの針をいじってみたようなサウンドとイメージすれば、しっくりくるのではなかろうか。

この作品で、「ティボールトの死」に焦点が来る演奏は好きでないが、彼の演奏はまことに面白い。決闘の雰囲気を高める弦の高揚と併行して、金管の咆哮や打楽器の炸裂とともに、弦ベースが徐々にクレッシェンドしていくイメージをもっていたが、ここでもまた子どもがボリュームつまみを弄って、全体の高揚と反比例して弦が後退するという機知が披露された。響きはいよいよ単純となり、そのなかで豪快にティボールトは倒れる。ところが、終盤、抑えていた弦が一気にペースを上げて追い越しを図り、駄目を押すように響きの頂点にまたがると凄絶な印象はいっそう高まった。これは一見、派手で暴力的なパートの音楽がやはり、簡単には捉えきれない複雑な表現で書かれていることを教えてくれるものだった。

それは、バレエ音楽の終曲2曲にも共通することだ。その前には、ピッチカートで異質な「朝の歌」が入っている。このナンバーはまるで、作品とは別につくられたパロディの挿入のようにも聴こえるし、ロウヴァリはいっそう、その異質さを際立たせた。こうした音楽がつまり、棺に入り、再会を期す恋人たちのための時間をつくるわけだが、祭壇に供える「百合を携えた少女たちの踊り」を経た場合よりも、いま述べたような異質さが際立てば際立つほど、結末のカタストロフィを味わいぶかいものにしてくれる。「ジュリエットの墓の前のロメオ」では、彼が絶望のあまり、命を絶ってしまうであろう場面で、もう、そこで終わりにしてしまうかのような深い間を入れるので、びっくりする。またも子どもが、押してはいけないスウィッチを押してしまったようなドキドキの場面だった。最後、弦の高音を美しく統制して、ロウヴァリはジュリエット最後の輝きを丁寧に描いてみせた。

ミュンシュの抜粋の面白さもあるが、組曲の演奏ではどうしても技巧的な方向に傾きがちで、バレエ作品が本来、もっている深い内面性を表現することは難しいのに、ロウヴァリ&東響はそのなかでも稀なほど、こころの引き締まる表現をみせてくれた。この作品で、随所にファゴットが印象的に響くのは、プロコフィエフが初期の交響曲のときと変わらず、古典的な発想と親密であったことを示しているのだろうか。しかし、その表現自体は間違いなく斬新なものであり、今回の演奏では、ときに踊ることはできそうもない表現こそあったものの、それはむしろ、現実のバレエだとか、なんだとかいう要素を越えて、作曲者が夢見たものによりちかいように思えてくる。実際、ストラヴィンスキーと比べれば、プロコフィエフは踊り手に好かれなかった。前者を好意的に後押ししたディアギレフは対照的に、プロコフィエフに委嘱しても、しばしばリジェクトし、書きなおしを迫ることがあった。そういうことでいえば、プロコフィエフは強権下での創作にも免疫があったのかもしれない。

【まとめ】

騒いでいるのは、いつも周りだけ。例えば、現代の新垣さんも同じように思っているだろうか。作曲家はただ、自分の正しいと思うものを楽譜にぶつけていくだけのことだ。新垣さんの場合、そこにほんのちょっとボタンの掛けちがいがあって、ペテン師につけ込まれる隙があった。そのペテン師は今日、まだ権利の放棄をおこなわず、自らの罪を認めていないことで、ますます悪質さが際立っている。さて、プロコフィエフもスターリンとがっちり時代が重なり、この歴史的な為政者とまったく同じ日に世を去るというオマケまでがついた。同時代の偉大な音楽家だったが、テオ・アンゲロプーロスが最後の映画『第三の翼』で、スターリンの死に被せた音楽はチャイコフスキーだった。このように、ある意味では作曲家は孤独である。『ロメオとジュリエット』のテーマは愛の絆であると思われるが、実は、それぞれが孤独に耐えるということにも逆立ちしたモティーフがあるように思えないだろうか。

ロウヴァリ、そして、バレンボイムという若い2人への称賛は惜しまない。逆らわずに、自由な音楽をつくらせてくれた東響にも拍手を捧げる。

【プログラム】 2014年10月5日

1、プロコフィエフ 古典交響曲(交響曲第1番)
2、プロコフィエフ ヴァイオリン協奏曲第2番
 (vn:マイケル・バレンボイム)
3、プロコフィエフ バレエ音楽『ロメオとジュリエット』(3つの組曲より抜粋)

 コンサーマスター:ニキティン・グレブ

 於:ミューザ川崎

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