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2014年11月14日 (金)

寺神戸亮 (指揮/演出)&レ・ボレアード ラモー 歌劇『プラテー』 (セミ・ステージ形式) 北とぴあ国際音楽祭 11/9 (2日目)

【作品について】

ラモーの歌劇『プラテー』は非常に独創的である上に、豊富な魅力を備えた作品だが、日本では2012年にジョイ・バレエストゥーディオ(JBS)がほぼ完全な形での初演を果たした。そのときの公演は当ページでも取り上げ、公的支援を受けないプライヴェーターのバレエ教室の公演でありながら、その範疇に収まらない高レヴェルな上演を実現したことに賞賛の意を表したものである。その制約にもかかわらず、彼らは作品をほぼ完全な形で取り上げ、バレエと演出、オーケストラがついたホンモノの公演を成し遂げた上に、有名無名にかかわらず、作品が要求する様々な珍しい声質を上手にコレクトして、初演に相応しい公演を作り上げたのである。その試みはヴァージョン・アップし、本年、2年ぶりに陣容をがらりと入れ替えて再演されたが、再び平日公演のため、私はみることができなかった。いずれにしても、その後、おこなわれた11月の北とぴあ国際音楽祭、寺神戸亮&レ・ボレアードの公演について、今回、レヴューをつけるが、私の印象は多かれ少なかれ、その公演の影響を受けて構成されていることは正直に述べておきたい。

作品の背景については、既にリンクをつけた過去記事を参照いただきたいが、若干、間違ったことが書いてある。この作品がフランス王太子ルイ・フェルディナンと、スペイン王女のマリー・テレーズの婚礼に際して書かれたのは間違いないだろうが、両家の関係を悪化せしめたのは父親のルイ15世であり、許嫁にフランスへと下されていたスペイン王女を国に帰し、没落したポーランド王家の娘(ルイ・フェルディナンの母)を妃に迎えたことで、フランスとスペインの関係はぎくしゃくした。ルイ・フェルディナンとマリー・テレーズの結婚はその関係を修復する意味があり、ラモーの作品もその背景に基づくものである。プラテーはこの場合、ポーランドの妃を指すともとれるが、その女性は王太子の母でもあるのだから、ラモーの筆はなかなか際どいところに向けられているのかもしれない。

ラモー(1683-1764)はモンテヴェルディ(1567-1643)の次の世代に属し、半世紀以上を隔てて出現した革新的な作曲家である。その前には全欧州を席巻したリュリがおり、フランソワとルイを中心とするクープラン・ファミリーもまた君臨したなかで、一種の円熟期を打ち破るように、「新しい芝居をつくろう」と動き出した。ラモーはそれまでの個性的な作曲家たちが生み出した成果を本歌取りのように使って、まったく別の表現に打って出ようとした人物とみられ、その表現方法も、モティーフもきわめて個性的である。『プラテー』ではカエルの女王を題名役に据え、高慢な醜女が、奔放なギリシャの神々の事情によって弄ばれる筋を組み立てた。ジュピテルの浮気や、ジュノンの嫉妬といったギリシャ劇におけるお約束ごとや、音楽面ではフィグーラといわれる言わずもがなの決まりごとを逆手にとり、ラモーはまったく別のモティーフを構築したようである。

それはいろいろな意味で解釈できるが、結局のところ、人間のエゴイズムと要約できるかもしれない。音楽面でも、演劇面でも、この作品を彩る特徴は牧歌的なギリシャ起源の素朴で、調和した雰囲気が失われ、人々が必要に応じてそれらを臆面もなく勝手に振り回すような、そんな雰囲気をラモーは皮肉りたかったのではなかろうか。寺神戸亮が意識したのは、舞踊性に優れ、活力あるラモーの音楽をすこしでも活写しようと努めたことに加え、音楽とそれに託された複雑なメッセージによって、作曲家が伝えたかった様々な視点を浮き彫りにすることである。ラモーは一応、宮廷で成功した人物であり、かつては、その享楽的な音楽の質から後世のロッシーニと同様に、軽くみられることもあったが、近年ではラモーの内包した多彩なメッセージがふかく読み解かれ、尊敬を回復し、活気ある音楽から人気の面でも世界中であまねく、ドル箱の役割を果たしているのは周知のとおりだ。これに遅れているのは、日本だけである。

【好もしい原始的な演出法】

今回の上演はJBSの日本初演と比べると、声楽的な多彩さはない。題名役の武井基治がときにファルセットを使って、特徴のある役柄を上手に捉えながら歌い、舞踊や演技面でも特筆すべきパフォーマンスを見せたのに加え、脇でも強烈なハイ・テノールが出現したりした2012年の公演とは異なり、声の高低はあっても、質的にはそれほど大差なく、プラテーとても例外ではなかったし、舞台はあくまでオペラ的なものとして構成された。題名役で、カウンター・テノールの音域まで歌えるマティアス・ヴィダルは天才型であり、どのような音域でも等質に歌って余裕綽々。演技にも十分に長けているので、彼のあまりにも安定した個性が全体に影響を及ぼしたともいえるかもしれない。これと対抗できるフレキシブルな歌い手は、フルヴィオ・ベッティーニぐらいしかいなかったであろう。ここ数年、連続して音楽祭への出演をつづけているイタリアの陽気なバリトン歌手は、声楽的な高い基礎を身につけながらも、何でもやってくれる個性的な演唱家であり、今年もサテュロスとジュピテルの二役を担当して、後者では子どもじみた汚れ役を買って出てくれた。

それ以外の歌手は、コミカルな部分を出しながらも、敢えて、すこし控えたところで全体のバランスがとれているように見えた。先日のモンテヴェルディで見せ場のあった小笠原美敬が今度はあまり見栄えの良くない太った上半身を半ば曝し、道化役のモミュスを演じるのは目立っていたが。

声質の描き分けによって、キャラクターの個性や、声楽的な面白さを出すというより、寺神戸はそれぞれの場面でラモーがスコアに託したものをじっくりと睨んで視覚化するという、いまでは原始的ともいえる演出法を採っていた。もちろん、こうした原点を忘れた最新の演出よりも、寺神戸のやり方がはるかに誠実なものであるのは言うまでもない。前半の序幕と第1幕までは、まったく無駄がなく、音楽と完璧に寄り添いながら、壁面や天井に映写する画像(動画を含む)や、照明、転換に至るまで隙のない演出をつくりあげた寺神戸の仕事に驚愕した。単に手際が良いだけでなく、すべてのアイロニーが上手に生かされているし、効率的で機知を得た人の動かし方も年に1度の試みとは思えないほどに優れている。やや凹凸のある歌手陣も、テンポの良い展開のなかで作品の味わいを損なうほど致命的なところはあまり見せない。

前述のように、サテュロスにベッティーニを置き、ジュピテルと二役にしたのも興味ぶかいところだ。ベッティーニは実際、細工を明かす序盤の舞台を動かす役割を果たし、アモールのベツァベ・アースが出てくると、両翼で若干、非力なテスピスを支えた。小笠原美敬のモミュスと、高橋美千子のタリーもそれぞれ魅力的だ。モミュスは前後半、同名で登場する唯一のキャストで、酔狂と笑いの象徴だ。バレエ音楽がさかんに入るのがラモー上演の難しさだが、パントマイムを中心に組み立てた動きは完全に振りつけられていないファジーな特徴がかえって良く、ハンドメイドな印象を与える。これらの部分は基本的な部分を寺神戸なり、演出補助がつくっても、あとは歌役者の勝手に任せているように見えるが、ここで生半可な意味を付け加えたり、助演(ダンサー)をつけて通り一遍のダンスをみせるぐらいだったら、その分、後ろから聴こえてくる音楽に集中させて、寛いだ時間を観客に与えることのほうがはるかに価値があると思う。

【退屈は美徳】

このように作品は意味のある時間と、そうではない部分とで緩急を繰り返し、第1幕がおわるまでは、ほとんど目立った動きもないのである。だが、一場面ごとを丁寧につくる寺神戸の工夫が効いて、前半からワクワクさせる表情がじわじわと盛り上がってくる。プラテーの登場は、その頂点だったにちがいない。ヴィダルはJBS公演の武井と同様、やっぱり愛らしくて、出てきた途端に誰もが好きになったキャラクターであろう。しかし、ヴィダルは徐々にキャラクターの個性をよりハッキリと、声によって表現しだした。地声からかなりの高音まで音域を広く使うが、ヴィダルの驚くべき発声は自然で、そうした難しさからは縁遠いように感じられる。しかも、私は右翼の最前列にいて、彼の声に間近で接することができたのでラッキーだった。私の目の前で、彼とジュピテルがキスをしたが、恍惚の声を上げるプラテーの身体は優しくプルプルと震え、そこから繊細な声がたっぷりと絞り出されてくるのを目の当たりにしたら、すこしでも声楽を齧ったものならゾクッとくるのも自明である。

さて、この公演のひとつの肝は「緩急」というキーワードで語られる。ひとつには真面目な場面と、笑いを中心に置いた寛いだ場面との段差があるだろう。また、バレエ音楽の場面でも、無理に詰め込むのではなく、一歩退いて、敢えて緩くすることで、自然な起伏が生まれるのがよかった。むしろ、学芸会的な素人芸が相応しかったのである。全体的に鋭い風刺がつづくなかで、こうした場面の意味のなさは得がたいものだったかもしれない。人々はやがて、そうした無意味さに飽き、婚礼の場で早く先に行きたかったプラテーと同様に、自然な間を打ち捨てることで多くのものを失っていくことになるのだろう。『プラテー』にはそのような変化が生じる直前、確かにあった歴史的な風景が描かれている。「退屈」はバロック期、もしくは、それ以前の音楽を聴くうえで欠かせない美徳である。しかしながら、同時にプラテーの苛立ちはラモーの同時代音楽に対する痛切な皮肉とリンクしているのかもしれず、少なくとも寺神戸の演出は儀式が進むのを遅延させようとするジュピテルたちの企みをも活写している。結局、ジュノンが介入してきて、喜劇は悲劇に転換する。退屈は威圧的で、高慢なものと入れ替わった。

【プラテーの呪詛と時代】

そうしたなか、プラテーの呪詛が十分に解釈されないのはいつものことである。しかし、今回の演奏ではプラテーの嘆きと、そのほかの合唱が織り成す哄笑のエコーと衝突がはっきりと聴き取ることができる演奏になっていて、その迫力は人間と神々への復讐を誓うプラテーの怨念を表現するには十分すぎるほどである。必死の呪いの言葉も、人々に決して届くことはない・・・はずだが、ラモーは困難のなかにもプラテーの声がちゃんと届くようにと作曲している。王侯子女の慶事に捧げた作品であっても、やっぱり下々の嘆きは忘れないでもらいたいもの。プラテーをポーランドの云々とみるのもまたよいけれど、それよりは、彼女が我々の代理人であるとみることのほうがより味わいぶかい解釈を生むにちがいない。ラモーの頃はまだベートーベンの時代ほどではないにしても、市民社会が目覚めはじめた時代であり、例えば、ラモーの批判者としても知られるジャン・ジャック・ルソーは近代市民社会を理論的に構築した人物のひとりとされるのは周知のとおりだ。

ただ、ルソーがどのような見方をしようとも、ラモーもまた、その勢いを肌で感じていたことに変わりはない。カエルたちの合唱は特に最後の場面では、プラテーの海中での優位を突き崩すだけでなく、神々のもたらす調和を損なうような存在にまで発展する。今回の演出では、プラテー自身は怪物のようになり、それまで助け合っていたようなカエル合唱団&仕掛人による哄笑と対置されておわる。これは、きわめて皮肉な結果である。

【まとめ】

序盤からだが、とりわけ終盤には指揮者も大いに参加し、オーケストラもところどころにカエルの飾りをあしらうなどして、セミ・ステージ形式ながら、観客の目に映るものすべてが異化されているのはよい。こうした手法は、かなり早い時期のサイトウキネンのオペラ公演を思い出させる。ただ、前半の均衡と比べると、後半はやや喜劇性がつよく出て、フロアからの笑いは増えたものの、寺神戸の演出アイディアが単調なものになってしまったのも否めないところだろう。そのなかでも、次々に襲い掛かってくるラモーの活気あふれる音楽は決して涸れることを知らない音楽の泉だった。ただ、2年ぶりに聴いてみると、身体のなかに残っている印象よりも作品は深い暗みを帯びている。そこから上ってくる光だから、あまりにも美しいのである。

どのような上演であれ、この作品の素晴らしさはいつもハッキリと印象に残る。そして、この作品は確実に、後世に大きな影響を残した。例えば、リヒャルト・シュトラウスがこの作品をよく研究していたことは明らかであり、ウインド・マシーン、サンダー・マシーンの発想や、ダフネの話が出てくるところなどでピンとくる。学術的な検証はできないが、そのような点でも、ラモーの作品はモンテヴェルディと同じくらいに重みがある。我が国にとっては、声楽家にとって修養のプライオリティが低いフランス語オペラ(カルメンが歌えればそれでよい)であることや、オペラというジャンルと水と油のように思われているバレエ・シーンの多さによって、上演には大きな壁がある。しかし、こうして3年ちかい間に、JBSが陣容を入れ替えて2回、さらに、北とぴあ国際音楽祭が1回の上演を重ね、作品のもつ価値が異なる視点から証明されたのは大きい。つまり、JBSはバレエ・スタディオとしての本領を発揮して、作品のもつ舞踊的特徴を魅力的に引き出してみせたし、レ・ボレアードはそれとはまた別の可能性をかなり上手に使ってみせたのだから。

今回の上演を一言で表現すれば、さしずめ、「新しい光」となる。寺神戸が描き出したかったのも、その光の鮮やかさであった。

ヴィダルへの熱い賞賛をはじめとして、フロアはかなりの盛り上がりをみせると、寺神戸らもカーテン・コールに突入したときのエピローグをリピートしてみせる。舞台をみて、多くの人たちは納得した。空席が目立ち、安価な席も出たという商業面を除けば、成功した公演といって間違いないだろう。確かに、この公演をみたくてウズウズしていた人もいるだろうが、大多数の日本のクラシック・ファンのこころのなかには、まだラモーはあまり重い位置を占めていないというのが残念でならなかった。昨年はロベルタ・マメリが出る『フィガロ』でも一杯にならなかったし、この舞台自体に課題があるような気もするが。数年前まではロビーに軒を連ねた北区の物産展も、期待ほど売り上げが伸びなかったせいか、会場を賑わさなくなった。それでも、こうした企画が毎年、続いてきているのはありがたいことというほかない。来年もパーセルの『妖精の女王』に、エマ・カークビーの出演が予告されている。

ハレルヤ!

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