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2014年11月 9日 (日)

ラ・ヴェネクシアーナ ポッペアの戴冠 / 渡邊順生&ジョン・エルウィス プロデュース 聖母マリアの夕べの祈り モンテヴェルディ二題

【記念すべき2つの公演】

近年、日本でもモンテヴェルディの作品はしばしば演奏されるようになった。欧州と比べれば、古楽に対する音楽愛好家の関心はごく限定的であるなか、古楽演奏家/声楽家の情熱、または、使命感のようなものが豊富な演奏実績となって重なっているのであろう。こうした意識はバッハを除けば、他にヘンリー・パーセルの作品や、ヘンデルの作品、さらに古いルネッサンス期の素朴な歌などの分野で、密かに燃やされてきたにすぎないものだ。そのなかで、モンテヴェルディは比較的、明るい光を伴ってはいるが、それにもかかわらず、我々からみて、その素顔はまだまだ遠くに霞んでいるようにしか見えない。

モンテヴェルディの作品は今日、上演されるオペラのレパートリーとしては最古のものである。モンテヴェルディはオペラの創始者とはいえないものの、バロック期以降、発達するオペラの表現に必要な要素を一挙に整えた偉人として讃えられるべきであろう。彼は従来の対位法や宗教音楽の伝統技法を重々承知のうえで、それだけではカヴァーできない人間の情念や、それらの複雑な関係、もしくは、人間関係の蓄積としての社会の在り方を表現する新しい方法の開発に勤しんだ。例えば、ニコラウス・アーノンクールはその著書のなかで、モンテヴェルディが16分音符を積み重ねて怒りを表現するという新しい様式を生み出したことを指摘しているが、これは今日、コンチタート様式と呼ばれるものである。これに限らず、モンテヴェルディはそれまでの宗教音楽のなかでは十分に表現できなかった活き活きとした人間の感情や、田舎のノンビリした習俗、あるいは、憎悪や迷い、悪意といったようなものを彼の作品のなかに埋め込んでいくのである。

この10月には東京で、2つの記念すべき公演があった。1つはイタリアのアンサンブル「ラ・ヴェネクシアーナ」の公演で、歌劇『ポッペアの戴冠』を演奏会形式で上演したもの。もうひとつは、一橋大学兼松講堂でおこなわれた同学OB、渡邊順生氏によって率いられたアンサンブルの演奏する宗教曲『聖母マリアの夕べの祈り』の公演である。私はこれらの公演をいま、ひとつのレヴューのなかで取り上げようとしているのだ。2つの公演は、対照的なものだった。ラ・ヴェネクシアーナの公演は個性的なベルカント歌手を多数集め、日本公演では演出もつかないことから、徹底的に声の面白さに作品の味わいを集約する公演になっている。一方、渡邊氏の用意した公演は英国のベテラン・テノール歌手、ジョン・エルウィスをゲストに招いたせいか、英国バロック風の温かい内容で、しんみりと静かな表現が持ち味であり、互いの温度を感じあいながらつくっていくハンドメイドの雰囲気をもっていた。

オペラと宗教曲というちがいこそあれ、2つのグループの演奏姿勢は明らかに異なっている。

【流動的な価値観】

歌劇『ポッペアの戴冠』はローマ帝国の「暴君」ネロが王妃を廃し、愛人ポッペアと寄り添うまでのドタバタ劇を、幸運、美徳、愛の女神の対話として表現するものだ。最初に3女神が言い争い、その対話に沿って、最終的にネロ(ネローネ)とポッペアが愛の神の祝福を受けることになる。3女神のなかで、もっとも重要な鍵を握るのはアモールだが、子どもであることが強調され、ここからして一癖があるだろう。ネローネとポッペアは一応、愛の名において結びつくのだが、同時に重い罪を背負っていくことになった。2人に限らず、すべての登場人物がなにかしらの罪を背負っていくのである。例えば、オットーネは愛しながら妻を殺そうとし、アモールの介入がなければ、彼女を殺していた。王妃オッターヴィアは彼のことを脅して、殺人を教唆し、発覚後は追放される。ポッペアは夫を裏切って姦通し、あまつさえ、それが発覚しても逆に夫を罵倒するという鬼女として描かれる。そして、すべての罪は、ネローネに始まっていることは明らかだ。このなかで、哲学者セネカは一見、正しいことをいって死を賜る高貴の人である。しかし、ポッペアや兵士たちによれば、セネカは決して清廉ではない。このことについては、あとで別に考えたいと思う。

いずれにしても、モンテヴェルディは宗教的、封建的倫理のなかでは、決して捉えきれない善悪の相対的な見方について語っているのである。例えば、ローマ皇帝が「大帝」とかいわれるときは、ほとんどがキリスト教にとって重要な決定をした場合であり、逆にネロが「暴君」といわれるのはユダヤ教を復興し、キリスト教を抑圧したことが大きい。もしもキリスト教がその後の欧州を支配的に牛耳ることがなかったなら、これらの皇帝の評価は変わっていたかもしれない。そのように、宗教的あるいは、封建的な倫理観を外してみたときには、ネローネとポッペアの関係はきわめて純粋なものなのかもしれなかった。実際、ネロはポッペア(ポッパエア・サビナ)を大事にしているし、この2人が初めからくっついていて、オットーネはドゥルシラと結びついていれば、何の問題もなかったであろう。見方によっては、このように自然な結びつきが、現実的なあらゆる事情によって妨げられていた・・・とすることもできなくはない。

その時々の感覚はあくまで、流動的なものである。例えば、美しい最後の二重唱(ネローネ&ポッペア)は本編中で聴いたときには、とても真正面からは受け取れないものだったが、熱狂する観客の称賛に応えて、その終盤がアンコールされた場合にはこころもとろけるような、素直な感応によって胸中が満たされる。これより僅かに前の場面に、感動的な歌詞がある。「私はあなたのなかで自分を見失っては見つけ、そしてまた、繰り返す。いとしい人よ。いつも、あなたのなかで迷っていたいから」。こうした言葉によって、すべて洗い流される。ほとんど全否定のような苦々しい筋がネローネとポッペアを中心に織り成されるドラマだが、最終的にモンテヴェルディが書いたのは、愛し合う人々にとって掛け替えのないメッセージである。

そして、このようなメッセージはもちろん、宗教的なところと結びついてもいる。

ラ・ヴェネクシアーナの公演で優れているのは、こうした価値観の多様性がまず、声によって語られているからである。今回の配置は彼らの録音とは異なり、そこでネローネを演じたロベルタ・マメリが日本での人気にも配慮してか、題名役に移っている。美しさを抑えめに、ショート・ヘアにしている。ネローネは、アンサンブルのなかでは若手とみられる清楚な人、マルゲリータ・ロトンディで、フォルムがキリッとしたズボン役ソプラノ。見かけはボーイッシュで、ロック歌手風である。オットーネのラファエレ・ピはカウンター・テノールで、やや硬い表現で徹しているが、これは意図的なものである。脇役のポッペアの乳母=アルナルタ役にひときわ表情ゆたかなキャラクター・テノールが配され、道化役を買って出ているが、実のところ、技術的には抜きん出た歌い手(アルベルト・アレグレッツァ)であることは多くの人が勘付いたにちがいない。

【新しい感覚、人間性、そして、関係】

そのほかのキャストも、それぞれの役柄と上手に結びつけて選ばれているのは明らかだ。これほど充実した声楽陣のなかにあっても、マメリの歌い方は凄まじく、彼女が特別な歌い手であることは議論の余地がない。彼女の素晴らしさは声を太くしてつよく歌うときも、弱音のときと同じ透明さと、丁寧な肌ざわりを維持して表現ができるということにある。清楚な美人で、チャーミングな彼女が日本でこのような毒婦を演じるのは初めてと思うが、その声が素晴らしく、美しければ美しいほど、オットーネを鋭く傷つけることになった。一見、同情的な夫の言葉に対して、ポッペアが跳ね返す言葉はほぼ最初期のオペラとは思えないほど、厳しく、真実を表すものである。

「あなたの不幸は私のせいじゃないわ/ご自分をお責めになって」「私はあなたを捨てて、冠をとる」「これは私の理性よ、あなたの馬鹿げたわがままを責めるわ」

毒婦のポッペアを支えるのは、ウェットな乳母であり、傲慢なネローネである。そのネローネを支えたのは、哲学者である・・・というように関係がつながっていく。この哲学者は物語のなかで、唯一の犠牲者となる人物である。史実では、このセネカはネロの教育係でもあった人物で、半ば政治家である。ただ、モンテヴェルディの作品とは異なり、その死は直接、ポッペアを妃につけるまでの経緯とは関係なく、のちにネロを廃位してピソを帝位につけようとする陰謀に巻き込まれ、自殺させられる事情が、多分、意図的にくっつけられたものだ。確かに、セネカはポッペアが寵愛を受けるようになり、もうひとりの側近ブルスがこの世を去ったタイミングで失脚している。その直接的な原因とされたのは、作品で兵士たちが噂していたような横領疑惑であった。モンテヴェルディはそうした印象を先に出しながら、やがて、バリトンの誠実な声でまともな哲人の姿を描き出している。ただし、その台詞はときどき横柄で、態度がデカいのも確かであって、決して人気にはならないようにできていた。

だから、ここでモンテヴェルディは、知恵者が知恵者として正しいことをいうことと同時に、その言葉がほとんど民衆には届かず、ときに矛盾に満ちていることを教えてくれるのだ。セネカ自身は多分、高潔な人だったろうと思う。そのことはセネカのもとを、自殺命令を告げる解放奴隷に先立って、天の使者メルクーリオが訪れることで証明されている。セネカはその訪問に喜び、言葉は信仰心に満ちたものでもあったが、もしもこれが天の判断で為されることなら、若干、皮肉な結果であるとはいえないだろうか。また、その後、訪れた解放奴隷の「どうして私が言う前に(運命が)わかるのですか」との問いに対して、メルクーリオのお告げがあったからとは言わず、さも自分で判断したように言うのも変だ。そして、そのメルクーリオ=ヘルメスもあらゆる顔をもった神さまであるが、この場合はふかく死と結びついているのは明らかで、声質も暗い。

知を理解するのは難しく、また、その知を成り立たしめる背景も複雑だ。光とみえるところに、いつも死が横たわっている。オットーネが本気で、愛する妻を殺害しようとするように。

【静かなる夢の公演】

このように、『ポッペアの戴冠』が風刺と多重的な意味合いに富んだ「関係」の作品だとするなら、『聖母マリアの夕べの祈り』(ヴェスプロ)は当然ながら、よりシンプルな構図で描かれている。とはいっても、グレゴリオ聖歌をベースに、多彩な変容に満ちた宗教曲もまた、同時代の常識をはるかに乗り越えるものだったであろう。今回、こちらは一橋大学がOBを招いて公演させるシリーズのなかでおこなわれたが、古い楽器を集め、それを満足に吹けるような奏者を選び、かつ、明治学院大学の企画のために来日中で、かねて交流のあるテノール歌手のジョン・エルウィスまで招くとあって、主役の渡邊順生氏がほとんど私費を投じて実現した「夢の」公演といっても過言ではないようだ。

ラ・ヴェネクシアーナの公演とはちがい、(確かに日本勢のなかで個性的な歌手を選んでいるとはいえ、)声楽的な個の魅力を前面に押し出す公演ではなかった。風刺やドラマティックな印象ではなく、より温かく、感動的な雰囲気がそれに代わる。エルウィスが参加したせいもあってか、作品はアーノンクールが言うような英国バロック風の温かみをもった公演になった。氏はその著書のなかで英国バロックを高く評価し、それほど大きくはない会場で親密に音楽を囲む雰囲気が大陸の事情とは異なることを述べているが、渡邊の音楽はそうした雰囲気とよく合致しているであろう。互いに響きを聴きあい、声楽家と器楽演奏家がフラットに舞台をつくっている。その象徴が、エコーということになろうか。

【作品のもつ特質】

『聖母マリアの夕べの祈り』の特徴は、次の3つである。器楽と声楽のバランスが素晴らしく、それぞれが助け合いながら、めざす宗教的な高みに自然と上り詰めていくことができる。また、構造的にも計算しつくされており、一見、劇的であるが、その実は後にいうところの「シンフォニック」な構造が緻密にデザインされており、それらが言葉で発されるメッセージとセットになって、相乗効果により深い感動を誘うようになっている。そして、エコーを使った呼び交わしなど、空間的な作用にもアイディアが及んでおり、これが宗教的な神秘性と結びつくことで、作品はなんとも言えない奥行きを備えることとなった。

これに加え、声楽的な面でいえば、この公演でエルウィスが実践したような特殊な唱法が決め手となっているようだ。1946年生まれで、70歳に近づくテノールはフィジカルな面では、確かに衰えも目立つが、その一方で、神秘的なロング・トーンをさりげなくつくり、そこから面で広がっていくような独特の発声は誰にも真似のできないものだろう。イタリア・ベルカント唱法のテクニックはバロック全体にあまねく適用できそうなイメージをもっていたが、モンテヴェルディのこのような作品をうたう場合には、より素朴な唱法もが必要であり、例えば櫻田亮のように、発声の基礎が堅固で、優れたアジリタをもつ歌い手といえども、その要求には容易に対応できるものではない。ベルカント・オペラにおいては常に先手を取るようなポジションが重要だが、このような作品ではじっくりと声が広がるのを待つことのほうが大事である。ポジションを変えると、発声そのものが大きく変化する。『ポッペア』が前者の特徴に基づく、前向きで、斬新な表現で貫かれた作品であるのに対して、ヴェスプロはより古く伝統的な基礎に立脚して、コトコト鍋を煮込んでいくような表現が試みられているというちがいは大きい。

今回、渡邊は声楽的な要素が主体である第10曲の詩篇第147篇「褒めよ、イェルサレム」までを1部とし、休憩を入れたあと、後半は器楽が鍵を握る部分と位置づけて、分けて演奏した。この演奏形式には大人の事情もありそうだが、作品の構造を物語るには決して詭弁ではないロジックが感じられ、それぞれの冒頭に礒山雅氏による解説をつけたのも好アイディアだ。後半では特に、この作品で用いられる特殊なピリオド楽器、コルネット(ツィンク)やサクバットなどに注目し、そのなかで、かつてはコルネットがすこし鳴るだけで大騒ぎだったという昔語りなども聞けて面白かった。現代では古楽アンサンブルの主宰としても活躍する、濱田芳通がほぼ自由自在な演奏を可能にしているものの、渡邊氏のブログによれば、その昔、バロック音楽の「ルネッサンス」に関わった人たちは皆、このような楽器の音色に夢中になったということらしい。

そのようなことを含めて、渡邊氏が敢えて、知っている人なら当たり前の解説を大学の授業のように入れたのには訳があるところだろう。

【誰からも愛される存在】

ツィンクの音色に象徴されるワイルドな味わいも、ヴェスプロには欠かせない魅力である。作品はマントヴァ宮廷のために書かれた優雅な作品である一方、グレゴリオ聖歌の源流を辿り、農村に残るゆたかな民衆文化も取り入れている。コルネットはこうした作品を象徴する、2つの特徴を表裏に併せもっている。優雅にして、野生的。この作品は、当時のヨーロッパのすべてであるといっても過言ではない。そして、富める者も貧しい者も、男も女も、同時に愛することのできる存在はといえば、聖母マリアを措いて他には考えられなかったであろう。このモティーフは作品全体にわたって、さりげなく散りばめられてはいるものの、エコーを使ったモテット『天よ、お聞きください』において、突如として明瞭な形で表現されると、我々のこころのなかにジンと響いてきた。

多分、これと対になっているのはマニフィカートの最初の部分である。マリアの受胎について仄めかされるところから始まって、声はさらにすべての民衆の願い「主はその腕で力を振るい、思い上がるものを打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろして、身分の低いものを高く上げ、飢えた人を良いもので満し、富める者を空腹のまま追い返されます」へと高揚していった。一旦、踵を返し、そして、最後に鳥肌が立つのは言葉のとおり、「初めにあったように、いまも、これからも、とこしえに」と再現される部分である。作品はいつも、劇的な展開を辿って「初めにあった」部分へと戻されて、そのたびに聴き手の溜息を誘うのだ。

面白いことに、終盤に入ると、いよいよエコーがゆたかに使われている。ヴァイオリンやコルネット、そして、テノールのエコーが作品を彩り、作品は途端に空間的な奥行きを増していく仕掛けだ。この日は舞台そのものがさほど広くなく、空間移動が必須な兼松講堂の構造上、この効果はいっそう明瞭となる。その頂点に位置するテノールのエコーから、間髪を入れず終曲に突入するときの鮮やかな声の立体感は二度と得がたいもので、私のなかで、一生、忘れられない体験になるだろう。声楽陣も、器楽陣もぐっと集中力を高め、裏で歌った人も大急ぎで戻ってきた。このパートだけは、どうしても、なるべく早く参加したいというような雰囲気で。

【まとめ】

エルウィスのほか、声楽陣は経験豊富な歌い手と一部に若手を含み、ラ・フォンテヴェルデのように、モンテヴェルディの作品を継続的に歌い続けているメンバーもいた。そのラ・フォンテヴェルデの鈴木美登里が女声のリーダーで、特にこのレパートリーに相応しい真っすぐな歌いくちが耳を惹く。また、同じくラ・フォンテヴェルデのバス、小笠原美敬もその誠実で、慎重な歌いくちが作品の「待つ」性格にぴったりだ。櫻田亮、青木洋也といった技巧に優れた歌い手たちは若干、苦労し、自分があまり気に留めていなかった鈴木、小笠原のような歌い手が相応しいように思えるとはまことに面白いことであるが、同時に、従来の自分のもっていた浅薄な価値判断について反省しなくてはならない。

いずれにしても、これら2つの作品を短い間に、特長の異なる、まったく別のアプローチをするアンサンブルで聴けたことは貴重な体験だった。その方向性ではある程度、可能性を使いきったラ・ヴァネクシアーナのアプローチと比べると、渡邊氏のアンサンブルがめざした方向性には、まだ奥御殿が隠れている印象をもった。無論、これは後者のグループが低い到達度にあることを示すのではなく、まったく、その反対である。モンテヴェルディの切り開いた世界は、そう簡単に征服しきれるようなものではなく、時代的なひとつの使命を背負って、雄大な可能性を内包していた。その果実の成分は独特の方法で煎じることなく、21世紀に生きる我々の前に溶け出すことはない。渡邊氏はまず何よりも、こうした秘密をより多くの若い人たちに学び取ってもらって、さらに新しい領域を取り戻していけるように願っているのだと思う。16-17世紀、人類は確実にすべての神秘を手にしていたのだ。それを取り戻すのが、古楽音楽家の使命である。

渡邊の兼松講堂公演には、既に名を成して独立で歩みを切り開いている音楽家が、幾人も参加した。比較的、若い世代では先の濱田がいる。彼は「アントネッロ」を主宰し、独特の視野に基づく活動が高い評価を得ている。また、江崎浩司はリコーダーの名手として、縦横無尽に活動を展開している。カウンター・テノールの青木洋也はその高度な技術を駆使して自ら歌うだけでなく、コーラス・マスターとして、多くの古楽アンサンブルを主宰、指導している。ラ・フォンテヴェルデは自主公演を定期的に継続し、現在はモンテヴェルディのマドリガーレを連続的に取り上げているところである。そのほか、古楽公演のアンサンブルで広く活躍する演奏家や声楽家の数々が身を低くして、渡邊の知見に従った公演である。渡邊はまたいっそう身を低くして、上演を実のあるものにしようと努力した。このような誠意を感じる公演は、1年のなかでも数えるほどでしかない。

よく準備されたラ・ヴァネクシアーナの公演がより完成度が高いのも事実だが、それだけでは測れない公演の重みを感じたのである。とはいっても、2つの公演はともに、異なった視点で高度なインスピレイションを与えてくれる舞台だったことは変わらない。ラ・ヴェネクシアーナの公演については、器楽が節約的で、通奏低音のチェンバロ、アーチリュート、ハープ、チェロ、コントラバスのセットに、ヴァイオリンとヴィオラが少しずつ加わる程度で、ほとんどのナンバーはこれらのうちの3-4の組み合わせで仕上がっているというのも驚きだったと思う。そんなこんなの事実で、いずれのグループにも、私は惜しみのない感謝の念を捧げるものだ。イタリアのグループは遠いところ、本当にありがとう。グラッツィエ!ラ・フォル・ジュルネのようなシステムを借りずに、こうした規模の公演を日本に持ってくるのは本当に難しかっただろうと思う。関係者の努力にも、敬意を払う!

【プログラム】

ポッペアの戴冠(東京公演、2014/10/15)

orch.&chor. ラ・ヴァネクシアーナ (cond:クラウディオ・カヴィーナ)

 於:東京オペラシティ

聖母マリアの夕べの祈り(2014/10/26)

 cond:渡邊 順生

 於:一橋大学兼松講堂

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