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2014年12月29日 (月)

第11回現代音楽演奏コンクール 競楽Ⅺ 山澤慧/松岡麻衣子/本條秀慈郎 ほか 本選(11/8)

【競楽について】

今年で11回目の開催となる現代音楽演奏コンクール「競楽」は、日本現代音楽協会(現音)が主催するコンペティションだが、演奏曲目を現代音楽の室内楽のみに絞り、演奏だけではなく、演出などを含めた自己プロデュース力を加味する点で特異な試みになっている。過去の優勝者にはフルートの木之脇道元ピアニストの大井浩明(いまの2人はデュオを組んだ)、ヴィオラの甲斐史子ギターの山田岳など錚々たる面々がいる。楽器の指定もないので、中には邦楽器や、マンドリンなど、通常のコンペティションの範疇には含まれない楽器の奏者も加わっている。今回は本選だけをみても、三味線、マンドリン、パーカッションといったところが顔を出していた。

結果的には、チェロの山澤慧ベルント・アロイス・ツィンマーマンの無伴奏ソナタ1曲で第1位を勝ち取った。山澤は既に広く活躍しており、独奏や室内楽、現代音楽アンサンブルのほか、古楽のコンティヌオなどとしても舞台に立ち、名前が通っている。こうしたレヴェルの人が出るところをみても、このコンペの特殊な色合いがわかろうというものだ。つまり、この大会は他のコンペティションとはちがい、既に完成度の高いアーティストたちが出演する。そして、賞金や知名度の獲得というよりは、自分たちのパフォーマンスがどれほど他者に受け容れられるものなのかを確認する機会として相応しいのである。また、主催者たる現音の会員になるためには作品を提出して認められる必要があるため、すべての審査員は創作の現場にある人たちということになるだろう。これもまた、ひとつの視点を加える。つまり、彼らはもしかしたら、それぞれの楽器で、演奏家としての価値を的確に見抜くことができる人たちかどうかはわからない。例えば、彼らが三味線の演奏について、どれほど詳しいかはわかったものではない。しかし、スコアの書き手と表現者の在り方を厳しく見きわめることが可能であり、演奏に対しても、その点で独特の視点をもっているはずなのだ。

山澤が第1位で、つづく第2位がヴァイオリンの松岡麻衣子、第3位が三味線の本條秀慈郎という結果は、すべてのコンペティションがそうであるけれども、ここでは特にひとつのレトリックのようなものとしてみたい。むしろ、私は10人のスペシャリストが各々のスタイルでどのように競ったかを素直に報告したいと思うのだ。

【中川日出鷹 fg】

トップ・バッターは、ファゴット(バスーン)の中川日出鷹だった。中川は1987年、京都生まれで、既に現代音楽をフィールドにキャリアを築きつつあるようだ。演奏したソロ・バスーンのための”Calling”という作品は、英国を拠点に欧米と日本で活躍する作曲家の藤倉大に認められるきっかけになった作品ということらしい。そんなことは後で知ったことだが、中川の演奏は藤倉のことを若く見せる。彼はその年齢にもかかわらず、既に20年以上ものキャリアを築く若き作曲の名匠だが、作品はあたかも、その駆け出しのころの必死な姿を投映するように爽やかに聴こえた。動物の鳴き声のようなワイルドな響きに始まり、ジャズ的なイディオムを加えながら、複雑に展開される活きのよい作品は、よくみると2011年の近作である。早熟の天才的なイメージのある藤倉だが、彼の演奏が本当なら、作曲家はこういったタイミングに、新たに自分を置きなおしてみようとしたのにちがいない。

藤倉の作品は言外に、アジアやアフリカを含む多様なスペースを内包しており、中川も既成観念に捉われない自由な発想で楽器を使い、そうした可能性をバスーン一本で巧みに表現している。

坂東祐大の2曲目はベルの上端にアルミ箔を被せることで、筒の上に息が通ると雑音が生じ、響きもくぐもった感じになるのを’transform and deform’と捉えたキッチュな作品だ。序盤、発想の面白さにこころを掴まれたが、そこから発展する多様な段階がなく、終盤、僅かに動きが出たところで音楽が止まってしまうのは残念だ。藤倉作品と比べると、いわばハンドメイドなものであり、まったく完成した作品というよりは、今後のⅡ、Ⅲ・・・につながっていきそうな未来を語る作品になっている。若いながらも、ある程度、定まった哲学で仕事をする藤倉と、格好をつけずに、様々な発想をまず形にしていく坂東のスタイルを、それぞれ自らのめざすスタイルと照らしあわせた優れた表現となっていた。

【若林かをり fl】

2番手は、フルートの若林かをりだ。彼女は前回の「競楽Ⅹ」で第2位となっており、学生時代に知り合った夫の千春氏の作品を演奏する録音等がリリースされている。黒檀のフルートで吹いたシャッリーノ作品から、2曲目に入るときに若干、照明を落とし、銀製に持ち替えて細川俊夫『垂直の歌』を吹くと、最後は黒檀のピッコロを持ち出して、ジェイムス・ディロン(James Dillon)の ”Diffraction” で締めた。作品それぞれがもつ意味を突き詰めて表現するというよりは、それらの響きがもつキャラクターを上手に利用して、3つの登場人物による対話を楽しませるような趣向で、現代音楽が基本、よく意味の分からないものであることを逆手にとった発想とみえた。

その時点では演奏自体が艶やかで、楽器の個性をよく生かしながら組み立てられたパフォーマンスに思えたが、直後に出る奏者との比較で、演奏はやや雑味のあるものとして印象づけられた。

【EXTRAIL fl+pf】

3番手は’EXTRAIL’と称し、フルートの多久潤一朗とピアニストの安田結衣子によるユニットである。このユニットは演出面で特色があり、中央に台座のようなものを設えてアジアン・テイストの布を被せ、それと似たような柄の衣装を多久が身につけて、最初は胡坐をかいて演奏するという驚きのパフォーマンスであった(ピアニストは比較的、大人しいドレスである)。それというのも、近年はパン・アジア=パシフィックの世界観をモティーフにしたものが多い西村朗の作品を取り上げたせいであり、もう1曲もアジア的な文化を意識した作品を得意とするフランスの作曲家、故ジョナサン・ハーヴェイのものだというのだから、納得がいく。これで演奏がよくないと困ったことになるが、多久は若林よりも技術的なものに余裕があり、ピアニストともよく息があって、パフォーマンスは成功している。

西村は近年、ほとんど胡散臭いというほどに、かなり宗教がかったアジアン・テイストで売る作曲家であり、2人のパフォーマンスもその特徴を若干、皮肉るような味わいもあって複雑な感想を抱かせた。途中で胡坐を解き、立奏で吹きだしたあたりから、敢えてこういう言い方をするが、「気」の流れが変わって緊張感が増していく。第2曲はフルートとピッコロが持ち替えになっており、後半は特に、構造の積み上げによってピッコロが呪文のように作用すると、フルートの厚みのある響きが生成するというようなアクションが繰り返された。私はこれをみて、『アラディンと魔法のランプ』のエピソードを思い出した。しかし、2つの作品はいずれもインドと関係があるようで、この地域はワーグナーもショーペンハウエルを通じて注目したように、欧州文化にとってギリシャよりも古い原点を構成しているらしいことを考えると、EXTRAILの演奏はもうひとつのピリオド主義とも言えそうなものである。

この優れたパフォーマンスが入賞に至らず、審査員から十分な評価を得られなかった理由は、他の奏者と比べてもパフォーマンスの効果が色濃く、イロモノ的な感じを残したせいではないかと思われる。

【川村恵里佳ほか3人 pf】

演奏順は抽選で決まったと書いてあるが、いまのフルートもそうだが、同系列の楽器が都合よく並んでいて、とても偶然とは思えない。4番目からは3人、ピアニストがつづいた。田中翔一朗と石井佑輔は若干、演目の選び方にも難があったように思われるし、現在、この分野で活躍するピアニストと比較すると、あまりにも差が大きいように思われた。例えば、日本にも中川賢一稲垣聡、大井浩明、高橋悠治大宅さおり&裕藤原亜美のような猛者がいるわけだから。川村恵里佳もほかの2人と同じように、これらの先達と比べれば差があるが、少なくとも武満の『雨の樹 素描』Ⅰ/Ⅱの表現に関していえば、ゆたかなアイディアに満ちて模範的なものであろう。武満の表現の艶やかな特徴と比較すると、カーターの音楽は彼がパリで、ナディア・ブーランジェの弟子であったことを忘れさせるほど、カサカサしている。

【古川玄一郎 perc】

母校の洗足で教えるパーカッションの古川玄一郎は、福士則夫『ソロ・パーカッションのためのグラウンド』を演奏した。この作品に対しては投稿動画サイトなどでいくつかのパフォーマンスをみることができ、以前から関心をもっていたが、初めて生で聴く演奏は予想以上に凄まじかった。マリンバやウッドブロック、シンバル、銅鑼など、ありとあらゆる打楽器のほかに、玩具などを含めた多彩な楽器と、いくつかのマレット(あるいは、その持ち手側)を自在に操り、単純なスコアの理解だけでなく、奇知や遊びごころ、ユーモアまでもが試される綜合作品である。また、楽器の配置などによっても印象にちがいが出るし、結果として、どのような感じで演奏するかによって、楽曲の印象はまったく異なったものとして受け取られることになるだろう。パーカッショニストは柔らかいタッチから、粗暴な叩き方まで、場面によって適切な選択をし、素手による繊細な匙加減まで見事に使い分けて、聴き手とイメージを共有する必要がある。ある意味では、演劇的な要素も求められているのではなかろうか。

古川はパーカッションのスペシャリストというよりは、カンフー映画の主人公のように見え、アジア的な雰囲気をもっている。ヴィジュアル的なキッチュさにもかかわらず・・・、否、その特徴に対応するように動きは完璧に計算し尽くされてされており、ひとつひとつの要素は息を呑むような鋭さで、精確に実現し、適度な強度と響きが自然に、まろやかに空間へと広がっていくのが特徴だ。つよい響きを出すときの思いきりの良さもさることながら、素手で弱音を奏でるときの緊張感なども得難い。しかも、ヴィジュアル以外に、動きの鋭さがカンフーを思わせるのだ。楽器の配置には余裕があり、可動レンジを広くとっていることで、作品に内包するエネルギーを視覚的にも効果的に表現し得ているのがわかり、私は彼の演奏に単なる技巧的な爽やかさだけではなく、内面的な強度を発見するのだ。古川の音楽には確かに、本当に「かくあるべきか?・・・かくあるべし!かくあるべし!!」という精神の旅があった。

それを感じたせいか、私のこころのなかには、他の奏者のときにはさほど感じなかった内面的な動きが生じたのである。

【望月豪 マンドリン】

望月豪(リンクはFB)は、マンドリンを携えてのパフォーマンスである。あとの三味線もそうだが、独特のキャラクターをもちながら、その味わいが唯一無二のものであるために、かえって可能性が限定される楽器は決して少なくない。例えば、バグパイプアイリッシュ・ティン・ホイッスル和太鼓のような楽器は、伝統的な演奏法を越えては使いにくいのである。マンドリンの場合は楽器の大きさにあわせて、愛らしく楽天的な響きが特徴となっており、また、ギターと同様に持続音が出せない上に、特に高音でネックとなるため、その音域で使われるトレモロ的なサウンドが、情感的な独特のイメージを紡ぎ出してくれる。しかし、ほかに何があるのだろうか。

この疑問に対して、望月はまったく異なる3つの視野を提示したといえる。最初の田口和行は、伝統的なマンドリンの愛らしい特徴を、ほとんどまったく利用しない方向にいった作品を書いた。彼が追究するのは、徹底的にマンドリンらしくはないマンドリンの新鮮な響きである。そうでありながらも、この作品には確かに、マンドリンらしいキャラクターの優しさが最後の一味として残っているようだ。川上統の作品が、3つのなかでは、もっとも素直な響きの良さを生かした作品といえる。機動性が高く、ポップス&ロックスにもちかい響きのテイストがあり、アンコール・ピースとして相応しい。すなわち、メインとなるのは近藤譲の『早春に』であったろう。一聴して、近藤らしいシステマティックな響きが広がるものの、これとマンドリンの響きの特徴が喧嘩せず、上手に響きあっているのがなによりの特徴であり、面白い作品だと思った。田口作品が解体した響きを、近藤はまだ使えると主張しているようにみえる。こうした論争とは無関係に、川上は淡々と楽器の良さに忠実でいようとしているようだった。

【本條秀慈郎 三味線】

つづいては、三味線の本條秀慈郎の登場である。名前からみても本條秀太郎の門人であることは疑いなく、その高弟、秀五郎と肩を並べての見事な動画もある。私は三味線を聴く機会もほとんどないが、動画で見ることができる師の演奏がもつような多彩で、感情ゆたか、しかも、透明感のたかい音色にはまだまだ及ばず、些細な濁りがあり、技術的にも大らかな印象を抱く。秀慈郎はむしろ、そのような自分のあり方に愛着を持ち、等身大の演奏をしているのが好感を誘う。1曲目が権代敦彦、2曲目が北爪道夫だが、西洋弦楽器の特殊奏法をそのまま三弦に移したような権代作品と比べると、北爪がこうした邦楽器の分野で圧倒的な味わいを示していることに驚きを禁じ得なかった。私はこれまで、北爪の作品を僅かに聴いたにすぎないが、それらのものとこの作品では雲泥の差がある。逆にいえば、こうした作品の響きが、北爪の動きを逆側から律しているようにも見えなくはない。

一口にいって、北爪が『螺旋』で見せてくれるのは、その楽器がもっているこころのようなものである。曲名をみると、北爪は敢えて「三味線のための」とは書かず、「三絃のための」としているが、この一見してユニヴァーサルな意図にもかかわらず、他の三絃楽器では持ち得ない内面的な特徴が作品の骨格を成しているのは明らかである。本條流は技術的な完成度よりは、このような内面の育成と表現に重きを置いているのかもしれないが、秀慈郎の演奏にみられるのも、まず作品に対する素直な敬意であり、それに対して大胆にぶつかっていく度胸の良さだった。三味線のように分厚い伝統と味わいを備えた楽器に立ち向かうためには、それぐらいの覚悟が必要だともいえるだろう。

【松岡麻衣子 vn】

最後は弦楽器が2人つづいたが、これほどの猛者が次々に現れるなかでも、弦の2人のレヴェルの高さは他と比べて抜きん出ており、確かに、日本の弦の分厚さを感じさせるものだった。例えば、松岡麻衣子というヴァイオリニストは、音楽愛好家の間でもほとんど一般に知られていないが、それとは関係なく、圧倒的な技術力の持ち主である。ヴィトマンの作品でも、そのことは十分に感じ取れたが、2曲目に演奏した湯浅譲二の作品『マイ・ブルー・スカイ第3番』では作品のもつ物凄い威力を説得力十分に語り尽くしたといえる。

ところで、実は松岡の動画は独奏以外に、アンサンブルのメンバーや室内楽の一員として、比較的、豊富に確認できるのだが、それらのほとんどでシックな服装をしているのに対して、この日は明るい色調の衣装を身につけていたので、彼女が今回、自らに課していたテーマは自分が変わることだったのではないかと思う。そして、作品はそうしたテーマには打ってつけなのである。この世代、湯浅や近藤のような作曲家は個性がきつく、聴いた途端に彼の作品だとわかるものが多いが、当作品も例外ではない。湯浅の場合は新しいイディオムを豊富に放り込んで、決して後退は許さない。しかし、『マイ・ブルー・スカイ第3番』はそのなかでも、独特な明るさを感じさせる要素があった。特殊奏法を含めて、柔らかな響きで弦と楽器の味わいを引き出す松岡のパフォーマンスは作品の難解さよりは、むしろ、そうしたイディオムが自然に立つ作曲者の個性を感じさせる。作曲年からみて、前衛というよりは、応用というのが相応しいと思うが、テクニックを駆使した難渋な響きではなく、それらの爽やかな印象を作曲者はストレートに引き出している。これらの意味において、作品が文字どおりの傑作であるということは議論を待たないだろう。

松岡が第2位に評価されたなら、それは作品の鋭さを遺憾なく引き出した点と、そのことによって、彼女自身が新しい個性を確立したこと、ふたつの意味においてであったはずである。

【山澤慧 vc】

アンカーは、チェロの山澤慧だった。動的な松岡の印象と比べれば、山澤は静の個性を謙虚に売ったといえるだろう。若々しい表現意欲を抑え、たった1曲に絞って、作品と向かい合ったのも殊勝とみられたにちがいない。ベルント・アロイス・ツィンマーマンの無伴奏ソナタは、恐らくはバッハを範にとった「静」の音楽であり、一見、山澤のパフォーマンスはクールなものにみえる。しかし、私たちは最近の演奏会で、メッツマッハーの手でこの作曲家の作品をいくつか聴くことができたけれども、基本的に、それらの演奏は晦渋のなかにも豊富なユーモアや舞踊性、変化に富んだ音楽を感じさせるものだった。そのようなパフォーマンスと比べるなら、彼の演奏はあまりに工夫がないというわけにはいかないのであろうか。彼自身の構想からみても、本選の演奏は必ずしも思いどおりのものではなかったように聴こえたのもマイナスになるだろう。

実際、彼の演奏のなにが素晴らしかったかと問われて、私はこれといって強調的なことは何も言えないように思う。柔らかく弦を使い、透明な音色で、誰よりもスコアを美しく空間に投射した。その素晴らしさは私のような素人にもわかるが、それ以上のものが響きから伝わってくることもなかった。もしもあるとすれば、虚無である。自分に証言できるのは、そういうことだけだ。そして、そのことを結果と照らしてみるならば、このコンペティションの本質がみえてくるように思われた。

【まとめ】

個人的なことをいえば、もっとも印象的なパフォーマンスはパーカスの古川であり、もっとも鋭いパフォーマンスをみせたのはヴァイオリンの松岡であり、もっとも面白いパフォーマンスを見せたのはEXTRAILの2人、もしくは三味線の本條だった。そして、もっとも豊かな可能性を示しながら、今回、ちょっと残念なパフォーマンスにみえたのは山澤だった。結果は結果として、これほど多彩なスペシャリストたちを同じ俎上にのせて順位づけするのも困難に思えたし、そのことは審査員がいちばん切実に思うことだろう。

ただ、私はいつも考えていることなのだが、コンペティションの順位は最近、あまり意味がなくなった。政治的な意味もあり、もっともセンセーショナルな話題として恩恵を享受した1960-80年代くらいの音楽家と比べて、コンペティションの価値もレヴェルも明らかに下がっているし、当然ながら、その権威をほとんどの聴き手は尊重しなくなったからだ。むしろ、若い音楽家にとって重要なことは、こうした機会に自らの個性とセンスをどのように印象づけられるかということになっている。「競楽」の場合は、特にそうだろう。現代音楽の場合は、その人のために作品を書きたいと思わせるようなパーソナリティがなくてはならないからだ。作曲家と、優れた演奏家は互いに響きあう関係である。例えば、アルディッティQのもつゆたかな造形(イメージ)表現能力は多くの作曲家を刺激するだろうし、彼らに演奏してもらえることは、作曲家としての社会的価値を高めることにも繋がる。なにしろ、作曲家は演奏家よりも尚更、自らの価値を証明することは難しい存在であるから、優れた音楽家にそれと認めてもらうこと、重要な機会に演奏してもらったり、録音してもらえることは、クリエイターとしての生命線ともいえることなのである。

そういう意味で、「競楽Ⅺ」の出場メンバーの多くは、聴き手だけではなく、音楽の作り手たちにとっても豊富なインスピレイションを提供するにちがいない。大抵のコンペティションでは、既に存在する答えにもっともちかく迫った演奏家が選ばれていくが、競楽の場合、それぞれの音楽に定まった答えのようなものは存在しない。たとえ福士則夫が自分で書いた音楽の演奏を自ら審査するのであっても、そもそも答えを想定して書いた作品でもなかったはずだ。そこが、競楽の面白さだろう。若手音楽家がもはや動かない権威ではなく、これからつくられていく演奏伝統の担い手として参加していけるコンペティションなのである。だから、私は彼らをコンテスタントとはみなさない。ひとつひとつの独立した音楽家であり、プレゼンターとして彼らは機能する。本当は、順位づけすら必要ではないはずだ。

この第11回からということだが、競楽は第2次予選を廃し、第1次予選を通過した全員が本選で演奏できるようにした。このことで4時間をはるかに越える長さとなったが、イベントの趣旨からみて、この決定は妥当なものであったように思える。既に述べたように、競楽は音楽家と作曲家の両方にとって貴重な機会であり、演奏家がインターフェイスとなって、工夫に満ちた作品を紹介していく機会でもある。今後はコンペティションとしての充実も考え、演奏家や企画の視点などをいかにうまく審査に反映していくかが課題になってくるだろう。しかし、こんなに面白いコンペティションは他にない。最初から最後まで、全部聴いた人も少ないだろうが、私の場合、4時間を超えてもまったく退屈ではなかった。

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