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2015年1月29日 (木)

飯守泰次郎 ワーグナー さまよえるオランダ人 (M.フォン・シュテークマン演出/再演) 新国立劇場 1/18 (初日)

【3度目にして素晴らしい成熟】

新国立劇場のピットに入る日本のオーケストラはどこも、劇場の演目によく慣れていないため、前半の公演は避けるべきだと言われてきたし、劇場にとって特別な意味のあるプレミエの初日を除けば、確かに人気がないのだが、その傾向も最近はあまり気にならなくなってきた。後半公演のほうが演奏面の精度が上がってくるのは間違いないが、それでも、初日から高いポテンシャルを明示できる例が増えてきたせいだ。それでも相変わらず、再演演目の初日で注目度は低いものの、マイスター飯守泰次郎にとっては新国立劇場で2本目のワーグナーであり、題名役にトーマス・ヨハネス・マイヤー、ゼンタ役にリカルダ・メルベートなど、バイロイト級の歌手を配したプロダクションは十分に価値の高い公演とみえた。ユハ・ウーシタロ&アニヤ・カンペ、指揮にミヒャエル・ボーダーというラインナップで初演したマティアス・フォン・シュテークマン演出による舞台(2007年2月プレミエ)は、これで3回目の上演となる。

再演のため、本来は演出上で語ることはあまりないはずだが、今回はやや趣が異なっている。初演から8年が経過するうちに、当方の鑑賞力も変わってきたものか、以前は感じることのできなかったつよい表情に巡り会えたからだ。3回目にして、ようやく舞台が熟してきたという側面もあるだろう。また、のちにスペインの劇場(近年、財政的に裕福だった)で手堅い役割を演じることになったボーダーと比べれば、指揮の飯守泰次郎の手腕はこの演目でずっと際立っている。合唱指揮には三澤洋史がいて、2人はともにバイロイトのスタッフとして経験を積んだ下地があるが、奇しくも両人は単にそのエッセンスを日本に伝えるというだけなく、自分たちなりの新しい表現を組み立てていくという発想の持ち主だと思われる。

三澤が誇る幽霊船船員との交信(歌合戦)シーンなどに象徴される、新しい表現が日本で強烈に花開いた。我々はいまや、カタリーナ・ワーグナーのような「政治家」が支配するバイロイトにいく必要があるのだろうか。目の前で、これほどのものが繰り広げられているというのに。

【指揮について】

序曲においては、飯守がバイロイトをイメージした乾いた響きで聴き手をトリップさせてくれた。冒頭和音の輝くような立ち上がりから、情け容赦もない厳しい音楽が始まる。私自身はバイロイト詣での経験はないが、劇場の構造や環境からみて十分に推察できる、あとに持ち込みのないデッドな音響をイメージして、音符どおりに、キチキチと響きが組み立てられていく。音符の長さで響きが消失するポイントから精確に、幾何学のように広がっていくオーケストラのパフォーマンスは独特のものだった。時折、演奏面の瑕疵により、指揮者のアイディアがわかりにくい面はあったが、それも日を追って解消していくにちがいない。

昨年の『パルジファル』でもさかんだったという飯守へのブーイングは、ここでも激しかった。しかし、その反応はいささか皮肉なもので、名前だけをみているようなところもなくはない。例えば、題名役のT.J.マイヤーはそれほど際立ったパフォーマンスをしておらず、『アラベッラ』のときと比べても調子が良いようには見えなかったが、彼は十分な称賛を浴びた。正直にいえば、ゼンタ役のメルベートと合唱を除けば、声楽的にそれほど際立った成果は見られず、私の意見では、これにエリック役のダニエル・キルヒが辛うじてつける内容だったが、ダーラント役でさえ、声がデカいというだけで賞賛を受けた初日である。『パルジファル』でも同様だったように、飯守の手腕は最終的には高く評価されるであろう。その公演は目にしていないが、二期会で同じ演目をやったときあれほど素晴らしかったことを思うと、飯守にブーが出るのは納得できなかったのだ。

この公演で、不当にも批判されているのは飯守や演出のフォン・シュテークマンだ。結局、日本人(オーケストラも含め)やキャリアの浅い若者には言いやすいのではないかと思えてしまうのも止むを得ないが、彼らには何の責任もないどころか、まったく以て素晴らしい限りだった。

【自律した人々】

フォン・シュテークマン演出は、プレミエ時から評判がよいとは言い難かった。私も従来、そのような見方に同調してきたが、今回はそれに反対する立場に転じようとしている。彼の演出は基本的に、かなりシンプルなものである。その分、歌役者が時折、サバンナの大草原に装備もなく置かれるような無防備な感じがあるのが弱点であって、私の評価の低さも概ね、そういうところを見てのものだった。しかし、今日、ゼンタは夢遊病患者で、エリックは性質の悪いストーカーとみられる演出が多いなかで、各キャラクターが各々、自律的に行動しているように描かれている点では、かえって新鮮である。ゼンタは夢見がちの少女でも、他者との関係に怯える弱々しい存在でもない。

キーとなる台詞は、第3幕にある。エリックはこれまで、彼の求愛に応えてきたゼンタに対して、義務を果たせと迫る。だが、ゼンタにとっては、いまや、新しい義務が生じていた。2つの義務はもちろん、果たすことができない。それまでの子どもじみた約束や関係がおわろうとしているのを、エリックは理解することができなかった。むしろ、彼はゼンタの保護者として存在していると思い込んでいるので、いっそうオランダ人の誘惑が許せないのである。彼にとったら、オランダ人は恋敵というよりも、悪魔にみえるのである。エリックもまた、この作品ではある種の能力者だ。それをまた、彼の妄想として捉えることも可能だが、ワーグナーの神秘的な幻想世界のなかでは、ゼンタとオランダ人の間だけではなく、エリックにもその波動が伝わっているほうが面白い。エリックは『竹取物語』で、かぐや姫をもはや引き止められない老夫婦のようなものであろう。もはや、ゼンタに守護者は必要ではない。なぜならば、彼女自身がオランダ人の救済者となるためである。

フォン・シュテークマンの演出は、こうした関係をぼやかさずに真正面から描いている点で、今日、ほとんど望み得ない貴種の演出である。幕切れではオランダ人が絶望して出航、ゼンタが海に身を投げて浄化というのが逆様になり、ゼンタが幽霊船の舵を握って海に沈み、陸に残されたオランダ人が倒れて昇天という風になっているが、これは各々の自律性を際立たせるうえで効果的な発想だ。ここで陸に残されたオランダ人が言わずもがなの正体をばらすところの滑稽さは、また一味を添える。そのオランダ人の背後から、ゼンタが物凄い声で歌い、沈んでいくのだ。スポットに照らされ、陸上で死を迎えるオランダ人の姿も示唆的だった。傍らには小さくてよくわからないが、ダーラントが最初のほうで、結納の品のように持ち帰ったペンダントが添えられていたかもしれない。2人はこうして、固く結ばれていたというわけである。そして、オランダ人のことを取り残していったゼンタは、完全に彼を越えていく。

【ワーグナー作品の歴史のなかにあるゼンタ】

ここにみられるような犠牲を払った女性の聖化は、今後、あらゆる作品でワーグナーが描いていくものである。イゾルデの愛の死や、ブリュンヒルデの自己犠牲が、既にこの作品に暗示されている。イゾルデやブリュンヒルデに共通するのは、以前とちがう自分になって役割を変えることで、その点でもゼンタと共通点がある。例えば、ブリュンヒルデはジークリンデと関係することで、従来のワルキューレとしての役割を脱し、魔の炎による封印を経て、ジークフリートの妻となり、また、最後は自己犠牲を払って、ヴァルハル崩壊を引き起こすという巨大な存在に変化するのである。ゼンタはまだ、そこまでではないが、エリックとの古い関係を美しいまま終わらせ、オランダ人救済の凄まじい運命に就くという、その気高さはフォン・シュテークマンの描くとおりである。もしも彼女が、今日の主流的演出のような夢見がちの少女なら、ワーグナーの全作品はすべて幼稚な幻想にすぎないであろう。

オランダ人がワーグナー自身であることは、いくつかの台詞から読み取ることができるし、最初の妻、ミンナと過ごしていたころ、体験した苦難が作品のモティーフに発展したこともよく知られている。ワーグナーは借金取りに追われ、その途上で3度の嵐に遭って死にかけたのだという。それかあらぬか、嵐にすべてを賭けるかのような飯守の凄まじい音楽づくりは、まだモーツァルト/ハイドン向きの上品な東響のアンサンブルを完全には支配しておらぬものの、やがては身を結ぶだろうと思う。こうしたうねりが、今回の上演には層を成して重なっているのである。良くなるに決まっている。

【盟友】

ところで、このプロダクションで評判になっている部分のひとつに、合唱による幽霊船との歌合戦のシーンが挙げられるだろう。劇場の優れた音響システムを使ったアンサンブルが徐々に舞台上とな重なりながら、全体が強度を増し、劇場全体を包んでしまう表現は圧巻の出来である。飯守&三澤体制になって、この場面の効果は正しく最大限に引き出されたといえるだろう。この2人は同じバイロイト仕込みとはいえ、若干、キャラクターが異なるように感じられて、この劇場でどういう関係ができるかは楽しみでもあり、また一方では不安点のひとつでもあった。しかし、終演後に2人が固く抱き合ったところをみれば、難しい関係もお互いのプロ精神が固く結んでくれたようである。

【不思議な歌い手】

リカルダ・メルベートはこれまで、あまり良いコンディションで聴いたことがなかったが、今回の来日では突き抜けたパフォーマンスをみせた。少女から女性に脱皮していくゼンタの姿に重ねて、ワーグナーは自らの新しいページを開き、正にその変わり目を鮮やかに印象づけたが、ゼンタ役はそれだけに独特の難しさをもっている。それは大人の一歩手前でありながら、完璧に救済を歌い演じられる圧倒的な風格が必要だということである。フォン・シュテークマン(衣装のひびのこづえ)は少女趣味のスカイ・ブルーに染めた田舎娘のドレスを着せて、中に入るであろう屈強のワーグナー女優のヴィジュアル面を助けているが、メルベートはそのイメージにぴったりと嵌まっていた。つまり、清楚で、初めから決然と目覚めている少女のイメージ。ここから、いろんなものがぴったり嵌まってくる。例えば、衣裳のことでいっても、水夫たちの衣服に描かれた錨の模様などが。

女たちは糸車とセットで、これは舵のカタチと通じている。今回の上演では、さほど感じられないものの、私はシューベルトの歌曲「糸を紡ぐグレートヒェン」(op.2)が作品のモティーフのひとつを構成しているのではないかと思う。「私の安らぎは去った/もう二度と安らぎは見出せない」「望むまま口づけを交わせたら・・・/たとえ、そのまま消え去ったとしても」。青年期シューベルトの悩みを、ワーグナーが初めて解き放ったのだ。もはや糸紡ぎの女は、大海原を疾駆する船長としての風格を備えたのである。それはともかく、糸車と舵のモティーフはこの場合、実際にゼンタが舵を握ることの暗示にもなっていたかもしれない。こうしてみると、ゼンタは初手からすべてを見通していたかのようでもある。メルベートは、そうした秘密について一番よく知っている歌い手なのに、他方、これがロール・デヴューとでもいうように、ごくごく新鮮な感動を聴き手に味わわせてくれる不思議な歌い手であった。

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