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2015年2月 8日 (日)

粟國淳(演出) ヴェルディ 歌劇『ファルスタッフ』 アルベルト・ゼッダ指揮東京フィル 藤原歌劇団(2日目)  1/25

【音楽面に賭けた公演】

ジュゼッペ・ヴェルディは自らの死とともに、イタリア・オペラの長い歴史を葬ろうとした。最後の歌劇『ファルスタッフ』はシェークスピアの戯曲『ウィンザーの陽気な女房たち』の道化騎士役を主役にし、イタリア伝統のドタバタ喜劇を構成したものであるが、『マクベス』で見事に重厚なシェークスピア解釈をみせたヴェルディも、今度は大幅に鎌を入れ、ロッシーニだったら倍以上もかけるであろう喜劇をスパッと単刀直入に、描ききったところに最大の皮肉がある。登場人物も整理し、ほんの少しの脇役のほかは、男声4人&女声4人の2組のクァルテットと題名役だけに表現を絞り、序曲もなしに、テンポのよいドラマを仕上げていく。このような背景からみても、『ファルスタッフ』は高度に演劇的な舞台でなければ表現できないと思われる。いかにもオペラ的な手際のよい配慮にもかかわらず、この作品は声楽の素晴らしさのみによって、何ひとつ語ることはできないものなのだ。

しかしながら、藤原歌劇団による粟國淳演出『ファルスタッフ』は、カンパニー最大の資産である技巧的な歌役者を揃えた利点を最大限に利用しようとしたプロダクションであった。その点、私のみた2日目も声楽陣は分厚く充実していた。経済的に行き詰まりを感じるカンパニーに往時の勢いはないとしても、それでも、まだ豊富なコマが揃っているのを放棄したわけではない。積み木を動かすような装置はシンプルで効果的、粟國は演技面でも歌手たちのフリーハンドに委ねて多くは語らなかった。そのことは妥当というべきだと思うし、歌手もオーケストラも、パフォーマンスは概ね素晴らしかった。演劇性のつよい作品のなかで、彼らは敢えて音楽そのものに賭けたともいえる。藤原歌劇団はあくまで、歌手とオーケストラの織り成す華々しい共演の傑作として、『ファルスタッフ』を上演することを選ぶ。

なによりも、指揮にアルベルト・ゼッダを配したのだ。ロッシーニ作品をよく知る巨匠として、今日、ペーザロなどを起点として拡大した名声が本物であることを日本でも次々に証明してみせた老匠は、演目がヴェルディでも役に余る大任ということはあり得なかった。年月をかけて積み上げてきた東京フィルとの息の合ったコンビ・ワークで、ときにはワーグナーを思わせる分厚い響きから、舞台上の動きに即応した機動性の高さまで、ハッキリとアピールして作品の個性をハッキリと物語っている。例えば、ヴェルディはファルスタッフが罠に嵌まり、計略が動き出したときにホルンのロング・トーンを出して、「狩り」のモティーフを聴き手に印象づけるのだが、こういうことがゼッダほど自然にできている人もあまりいないだろう。

これに象徴されるように、ヴェルディはこの作品で、音楽が言語的なものを象徴するという古くからの伝統、とりわけ宗教曲の伝統の一部を悪魔に売り渡し、狂奔する時代を描き上げているのである。例えば第1幕では、ファルスタッフの邪悪な使用人たちが調子はずれの聖歌をうたって、主人に窘められるシーンがある。こうした世界を象徴するように、自らの悪事も省みず、ファルスタッフは第3幕で言っている。「泥棒の世界/悪党どもの世界/ひどい世界だ」「むごい世の中/美徳なんぞありゃしない/すべて堕落している」。ファルスタッフはこの世のすべての罪を背負うかのようで、少しだけだが、イエス・キリストに擬せられる。あるいは、対位法、フーガ的技法の悪用もあった。これらすべてをゼッダは、鋭く印象づけていた。今回の上演で最大の功労者は、どこからみてもゼッダであろう。彼のおかげで、歌手もうまく歌えるのじゃないか・・・そういう気持ちが、何度も私のアタマのなかをよぎっては消えた。

【折江忠道と歌手陣について】

歌手陣でいちばん素晴らしいのは、外題役の折江忠道だ。私は比較的、若い世代の鑑賞者であるから、既に30年以上のキャリアを築くベテランといえども、折江がもっとも華々しく活躍した時代を知らない。最近の地味な役回りから、題名役への起用には驚きのほうが強かった。しかし、その声の素晴らしさ、深く、肉厚な温かみあるバリトンの歌声は、初手から際立っていたものだ。先日の多田羅迪夫(新日本フィル公演/年末第九)にしても、欧州のどこか(折江の場合はイタリア)をさすらい、自ら実力を積み上げてきたこの世代の実力は総じて高く、技術的なポテンシャルの豊富な昨今の若手のなかにあっても、ときどき桁違いのパフォーマンスを発することがある。

折江の歌唱はゼッダの指揮とポジションを争えるほどに強靭だが、それほどの歌手は、この上演のなかには他にいない。しかし、若い恋人どうしを演じるフェントン役の中井亮一と、ナンネッタ役の清水理恵は、マエストロのサポートを受けて、ノビノビと能力を発揮したといえるだろう。中井はまだ土台が甘いものの、スピント系の力づよい魅力を秘め、アリア「喜びの歌はいとしい人の唇から出て」などは、話が切れ目なくつづかないナンバー・オペラならば、歌唱直後に大絶賛を受けるはずであった。また清水は、ヴェルディがナンネッタに与えた独特のほんわかした雰囲気を上手に拾い、その象徴である長いロング・トーンの軽やかな美しさはマエストロ直伝のものであったろう。

男女のクァルテットは結局のところ、公演の質を左右するほどのものだが、女声クァルテットが特に重要なのは元ネタからいっても当然である。その点で、大きな凹みこそないものの、アリーチェ、メグ、クィックリー夫人、そして、ナンネッタの構成はやや甘いというほかない。そのため、日本の公演では珍しいことに、このプロダクションは外題役を中心に男声優位である。ファルスタッフとフェントンのほか、ドクトル・カイウスの所谷直生のいかにもベルカントらしい弾力的な発声や、ピストーラの小田桐貴樹のみせた柔らかなバリトンの発声も役に相応しい。主要役のひとつ、フォードもまずまず。ただし、バルドルフォが大きな凹みになっていたのは残念だ。

【このプロダクションに足りないもの】

稀少というほどではないが、『ファルスタッフ』は日本でそれほど目にする機会が多い演目ではないものの、ゼッダとオーケストラ、歌手たちがつくる今回の舞台には独特の味わいがあったと思われる。欧米では、ちょっとできないような繊細な表現だ。同時に、言葉と音楽を鋭く対応させたダイナミックな表現が皆無ではないものの、不足していたような印象もなくはない。私はこのような良質な公演が、それほど感情の起伏なく過ぎていったことの不思議を感じている。それがヴェルディらしい冷笑主義の結果とみればそれまでだが、より豊かな表情を導くにはどうすればよかったのだろうか。

例えば、演出面では全景を解像度よく描こうとするあまり、観客に伝えるべき印象やメッセージがぼやけてしまったのではなかろうか。そう思える場面は大抵、ひとつの場面に出ているキャラクターの数が多く、声楽的にも複雑さを極めている部分であり、すなわち第2幕の洗濯籠ドボンに通じる場面や、第3幕後半でファルスタッフが「妖精」たちに散々痛めつけられてしまう場面だ。特に暗がりの場面で進行する第3幕は、仕掛人側の衣裳が非常に派手なことも手伝って、ファルスタッフやバルドルフォ、フェントンやナンネッタ、カイウスら、物語の鍵を握る人物が舞台上のどこにいるか、捕捉するのも難しかった。不幸なことに、ファルスタッフやフェントンは筋書き上、モノトーンの衣裳を身につけているからだ。もしも観客がこの話の筋についてまったく無知だったとしたら、話の大筋を理解するのにさえ苦労したにちがいない。また、第2幕ではファルスタッフの隠れる洗濯籠と、若い2人の逢引場所が同じ舞台下手であった点で、声楽的な混線が引き起こされたのではないかと思う。

ただ、そうしたことがすべてではないと思う。いま述べたような問題点はあったとしても、少なくとも私の視点では、粟國淳の演出に舞台の印象を左右するほど大きな瑕疵を見出すことはできない。また、こうした場合によくあるのは舞台上の歌役者たちの連携の甘さだが、この舞台ではそれも一定のレヴェルをクリアしている。結局、原因はよくわからないとしておくよりほかにないが、そのことが歌劇『ファルスタッフ』の難しさを物語っているようでもある。

【まとめ】

この作品が初演されたときには、ワーグナーは既に故人だったし、実のところ、マスカーニの『カヴァレリア・ルスティカーナ』やレオンカヴァッロの『道化師』も発表されていた。プッチーニも第3作の歌劇『マノン・レスコー』を初演しようとするところで、イタリア・オペラ界には多くの巨匠がひしめきあっていた。無論、こうしたヴェリズモの流れに、ヴェルディ自身は批判的だったにちがいない。母国の事情とは関係なく、彼はワーグナーという巨匠に惜しみない敬意を払いながら、一方で常に声のオペラの可能性を実直に追求しつづけたし、イタリア独特のオペラの味わいといったものをも深く愛していたであろう。そして、その素晴らしさを守るために、声の魅力を最大限に張るだけではなく、オペラのなかの演劇的なものをブラッシュ・アップすることを試みていた。無論、ヴェリズモにも工夫はあったが、『ドン・カルロ(ス)』『オテロ』『ファルスタッフ』の最後期の3作品からはそれらと比較にならないほど、壮大な意志が読み取れる。

今回のプロダクションには、そのような大きさが欠けていたかもしれない。確かに、『ファルスタッフ』は軽妙でコンパクトな作品だが、それだけに強い意志を感じさせるハッキリとした演出意図がなくてはならないし、また、それがよく客席に伝わるものでなくては意味がないのだ。粟國演出は、その両方で十分とは言えなかった。ただ、作品を表現するに声の魅力を中心とした音楽的な要素の充実だけに絞り込むという矛盾はあったものの、それでも藤原歌劇団は作品から大事なものを多く獲得することができたことは変わらない。各キャスト1日ずつ、ダブル・キャストの公演で、そのようなレヴェルに到達した歌手とオーケストラ、指揮者、そして、演出にも、素直に拍手を送るべきだと思った。

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