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2015年2月13日 (金)

井上道義 クセナキス ノモス・ガンマ ほか 新日本フィル サントリー定期 1/29

【新日本フィルの歩み】

新日本フィル(NJP)が、「現代」の作品4本だけで定期演奏会を開いたのを聴いた。井上道義が指揮を執る公演だが、これが面白くなかったら、俺も新日も、(現代ものの演奏は)もう止めるから聴きに来てくれと公言するヴィデオが予め公開された。実際、クセナキスの『ノモス・ガンマ』はこのオーケストラを含むいくつかの機会に、井上が繰り返し取り上げてきた十八番の演目であり、細工は流々というところであったろう。今回はクセナキスの指示になるべく忠実に従い、指揮者を中心に置いて奏者が周囲を円形に囲んで演奏する特殊な配置が再現されたことで、話題も集めた。本来は聴き手もそのサークルのなかに入り、響きと空間を共有する仕組みになっているそうである。

実際の演奏について触れる前に、新日本フィルの最近の傾向について触れておく。同団のトップ・ポストはこの日のプログラムでも自ら触れているように、1980年代後半に井上が途中で投げ出したあと、しばらく空位の時代を経て、2003年から若いクリスティアン・アルミンクが手綱を引き締めた。その後、中堅のインゴ・メッツマッハーが起用されたが、その関係は十分に熟さないまま、次の次のシーズンからは上岡敏之を芸術監督に迎えることが発表されている。私は井上時代を知らず、アルミンクの時代から演奏を聴いてきたが、ここ二代の指揮者は現代ものを重視して、プログラムを組んできた。特にアルミンク時代には有名、無名を問わず、指揮者のセンスによって選ばれた作品(パンテルアンポーン、ウィリ、ロクシンなど)が日本初演され、さらに、委嘱初演作も生まれた。委嘱はシリーズ化される予定だったが、第一号の女性作曲家、アタナシア・ジャノウの新作が明らかな駄作であったほか(2008年)、満を持して依頼したはずの望月京の作品も初演が1年遅れるなどして、計2回でストップした。

その間、新日本フィルは故フランス・ブリュッヘンの特別シリーズを成功させ、どちらかといえば、古い時代に舵を切ることになった。現在、同団の持ち味は古典派音楽を中心に、アルミンク、ブリュッヘン、ハーディング、スピノジ、ハウシルト、ボッセらによって醸成されたメッセージゆたかな弦の響きや、機能的なアンサンブルを用いた繊細な表現のなかに求められようかと思う。そういえば、ブリュッヘンはかつて、ハイドンのシリーズを指揮する際に言っていたものだ。古典作品の演奏には現代人がもう忘れてしまった、ルールがあるのだと。そのようなルールに則った伝統的なスタイルに基づく演奏が楽しめるオーケストラとしては、わが国ではいま、新日本フィルと東響(後者はスダーンの指導による)が有力である。

もっとも、メッツマッハーは彼の展開する世界的なプロジェクトの一部を日本にも持ち込み、ベルント・アロイス・ツィンマーマンなど、現代ものを積極的に組み入れたプログラミングを採っている。昨年のコンサート評でも書いたように、メッツマッハーは楽団の個性によくあった選択をし、演奏面での成果も素晴らしいのだが、その一般的な評判たるや、決して芳しいものではないようで、その知的な試みは楽団の営業面からはマイナスの影響ばかりが大きいものと推察される。井上のヴィデオは、そのような現状を憂えるところから来ており、当日のMCからも、そのような雰囲気が感じ取れた。小澤征爾やそれを取り巻く安定的なシステムから離脱し、彼らしく自律的な成長を図ろうとした井上だが、劣悪な環境に堪えながら、とにかく新しい課題を追い求め、世間の注目も集まった楽団のかつての姿を回想して、そのときの有様を誇らしげに訴えていた。

ただ、「現代もの」とはいっても、今回、演奏された曲目のなかで、もっとも新しい吉松隆の『オリオン・マシーン』は初演が1993年であり、既に20年以上も前の作品となっている。武満、リゲティ、クセナキスの各作品はいずれも1960年代後半の作品で、はや50年ちかくの歴史を刻んでいる。吉松以外の作曲家はすべて故人で、もはや会うことも叶わない。こうした作品を古典的なレパートリーとしてではなく、「現代もの」として扱わねばならないところに大きな壁を感じるのではなかろうか。実際、井上はこれらの作品を過去にも取り上げており、MCによれば、4曲は吉松を別にすれば、繰り返し組み合わされてきた歴史を経てきている。井上からすれば、もはや古典的な発想でみられるほどの作品なのだとは思うし、それだけに勝算もあったわけだろう。

【室内楽的な地平線のドーリア】

演奏会は武満徹の『地平線のドーリア』で始まった。弦楽合奏の作品だが、全体を2グループに分け、前方の「ハーモニック・ピッチ」と、後方の「エコー」は、なるべく遠くに配置するように指示されているのだという。ただし、この曲に関しては距離自体にはさほどこだわらず、前方アンサンブルを八の字型に配置し、左右に4人ずつの奏者を見通しよく展開して置き、それらの奏者が織り成す響きの関係を丁寧に描き上げることに集中した。前方と後方の関係は明らかに対応的ではあるものの、分離を厳密にし、室内楽的な慎重な受け渡しを静かに印象づけることで勝負した。

なお、今回の演奏はすべての曲で半分から六分ほどの力で表出し、エネルギーを長く抑制して弾くことがポイントになるが、作品はその意味でも特徴的であり、演奏もこれに対応したものだ。エコーがいわばアンサンブル的な重なりの音楽であるのに対して、前方アンサンブルは個々の奏者の味わい深いテクニックを楽しませるようなデザインにもなっており、例えば、最近、NJPの契約首席チェロ奏者として、キャリア初期の古巣に帰った木越洋などがみせるテクニックは、こうした場面でなるほど際立っていた。全体的にはコケオドシのような部分が一切なく、声が小さくて物静かだが、ユーモアにも満ちていたという武満の人柄が、確かに偲ばれるような作品である。

【独奏者:山本浩一郎との共鳴】

2曲目には、吉松隆のトロンボーン協奏曲「オリオン・マシーン」を取り上げた。独奏者は作品を日本フィル時代に初演した首席奏者、箱山芳樹が予定されていたのだが、氏は最近、新日本フィルの名簿から名前を消しており、今回の演奏会も弟子の山本浩一郎に譲った。山本は多くの優秀な弟子を育てた箱山の一番弟子ともいえる存在で、いまは米国のシアトル管で首席奏者を務める。ネットを検索してみると、箱山が自分のことを越えたと言ったとか言わないとかいうほどの逸材である。確かに硬軟織り交ぜたテクニックの素晴らしさは言うまでもなく、会場中を虜にした。作品は協奏曲というよりは、独奏トロンボーンを引き立てる装置としてのオーケストラが正に空(もしくは宇宙)を構成するような作品で、それ自体は吉松作品のなかではありふれているが、この作品は後に述べるような理由で、比較的、デキのよいものではないかと思う。

ジャズ的なイディオムが出る第2楽章はゴッソリ不要ではないかと思うし、全体的に冗長であり、この作品の表現からみれば、わざわざ編成の大きなオーケストラを用いるのはオーバー・ウェイトである印象も免れなかった。また、井上自らが言っていたように、終盤はシベリウスの影響を脱していないどころか、それそのものである。この日の演奏に関していえば、井上の厳しめの音楽づくりや独奏者の緻密この上もない演奏が功を奏し、背骨が真っすぐに伸びて、例えば藤岡幸夫の録音(BBCフィル)と比べれば、切れ味の鋭い作品として聴かせることには成功していた。ともあれ、グッとくる味わいがある。吉松はそれほど清廉な感じのするクリエイターではなく、つまりはリアリストだし、例えば「佐村河内」の問題にしても、下手なことを喋りすぎている印象があるが、その実像は案外に素朴な感じのある人であるようにも受け取られる。特にオリオン座の三ッつ星を表現するレントの表現や、独奏部の気高い美しさは一方のものではないだろう。終楽章のシベリウス風のサウンドは、それでもかなり気高いものだった。

ソロ・カデンツァは独奏者の自由がかなり広く確保されているように思われるが、モティーフとしては、孤独を象徴している。山本の演奏では特に、立ち居振る舞いを含めてコメディ性が際立ち、高度な技術を延々と見せるというよりは、じたばたと色んなアクションをしてオーケストラを従えようとするが、何をやろうが、誰も乗っては来ず、ひとりでは何もできないというメッセージが浮き彫りとなる。カデンツァ内部にはより古い作品の歪んだ引用があり、モーツァルトの『レクイエム』の一部を吹いた山本によるアンコールのパフォーマンスと対応する。不思議なことに、私は彼のパフォーマンスから同じ曲のイメージを既に共有していて、実際に音が出てきたときには驚いたものだ。

【リゲティ】

休憩を挟み、3曲目はリゲティの『ロンターノ』だが、この作品のみがごく普通の配置である点は意外である。武満やクセナキスの配置については既に述べたが、吉松の作品も中央の胴体部分にピアノ、パーカッション、ハープの三ッつ星「マシーン」が置かれた上に、やや離して左右の両翼を広げた弦楽器群が展開し、後部の管楽オーケストラが尾っぽ、独奏者と指揮者が頭部を構成する、羽を広げた鳥型配置になっているのだ。個々の奏者がしばしば別々のパートを演奏し、最大で60声部を構成するという「マイクロ・ポリフォニー」が特徴の『ロンターノ』は、近い時代の古典である。「遠く」を意味し、エコーや響きのずれを楽しむ作品は、武満作品と発想が似ているように思えるが、こちらの作品は限界的な細分化にもかかわらず、意外にも組織的な凝縮が感じられる点で、やや話が異なっているようだ。プログラムにも記載があるように、井上もまた、「一枚の絵をみる」ような感覚を表明していた。しかし、私はもうすこし動的なイメージも感じないワケではなく、そのような表現に若干の反発さえ感じる。しかし、正直にいえば、4曲のなかでいうと、当作品はそれほど個性的にはみえない。

【理想郷から響く孤独な訴え】

メインの『ノモス・ガンマ』は世界的に演奏機会が多いとは言えないように思うし、例えば、ナクソス・ミュージック・ライブラリー(NML)にも、投稿動画サイトにも音源(動画)は見つからない。1922年生まれ。ギリシャとフランス、あるいは、メシアンの弟子に入った作曲家&巨匠ル・コルビジェの弟子としての優秀な建築家、生来から2つの魂をもつように運命づけられた巨匠は1965年、まず習作的にチェロ独奏のために『ノモス・アルファ』を制作した。この作品はチェロ1本で弾けるので音源も豊富だし、動画もみられる。私の素直な感想では、出来かけの設計図のような音楽だが、チェロの難曲としては著名なようで、数学の群論を用いたシステマティックな作品ということだが、群論自体がよくわからないから、その音楽への適用について論じるのは無理だ。しかし、このアルファで培ったシステムを、大管弦楽編成に移して完成をみたのが1967年のことになっている。こうした経緯を考えると、アルファとガンマは兄弟のような作品のはずだが、私にはそうは思えないのだ。

この作品は既述のように、聴き手が演奏者と同じ空間を共有するところに従来とは根本的に異なる関係が生まれている。つまり、聴き手は直接、音を出すことはないけれども、さりとて、サークル中に存在することで演奏者とともに音楽を生み出すというシステムのなかに自然と組み込まれてしまうのだ。ここではもう、作り手と受け手、演奏者と聴き手の関係は分離しがたく、否応なく、クセナキスの生み出した音響空間のなかを「ともに」彷徨うことになる。作曲者はこの場合、自ら神的な存在を演じることも可能だったが、実際にその権利を行使することはなく、ただ内側から訴えるだけに止めて、聴き手が自らこころを開くまでは何事も起こらないようなサウンドを用意した。それだから、時としてインパクトの強い瞬間はあるものの、全体を通して音楽は静かな印象を与えている。ドラムスのつよい響きがしばしば鳴り響くのに「静か」というのに語弊があるなら、「安定的」と言い換えてもよい。

私が最初に受けたイメージは、熱帯雨林の奥でおこなわれていそうなイニシエーションの風景だ。それをストラヴィンスキーのようにスキャンダラスに捉えることもできるが、実際、そのイニシエーションの内側にいる人たちは静穏な雰囲気のなかで、粛々と儀式を進めているのにちがいない。四方から広々と響くドラムスの響きは、多義的に解釈できるだろう。例えば、クセナキスが若いころ、ギリシャでレジスタンス運動に身を投じ、片目の視力を失うなどした歴史的事実を援用すれば、遠くから響いてくる銃撃の響きと聴こえないこともないが、私はもっと呪術的なイメージをもって響きに接していたのだ。それは鬱蒼としているほどではない、明るさのある森の光景のなかに開けていた。ときどき聴こえる甲高い響きはメシアンの影響か、鳥たちの声だろう。クセナキスが実際、戦っていたにしても、彼らが潜伏していたのはこういう美しい場所だったのかもしれない。

ギリシャというと、まずエーゲ海を想像するのはあまりにも観光客的な発想であろうか。例えば、映画監督のテオ・アンゲロプーロスも、よく海や河川を描いている(『エレニの旅』『霧のなかの風景』『ユリシーズの瞳』『シテール島への船出』など)。しかし、ギリシャ神話の半ばは水辺だけではなく、「森」「木」「山」という要素にも近しかった。クセナキスの思い描くのは、本当のところ、近現代のギリシャには存在しなかった静穏な森の風景だったかもしれない。そのような理想郷から発せられた、孤独な叫びのモティーフがこの作品のなかには聴こえている。そういう点では、私はこの作品が吉松作品と同じようなモティーフをもっているのではないかと思う。・・・孤独。創作の孤独。表現の孤独。そして、存在する孤独。生きる孤独。死んでいく孤独。多かれ少なかれ、20世紀の後半の作曲家は孤独だった。武満の音楽にも、それは聴こえるだろう。もちろん、リゲティにも。ルイジ・ノーノという作曲家は、その孤独をある作品の題名で端的に示している。『進むべき道はない、だが、進まねばならない』。

【徹底した自由の精神】

クセナキス作品の優れている点は、作品を覆う厳しさのなかにも、全体的には穏やかなサウンドが勝っていることで、f は多用せず、この演奏会を貫く姿勢と同じように、常に半分くらいの強度で表現されるように調節されているところに見出される。終盤は昨年、耳にしたカレル・フサの『この地球を神と崇める』のようなスケールの大きい疾走感に覆われ、pp、p、mp 系から、f、ff、fff 系へと急変するが、それでも押しつけがましいほどの強度は最後まで現れない。おわりに全員が客席正面に向かって向き直って起立するのは、この日ならではの演出だろうが、そのようなエネルギッシュな場面でさえ、どこか涼しい風を感じるのである。

多分、クセナキスがこうしたサウンドで追い求めたのは、徹底した自由の精神であった。もっとも、彼の構想どおりに聴き手が演奏者の間に入るようなことになれば、自由では済まされない。逃れられない現実が、そこにはある。弦をつまびき、息を吹き込んだり、ドラムや太鼓を叩く人たちが隣にいるはずだ。彼らの作り出すサウンドが井上の言うほどは「騒音」的なものではない、美しいものだったとしても、もしかしたら、耳をつぐんでしまうような聴き手もいるかもしれない。だが、現実はいつも、そこにあって動かない。聴き手が奏者の間にいれば、その現実(=皮肉、矛盾)は強まるのである。サントリーホールではそうもいかないし、私のいる2階正面の客席では若干、引いた視点から、この現象を眺めることになる。ただ、それは視覚的な問題であって、このホールの場合、音響的にはサークルのなかに入り込んだときと、さほど大きなちがいは感じられなかったろうと思う。

1960年代には、まだ斬新だったであろうクセナキスの精神も、半世紀を経たいまでは類型的なものでしかない。ここで演奏されたのは、いま聴いても衝撃的なものであることに変わりはないものの、少なくとも「現代」の音楽というほどには新鮮でない。井上は最初の曲目から、吉松のを含めて、すべての作品を自家薬籠中のものとしていたし、NJPは彼のイメージをほぼ完璧に形にすることができた(ただし、クセナキスでは若干、イメージよりも繊細なフォルムに仕上がった)。しかし、本当の「現代」を描くためには、より若い世代の指揮者と作曲家がいなければならない。井上は武満とは会ったこともあるだろうし、会話することもできた。実際に顔を合わせたことがなくとも、皆、同じ時代を生きていて、そうした感覚が4つの作品を表現するには不可欠なものとして感じられる。最近は、そうした共時性がクラシック音楽から失われつつある。

それと、井上にとっては、後半のプログラムは昨年1月に亡くなったクラウディオ・アッバードへの追憶という意味も併せ持っていた。彼はリゲティやクセナキスの曲目を、当時のスカラ座芸術監督であった同氏の薫陶の下で、イタリアで演奏したということである。奇しくも、故アッバード氏の音楽性を象徴するのも自由というキーワードだ。20世紀は、人々が自由を探求し、その理想的な形を追い求めて、苦しんだ時期だった。4つのプログラムには、そこから派生した様々な時代の叫びが詰まっている。

【まとめ】

何はともあれ、今回の演奏会が良いトライだったことは確かである。多分、これで失敗したら、もうやらないという約束は守る必要がないだろう。少なくともここに来た聴き手たちは、大いに楽しんだようだから。ただ、一方で、こうした演奏会はしばしば高評を得るものの、そのわりに客席が埋まらないというのは当夜も例外ではなかった。井上のチャレンジが成功だったのかどうなのか、楽団の判断は難しいものになるだろう。これは多くの運営主体を悩ませる問題であり、例えば、名古屋フィルも近年、ティエリー・フィッシャー、マーティン・ブラビンズと個性的なプログラミングを得意とする指揮者が相次いでトップ・ポストを受け継いだが、ブラビンズの最後のシーズンはやや期待はずれな内容となり、来季からは手堅い構築力には定評があるが、保守的な小泉和裕にバトン・タッチする。NJPで新体制を構築する上岡敏之が都響の大野和士や、名フィルの2代の英国人指揮者のように、ヨーロピアン・スタイルをほぼそのまま日本に移植して、アルミンク、メッツマッハー、そして、井上が築いてきたような方向を勇ましく守ることができるのかどうかはまだわからない。なぜなら、現在、公表されている絶望的な来季プログラムのビルディングには上岡は関わっていないとされており、本当の絶望はまだ延期されているからだ。

楽団は一体、どういう方向を選んでいくのだろうか。ここ1年ほどの在京オーケストラのなかで、団員の入れ替わりなどがもっとも目覚ましいのは新日本フィルだった。そして、その方向性は必ずしも、木越の場合のような、前向きのものだけではなかったであろう。地元スポンサーと直接、言葉が通じ、インテンダントの経験もあって営業的にも隙がなさそうな上岡の獲得は、音楽面に限らぬ朗報なのであろうが、一連の負の連鎖の延長線上に、箱山の退団があると考えると気掛かりだ。経済的に楽壇の運営が安定しない場合、プログラムが保守化するのは避けられない傾向にあり、その点で来季プログラムが物語るのも楽団の厳しいフトコロ事情である。井上はかつて、新日本フィルが練習場所も定まらず、苦労したなかで、どんどん新しいことをやって、メディアや同業者の注目を浴びていたときの素晴らしさを物語ってくれた。しかし、そのときと比べると、文化的なものに対する国民的な期待とか、それを維持・向上しようとする気高いプライドのようなものは、容易に維持できない世の中になってきたのではなかろうか。

新日本フィルが今後、楽壇に対して、あるいは日本社会に対して、新たな衝撃を与えられるような表現集団でいられるかどうか、その鍵を握っているのは実のところ、私たちのほうなのかもしれない。ひとつでも多くのオーケストラがゆたかな可能性をもちつづけられることを、私は祈っているし、そのために私の場合は、この演奏会が素晴らしいものだったと書く以外に、あるいは、それがどのように素晴らしかったかをしっかりと書く以外に、できることもないのかもしれぬ。退路を断った井上の示した姿勢には熱烈な支持を表明し、あとは同好の士の共鳴を待ちたいと思う。この試みは、うまくいってほしいものである。

【プログラム】 2015年1月29日

1、武満徹 地平線のドーリア
2、吉松隆 トロンボーン協奏曲「オリオン・マシーン」
 (tb:山本 浩一郎)
3、リゲティ ロンターノ
4、クセナキス ノモス・ガンマ

 コンサートマスター:西江 辰郎

 於:サントリーホール

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