2017年3月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  
無料ブログはココログ

« クァルテット・エクセルシオ シューベルト 弦楽四重奏曲第14番「死と乙女」 ほか @津田ホール 2/1 【当記事は後藤さん、湯川さんに捧げる】 | トップページ | 山澤慧 チェロ・リサイタル with 大伏啓太 B.A.ツィンマーマン チェロ・ソナタ/バッハ 無伴奏チェロ組曲第3番 ほか 2/15 »

2015年2月25日 (水)

長田雅人 ショスタコーヴィチ 交響曲第8番 ほか オーケストラ・ダスビダーニャ 2/8

【種類のちがう表現】

オーケストラ・ダスビダーニャ(ダスビ)は、ショスタコーヴィチの作品を専門的に演奏するアマチュアのオーケストラであるが、同種の専門性をもつアイノラ響(シベリウス)、ナズドラヴィ・フィルハーモニー(チェコ音楽)、オーケストラ・ニッポニカ(日本の作曲家による近現代音楽)らと比べて、演奏の質が段ちがいに高いことが特徴である。アマチュアがほぼ1年、熟成して作り上げた音楽がプロのオーケストラ以上の感動を誘うことも珍しくはないが(大昔は難しい演目なら、プロでも半年、1年を賭けたのだ)、それに加え、この作曲家の表現の特質を知悉し、実に見事にやってのけるという以外に、表現のパレットが多いオーケストラであることが強調される。

例えば、この日、2曲目の映画音楽『ニュー・バビロン』からの抜粋(3曲)では、彼らはまったく種類のちがう表現手法を採った。つまり、この場所では映画フィルムを上映できない代わりに、自分たちがそれぞれの場面にあわせて、音楽が表現しようとしているアイロニーを強調するために一演技することにしたのである。その動きのいくつかはスタンド・プレイや、楽器をまわすなど、吹奏楽の分野ではよく見られるパフォーマンスでもあるが、ドタバタのコメディ的なものも多かった。例えば、ドラムの印象的な一音をめぐって、複数の打楽器奏者が出番を争ってみたり、音高の上向に合わせて奏者が背伸びをしたり、台に乗ったりする単純なギミックである。打楽器奏者の手が空く場面が多いせいか、無声劇は舞台後方で行われることが多かった。例えば、打楽器ゾーンに現れたヴァイオリンの最後方プルトの貴婦人は、ヘマをやらかして音をすこうしばかり鳴らしてしまい、その嘆きを哀愁に満ちたピアノで弾いてみせる。すると、オーケストラと指揮者がおいおいと泣くという具合になっている。

無論、そのすこうしばかりの音はスコアに書かれているのだろうし、ピアノの旋律は映画の埋葬シーンかなにかに使われていたのであろうと想像できる。その場面は決して、笑える場面ではないかもしれないが、ショスタコーヴィチが書いた響きが十分に風刺的な可笑しさを伴っているのは自明である。ショスタコーヴィチは一体に、この映画音楽をウィンナー・ワルツ、特に白銀時代の感傷的な味わいにロシア=スラヴ的な憂愁をすげ替えたものとして組み上げたと思われるが、ピアノのメランコリックな旋律がドラマに深々と絡んでくる味わいはフランツ・レハールの歌劇『ジュディッタ』などを思わせる(自註:当作品の作曲は1933年で、ニュー・バビロンよりも新しい)。ショスタコーヴィチは、そうしたウィーン音楽の頽廃を横目に、それを風刺することで、翻って自分たちの頽廃を省みようとしているのかもしれない。

【ニュー・バビロンからのメッセージ】

なお、今回のプログラム誌の表紙では、フィルムのなかで何か楽譜をしたためるような男のイメージが描かれているが、『ニュー・バビロン』はこの分野に数多くの足跡を残すショスタコーヴィチの最初の作品となった。こうした仕事では楽士も技術が高くはなかったであろうし、なるべく平易で分かりやすい音楽でなければならない。また、ショスタコーヴィチが関わった映画音楽は大抵、共産主義ソヴィエトの威信を高めるプロパガンダを目的として制作されているので、一般には作品の価値はさほど高くないと思われているし、むしろ、作曲家の恥部であるとさえみなされているわけだが、そうしたものからも十分に垣間見える作曲者の表情を柔軟に捉えるダスビの姿勢には見習うべきところもあろう。アカデミックな評価が作品のすべてを物語るわけではなく、ときには下らない作品のなかに一縷の真実をみることだって、できるかもしれないのだから。

映画音楽『ニュー・バビロン』は、いくつかのメッセージを物語っている。例えば、同時代のウィーン「白銀」音楽にショスタコーヴィチが十分に関心を払っており、一般に音楽の前衛主義からみて保守的とみられる彼でさえ、批判的だったこと。プロパガンダ映画に対しても、ショスタコーヴィチは真正面から風刺を使い、その精神はメインの交響曲第8番となんら変わらぬこと。そして、しばしば名人技が決め手となっている本格的な作品に対して、このように平易な手法であっても、ショスタコーヴィチがメッセージゆたかに音楽を織り上げることができたということの証明にもなっているようだ。確かに、この作品を普通に演奏しただけでは、響きが示すところの特殊な意味合いはみえにくいかもしれないし、もちろん、ショスタコーヴィチによる諸作品のなかで、特に出来がよいものとする理由は一切ないであろう。だが、そこにはソヴィエト・ロシアの真実、そして、そこに生きる作曲家のひとつの真実が表れているようである。

【新たな光で照らされたショスタコーヴィチ】

メインとなる交響曲第8番でも、また別の「ダスビ」の意外な面に出会うことができた。そのことを語るためには、私は2007年12月に聴いた、井上道義による日比谷公会堂における演奏シリーズを思い出すのだ。さすがに、あの日の名演を思い出すと、ダスビのパフォーマンスでも私には満足できなかった。だが、恐怖に次ぐ恐怖によって、私をトランス状態にさせた当時の演奏と比べれば、もっと折り目正しい形で、作品が美しい均整を得たものであるかもしれないと気づかせた点では、再び聴きなおす価値もあったと思う。パフォーマンス自体は大事に行き過ぎたせいであろうか、前半2曲の流れるような展開と比べれば、若干、スムーズさを欠く部分があったかもしれない。弱音を主体とした序盤の美しくも厳しい流れは、この作品の特徴を印象づけるもののひとつであるだけに、そこに十分な音楽的緊張が伴わないのは小さからぬ損失である。細かなピースをつないで、形を成していく響きのパズルが解き明かされなければ、第1楽章後半の凄絶な雰囲気も薄らぐ。

ただ、長田の解釈は、井上とはまた異なった次元から来たものでもあった。

楽団はこの作品を繰り返し演奏しており、既に周回を重ねて、隊列が固まったところからもういちどイメージを起こしていることを忘れてはならない。一般論に従えば、交響曲第8番はネクラな感じのするショスタコーヴィチの交響曲のなかでも、特に仄暗い感じを帯びた作品である。それだからこそ、前半のプログラムには、まったく対照的なものが選ばれたわけだろう。ダスビはそうしたものから感じられる、ステロータイプとは異なる作曲家の明るい部分を「ショスタコーヴィチの自画像」ともいわれる交響曲第8番に当て嵌めて、逆算してみたというわけである。壮大で、巨大な悲劇を1枚の絵巻物のように扱った井上とはちがい、長田とダスビは作品をそれまでにショスタコーヴィチが培ってきた表現手法の総決算であると捉え、そのなかには室内楽的な要素も豊富であることを顕著に示していた。およそアマチュア的ではなく、ダスビ的ともいえない端整な意図に基づいた演奏はショスタコーヴィチの作品を新たな光で照らしたのである。

【ショスタコーヴィチと自由】

そういうことも踏まえると、最初の交響詩「十月」の出だしが多分、この演奏会でもっともタイトな部分だった。冒頭ユニゾンの重い響きから、死を象徴するトロンボーンがわかれ、そこから聖なるホルンに転じて、弦が割れ、作品は新しい世界を開いていく。音楽の言語機能を用いた宗教曲の伝統を踏まえながら、厳しい予告を刻む序盤の演奏に対して、後半はそれを裏切る明るさが支配的になっていく。「十月」はある意味で、交響曲第8番のミニアチュールのようになっている。この作品はショスタコーヴィチにとっては後期の作品で、プログラムは初期の映画音楽、そして、中期の交響曲という3つの時代を描き上げるものになっていた点も指摘しておきたい。だが、そのすべての時期において、ショスタコーヴィチ自身はそれほど大きくは変わらない。

3つの作品で鍵となる楽器のひとつはトロンボーンで、もうひとつはホルンである。トロンボーンは交響詩では古典的教養に基づく死の楽器として用いられているが、映画音楽ではジャズ的なイディオムを含んだ娯楽的な象徴として扱われているし、さらに、交響曲ではよりタイトな役割を与えられている。こうした楽器の取り扱いをみるだけでも、ショスタコーヴィチがワン・パターンではない、豊富なヴァリエーションを展開しながら作品を構築している様子が見て取れるだろう。一方、ホルンは例えば、交響曲のラルゴ(パッサカリア)で長大な見せ場があり、そのイメージはやはり死とつながっている。だが、そのイメージもまた、明るさと表裏一体になっているようであり、交響曲第8番はちょっとした匙加減で、まったく異なる印象を導くことができる曲であることがわかるのだ。

そして、それはそもそも、ショスタコーヴィチという作曲家がもっとも大事にしたキーワード=自由と無関係ではなさそうだ。この日のダスビの演奏は五分五分の印象のところでは、ほとんどの場合、明るい方向に読み替える「自由」を徹底している。ところで、ショスタコーヴィチが全作品のなかでもっとも直截な真実の言葉を語り、自由な表現空間と見做したのは室内楽である。ここには意地悪な検閲も入りにくく、弦楽四重奏曲第8番で描かれたような露骨なメッセージもさほど問題にはならなかった。交響曲第8番の示す最大の特徴は、楽節の構造が細かく、随所に室内楽の響きがあるという点に尽きている。ダスビはその点を素直に示すことで、独特の温かいサウンドを手にしたということができるだろう。

普通の演奏とはまったくちがう、彼らなりの新しい表現がここに生まれたというべきかもしれない。

【まとめ】

前半2曲の演奏からも分かるように、彼らはそれらしいショスタコーヴィチの表現では、もう、かなり多くのものを手にしている。ロシアのオーケストラでさえ忘れかけているものを、彼らが本当に体現しているのである。特にティンパニやスネアドラムを中心に、打楽器陣の素晴らしさはもう言うことがないほどだ。弦もダイナミックなボウイングや、トレモロの迫力が凄い。こうしたものは、ショスタコーヴィチの管弦楽作品を演奏する場合に、まず問題となる要素である。それらを手にした今、彼らは次の課題に進むことを決めたのかもしれない。すなわち、それは室内楽的な結びつきから生じる温かいサウンドと、ショスタコーヴィチのもつ明るい表情の出し方だ。『ニュー・バビロン』はそれら両方の意味において、適切なトレーニングとなったにちがいない。また、ここでパフォーマンスとして行ったことは一部、交響曲第8番の演奏でも活用されたが、オーケストラとして、この方向はさらに突き詰めていくことになるはずだ。

内情はよく知らないが、オーケストラ・ダスビダーニャは最近、また新しい翼を獲得したのではなかろうか。また1年後が楽しみだ。

なお、プログラム誌では終演後に読むように但し書きされた裏解説のほか(まだ、ほとんど読んでない)、多岐にわたる内容が面白おかしく掲載されているが、目を引いたのは福島県の相馬市で「たこ八定食」を出す定食屋の記事だ。以前の記事で紹介されたが、大津波でその名も「たこ八」の屋号をもつ店は流されてしまったという。その店がまだ復興も進まぬ現状のなかで、元気に営業再開しているのを訪ねた記事になっている。この記事自体はライトなものだが、ダスビは震災直後から現在に至るまで、あの重々しい事態に目を据えづづけている数少ない団体のうちのひとつであることも忘れてはならない。

【プログラム】 2015年2月8日

1、ショスタコーヴィチ 交響詩「十月」
2、ショスタコーヴィチ 映画音楽『ニュー・バビロン』より
               〈戦争〉〈パリ〉〈バスティーユ〉
3、ショスタコーヴィチ 交響曲第8番

 於:東京芸術劇場

« クァルテット・エクセルシオ シューベルト 弦楽四重奏曲第14番「死と乙女」 ほか @津田ホール 2/1 【当記事は後藤さん、湯川さんに捧げる】 | トップページ | 山澤慧 チェロ・リサイタル with 大伏啓太 B.A.ツィンマーマン チェロ・ソナタ/バッハ 無伴奏チェロ組曲第3番 ほか 2/15 »

オーケストラ」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/543421/61160829

この記事へのトラックバック一覧です: 長田雅人 ショスタコーヴィチ 交響曲第8番 ほか オーケストラ・ダスビダーニャ 2/8:

« クァルテット・エクセルシオ シューベルト 弦楽四重奏曲第14番「死と乙女」 ほか @津田ホール 2/1 【当記事は後藤さん、湯川さんに捧げる】 | トップページ | 山澤慧 チェロ・リサイタル with 大伏啓太 B.A.ツィンマーマン チェロ・ソナタ/バッハ 無伴奏チェロ組曲第3番 ほか 2/15 »

ツイッター

  • ツイッター

最近のコメント