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2015年3月 3日 (火)

尾高忠明 シベリウス 交響曲第5番、第6番、第7番 ホクレン・スポンサード 東京公演 2/17

【序】

札響の演奏は毎年、エリシュカのときに本拠地で接しているが、東京公演に出かけるのは2009年の『エニグマ変奏曲』のとき以来だ。当時の演奏も素晴らしいものではあったが、その後、札響が順調な上昇カーブを描いているのは明らかだ。私の狭い体験では、地方オーケストラのなかではトップを走っていると思うし、在京オーケストラのトップ・クラスと比べても、決してヒケをとらない面がある。比較はよいとしても、彼らの演奏は・・・今回のシベリウスは、尾高忠明と歩んだ時代の総決算としては相応しい芳醇なパフォーマンスだった。

シベリウス後期の3曲の交響曲は、作曲家の最後期の作品ではあるが、晩年の作品ではない。ロッシーニと同じように、シベリウスは余力を残して引退し、60代にしてアイノラ荘における隠遁生活に移ったが、これを最後に尾高が去るというのは、なんだかツィクルスの始まる3年前からシナリオが決まっていたかのように、上手に符合するのが興味ぶかい。交響曲第7番では文字どおり、シベリウスの有終の美を拝むことができる。彼は自己ベストを更新したまま、トラックを去ったのだ。特に専門の諸氏ほど、シベリウスの交響曲第7番を高く評価することが多い。こうして3曲を通して演奏しても、第7番は飛び抜けているのが分かるだろう。例えば、ドヴォルザークからウェーベルンが生まれたようなものだ。

しかし、私はウェーベルンの鋭い知性には感服させられるものの、本質的にはドヴォルザークが好きな素人なので、第6番のほうが好みではある。愚かな自分に引きつけて考えるわけではないが、札響のメンバーも、きっとそうだったのではないかと思う。演奏面では、この6番が明らかに白眉で、一体感のある演奏だったことは間違いないのだから。愛情に満ち溢れ、すべてをぶつけられるシンフォニーという感じで、途方もない集中力が消費されたのである。

【交響曲第5番】

6番の演奏の特徴を語るためにも、まずは迂遠だが、5番の感想について書いておく必要がある。作曲は1915年で、シベリウスの50歳の誕生日を祝うセレモニーのために用意されたという。折しもWWⅠが勃発する社会状勢のなか、さすがに苦労もあったようだが、フィンランドはロシアの出撃基地のような役割を担うだけで、戦争に巻き込まれた度合いは小さかったのが幸いした。何度かの改訂を経て、決定稿は普通、1919年のものとされている。ときに時代の暗い雰囲気をまといながらも、作品はあくまで祝祭的な輝きをもっている。尾高だからそう言うわけではないが、英国のオーケストラのような豪華なサウンドで、札響はこの作品をまずは優雅に印象づけた。

この作品については、以前、ヴァンスカ&ラハティ響の演奏を聴いた憶えがあるが、第1楽章の活き活きとした交響詩風の描写は、札響にも十分に勝る点があった。ひとつひとつのエピソードがハッキリとした楷書で描かれ、明瞭で、素朴な美しさを放っている。私の座席の問題もあると思うが、意識的に弦のベースを沈み込ませ、管楽器の存在感を浮き上がらせた点で、世間からは多少、批判めいたものも聞こえてくるのだが、私はその点が逆に興味ぶかい効果を発揮しているのに驚いた。正にこの点において、札響の演奏は明るく、明朗な詩情を獲得していたのである。この日の演奏会で、私がもっとも感心した点は、オーボエ、フルート、クラリネット、ファゴットの木管クァルテットがいつもよりも深い絆で結ばれ、そのおかげで、個々の実力を超えたゆたかなポエジーを放つ点であった。

2番奏者を含め、木管アンサンブルは互いに助け合って響きをつくっている。フルート2番で、ベテランの森が絶妙のタイミングで入り、アンサンブル全体を引き連れていく場面なども見受けられ、これがスコアに示された理想的なものなのかどうかはわからないが、壮大なシベリウスの交響曲のなかで起こることとしては、ごく微笑ましい光景だったといえるだろう。終演後は席を並べるフルート、高橋首席を中心に、森とオーボエの金子がスコアを指さしながら、談笑していたが、あのあたりの話だったかもしれない。

緩徐楽章を経て、第3楽章はラハティ響の整然とした隊列と比べると、凸凹が目立つのは致し方ない。ヴァンスカが時間をかけて練習しなければできないと豪語した最弱音に、札響は達しなかった。しかし、私はヴァンスカが札響に来ても、素晴らしいマリアージュにはならないタイプの指揮者だと思っている。彼らの演奏はまた独特のもので、シベリウスに新しいイメージをもたらすのである。この楽章はいわば、波を思わせるところがある。最初に主要モティーフが語られ、いったん凪のように静まって、また波が打ち寄せる。ラハティ響の場合は、これをフィヨルドのような壮大さと、北国独特の静けさで構築したが、今回のは正に自然な波であって、それがつくる風景は幾分、ゴツゴツしていたものの、札響の演奏では親密さが表に立ち、内面に響く快い立体感をもっていた。旋律に対する情感の寄せ方がひとしおでなく、ひとつひとつの波がまるで意志をもっているかのように振る舞い、とても優しいのである。だから、最後の休符を挟んだフィナーレには、息を呑まされたものだ。

【ガーディアン型演奏】

転じて、交響曲第6番は標題性から脱皮した純音楽のような振る舞いで始まった。

6番はベートーベン以来、自然と想起される「6番」のイメージに相応しく、まことに長閑なイメージをまとってはいるものの、シベリウス後期の交響曲では唯一、死のイメージをも内包していると私は考える。これにはWWⅠ、フィンランドのロシアからの独立、友人でパトロンのカルペラン男爵の逝去、信仰、そして、大分、以前のことにはなるが、1908年に腫瘍を摘出するまでに体験した大病の記憶などが一挙に反映されている。交響曲第7番が後世の作曲家からも尊敬される現代的で、かつコンパクトで、かつエレガントなフォルムを示すのに対して、この交響曲第6番はシベリウスにとって最後の自伝ともいうべき作品であり、古典的なドーリア旋法などを含む、複雑で味わいぶかい構造をもっている。

序奏の聖歌風の旋律線を経て、序盤の目覚めるような響きの受け渡しはいくぶん遅めで、尾高らしくクールなイメージを放っていた。しかし、いきなりガリガリと流氷が砕氷船に削られるような響きが聴こえたりすると、パッと北欧の幻想的な風景が広がる。フィンランドの朝の涼しい光と、伸びやかで、透明な響きが溶け合い、遠くに生と死のドラマを内包した快活な風景が次第に醸成されていく。全体的には、第5番の交響詩的なイメージからすると、室内楽的なミルフィーユ構造が繊細に訴えられる演奏である。欧州的な演奏に独特の宗教的雰囲気は若干、薄く、それがもたらすイメージの一部が損なわれないということはないものの、我々が手掛かりにできる別のものに置き換えられて、作品全体の味わいを損なうことには繋がっていない。一口でいえば、我らが札響の演奏は柔らかいのだ。例えば、有名なベルグルンドの録音が示すような、確たるイメージに縛られたものではない。

これは一長一短だが、その自由さにもかかわらず、札響はガーディアンとしての特質も備えている。このことについて、私は多少、説明をしなければならない。クラシック音楽の演奏には、いくつかのスタイルがある。それを概ね3つのタイプに分ければ、A=ヴィルトゥオーゾ(自由)型、B=アンサンブル(調和)型、C=ガーディアン(伝統保守)型となる。これを試みにヴァイオリン独奏者に譬えると、Aはハイフェッツ、Bはオイストラフ、Cはシゲティとなるのではなかろうか。Aは圧倒的な個性を放ち、有無をいわぬ名技性を示して作品を切り裂いていしまうようなパフォーマンスのことを言う。Bは全体の調和を意識し、楽曲そのものを生かしながらも、アンサンブルの自由な意思を極力、演奏に反映させようとするもので、現代の主流となっている。そして、Cは歴史的に伝えられてきたルールや慣習を厳しく守り、先人から受け継いできた知恵から、現実的な事情によって大きく逸脱しない態度をとることを指す。無論、これは単なるオーセンティズムを指すのではなく、楽曲に対する深い敬意に基づいた工夫のひとつであることを知るべきだ。

演奏家は、誰もがガーディアンとして振る舞う面をもたなくてはならないが、現代では民主的な思考が行き渡ったことで、指揮者の強烈なイニシアティヴは認められなくなり、Bの態度を突き詰めることでアンサンブルの凝縮がAを自然と超越し、社会的規範としてもオーケストラの凄さが際立つ集団の勝利を、多くの人たちが支持しているというわけだ。札響の演奏もやはり、Bによって構築されているが、彼らは多分、エリシュカとの体験によって、楽譜の裏の裏に貼りついている情報を読むことを憶えた。この情報はたとえ、どんな精緻な機械によっても読むことのできないものであり、人間のアイディアが必要なのだ。ブリュッヘンも言っていたように、「楽譜に書いてないことは人間が知っている。その人間とは私である」という発想が是非とも必要なのだ。これによって、クラシック音楽における「ガーディアン」の性質がよくわかるだろう。

ガーディアンとしての札響が実現したのは、句読点をしっかりしたオールド・スタイルのシベリウスを的確に表現したことに尽きる。ツルツル滑るような現代的アーティキュレーションではなく、ザクザクと雪を踏みしめて歩く感覚は、先に名前を出したベルグルンドの時代のスタイルに近く、ヴァンスカ、サラステ、サカリなど、現代の録音だけを聴くなら、あまり例がなく、彼らさえ忘れかけているものということができる。全体が集中力に富んだ良い演奏だったが、白眉は終楽章となろう。序奏は弦が厚いベースを踏み出し、ライヴならではのゆたかな広がりを感じる演奏だった。これが予告するゆったりした流れは、弱音部でも、メッセージのはっきりしたアンサンブルを自然に生み出していく。その自然が沈黙するような終結部分は、正にこの作品の内省的な特徴を物語っている。ここで終演後の拍手が速すぎるという、この日の演奏会の難点がなければ、さらに印象は深彫りされたかもしれない。

尾高のシベリウスは中途まで、ベルグルンドやカヤヌスといった古い録音を好む私にとっては、どこか懐かしさを感じさせる解釈であったが、後半、尾高はいっぺんに形相を変えて、苦みを濃くしたのが印象的である。演奏中、最近、ある詰まらないTVプログラムをみたときに、演歌歌手の北島三郎が「演歌は生活の歌」だと言っていたのを思い出し、このシベリウスの交響曲も「演歌」にちがいないと思った。だが、最後は生活の臭いのする響きから、宗教的な透明なサウンドに転換し、神々しくおわるのである。

【100年に1回しか咲かない花を前にして】

2回目の休憩をはさんだ交響曲第7番の演奏は序盤から、多少、煮えきらないものを感じ、前半の流れには前2曲ほどはスムーズでないものを感じた。5番、6番と同じようなイメージでは捉えきれない作品に対する共感の欠如が、私には聴こえてきてしまった。しかし、アンコールで演奏する『アンダンテ・フェスティーヴォ』を解とするような演奏の特徴は、ギリギリ捉えている。7番を単独で取り上げても、かえってシベリウス的な特徴は読みにくい。「シベリウス最後の交響曲」という特別な意味づけを避け、それまでの作品で積み上げてきたものを素直に形にした演奏であり、率直なサウンドが目を惹いた。

尻上がりに、アンサンブルからは迷いが消えて、この日の演奏の特長を成す、聴き手の内側に問いかけるような一体感が次第に高まってくる。精度には若干の課題があったものの、序盤に示された宗教とはまた異質の上向性を帯びた響きが、ミステリアスに響く作品だが、その象徴となるのは終結の部分だろう。100年に1度しか咲かない花がいよいよ開くときのように、上向のエネルギーに乗って魔法の花がジワリと咲く描写が素晴らしかった。それだけに、その花がまだ開ききらないうちに、それほど大きな声ではないものの、「ヨッシャ」と声に出したひとりの聴衆の気持ちはよくわからない。これが頻りに話題になったのは、残念というほかないのだ。

だからといって、100年に1回しか咲かない花を前にして、身に受ける感動は想像以上に大きかった。私がこの作品を生演奏で耳にするのは、初めてのことなのだ。

【札響は日本の宝】

この日は弦を中心にトラも少なくないようで、折角の東京公演だが、財政的な厳しさから遠征に連れてこられないメンバーもいたのかなと推察するが、それでも弦の後方プルトまで表現はよく浸透し、札響らしい特徴を損なうことはなかった。エリシュカのときにも書いたが、札響の演奏スタイルは個々が単位を構成するところから、立体的に結びついていくところに特徴があり、最近はその利点がいよいよ際立ってくるようになって、ほぼ全員がアンサンブルの担い手として誇りをもっていることも重要だ。実際のところ、こうしたオーケストラはあまりなく、北海道が、そして、日本が誇る宝となるには相応しいグループだろう。この精華が尾高とともに去ることなく、北海道にながく根付くことを願いたいものである。

【プログラム】 2015年2月17日

1、シベリウス 交響曲第5番
2、シベリウス 交響曲第6番
3、シベリウス 交響曲第7番

 コンサートマスター:大平 まゆみ

 於:サントリーホール 

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