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2015年3月12日 (木)

高橋悠治 ピアノ・リサイタル 簡潔な線 透明な響き 「見えないフクシマのための沈黙の音」 2/26

【芸術と政治】

高橋悠治は1938年生まれ、76歳のピアニストだが、独特の活動を展開している。一口にいって左翼的な社会運動家であり、ノーノやジェフスキーのようなタイプの音楽家と思われるが、何十年と積み重なった過去の歩みをよく知らない上、それを取り囲んできた雰囲気についても知らないので、その点について、あまり触れるつもりもない。そのことと今回のリサイタルと、もちろん関係がないとは言わないが、そんなレッテルから自由なところに音楽は流れているように感じられた。今回、高橋とコラボレートした画家の富山妙子女史もまた、「左翼」というレッテルを貼られている。日本の未熟な芸術的観念のなかでは、芸術家が政治に携わるのは一様に醜く、芸術的価値を貶める行為であるとされているため、彼らが蒙ってきた損害は、日本では致命的に大きいものだろう。私はプロパガンダ芸術のように、直接的に芸術を政治の道具にすることには反対しているが、同時に芸術家の鋭い視点がなければ、政治の真実を見通すことはできないとも信じているのだ。

ところで、今回のパフォーマンスは不思議なことに、私にはまったく政治的なパフォーマンスのようには思えなかった。確かに、2人がモティーフとしたのは福島の原発事故であり、反原発という政治的テーマともまったく無関係とは言いきれないだろう。しかしながら、ヤマトシジミが放射能の影響で変異した・・・という、きわめて問題の多い主張を語るときでさえ、彼のアタマのなかに、何らかの政治的な思惑があるようには見えなかったのだ。そうではなく、高橋や富山が今回の作品で訴えかけたかったものは、見えるものからさらに想像力を広げ、見えないものに気づくというプロセスの大事さであったと思われる。事故の起こった福島に、放射能によって変異した蝶がいる・・・そのこと自体は単なる象徴にすぎない。海を渡ってくる仏像や、空に浮かぶ風神・雷神と同じことなのだ。風神や雷神が、現実にはいないものだといって怒る人はどこにもいない。蝶はやや具体的ではあるものの、同じような象徴物にすぎないのである。グリーグが描いた『蝶々』(アンコールで演奏)も、作曲家のイメージした想像力のなかだけに生きるのであって、それが音として肉付けされて表現されているにすぎないのだ。

富山の絵は舞台上の巨大スクリーンでみたせいかもしれないが、一見、具体性を帯びているものの、よく見れば見るほど、なにが描かれているかはよくわからないように描かれている。津波の風景も、事故後の原子力発電所の風景もパッと見、それとわかるのにもかかわらず、よくよく目を凝らしていると、もっと抽象的なイメージのようにも見えてくるのである。また、風神・雷神のイメージは、俵屋宗達の屏風のモティーフがそのまま引用されているが、福島の海上に出現した2体の神はそれぞれキッチュに異化されていて、親しみやすいキャラクターのようにも見えないだろうか。風や雷を起こす威風を背面に保ちながらも、彼らはむしろ、自分たちが起こすべき災厄よりも酷いものをみて驚いている。あるいは、地上を憐れんでいるかのようだ。風神は放射能を撒き散らす可能性があるが、実際には空を埋め尽くす白い粒子によって蝕まれているかのようにも見えた。

プロパガンダ芸術の特徴が露骨で、わかりやすいことだとするなら、富山の絵画はそれに当たらない。そして、プロパガンダの目的が怒りや疑問を引き起こすことだとするなら、富山の作品はあまりにも安寧ではなかろうか。私はこの演奏会によって、初めて女史のことを知ったにすぎないが、多分、こうした表現からは画家の優しく思いやりに満ちた性格が思い描かれてくる。だが、高橋は音楽によって、そんな富山の厳しい視点をもういちど甦らせようとした。その音楽は決して何も語らないように、慎重なデザインによって配慮されたものであり、単なるバック・ミュージックではないものの、作曲家自身の思惑をなにひとつ反映するものではなく、ムソルグスキーの『展覧会の絵』のように、絵をみた作曲家の感動や畏怖、その他のいかなる情感を示すものでもない。ただ、この音楽は、富山の表現に筋道を通す役割を果たしているのは間違いない。背中がピッと伸びるのだ。

【ミクロの部分から】

女史の絵の面白いところは、細部のひとつひとつに表情が籠っていることである。このコラボレーションではしばしば、最初から絵の全景をみせることは少ない。ミクロな部分から、徐々に視野が広がっていくのである。このことは、小さなものをみるところから、見えないものを感じる大きな視点を感じられるようにするという、作品全体を貫くモティーフとうまく対応している。シェーンベルクは人間の身体のどこを突いても血が噴き出すことに譬えて、自分の作品のどの部分、たとえひとつの小節からでも全体を把握することができると述べているが、この表現はそうした警句を思い出させるものだ。

高橋の音楽も、なるべく同じような密度をもつように作曲されているが、この人の場合、極度に自己表現というものが薄い印象があり、劇伴音楽とか、そういう言葉の範疇を超えて何も語らない、透明な音楽表現が特徴的である。それでいて、ジワリジワリと浸透する音楽は、やや大袈裟な表現もある富山の作品に秘められた静的なエネルギーの凄さを物語っている。

【クリスチャン・ウォルフ】

今回のリサイタルは、この『黙示録』を中心に、もう一方の軸にクリスチャン・ウォルフを置いた構造で物語られるべきものである。ウォルフは1934年生まれで、まだ存命している作曲家である。もともとはドイツで出版業者を営むユダヤ人で、WWⅡの際に難を逃れて米国に渡った。高橋のMCによると、米国でも出版業に携わり、中国の『易経』の訳本をジョン・ケージに渡し、いわゆる「チャンス・オペレーション」を発想させるきっかけをつくったというのだが、本人はその方向には進まなかったという。素朴な題名の『ピアニスト/小品集』は高橋悠治の妹、アキをイメージして書かれた作品で、中には演奏に用いる指づかいだけが指示されていて、その範囲でどの音符を弾いても構わない部分があるということだ。

ウォルフの作品自体は、いちど聴いただけでは、私にはよくわからない質のものだ。しかし、エリオット・カーターを思わせる静穏で、システマティックな表現が聴かれる。この作品はいわば『黙示録』の序奏のようになっており、その間に休憩を挟むものの、聴き手に対する心構えをつくらせるものだったことは疑えない。しかし、あくまで高橋は、この作品を弾きたかったから弾いているにすぎないということも確かだろう。

【現代ピアノにおける理想的なバッハとハイドン】

高橋はまた、ウォルフの好きな作曲家として、バッハとハイドンを演奏したと言っている。シンプルで、無駄のない美しいライン。私は波多野睦美との録音によって、高橋の録音をもってはいたが、生演奏は初めて耳にする。その最初に接したバッハによって、一挙に熱烈な支持者となった。愛奏曲風のリラックスした雰囲気で弾いた『フランス組曲第5番』は、現代ピアノによってバッハを演奏するときに生じる、音色の問題を除く、ほとんどの課題を回収した見事な演奏である。故グスタフ・レオンハルトは、バッハの作品をチェンバロではなく、モダン・ピアノで演奏することは愚かだと明言していたし、そのことは絶対的に正しいだろう。もっともバッハの時代には、モダン・ピアノにつながる楽器の開発が進み、先進的な宮廷などに導入が始まった時期でもあって、ザクセン選帝侯フリードリヒは、少なくとも40台ものピアノを購入したという。ジルバーマンから楽器を提供されたバッハは改良型を気に入ったというが、その楽器のために作曲をすることはなかった。

ピアノでバロック以前の古典レパートリーを演奏することは、基本的にナンセンスである。しかしながら、ピアニストがピリオド楽器ではなく、自分の楽器でバッハを是非とも演奏したいという衝動までを批判するわけにはいかない。そして、それが高橋のように完璧なものならば、十分に感動を誘うパフォーマンスにもなるだろう。高橋はピリオド楽器による演奏にみられる細かな特徴・・・例えば、必ずしも均一にならない打鍵の質や、自然な減衰による響きの柔らかい推移といったものを見事に模倣し、控えめな音量で聴き手が音楽を拾い集めるように仕向ける素晴らしいピアニズムを披露した。高橋の奏法は椅子を低くし、肘から先、特に手首を柔らかく使って必要な音量だけを取り出す、このページによく登場するピアノ教師、ジャン・ファシナの説く演奏法にちかいスタイルをもっているが、それが古典作品の演奏にいっそうよく適しているのは明らかである。

バッハにつづけたハイドンのソナタが、パフォーマンスとしてはもっとも素晴らしかったのではないかと思う。バッハと同じく、ハイドンのクラヴィーア作品も基本的にはチェンバロによって演奏するのが相応しいとは思うが、このソナタ60番(Hob.XVI:50)はハイドンの鍵盤作品のなかでは、とりわけ人口に膾炙したもののうちに入り、リヒテルをはじめ、分厚い演奏伝統が重なっている。高橋は既に述べたように、ピアノによる古典(派)作品の演奏に対する課題をほとんど回収しおわっているものの、バッハ、ハイドン、ジェズアルドと3つの作品に対して、若干、異なるアプローチを用いていた。ハイドンの場合はバッハでみられた古楽器を模した減衰や、バラツキのある響きが回避され、シンプルななかにも豊穣で典雅なラインを明確に浮かび上がらせる。そして、時折、胡椒のように和声のアクセントがピリリと強調されることで、作品はより整然とした美しさを放つことになった。

【自由さとともに】

3曲目のジェズアルドは、プログラムのなかで1曲だけ浮き上がって見えるが、それも計算のうちなのだろう。近年、マドリガーレをはじめとする声楽作品がよく知られるようになった作曲家だが、高橋によれば、1曲だけ鍵盤用の作品が伝わっており、自筆譜はみつかっていなくて、他人による筆者譜だけが現存するという。あるいは、無のなかに隠された可能性が、ピアニストのイマジネイションを刺激するのかもしれない。結局のところ、挟み込まれた異物が、現代への懸け橋として使われたわけだが、ジェズアルドの独創性や先進性がもてはやされたのも今は昔の物語ではなかろうか。ただし、二期会の『ホフマン物語』公演で、ミシェル・プラッソンが最新エディションとはいえない「シューダンス版」を用いて、敢えて伝統的な解釈につくことで生きるリアリティの継承にこだわったように、高橋もかつての知見に基づいた演奏スタイルを素朴に守りながら演奏していることには一定の重みがある。結果として、作品はバッハやハイドンとは遠く隔たったスタイルで自由に演奏された。

ウォルフの作品を位置づけるとすれば、この自由さとともにあった。富山作品のなかにあるのも、ごく自由なコラージュ的発想だ。素材としては事故後の原発施設(と瓦礫)や津波を描いた絵のほかに、俵屋宗達の風神や雷神、何らかの原因によって変異した蝶の写真、海は印象派風の輝きに似つかわしくない露骨な炎との組み合わせ、そこを渡る数体の仏像、原発施設の区域を示すかのようなICチップ、そして、電気泳動のキャピラリーのような原発回路図かなにか、福島周辺と思われる地図などによって構成されている。これらに短い標語が組み合わされ、視覚的には文字(日本語+英訳)と絵画、写真によってコラージュが形作られた上に、音が重なってくるわけだ。やや牽強付会の感もあるかもしれないが、敢えてウォルフとの共通点を挙げれば、重なり合ったものが立体的ではなく、水平に映し出される構図に、それはあるのではなかろうか。

【哀しみから出発する喜び】

最後の1曲は、やはり『黙示録』を経たところから生まれる表現である。MCを挟みはしたが、映画のエンドロールで流れる音楽のように、バッハの『フランス組曲第2番』は響いた。5番のト長調に対し、ハ短調の静穏な響き。しかも、カラフルな音色を奪われた現代ピアノならではのモノクローム映画のような味わいが、高橋のゆったりした、あまり動的ではない、おっとりした語りくちでいっそう引き締まっていたのが印象に残る。アルマンドのいささか沈鬱な印象からすると、曲を追うごとに作品は光を増していく。バッハの『フランス組曲』は彼が先妻と死別し、20歳のアンナ・ヴィルケと一緒になるときに、歌手であった彼女が習い始めていたクラヴィーアの作品を集めて贈り物とした作品集から採られた。バッハのなかには哀しみと、そこから出発する喜びがあったはずである。

高橋は結局のところ、明るい資質をもった音楽家なのであろう。それは曲間に必ずトークを挟み、半ばは講義のように、もう半分は茶飲み話のように進んでいくリサイタルの形式と対応している。『黙示録』はあまりにも厳しく、苛酷な現実だったので、それを見つめるときに、彼にはバッハの書いた、このような作品を弾く必然性もあったのだ。その演奏は冒頭の第5番の演奏で示したようなスタイルを基本的に踏襲してはいるものの、また別の流れに沿ったものである。このように高橋は同じスタイルのなかでも、コントラストをつけた表現が可能なのである。彼の演奏は明らかに、日本人のピアニストのなかで頂点の一角を占めるが、それは同時に、世界有数の弾き手であることをも示している。だが、そのオーディエンス層には偏りがあり、高齢の女性が半ば以上を占めているように思われた。演奏家も、オーディエンスも、音楽家としての彼に学ぶことは多いはずなのに、残念なことである。

彼はもう、70代半ばを過ぎた。9mm Parabellum Bullet というロック・グループが、2011年9月にリリースした作品『カモメ』の歌詞はなんとなく、東日本大震災と津波のイメージを思わせるところがあるが、そのなか(2番)で彼らはこう歌っている。「魂を詰めたボトルの/日に焼けた古いラベルを/きれいにはがして/残さずはがして」。これは復興というよりは、さらに高い理想を掲げた歌詞だと思うもこともできそうだ。私も、彼らに倣いたいと思うのである。

なお、使用ピアノはベーゼンドルファーだった。

【プログラム】 2015年2月26日

1、バッハ フランス組曲第5番
2、ハイドン クラヴィア・ソナタ Hob.XVI:50
3、ジェズアルド 王のカンツォン・フランセーズ
4、C.ウォルフ ピアニスト/小品集
5、高橋悠治(映像:富山妙子) 海からの黙示録
6、バッハ フランス組曲第2番

 於:浜離宮朝日ホール

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