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2015年3月26日 (木)

ラザレフ ショスタコーヴィチ 交響曲第11番「1905年」 ほか 日フィル 東京定期(初日) 3/20

【動的な協奏曲】

日フィルで、2008年から2017年までつづく長期政権下にあるアレクサンドル・ラザレフだが、来日は年間2回で、決して多くはない。しかし、ラザレフはこの関係を非常に大事にしているように感じられるし、相性は抜群だ。今回、演奏するショスタコーヴィチの交響曲第11番「1905年」は、当時、客演だった2003年に名演が繰り広げられたそうで、その再演となるものだ。12年の歳月が経ち、団員も多く入れ替わっただろうし、ラザレフ自身の立場も変わっている。私は2003年にはこの分野の音楽に十分な関心を払っていなかったし、比較めいたことを書くこともできない。しかし、この演奏を通じて見えたことはたくさんあり、その点について、なるべく詳細に書いていきたいと思う。

それに先立ち、前半のプログラムとしては同じ作曲家のピアノ協奏曲第2番が演奏された。これら2つの作品には隣り合った作品番号が振られて、作曲時期がきわめて近いものの、まったく異なる印象をもたれる場合が多いことだろう。繰り返しの要素が多く、ミニマル的な特徴を示す点や、革命歌の旋律らしきものが出てくる点はよく似ているが、ト短調で、悲しい歴史的事実を描いた重々しい交響曲と比べると、ヘ長調の協奏曲は息子マクシムの学生時代に寄せられたプライヴェットな事情のほかに、チャカチャカと動きまわる軽い構造や、旋律のゆたかな機動性、ジャズ的で自由なイディオムがまるで異質な感じを与えるのだ。

協奏曲の動的な要素に注目したバレエの、歴史的なコリオグラファーであるケネス・マクミランは同曲をそのまま用いて、『コンチェルト』として、1966年にベルリン・オペラ・バレエで初演した。裏話として、マクミランが赴任したばかりのこの時期のバレエ団はカンパニーとしての基礎がまったく整ってはおらず、クラシック・バレエがいかなるものかをダンサーたちに叩き込む目的で制作されたのだという。その事情を知ると、ほとんど融通の利かない細い旋律線をもつこの曲を、敢えてマクミランが選んだ理由も想像がつく。オーケストラの曲ならば、なんとなくダンサーにあわせることも可能だが、この作品のピアノの旋律は容赦なく、ダンサーたちを追いまわすことだろう。それかあらぬか、終楽章を踊るはずだった男性ダンサーが初演を前にして逃げ出してしまい、その伝統で第3楽章は女性ひとりが踊ることになったという話がある。マクミランはそうした動きに対して、機敏に精確に合わせられる技能をもったダンサーたちを育てたかったし、同時に、音楽への敬意を十分に払うことの大切さをダンサーたちに身を以て教えたかったのにちがいない。

演奏は独奏にイワン・ルージンを迎えてのものだが、彼にはそれほど際立った才能は感じなかった。私はこのピアニストの演奏については、2009年の浜松国際ピアノコンペティションの動画配信で耳にしたようで、短い感想をブログに残しているが、それほど良い印象ではなく、最近までその記憶もなかった。PTNAのレポートを読むと、当時からロシア本国ではそれなりに知られており、現在も音楽院で指導に当たっていることから、一種の正統派なのであろうが、この作品からハッとするアイディアを引き出すことはできなかった。

【2つの顔】

さて、交響曲第11番「1905年」であるが、これもピアノ協奏曲と同じ1957年に書かれた。スターリンが1953年に亡くなり、「雪解け」の雰囲気のなかで書かれた第11番であるにもかかわらず、またぞろ革命を記念する1905年がテーマになっており、その点でショスタコーヴィチの芸術家としての姿勢を問う声も大きい。交響曲第1番、第4番などの路線には戻らず、第12番も「1911年」をモティーフとして、引きつづきロシア赤色革命に関係するプロパガンダ的作品を、交響曲の分野で連続させたのはなぜか。いま、その答えを出そうとするわけではなく、ラザレフの表現が、そうした世界とはまったく無縁のアイロニーを投げかえていたことを表現できればと思っている。

ラザレフは日本以外では、現代音楽の可能性を積極的に確かめている指揮者である。そういう事実も踏まえて、チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」を杉並公会堂で取り上げたときの、彼の演説は忘れがたいものがある。彼はもうすこしチャイコフスキーが長生きしていたら、その後の現代音楽の発展はまた別の道を辿ったかもしれないと述べたのだ。例えば、シェーンベルクのエポック・メイキングな作品『5つの管弦楽曲』(op.16)が発表されたのは1909年なので、チャイコフスキーが生きていたとすれば、69歳ということになって、彼がこの作品に意見を申し述べることもできたはずなのだ。以下の作品の斬新さはいまや忘れられているが、チャイコフスキー、ラフマニノフ、スクリャービンといったラザレフの取り上げた歴代ロシアの巨匠たちは、ストラヴィンスキーやシェーンベルクのようにスキャンダラスには扱われなかったろうが、それでも同時代においては、現在ほど保守的な作曲家とは思われなかったにちがいない。このストリームのなかに、ラザレフはショスタコーヴィチを置いてみたのだ。すると、どうだろうか!

今回の公演で、ラザレフがこだわったのはショスタコーヴィチのもつ2つの顔だ。この作曲家について、よく出てくる「2枚舌」というキーワードもあるが、ここでやはり、「舌」というよりは「顔」というほうがしっくり来る。既にみてきたように、隣り合う2つの作品番号で、ショスタコーヴィチはまったく異なるものを書いた。ト短調とハ長調。暗さと明るさ。静的と動的。あらゆる点で、2つの作品は対照的である。しかし、ラザレフの鋭い対比は、それだけに止まらない。交響曲ではより多様な、「2つの顔」が作品を対位法的に律しているのである。それは冒頭から始まり、終結までずっと続いていた。あるところで、にゅっと2つのモティーフがアイロニカルにぶつかるのではない。それなら、「2枚舌」でもよい。しかし、ショスタコーヴィチは徹底的に、「2つの顔」をもつ響きを厳しく刻みつけていったのだ。ベートーベンでさえ、そうした作品は少ないのではなかろうか。

序奏の部分から、そうなのだ。この荘厳な響き、それに続く静穏で美しい響きは、幾重にも解釈ができる。朝の招集喇叭のような響きが鳴るが、時間軸的にも、情感的にも、ラザレフは簡単に実像をつかませない。例えば、ムラヴィンスキーの録音を聴くと、モノラルの、古いラジオから聞こえてくるような響きも相俟って、さらに神秘的な雰囲気を感じさせる。そこまではいかないものの、ラザレフは朝の「宮殿前」に満ちみちる独特の雰囲気をゆったりと語っている。トランペットの響きは厳しく半分の音量で抑えられており、これは金管奏者にとってはより難しい要求となるが、奏者は巧みにこなした。息を潜め、宮殿前をめざす人々の緊張感、そして、それを迎える警備兵の視線がぶつかる印象がハッキリと描かれている。喇叭は衛兵の交代や招集を告げる響きが遠くから聞こえてくるようにも感じられたし、また、あるいは市民の集結を静かに呼び掛ける眠りを覚ますような響きにも感じられた。

だが、最初からこの種の背中あわせのモティーフが強調的に進んだわけではない。まずは淡々と、意外な滑り出しが聴けたのである。ラザレフのこの日の演奏に感じた第一印象はある意味、彼らしくないともいえる、冷たげなものだった。この冷たさが、作曲時期の作曲家の心象風景を映し出しているとしても過言ではない。社会の「雪解け」も、ショスタコーヴィチのこころの「雪解け」をすぐに引き起こすものではない。スターリンが死んだら、すぐに元のモダーニズムや前衛主義に戻れるはずだというのは、後世からみた楽天的な主張にすぎないだろう。面白いことに、そうした楽天的なことはロシアというよりは、隣国のポーランドで先に起こったように見受けられる。ルトスワフスキやペンデレツキといった人たちが、ロシア人よりも先に「雪解け」後の創作的自由を謳歌したのは偶然ではないのだ。

第2楽章ではいよいよ「事件」が起こるが、これも意外なことに、ラザレフの音楽は描写的なリアリティをすこしも目指していないのである。それに代わって、彼が重視しているのは「2つの顔」であった。壮絶な虐殺の場面は、葬儀の際、フリアントやポルカといった明るい音楽を弾いて踊ったりしたというスラヴ人気質を反映し、人々が死体を恭しく踏みつけながら抗議の声を上げる有様を想像させた。単に殺される弱々しい存在として民衆を描くのではなく、仲間の死を受け止めながらも、自分たちの領分を守ろうとするエネルギッシュな集団として描いたラザレフの創意は文字通りに凄まじいものだ。悲しく透徹とした風景は木管楽器によって、ことさら丁寧に描かれる。壮絶な弦の咆哮と、金管と打楽器による荒々しい響きは二重の情熱、「2つの顔」に分けられて、厳しい対位法的手法に結びつけられていった。

第2楽章終盤のヤマ場では、これらの対比は修復不可能なレヴェルにまで上り詰め、激しい民衆の怒りと、彼らを殺すのがもはや喜びのように感じられる兵士の異常な精神として、非人間的な高揚を示すのである。こうした部分でも、ショスタコーヴィチは丁寧に対位法のブリッジを描いており、より巨大な表現を得るためには、こうした準備が不可欠であることを語っているかのようだ。後に述べるように、第3楽章までのショスタコーヴィチは凄絶な響きに至る過程を対位法でしっかり構築し、そのために繰り返しを意図的に用いている。

【繰り返しの意味】

この作品では、繰り返しはひとつの巨大なテーマだ。例えば、第2楽章冒頭の速いパッセージ(A)が、最後の楽章のコーダの、バス・クラリネットで始まる無窮動なパッセージ(B)に再現していること。だが、Aが破滅的な衝突に向かっていくのに対して、Bは途中まで同様の道を進みながらも、最終的に反転し、時代を後押しるかのようなメッセージに変わるというヴァリエーションがついている。この問題については、またあとで触れることになる。

さて、この繰り返しについて、作曲家の友人で、室内楽作品をオーケストラ用に編曲するなどした故ルドルフ・バルシャイは若干、詰まらなさそうな解釈を採っている。今でいえば、「コピー&ペースト」といえそうな要素を粛々と描き、バルシャイはそうした面を含めて、アイロニーの表出にすべてを賭け、ときには詰まらなさも辞さないショスタコーヴィチの実像を後世に伝えようと試みたと思われる。ラザレフ同様、生前はバルシャイも読響に客演して、ショスタコーヴィチの作品についての素晴らしい解釈をわが国で披露してくれたが、交響曲第10番や第5番、それに自らの編曲した室内交響曲などを好んで演奏したのには訳があったのだろう(もっとも生前のバルシャイは日本で、むしろマーラー全集の指揮者として人気を博した)。その点で、ラザレフは同じものに、まったく別の意味を見出していたのである。

【タイムマシーンに乗って】

ラザレフの演奏で、白眉はやはり第3楽章となる。民衆の啜り泣きが聴こえる低音弦の演奏は、先のトランペットに輪をかけた最弱奏で演奏された。まるで我々が縦長の広いホールに詰めかけて、中に入りきれず、遠くから微かに聴こえてくる響きに耳を澄ましているような感じだった。ラザレフは幾分、オーヴァーなアクションで振っていたが、やがて、ヴィオラが『同志は斃れた』を歌い始めるころ、客席のほうにも声を潜めろというような指示を出し始めた。2003年のときに、なにかパフォーマンスをしたらしいということを聞き知っていたが、それがこのことだということにはピンときた。ラザレフは我々がそのとき、死者を悼む場所に集った人たちであるように見做して、一芝居を打ったというわけである。革命歌の情感が高まるところで、ラザレフは自然に客席側を向いて、「静かに」と制する動きをとった。これによって、私たちはタイムマシーンに乗って、1905年に降り立つことができたのだ。

私はそれまでの虐殺の場面では、同じようにタイムマシーンに乗ったような雰囲気を味わうことができなかった。いま、この第3楽章で、初めて、その気分になったのである。これは多分、ラザレフの術中に完全に嵌まってしまった結果である。しかし、よく考えてみれば、私たちは自分たちのやってもいないことで、指揮者に注意を受けたわけだ。たしか2回も!これもまた、2つの顔をつくる巧みなパフォーマンスであった。この感覚は、ショスタコーヴィチがその人生のなかで何度も味わい、また、彼が亡くなってからも、世間から受けつづけた仕打ちである。例えば、作曲家の藤倉大はこの時代でも、ショスタコーヴィチが嫌いだと明言し、彼がいてもいなくても、後世の音楽に何の変化もなかったであろうと公言している。無論、そんなはずはないのだ。藤倉はラザレフの下で、みっちり学んだほうがよい。しかし、この発言によって、音楽の知識層の間では、つまり、作曲家や音楽学者、前衛性を重視する演奏家たちの間で、ショスタコーヴィチがどれほど惨めに言われているのかを知ることができるだろう。

その反論のひとつは、第3楽章から第4楽章への急速な飛躍でいうことができる。再び我々はタイムマシーンに乗り、新しい時代にやってきた。それは、我々にとっての現在かもしれない。あるいは、ショスタコーヴィチにとっての「現在」、つまり1957年かもしれない。鮮やかな主題演奏『圧政者たちよ、激怒せよ』が響くなかで始まり、『ワルシャワ労働歌』により最後の対位法的場面が繰り広げられる。だが、これによる高揚をラザレフはそれまでのように漸進的なものとせず、大事なところでグッとベースが上がるという、それまでとはちがう体験が聴き手を襲うようにした。しかも、その壮麗な迫力にもかかわらず、全編のなかの最高潮ではなかったのだ。

長大なイングリッシュ・ホルンのソロは、素直に美しい。だが、それとコーダのバス・クラリネットを背中合わせに位置づけ、最後のシーケンスが雄弁に物語られた。これは前述のように第2楽章のデジャヴであるものの、より腹の底から響く地獄の描写に聴こえる。ショスタコーヴィチはこうして、また同じ過ちが繰り返していると告発したのだ。それが具体的に、作曲当時の「ハンガリー動乱」のことを指すという証拠はない、ということはプログラムに記載があった。いずれにしても、ショスタコーヴィチは虐殺のモチーフを導く動的なモティーフを、最後にもういちど再現させた。「怒りの日」だ。しかし、この悲劇的なフィナーレは同時に、相当な明るさを伴っている。最後の最後で、ピアノ協奏曲第2番で接したイメージが甦ってくるのだ。「アグヌス・デイ」。そして、そのとき、私たちはさらにもうひとつのメッセージに気づく仕組みになっていた。またも、タイム・マシーンに乗って!

【まとめ】

ラザレフは、忘れていない。2011年3月11日、彼がどこにいたのかを。あれから4年が経ったが、その3月に、彼がこの演目を演奏するということには、どうやら意味があったようである。1905年の「血の日曜日」はロシア史上に残る悲劇のひとつであり、革命の導火線となった重大な事件である。その悲劇から終結の壮麗な響きに至る逆転現象によって、ラザレフはあの地震と津波から立ち直ろうとする(ラザレフは、未だに被災地の生活再建の多くが進んでいない事実を知らないだろう)日本人へのメッセージとしたのである。そのメッセージこそが、正に最高潮だった。多分、ラザレフはこの作品を、ショスタコーヴィチの作品のなかでも特別なものと見做している。プロパガンダという見方はしていないし、繰り返しの多いつまらない作品とも見做さない。彼はこの作品を過去と現在、そして未来をつなぐ傑作として演奏しているのだ。だからこそ、そうした作品を彼の大事な日本に捧げることが相応しいと考えた。彼のこころがわかると、私は深い感謝の念に包まれた。

また、ラザレフのような丹念な歌い方をされると、「革命歌」という一見、政治的なものが当時の社会において、先日の朝崎郁恵さんによる奄美の唄のように、自然な情感を豊富に備えたものであったという事実にも驚いた。第3楽章でラザレフに歌を制されたときに、私はかえって、知らないはずの歌をうたおうとして身構えたものだ。この歌には、そういう雰囲気がある。猛るこころを鎮めてくれたのはラザレフの指示というよりは、ヴィオラのささやかな響きだった。「ヴィオラ、それはにんげんを奏でる楽器だ」というヴィオラスペースの標語を思い出す。あの第3楽章の密やかな響きは、ヴァンスカ&ラハティ響のとき以来の美しさだった。当時、ヴァンスカは誇らしげに語っていたが、ああしたものを出すためには相応の練習が必要だという証言がある。けれども、ラザレフと日フィルにそこまでの時間はなかったであろう。それゆえに、むしろ日フィルがどれほど必死の想いを費やしてあの響きを得たかということを思うと、想像を絶するものがあるのだ。

両者の相思相愛の関係は、もはや誰の目にも明らかである。その関係が生み出した、特別な成功に酔った。

【プログラム】 2015年3月20日

1、ショスタコーヴィチ ピアノ協奏曲第2番
 (pf:イワン・ルージン)
2、ショスタコーヴィチ 交響曲第11番「1905年」

 コンサートマスター:木野 雅之

 於:サントリーホール

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