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2015年3月18日 (水)

エウローパ・ガランテ ヴィヴァルディ二題 歌劇『メッセニアの神託』 / 協奏曲集「四季」とオペラ・アリア(with ヴィヴィカ・ジュノー Ms) @東京オペラシティ 3/1、3

【ヴィヴァルディ~オペラ・クラシックの開祖】

2006年の来日で、ファビオ・ビオンディ&エウローパ・ガランテと歌手たちが披露した『バヤゼット』の公演は語りぐさになっている。前年に来日したアンドレア・マルコンのヴェニス・バロック・オーケストラが披露したパスティッチョ・セレナータ作品『アンドロメダ・リベラータ』とともに、ヴィヴァルディの真実に近づくプログラムと、技術の高いベルカント歌手陣によるアジリタの素晴らしさが特に話題になったと記憶する。また、これらの公演で用いられた「パスティッチョ」という言葉も一定の認知度を得たと思う。パスティッチョとはヴィヴァルディがいわばプロデューサーとなって、自らの作品以外に、同時代のライバルたちの作品をも組み込んで織り上げた継ぎ接ぎの作品のことを指す。当時、オペラの曲は基本的に使い捨てとなっており、仮に保存に値するような高度な内容を含んだものであっても、なかなか後から省みられる機会がなかった。「継ぎ接ぎ」というとネガティヴなイメージしかないだろうが、ヴィヴァルディはそうした作品の価値に気づき、ところどころ自らの作品と入れ替えたり、自分なりに編曲したりして用いていたわけで、いわば、オペラにおける「クラシック」の先駆けだったといえるだろう。

クラシックとは過去に対するリスペクトであり、伝統の継承であり、横のつながりや比較、切磋琢磨から、それを発展させていく手段である。また、クラシックはその時代の文化や、時代の様相といったものとふかく関係する。例えば、ドヴォルザークやヤナーチェクといったチェコ音楽を愛する人たちは、詩人のエルベンとか、小説や評論のクンデラ、それにカフカの文学作品を好んでいることも多く、絵画はミュシャ、写真はクーデルカといったように、その国の文化全般にひろく敬意を払っている場合が多い。特に日本では現実的な必要性がないにもかかわらず、教養として言語を勉強する人が多いと言われている。いまの例でいっても、チェコの文化を本当の意味で十分、味わうためには言語の助けがどうしても必要になってくるというわけである。また政治的にも、チェコ音楽の好きな人などはその時代、抑圧された民族が自らのアイデンティティを求めて闘いを挑んでいくような、そんな文化に憧れをもっていることも少なくないことが推察される。政治から民族、文化にわたる時代的、綜合的なリスペクトの在り方として、「クラシック」の考え方は存在するのである。

そのような意味で、ヴィヴァルディは正に、自分たちが物凄い時代と地域に住んでいることを意識した最初のひとりだったように思われる。自分以外にも、ジャコメッリ、ハッセ、ポルポラといった名士が、フィレンツェやヴェニス、ミラノ、ナポリ、フランス、神聖ローマ帝国、それに英国など、つまり、当時の「世界」を股にかけていた。同時期に英国で勢力を誇っていたのは、ヘンデルである。フランスにはリュリにつづき、ラモーが君臨した。イタリアの場合は、群雄割拠である。面白いことに、名プロデューサーのヴィヴァルディ氏は、いわば自分の作風を凌駕しようとする勢力にも同時に敬意を払い、パスティッチョではヴェネツィア派とナポリ派のアリアが混じり合っていることも多い。ヴィヴァルディのアリアは技巧的で、当時のカストラート文化などをつよく感じさせる。肉体と精神という文脈でみると、いわば肉体的なものであり、ジャコメッリを中心とするナポリ派のアリアは精神的に根深く、人間的だ。ヴィヴァルディはもちろん、自分たちの音楽に確信をもっていたろうが、肉体か精神かというよりは、その両方を以てイタリアを語ることを選んだのかもしれない。晩年のヴィヴァルディはそんなパッケージを用意して、ウィーンの神聖ローマ帝カールⅥのもとを目指した。

【メッセニアの神託】

常に彼らの「最新」をもちこんでくれるエウローパ・ガランテが今回、来日の演目に選んだのはそういう作品であった。ヴィヴァルディ編纂によるオペラ・パスティッチョ『メッセニアの神託』。欧州では何度かの公演を行ってきているものの、それらは演奏会形式であり、演出付きとしてはこれが世界初演となる特別の舞台となった。後日、ビオンディが言っていたように、彼ら自身にとってもアメージングな体験になったようである。演出は声楽家でもある弥勒忠史が担当し、能楽に範をとった独特のスタイルにも話題性があったが、稽古は当初から2日だけの予定という強行軍だったようだ。

オペラの舞台「メッセニア」は古代ギリシア・ポリスのひとつで、隣国に強国のスパルタがあることで、歴史にもまれた。古代ギリシア都市国家の興亡は、近世イタリア都市国家の興亡と似たような雰囲気をもっている。しかし、差し当たって歴史的な背景は上演にとって重要ではない。だが、ヴィヴァルディの作曲した時代と、弥勒の考えた時代背景・・・平和によって文化の爛熟がもたらされた江戸時代というよりは、安土・桃山風の質素な佇まいをもつ舞台は・・・よくマッチし、ヴィジュアル的にはむしろスーパー歌舞伎的な現代風なところさえあったが、古さと新しさの調和がよくとれた舞台には仕上がっている。時間はなかったが、そのなかで望み得る最高のものが手に入ったのだ。

筋書きは、いまは暴君として君臨するポリフォンテのクーデターにより、生き別れになった女王メロペと王子エピーティデの関係がほんの些細なボタンの掛け違えから狂ってしまい、暴君の謀略によって妨げられながらも、なんとか王権を回復するに至るまでの流れを追っている。祖国から追われ、名前を変えて潜伏するエピーティデ王子の境遇は諸地方をまわって名声を集めながらも、最後は地元での支持を失ったヴィヴァルディの境遇と重なり、底本になっているのはジャコメッリの『メロペ』であるようだが、ヴィヴァルディ作品では、これが事実上の主役となっているようにみえた。母子の関係はしばしば聖母子の関係になぞらえられるが、ときにその関係は反対となり(母の身の上を子が嘆くなど)、一筋縄ではいかないヴィヴァルディの芸術的なアイディアを感じさせるだろう。

【裏の裏を読む】

作品の本質を示すのは、終盤に歌われるエピーティデのアリアだ(後日のリサイタルでもアンコールされた)。ここで母親のメロペは、クレオンこと実子のエピーティデのことを疑っており、エピーティデの恋人で事情を知るはずのエルミーラも、怒りに燃えるメロペを刺激しないように、真実に口を閉ざしている。花嫁、そして、母親に呼び掛けながら、どのアリアも判で押したように4回ずつ繰り返されたように、このアリアでもニュアンスを変えて4回、エピーティデは真実を訴えかけるものの、それは2人に届かない。本来は信じ合い、愛し合わねばならない者どうしが背きあうという、強烈な矛盾に満ちたアリアは作品を象徴するものであり、同時に現代的なテーマでもあるが、ナポリ派のジャコメッリの作となっている。2人は間違いを犯したことになるが、外国使節のリチスコが大臣のトランシメーデを説得して処刑を止めたことで、エピーティデは助かり、王権が元に戻って大団円を迎える。

結果はそうなのだが、2人は一体、どうすれば、自らの力でエピーティデと和解することができたのであろうか。ここに、ヴィヴァルディの仕込んだ真実のメッセージがあるように思えてならない。それは、人間がそれぞれにもっている真実の裏の裏を読むことだ。

例えば、第1幕でメロペは鋭くクレオンのいう嘘を見破り、裏を読んだが、その裏にある母親への思いやりまでは読むことができなかった。そのことに対しては、悪役に対していうこともできる。クーデターの実行犯で、ポリフォンテの手先であるアナッサンドロは途中まで、権力と栄誉に固執する奴隷にすぎないが、さらに、その裏にある悔悛への願いが作品全体を大団円に結びつけることになっている。途中まで「イスカリオテのユダ」の役割を果たすアナッサンドロも赦されて、神の威光はあまねく広がるのだ。アナッサンドロが死一等を減じられ、生きたまま放免されるのは作品をみて大きな驚きだったが、これは当時は尚更、大きな波紋を投げかけたにちがいない。

今回の公演では当初、カウンター・テノールがクレジットされ、のちにメゾ・ソプラノのマルティナ・ベッリに交代したが、この役を女性が演じるのはむしろ、役柄のリアリティを高めてくれることだろう。なぜなら、このアナッサンドロは相手がどんなワルであろうと構わない、オトコの愛人のような感じで描かれており、王を惨殺することから男性として設定されているものの、本来は女性的にポリフォンテと密着的な関係だからである。

悪役中の悪役であるポリフォンテだが、これも基本的には明るくコミカルな造形となっている。彼の罪は罪として、もしもメロペが10年も待ったポリフォンテの愛情を受け入れていれば、問題は起こらなかったかもしれない。作品のモティーフは徐々にずれて、だんだんと母子関係が中心に描かれるようになっていくが、当初はどうしても先王殺害事件に納得のいかないメロペと、権力と愛情の両面からメロペに迫るポリフォンテによる、激しい復讐劇という様相を呈していた。そこがなければ、最後にポリフォンテがメロペを唆し、実子を殺させようとする執念が理解できないはずだ。私のみるところ、ポリフォンテは場面を追うごとに悪魔に浸食されていくように凶暴さを増していくものの、半ばまでは可愛げのあるドン・ジョヴァンニ的暴君である。その特徴は第2幕でもまだ変わらず、怪物退治をした者にエルミーラを与えると宣言する場面では、一見、邪悪な暗い意図を歌っているにもかかわらず、その結果がエルミーラとエピーティデの結婚を意味しているのは明らかであることから、思わず微笑ましくなってしまうのである。

第3幕ではそのような楽天的な特徴が徐々に消えて、本当の暴君になってしまう。しかし、ヴィヴァルディの視点では、このポリフォンテにさえ、まだ救いようがあったという感じも残っており、その可能性がほぼ消えて決定的な変化が訪れるのは、アナッサンドロからクレオンの正体を聞いたときのことだと思う。弥勒はポリフォンテの身体に雲をまとうような白い、膨らみのある衣裳を着せ、それは雲に変身したギリシア最高神のユピテルを思わせる。しばしば、彼が本音を漏らすときには、それを脱いで野武士のような格好になるようにしていた。この公演で唯一の男声で、きわめて長身であったマグヌス・スタヴランの印象は強い。

【衣裳について】

衣裳について、ここで触れるとするなら、全体的には黒を基調とした武士の風体である。プログラム解説に触れられている点は、ここでは繰り返さないが、幕が開いて、エピーティデが入ってきて神託を聞きにきた王の一行を見つけ、第一声で「なんだ、これは?」というような台詞が語られるのは観客全員の想いを代弁している。精確には、武士というよりは忍びの印象を与えた。序盤はこれが滑稽で、しばらく違和感をもって見ていたが、徐々に馴染んでくる。劇のなかでは裏を読み合うような心理劇が繰り広げられるため、武士というよりは、忍びの世界のほうがより相応しいかもしれない。最初にプロフォンテのまとっている白が王者の権威を表し、最後の場面ではエピーティデが上半身を白に変えて登場する仕組みだった。

【歌手と歌唱様式の問題】

声楽的にはプロフォンテとエピーティデは、ナポリ派の書法を中心に書かれていると思う。この点からもプロフォンテの人間的な造形がよくわかるだろうし、エピーティデに関しては技巧よりも、情感の表現が大事になってくることは疑えない。これら2人の絡みは皆無ではないものの、直接、正面からぶつかり合うようなことはなかった。まずプロフォンテが周囲に秋波を送り、それに影響されたメロペやエルミーラなどとの関係が生じるのみである。今回、エピーティデ役のヴィヴィカ・ジュノーが目玉になっているものの、終幕のアリアまでは彼(女)のもつ真の魅力は隠されている。そして、声楽的に見事なナンバーはどちらかというとメロペと脇役に集中し、とりわけ、大臣のトランシメーデが歌う2つのアリアは、ヴィヴァルディの最盛期を思わせる圧倒的な技巧が長くつづく派手なものだ。そこを歌うユリア・レジネーヴァは十分、見事に歌ったものの、前回のジュノーと比べれば、まだポジションが浅く、口先だけで転がしている部分も多かった。

歌手陣ではジュノーが我慢のパフォーマンスで、「能ある鷹は爪を隠す」という状態だったが、それ以外の歌手も自身の到達点において、最高のパフォーマンスをしている。個人的にもっとも素晴らしいパフォーマンスと思えたのは、メロペ役のノルウェー人、マリアンヌ・ベアテ・キーランドだ。派手な見せ場はさほどないものの、堅実なアジリタが要求される場面があり、そうした部分も軽くこなしているし、優雅で余裕のある歌のスタイルを誇り、女王の風格も十分だ。キーランドや、アナッサンドロ役のベッリは、同グループによるこの演目の録音に起用されていないものの、ビオンディのスタヴァンゲル響(ノルウェー)での活動で見出された人材と思われる(ベッリは同響の欧州ツアーに参加したことがバイオに記載有)。このキーランドに始まり、イタリアのアンサンブル「エウローパ・ガランテ」ながら、歌手陣の国籍はバラバラだ。イタリア・ベルカントを基礎に置く歌手どうしでも、その背景にちがいがあれば、歌手の個性にも広がりが出る点は面白かった。

例えば、フランツィスカ・ゴットヴァルトは技巧的には相当甘いが、立ち姿が美しく、ドイツ人らしく、演技的な面でひとつ抜けたものをもっている。その特徴を利用したというわけでもあるまいが、彼女の終幕の見せ場では、弥勒が一知恵を凝らしていた。すなわち、樹木の描かれた背景に影が映ることで、この幕全体を象徴する言葉と存在の二重性が雄弁に語られるのだ。リチスコが屈み込んでしまったとき、照明を回転させて上下が反転して映るようにすると、背景の木に不思議な膨らみが映り、その印象は深められた。この印象(照明)は再び立ち上がったときに反転しなおされ、もういちど確かめられることになる。やがて、リチスコはトリックの外に出いくのであった。

思い返してみれば、ダニエラ・バルチェッローナを目玉とした前回の『バヤゼット』のときだって、歌手陣は全員の完成度が高いわけではなかった。しかし、ビオンディは確実に、将来のある歌手を選んで連れてきている。例えば、前回も出演したマリーナ・デ・リソは、エルミーラ役で再出演した。ロングトーンの多い不思議な役回りを、清楚な声と、高貴ながらも親しみを感じるやさしい歌声で印象づけた。今回、ビオンディが期待をこめて連れてきたのは、マルティナ・ベッリだろう。まだ内にこもる声質だが、ジュノーとすこし重なるところがあり、壁を突き破れば、今回、彼女がやったような役をしっかりこなせるようになれるはずだ。ビオンディはこうした公演でも、只今の完成度を最大化するだけではなく、将来に向けた可能性を追求することも忘れない。そういうアンサンブルだからこそ、長く充実した活動が可能なのである。

バロック・オペラにおいて、本当のところ、いちばんの魅力はレチタティーボの部分にある。その面では、どの歌手も水準以上の味わいをみせてくれるが、それを上手に肉付けするのが、コンティヌオの役割だ。チェンバロ、そして、テオルッボに対する終演後の賞賛は一方ならぬものだった。例えば、トランシメーデの最初の超絶的なアリアの直前では、テオルッボが重要な役割を果たしており、アリアに入ると目立たなくなるが、最後のほうでチラッとそれが浮かび上がる部分は絵も言われぬ鮮やかな印象を残す。私はその部分だけで、このテオルッボの得難い存在感にひれ伏すのだ。これは、ジャンジャコモ・ピナルディという奏者だ。こうした部分は、なんといってもライヴならではの魅力である。

【神の平和】

筋書きからいっても、行き詰まる展開が多い作品だが、どのような場面においても、ベースとなる音楽はきわめて明るめにとられている。エウローパ・ガランテの演奏の著しい特徴のひとつは、これである。邪悪な意図を吐露する場合でも、苦しみの表現でも、いつも典雅で明朗な響きとともに在る。それは多分、人間界のあらゆる行いがいかなる苦難のなかにあっても、神の威光とともに在ることを物語っているにちがいない。今回の舞台は以前の『バヤゼット』のときにも増して、ヴィヴァルディの実像に迫った公演である。多くのバロック作曲家と同じように、彼もまた、平和をひとつのテーマとしていた。暴君が倒され、エピーティデとエルミーラが・・・すなわち2つの国の王子と王女が結びつく様子は神の平和の象徴として考えられるが、あるいはカールⅥがかつて、ドイツ側ハプスブルク帝国に加えて、断絶したスペイン・ハプスブルク領を継承する可能性もあったことへのオマージュだったかもしれない。

神の平和にはもちろん、音楽的思潮の統一も含まれていたし、それがヴィヴァルディにとっては死活の問題だったことも否めないだろう。ヴィヴァルディ自身の音楽性は保守的な性格を示しているものの、ナポリ派の表現の特長も鋭く捉え、それを作品のもっとも重要なところから動かさなかった。彼には音楽における戦争を仕掛けるよりは、オール・イタリアでオペラの新しい進境を開くというほうにより大きな関心があったのかもしれない。モンテヴェルディ以来、イタリアには豊穣なオペラの土壌が育っていたが、ヴィヴァルディはその優位性を生かすためにも、ヴェネツィアとナポリで都市戦争を繰り広げている場合ではないと思えたのだ。最初に述べたようなクラシックの考え方からいっても、ヴィヴァルディはモンテヴェルディのあと、ロッシーニとの間に記されるべき重要な1頁であることは明らかである。これに代えて、ペルゴレージ、パイジェッロ、ケルビーニらの、最近はよく知られるようになった名前を書き入れてみても、いずれも大きな違和感がある。

もっとも今回の公演でわかったことのひとつには、これらの名前や、ジャコメッリ、ハッセ、ポルポラなどといった名前も、その知名度の差と比してみれば、ヴィヴァルディと決定的な差はないということもあった。しかし、これらの作曲家とヴィヴァルディの間に、決定的に異なる点があるとするなら、様式や価値観のちがいを越えてひとつになれるという思想的スケールの大きさが問題になる。このような「クラシック」の観点でいえば、最近、メンデルスゾーンのバッハに対する再評価が話題になることが多い。その功績も歴史的なものではあるものの、ヴィヴァルディの場合は、もうひとつスケールが大きい。彼は過去ではなく、未来から発想したからだ。ヴィヴァルディがいたから、のちのイタリアのオペラもあった・・・そのようにいうことは誇張ではないのである。ビオンディはこうしたヴィヴァルディの主義に、芯から頷いている音楽家であることは疑いもない。それは先に示したような、歌手の選択からも分かることだろう!

【四季は再生の物語】

プロの音楽家や学者でも、まだヴィヴァルディに対する評価は低い場合がある。これはインターネット討論を通してのことだが、ある教養も経験もゆたからしい氏がヴィヴァルディを評して言ったことには、彼は単純でつまらないことしかしていないから、わかりやすいということであった。そういうイメージを、私もある程度は共有していた。だが、知れば知るほど、そのような評価が一面的なものにすぎないことを思い知るのだ。それはこのような複雑なパスティッチョ作品を前にしては尚更のことだが、後日、『四季』を聴くだけでもよくわかったことだ。ソロ・ヴァイオリニストとしてのビオンディは残念ながら、この演目でよく音程を外したが、そのことを除けば、演奏はアメージングな体験だった。これまで、これほど劇的で、表情ゆたかな演奏に接したことはなかったのである。

しかも、『四季』は再生の物語だった。この演奏会を思い出せば、オペラ序曲のあと、ジュノーが登場して最初に歌ったのが『スターバト・マーテル』だったことを思い出す。作品のモティーフは、オペラとふかく関係している。抑制した雰囲気で、じっくり粘りづよく歌うスタイルまで共通していたし、それはもちろん、意図的なものだ。このような作品はあるものの、「紅毛の司祭」とよく言われる、彼の音楽に込められた宗教的なメッセージはさほど強調的に扱われることがなかった。しかし、季節は巡る『四季』のなかにも、あらゆるレヴェルで素材が再生を繰り返し、特に夏のモティーフと、冬の最後のモティーフで劇的に復活が示される。私はアンゲロプーロスの映画が好きで、中期以降の彼としばしばコンビを組んだエレニ・カラインドルーの音楽にも驚嘆するが、この作品を聴いていると、エレニの作風を思い出すのだ。長く、重いドローンのなかで描かれる静的なドラマ。短く象徴的な旋律の交錯。カラインドルーが、ヴィヴァルディの影響下にあるのは明らかだった。エレニが描く究極の音楽は・・つまりは、アンゲロプーロス映画の永遠の課題は平和と和解である。その象徴として、再生の手法が用いられている。これも、ヴィヴァルディと同じだ。

この演奏会で、ジュノーはアンコールを含めて4曲を歌ったが、すべてがちがうスタイルである。『スターバト・マーテル』では声を抑え、小さなアジリタをときどき挟みながら、粘りづよく歌う。宗教曲は彼女にとって必ずしも得意な分野ではなさそうだが、この静かなアジリタにはゾクッとくるものがある。盛期ヴィヴァルディの作品からは、彼女のイメージに相応しい超絶技巧が飛び出す。オペラの見せ場は意図的に限られているが、こうしてみると、やはりレジネーヴァとは声の深さが異なっている。ただ、彼女のような特別な歌い手であっても、それぞれの曲の前には深呼吸をして、祈るように歌い始める。神さまが背中を押してくれなければ、こうした演目をうたう勇気も湧いてこないのにちがいない。超絶技巧2曲もそれぞれにやや味わいが異なり、1曲目のほうが重厚で、情感がふかい。そして、『メッセニアの神託』のアリアは超絶技巧は目立たないものの、ふかい情感を再び芳醇に味わわせてくれるものだった。

2つのコンサートを通じて、私はまたちょっとだけ賢くなった気がする。ヴィヴァルディがイタリア・オペラ界のクラシック的な文化をほぼ初めて形成したこと、その時代が正に綺羅星の多いエキサイティングなものだったこと、中心星ヴィヴァルディの音楽はやはり宗教的な意味が深いことなどである。一方、フランスに目をやれば、こちらはまたこちらで異なる文化があり、リュリやラモーが席捲しているわけだ。やがて、ナポリからスペインに、スカルラッティ父子が渡る。英国ではまたまたちがう文化があり、パーセル、そして、ヘンデルが独自の活動を展開するのである・・・。

【プログラムⅠ】 2015年3月1日

1、ヴィヴァルディ 歌劇(パスティッチョ)『メッセニアの神託』

 演出:弥勒 忠史

 於:神奈川県立音楽堂

【プログラムⅡ】 2015年 3月3日

1、ヴィヴァルディ シンフォニア~歌劇『テルモドンテに向かうヘラクレス』 
2、ヴィヴァルディ アリア「残酷な運命に打ちひしがれた魂は」~歌劇『忠実なニンフ』
3、ヴィヴァルディ アリア「2つの風にかき乱され」~歌劇『アテナイの人びと』
4、ヴィヴァルディ ヴァイオリン協奏曲集「四季」

 於:東京オペラシティ(タケミツホール)

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