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2015年4月 5日 (日)

ポンマー バッハ 管弦楽組曲 第1番ー第4番 新日本フィル 多摩定期 3/29

【古典派での個性を育てよ】

新日本フィル(NJP)が歩んできた、ここ10年ほどの歴史の到達点に今回の公演があったといっても、私は過言ではないと思う。バッハを演奏する大家はしばしば、ほぼバッハだけを演奏するということが少なくないが、なぜそのようなことが起こるのか、ポンマーの今回の演奏を聴いて、初めて合点がいったような気がするのだ。ポンマーの視点からみれば、マーラーやブルックナーのような肥大化した音楽さえも、バッハの音楽がもつ雄大なスケールには遠く及ばないのである。

NJPや東響はこの分野で、他のオーケストラから十分に差別化を図れているにもかかわらず、その素晴らしさに当人たちはあまり気づいていないという気がしてならない。もしも彼らが規模の大きなモダン・オーケストラとして、バッハ、ハイドン、モーツァルトと、そこと関連する作品だけをある期間、重点的に演奏すると決断したならば、そこから生じる成果は、きっと従来よりも大きなインパクトをわが国の楽壇にもたらすにちがいない。

都響、日フィルが競うようにマーラー・ツィクルスを組んでいるように、マーラー、ブルックナー、ショスタコーヴィチなどの大曲を立派に演奏し、ときにはワーグナーを中心とするオペラにも取り組んで、それなりの成果を挙げるぐらいしなければ、メディアにも、聴き手にも振り向いてもらえないというのは仕方のない事情だ。しかし、東京に9つもプロ・オーケストラがあるなら、それらのうちの1つや2つが、まったく別の方向性を貫くのも意味のあるところであろう。NJPと東響だけは、ブリュッヘンやスダーンといった特別の教養と実践力を有したキャラクターを通じて、ハイドンやベートーベン、あるいはシューベルトといった古典的な曲目を近年、まとめて取り上げてきた実績をもっている。NJPにとっては昨年、惜しまれつつ世を去ったフランス・ブリュッヘンとの共同作業を通じて、ハイドン、ベートーベンのツィクルスをまわした時期が、楽団の未来をもっとも明るく開いたと言えるだろう。ブリュッヘンはボッセ、ハウシルト、ハーディング、そして、(かつての)音楽監督であったアルミンクらがこの分野で丁寧に耕してきたものに、見事な実をつけることに成功した。

【都会的バッハの壮大さと新しさ】

ブリュッヘンというと、同じピリオド派のなかでも一風変わったキャラクターの持ち主であり、古いものを古いままに残すというよりは、それを新しい時代の感覚に照らして料理しなおしたうえで、ハイブリッド化させて生まれ変わらせるという発想をもっていたように思われる。彼の試みを美しくみせるためには、その当時の音楽を律していた厳格なルールを守ることが欠かせない。つまり、ブリュッヘンの言っていたルールが、ショパンの左手のような役割を果たすことは、誰からもあまり指摘されていないような気がする。ポンマーはそれと比べれば、古いものを古いままで、いかに美しく光り輝かせることができるかという道を追求している人だ。この日のバッハの管弦楽組曲4曲の演奏は、その可能性がいかに巨大なものであるかということを如実に物語るものだった。私は『マタイ受難曲』や『ヨハネ受難曲』、それに『ミサ曲ロ短調』のような合唱を伴う壮大な宗教曲を別にすれば、バッハの作品がこれほど豪勢で、贅を尽くした響きをもっているということを知らなかった。

バッハ自身はプロテスタント(ルッター派)の信仰をもち、それゆえに、バッハを専門とする団体が質朴でコンパクトな演奏をしようとする傾向があることも、その理由のひとつではあるかもしれない。確かに、バッハの勤めたライプツィヒの聖トーマス教会はその名声にもかかわらず、華美な装飾はなく、質素な内観をしているようだ。だが、そこには私たちが教科書的に知っている事実とは、まったくちがう現実もあるにちがいない。「聖書に帰れ」を合言葉に、ローマ教会の瀟洒な振る舞いを戒めた流派であっても、信仰を支える精神までが狭小なものになってしまっては元も子もないであろう。ポンマーが教えるのは、質素(プリミティヴ)であることの本当の意味だ。それは精神のゆたかさであり、表面よりも内側を鍛えることの謂いであって、この世の成功や名声を誇るのではなく、神の真実をどれだけ豊かに、宇宙的に拡大できるかということをめぐる崇高な知恵のことなのである。

管弦楽組曲の編成は、今日でいう「室内オーケストラ」・・・あるいはより直截に、「室内楽」の編成ということができるだろう。4番までの編成をみると、弦楽五部と通奏低音(チェンバロ)のほかは、ファゴット、オーボエ、トランペットとティンパニがあるのみで、もちろん、歴史の浅いクラリネットはなく、古い楽器でも、2番の独奏部を除くフルート(フラウト・トラヴェルソ)や、ホルン、トロンボーン(サクバット)なども含まれていない。ここから推測できることはいくつかあるが、その代表的な問題はトロンボーンの不使用によって説明ができると思われる。つまり、この神聖にして、しばしば死を連想させる楽器は世俗的な作品においては忌避される傾向があったということである。青澤隆明氏はこの日のプログラム誌の解説のなかで、管弦楽組曲が「民衆の近くに生きる音楽だった」として、バッハが聖トーマス教会のカントール時代には学生を中心とする演奏団体を指揮して、「世俗音楽の活動に情熱を傾けた」ことを指摘している。

バッハの宗教曲から、私たちは草以外は何もないような野っぱらに羊が放牧されているような風景しか想像しないが、こうしたバッハの音楽が「コーヒーハウスや戸外で披露された可能性が高く」「街なかに咲いた音楽である」とすれば、また見方も変わってくるというものだ。編成が小さいことも、それなら当然のことだし、なるほど、第3番や第4番の響きは明るく、ときに近代的な街並みをも想像させる。ところが、そのような街並みが突然、偉大な息に吹き消されるようにして原始時代に戻ってしまうあたりに、私は無限の新しさを感じた。

【独特のリズム的特徴】

また、ポンマーの演奏によって感じる内面的な特徴のひとつは、どのナンバーにおいても、響きの明朗さが際立っているという事実にあった。例えば、第3番の第2楽章は「G線上のアリア」として有名なエールで、2011年の震災直後の半年あまりの間には、多くの団体が追悼の音楽として献奏したものだ。しかし、アタマをしっかりと打たず、ややぼかしたあとに、「もぐら叩き」のもぐらを引っ込みざまに鋭く打つようなリズムが印象ぶかいポンマーのスタイルは、エールの繊細な旋律が示すメランコリックな特徴(のちに編曲者がこれを殊更に強調)よりは、その均整ある構造により示された優雅な特徴を活き活きと物語っていた。

なお、いま申し述べたリズム的な特徴は、エールよりもテンポの速い曲でより顕著に特徴づけられて演奏され、舞踊の種類を問わず、4曲を通じて、このフォルムが概ね全体を律していたように思われる。

【室内楽】

この演奏会は、両端に3番と4番を配して輝かしく、壮大な響きで盛り上げ、真ん中に2番と1番を挟んで、こちらはやや淡泊な、内省的な特徴が読み取れるようなものだった。2番はベテランの楽団首席フルート奏者、白尾彰が独奏に立ち、誠実この上なく、素朴で虚飾を排した柔らかい演奏で聴き手を魅了した。この曲では独奏フルートとともに、オーケストラ・リーダー(コンサートマスター)の弾くヴァイオリンがもう1本の柱に選ばれているが、崔文珠は他の曲での落ち着いたパフォーマンスに比して、この曲ではあまりに張りきりすぎたきらいがあり、バランスを乱す・・・というと言いすぎだが、もうすこし抑えたほうが雰囲気が出そうな場面がいくつかあった。

バッハの管弦楽組曲は、曲によって主役の選び方が異なるものの、トリオ・ソナタの伝統を踏まえ、概ね2つのソリスティックな楽器と通奏低音を、全体が支える構造が明瞭であった。こうしたなか、3番と4番が特に華やかに聴こえるのは、トランペットとティンパニが楽曲の推進役として活き活きと活躍するせいである。一方、2番や1番には金管楽器はなく、2番では独奏フルートとヴァイオリン、1番ではオーボエとファゴットに、それぞれ通奏低音(チェンバロ)が手助けをして、フォルムが紡がれていく構造だ。扇の要となるチェンバロには、客演で辰巳美納子が加わり、これは私の陣取った1列目ではよく聴こえ、オーケストラの響きに自然に寄り添ったパフォーマンスで好演であったと思う。不勉強にもあまり存じ上げない名前だったが、相当の実力者とみるべきだろうと思ったし、あとで調べてみれば、すでに実績を挙げている鍵盤奏者だった。

ポンマーは指揮棒を使わず、丁寧な手振りでニュアンスゆたかな演奏を要求する。拍を精確に打つというよりは、オーケストラの動きに合わせ、アーティキュレーションのアイディアに応じた柔軟なアクションをとっているようだが、ときに掌の向きは上げ弓主体の部分なのか、その反対なのかを物語っているようでもあった。上げ弓の場合は雰囲気の高揚、特に宗教的なモティーフと密接に関連している。

楽曲のちがいこそあれ、以前に聴いた日フィルと比べれば、NJPのほうが、ポンマーの求める自発的な動きに肌理細やかな表情を加えることができていた。面白いことに、どちらの公演も多忙な楽団運営のなかにあって、主力の一部を休ませるレスパイトの意味をもち、楽団が当初は、ポンマーの公演をそれほど重く見ていなかったことが推察される(そのことは多摩定期で恒例のサイン会の担当が指揮のポンマーでなく、白尾だったことからも窺われる)ものの、地方オーケストラを中心に頻繁に起用され、札響のトップ・ポストを獲得した彼のパフォーマンスには、聴き手は楽団の予想以上に高い関心を寄せており、その結果はいずれも素晴らしいものだったと評されている。私も、同感だ。

【各曲短評】

最初の3番冒頭の響きを聴いて、既に相当のインパクトを感じたものだ。しかし、この曲における白眉の部分は第3楽章のガヴォットだろう。優雅な歌謡的旋律が舞曲の機動性、華やかな動的モティーフと調和し、絶妙のバランスで輝いた。序曲の半ばに現れるヴァイオリン・ソロは抑えた響きで、第2番のときと比べて、柔らかく響いた。バッハのこれらの作品では、独奏楽器はむしろ地味に、質素な響きで奏でられたときに、もっとも美しく輝いて聴こえるようである。

2番については白尾の独奏が予想どおりに素晴らしかった一方で、アンサンブル全体は若干、精彩を欠いた部分もあり、ポンマーのもつイメージよりも幾分、地味なものになってしまった印象は避けられない。

予想よりもよかったのは第1番で、シンプルな分、表情づけが細かく、事前に聴いたどの録音よりも素晴らしかった。序曲のあと、クーラント、ガヴォット、フォルラーヌ、メヌエット、ブーレー、パスピエと、6つの舞曲が描き分けられる作品だが、ポンマーはそれら舞曲の特徴を的確に描くということには拘泥せず、それぞれのピースがもつキャラクターを明確に、活き活きと演奏するということにウェイトを置いた。録音で聴くと、大抵は必要以上に素朴で、同じ要素の繰り返しがコピー&ペーストされているような感じさえ抱くのだが、ポンマーの生演奏では息遣いがゆたかにデザインされ、次々に新しいものが生まれてくるような印象を生じさせる。

ここで随所に現れるファゴットの演奏が耳を惹き、この楽器が時代の寵児だった事情を窺わせた。この演目で、バロックが得意な河村幹子が降り番なのは残念に思われたが、これまではその真価に気づかなかった同じく首席奏者の坪井隆明がこのような演目で、まるで古楽畑の人でもあるかのように、カツカツと嵌まるポテンシャルを発揮したのは嬉しい喜びだろう。彼の場合は壮大なオーケストラ曲のなかで個性を発揮するというのではなく、本質的に室内楽的な繊細さの求められるパフォーマンスに適しているのかもしれない。ついでに奏者のことについて付け加えるなら、この公演では時折、準主役として華やかな役割を受け持つヴィオラ・パートを堂々とこなしてくれたヴィオラの客演首席奏者、森岡聡(独奏、室内楽や、紀尾井シンフォニエッタ等で活躍)の味わいぶかい仕事についても忘れてはならないだろう。

【時代を先取りするバッハ】

なにを措いても表情ゆたかなポンマーの演奏は、バッハがそれ以後の2世紀ほどを軽くカヴァーする存在であることを窺わせる。彼らの音楽からは、時代の近接するハイドンやモーツァルト、ベートーベンなどはともかく、シューベルトやメンデルスゾーンの響きを容易に感じ取ることができる。だが、1番で第5楽章を構成し、やがて、次世代を席巻するメヌエットの響きに聴かれる、ポンマー&NJPによる独特の弾力ゆたかで高雅な印象からは、後世のヨハン・シュトラウスの印象さえ聴き取ることができた。それはさらにブーレーで同様に感じられ、こうしたイメージからは、古いものが新しいものを生み出す土台となっていることが明らかに感じられるはずだ。

しかし、4番からはさらに、高貴な印象を感じ取ることができた。そのベースとなっているのは、『マタイ受難曲』を構成するような強固な宗教的情熱である。この作品はいわば、言葉抜きのカンタータとして最良のものであり、その精神的スケール感から、ポンマーはストレートに分厚く威厳に満ちた響きを導き出している。この作品も3番と同じように、トランペットが要所を固め、響きがつくる聖なる道の導き手となっているものの、その用法はより神聖で、高貴なものに近づいている。室内楽規模の編成にもかかわらず、随所に感じる響きのスケール感はマーラーやブルックナーのような肥大化した時代の音楽にも勝るほどだ。この作品には、バッハからみた現在、過去、未来が詰まっているといっても過言ではない。あるときにはベートーベンのように響き、またあるときにはバロック・オペラのような雰囲気を醸し出すが、もっとも壮麗な場面では、ブルックナーの構築した威容にも勝るのである。

だが、さらに新鮮な驚きをもたらすのは、第5楽章「レジュイサンス(喜び)」の演奏だ。その激しいプレスト風の音楽は、後期ロマン派をも突き抜けて、その次の新しい世代へと突き抜けていく新しさを感じさせる。多分、意図的に構築されたこの極端な解釈が、単にアーカイヴを守るだけではないポンマーの自由なアイディアを物語っているだろう。だが、それについていくオーケストラの技量も、さすがというべきである。

【NJPの未来について】

NJPはいま、恐らくは激しい変動期にあり、オーケストラのコンディションを素晴らしく保つには課題が多い事態が生じているというほかなさそうだ。もしも、そうでなかったら、これほど多くの団員が相次いで楽団を去ったり、待遇が変わったり、そんなことは起こらないだろう。だから、今シーズンは彼らにとって、最後の良い時期に当たっているのかもしれない。私は最近、この楽団の未来に懸念をもっているが、少なくとも演奏面では、この日のパフォーマンスは聴き手を勇気づけるものだった。ポンマーとは初顔あわせであったが、ボッセやハウシルトといった、これまで馴染みのキャラクターを思い出させることもあって、楽員は想像以上に彼を信頼して本番に臨むことができたと思う。

それに、このバッハは演奏しているほうとしても、衝撃的な体験だったにちがいない。

だが、大事なことは、それを成し遂げたのは実のところ、ポンマーではなく、NJPのメンバー自身だということである。この演奏会を聴いても、指揮者に対する印象は、基本的には日フィルで聴いたときと同じで変わらない。ポンマーは正にディレクターであり、なにかを指示する人、あるいは命令する人ではなく、楽員の声を聞き、その意見をもとに適切な方向へと導いていく役割を果たす役割を自認しているかのようにみえた。彼の仕事は譬えてみれば、牧師のようなものだろう。まず楽曲の真実が、神の言葉のように彼の耳のなかでは鳴り響いている。そして、それを伝えるにはどうすべきかを、いつも真剣に考えているというわけである。彼は迷っている信徒たちの話を聞き、彼らを神との対話に導いていくことで役割をおえる。あるいは、シェーンベルクが名教師であった理由について、考えてみてはどうか。弟子たちの神聖な崇敬の対象でありながらも、それでも、シェーンベルクはなにかを教えるというよりは、弟子たちとほぼ対等な関係をつくって対話したというところに鍵がある。繰り返すようだが、NJPは世界でも最高峰の、新しいアイディアをブリュッヘンの示す独特の哲学と実践から学び取ってきた。今回は主力の一部を温存した状態ではあるが、その成果は着実に楽団に浸透していたといって間違いではない。ポンマーはそれをほんのすこしだけ、彼の知る神の言葉に近づけて引き出すだけでよかった。

それが楽団の個性というものであり、彼らが守り、育てていくべきものだ。先日の東響の演奏会では、多忙なスケジュールにもかかわらず、ノットがその個性を良い方向に伸ばそうとしている様子を確認できた。次は、上岡の出番である。私の意見としては、どのオーケストラも均等に、幅広い演目を高いレヴェルで演奏できる必要はないだろう。例えば、モーツァルトとワーグナーの作品を、それぞれ同じようにキャラクターの際立った演奏ができるのは世界的にみても、せいぜいウィーン・フィルぐらいのものではなかろうか。ひとつの個性を育てるだけでも、容易なことではない。その道が開けているなら、NJPにはそれを大事にしてもらいたい。なぜなら、今回、ポンマーのクリニックを経たあとで、彼らはこれほど際立った演奏をみせることができたのだから。

私はこの文章の冒頭に、やや大袈裟な文句を書いたが、それは演奏会のなかで、正にリアルタイムで浮かんできたものだった。「ここ10年ほどの歴史の到達点に今回の公演があった」。楽団の目指すべきものを考える点でも、この演奏会は貴重な機会だったと思う。

【補足】

さて、ホール改修のおわった7月には、ポンマーがいよいよ「首席指揮者」として札響の舞台に立つ。北海道でのファースト・シーズンにはメンデルスゾーン、ブルックナーなど、独墺系の大曲が多く、ラウタヴァーラのような新しいレパートリーにも目配せがしてあるものの、バッハは予定されていない。私は札響のファンにも、是非、ポンマーの導きでバッハを聴いてもらいたいと願っている。管弦楽組曲の1曲のうち、たった1つの楽章でさえ、この指揮者の神秘的な能力を知るには十分だ(ならば、アンコール・ステージでもよい)。古典派音楽における札響の実力はエリシュカとの仕事でも確認されており、モーツァルトやハイドンのほか、録音もされたヴォジーシェクなどで意外に豊富な可能性を示している。前回の来日時、モーツァルトの「プラハ」を聴いた際には、これで1年を通してモーツァルトやハイドンを継続的にやれば、凄いことになるのに・・・と思ったものだ。こうした時代の作品で成果を挙げることは、また特別な感動をもたらすが、楽団としてはなかなか手をのばしにくい事情もある。

北海道知事選、札幌市長選に揺れる北海道社会の未来はわからぬが、ともあれ、少なくともオーケストラのツー・トップは基礎的な指導力が高いうえに、それぞれのスペシャリティも有し、音楽面では明らかに盤石である。先日の尾高指揮による東京公演でも確かめられた、素晴らしいコンディションが長く保たれるように願いたいと思う。

【プログラム】 2015年3月29日

1、バッハ 管弦楽組曲第3番
2、バッハ 管弦楽組曲第2番
 (fl:白尾 彰)
3、バッハ 管弦楽組曲第1番
4、バッハ 管弦楽組曲第4番

 コンサートマスター:崔 文珠

 通奏低音(cemb):辰巳 美納子

 於:パルテノン多摩(大ホール)

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