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2015年4月19日 (日)

カンブルラン ブルックナー 交響曲第7番 ほか 読響 サントリー定期 4/10

【序】

シルヴァン・カンブルランが2010年4月に常任指揮者となって、先季で既に4シーズンを経過したことになるが、彼らにとって2シーズン目の2012年ごろから右肩上がりの成熟を経てきた両者の関係はカレントで、期待以上の成果を生みつつある。団塊の世代の経験豊富なプレイヤーたちが次々に楽団を去っていくようなタイミングにありながら、演奏レヴェルをほとんど落とすことなく、チームとしていっそう個性的に、力づよく柔軟なアンサンブルがカンブルランの望むように育ってきた。今季はブルックナーを起点に、9月のワーグナーの歌劇『トリスタンとイゾルデ』、そして、来年2月のマーラー『交響曲第7番』につながる定期演奏会のライン・ナップが組まれ、世間に対して、高い自信を見せつけるようなプロジェクトである。

ブルックナーの後期交響曲ならば、1曲だけで演奏会が成り立つが、カンブルランはヴォルフガング・リームの『厳粛な歌』(歌曲付きでは日本初演)をプログラムに付加した。この作品は1996年に、我が国とも縁のふかいヴォルフガング・サヴァリッシュが、ブラームスの歿後100年のアニヴァーサリーとして米国のフィラデルフィア管において委嘱した作品で、リームはブラームス晩年の鍵盤作品や歌曲を研究して、先人の作となる歌曲の題名と同じく『厳粛な歌』と名付けたものである。1996年というと新しいようだが、それからもう20年もの歳月が流れ、サヴァリッシュだって、この世の人ではない。リームは現代ドイツを代表する作曲家のひとりで、カールスルーエに在住し、大学で教授職にある。

カールスルーエは私の応援するピアニストのひとり、濱倫子さんがいるところであり、彼女の友人が氏を車に乗せたところ、閉所恐怖症らしいリームには苦痛だったようで、すぐに降りてしまったという逸話を聞いたことがある。なお、彼の代表作のひとつで、歌劇『狂っていくレンツ(ヤーコプ・レンツ)』は若杉弘氏が存命のころ、1999年に東京室内歌劇場の公演で日本初演されている。そのときの題名役が、当夜の歌い手に起用されたドイツ宮廷歌手の称号をもつ小森輝彦であるという。

【途切れ、断絶する危機を見つめるリーム】

作品はヴァイオリンをはじめ、フルートやトランペットのように、高音にスイート・ポイントがある楽器を意図的に外し、クラリネットを中心に、ヴィオラや低音弦、バスーン、トロンボーン、ホルンなどの低音中心の楽器によって奏でられる。ただ、クラリネット、ヴィオラ、バスーンなどの楽器は、高音へのインターフェイスをまったく持たないわけではなく、実際、作品の展開が十分に進むと、こうしたインターフェイスが徐々に開放されていくようにできていた。なお、ヴァイオリンを欠くため、同曲のアンサンブル・リーダーはヴィオラ首席の鈴木康浩が代行する。また、中心的な楽器は下手のフロントに位置したクラリネット(藤井首席)だろう。あまり演奏されない歌曲部分は、『レンツ』のほか、『ヴォツェック』の原作者としても知られる詩人、ゲオルク・ビューヒナーに関連する短いテクストだけで構成されている。その前半部分は正に弔辞からとられているように、音楽的でありながら、実際、教会に弔辞が響くようなイメージが広がっていく。詩人の遺書からとられた後半部分は、より透明な言葉の羅列と感じられた。

初日の演奏ということもあり、小森には惜しい入りのミスがひとつあった。しかし、サントリーホールの空間へ静かに浸透する彼の声は、私がしばらく聴いてきた彼のパフォーマンスのなかでも、特に素晴らしいコンディションと聴こえたし、彼の声を遺憾なく生かすべく、思いきって抑えられたオーケストラのサウンドも特徴的だ。これを挟むオーケストラ素材は、どこかで聴いたことがあるような旋律の影のようなものが多い。クラスタというほど分解されておらず、ほんのりと香りのように空間を漂っていくのである。

ビュヒナーのテクスト、それも弔辞や遺書がベースに置かれたこともあって、この作品を聴くと、リームのなかで、既に西洋音楽が「おわっている」という印象があったことが窺われるのだ。近年の事情をみると、益々そう思えるのだが、日本では高踏的な芸術遊戯として、なお色濃く尊敬されているものが、欧米ではもはや博物館入りの運命に近づいていることを、彼は警告しているようだった。もはや更新されないホームページのように、リームの作品は途切れ、消失する特徴を示す。カンブルランは敢えて、そのような作品をブルックナーの前に演奏したかったのだ。なぜなら、リームの場合とは対照的に、その演奏は断固、前進することをモティーフにしていたからである。

【新しさと懐かしさ】

かつての任地、バーデン・バーデン南西ドイツ放送響(財政難のため辞任)でまとまった録音を残したとはいえ、カンブルランがブルックナーに注目するのは若干、意外な感じをもたらすかもしれない。というのも、カンブルランは常々、それぞれの時代でヴィヴィッドな新しさを示した作曲家だけに特別な関心を抱いているようにみえ、その姿勢はバロックから現代まで貫かれてもいるからである。カンブルランが重々しく取り扱うには、ブルックナーはいささか腰が重い印象ではなかろうか。

そのことは追々みていくとして、リームとの共通点としては、ブルックナーの交響曲第7番も死と関連していることがある。すなわち、彼がこの作品を書いている頃、ブルックナーがこころを寄せていたワーグナーが亡くなったのであった。実際、いくつかの素材はワーグナー的であり、アダージョ楽章では巨匠のための葬送音楽が挿入される。そのため、多くの録音は荘重で、痛ましい印象を残しているように思われる。だが、そうしたイメージと後半2楽章のイメージは必ずしも合致しないのだ。カンブルランの演奏は、まったくイメージが異なっている。それはワーグナーの死にも動じず、過去への回帰を引き起こすことなくして、あくまで前進につなげようとした作曲家の姿勢に敬意を表するものだった。ワーグナー的な素材といえども、いかにもそれらしく演奏するのではなく、既に大分、以前にその影響下から脱した作曲家の精神史に相応しく、なるべくマニエリスムに染まらない、新鮮な素材として奏でるようにしていた。

実際、ワーグナーはブルックナーの「師」ではない。例えば、彼が交響曲の譜面を携えてワーグナーを訪ね、気長に待って会うことを得たのは、もう50代にちかいころだった。しかも、手にする教養の限られた田舎者のブルックナーはロマン派の円熟した時代にあっても、ワーグナーの示す文学的な要素にはあまり影響を受けなかった音楽家のひとりと言われている。彼がオペラの中身をあまり理解せずに、音楽だけに共感していたのは有名なハナシであろうか。

カンブルランの演奏は弾力性に満ち、舞踊的な踏み足をキチキチと踏みしめるリズムの処理(そのためアタマに重みがなく、踏み足のタイミングも動きに応じて変わっていく)に特徴があり、もうひとつ、音色の明るさも特筆できる。「死の舞踏」という都合の良い言葉もあるが、実際にはそういう感じでもなく、これまでにない新鮮なフォルムを感じさせた。ただ、音色の明るさと優しい表情については、例えばオイゲン・ヨッフムなどにその前例を見出すこともでき、私がいつか、そんな演奏に接してみたいと望んでいた、そのままのスタイルを感じることもできた。独創的な演奏にもかかわらず、彼らの演奏はどこか懐かしい雰囲気も同時に備えているのだ。

私は以前、都響がかつての功労者、ガリー・ベルティーニとともに実現したマーラー演奏における独創的な成功(それは同じ指揮者がケルンで実現したものとはまた違うものだった)を、歿後10年も経たずに放棄して、インバルの新しいスタイルに喜んでついていったことを批判したが、読響の場合は、ちょっとばかり事情が異なっている。確かにその演奏姿勢はスクロヴァチェフスキのころのスタイルとは異なっているが、そこから学び取ったブルックナー演奏の伝統はすこしも歪まずに感じ取ることができるからだ。そのことから演繹的に、カンブルランの演奏意図を感じ取ることも可能だろう。

ところで、公演に先立って公開されたカンブルランのインタヴュー(テクスト)だけでも、私たちを驚かせるには十分であり、特にブルックナーの宗教心をあまり重く見ないと述べている点で衝撃的だった。ただ、この発言には若干ながらもレトリックが感じられ、単純に「カンブルランがブルックナーの音楽と宗教が関係ないと言っている」という風に述べるのには抵抗がある。なぜなら、ブルックナーは西洋音楽の伝統語法を否定したわけではなく、それはルネサンス・バロック期のフィグーラほど厳密なものではなくとも、ひとつひとつの楽器の響きからして宗教的な要素と結びついているのは言うまでもないからでもある。要するに、カンブルランはこういう風に言いたかったのだと推測できる。クラシック音楽がもつ伝統的な技術やイメージを越えて、ブルックナーが特に宗教的な理想を音楽に託したことはない。

終楽章の音楽などは、それでも宗教的なものなのである。ブルックナーは、こころの師に語りかけている・・・先生、お亡くなりになったとは、なんと目出度いことでしょうか!(神さまに一歩、近づくことができて!)

このような内面的モティーフがなければ、あのようなサウンドが生み出されるとは思えない。カーニヴァルのような音楽だ。

【演奏面と内面的特徴】

演奏面ではオーケストラが2つに分かれてしまったような面があり、完璧な成功とは言い難かったが、これは初日の演奏であり、次の日曜日までに問題は解決されたはずだと信じるに足る。いろいろな人の感想をみると、弦は良いが金管がダメだとか、木管がダメだとかいう話になっているが、田中首席代行のトランペット以外はそれぞれに優れたパフォーマンスをみせており、要はちょっとしたタイミングの問題だろう。田中はこのポジションを高いレヴェルでつづけていくには、楽器のもつ神聖な響きをより自覚的に演じていく必要があるだろうし、バロック的な吹き方も習得しなければならない。

4つの楽章をブルックナーによる内面劇としてみれば、第1楽章はいかにも自信に満ちている。彼がワーグナーの死を知ったのは、第2楽章を仕上げにかかっているときだったと見られている。その印象がどれだけ幅広く、作品を塗り込めたのかは私にはわからない。だが、この報をきっかけに、作品に含まれるワーグナー的な要素について、ブルックナーは若干、筆を遡っても、ちょっとずつエッジをつけていったような気がする。そのことはカンブルランよりも、より以前の巨匠による演奏で明確に感じ取ることができる要素だ。カンブルランはといえば、一部に独特なバランスをぶち上げ、作曲家の示す自信に鋭く対応させている。しかし、楽章の終盤には響きを掃き清めて、葬列を迎えるような手順も踏んでおり、作曲家の繊細な内面を覗きみるようであった。

アダージョ楽章は、慎重な作曲家の内面をさらに深々と象徴しているようだ。本当に乗り越えたのか・・・ブルックナーは最初の部分で、早くも自らに問い返している。スケルッツォはルバート系の表現を排し、意味ありげな空隙をつくることもなく、イン・テンポで堂々と続けられた。書かれた音符の分はしっかり延ばしても、それ以上の溜めはつくらない。終盤、ひとつだけ深いルバートは感じられたがが、それも全体の縦線を整える目的だけで導入されており、構造に殊更な荘重さをもたらすものではなかった。どこか焦ったように、前へ前へと構造を進めるブルックナーの内面が手にとるようにわかる演奏で、初めは戸惑いを感じるものの、演奏意図がわかってくると、思わずニンマリとしてしまうようなものだ。ダ・カーポ形式のアリアのように、繰り返しがあるが、その度にすこしずつ装飾やボウイング、トレモロのタイミングや深さなどが異なっている点は、先日のヴィヴァルディの公演を思い出した。

第4楽章はこれまでの演奏スタイルを凝縮したかのように速い演奏で、鮮やかだ。ドイツのオーケストラとの録音よりも、アンサンブルのチャレンジングな特徴が際立っており、流れのスムーズさと輪郭の明確な彫り出しをみると、多分、技術的にも我々のほうが上をいっているのではないかと思う。カンブルランの示す演奏の哲学は、録音ではむしろ確認しにくくなっているから、そのように言うのである。

なお、4月より、ホルン・パートには日フィルにいた日橋首席が仲間入りしているが、彼の加入は、読響のブラス・セクションに新しい息吹きを生じさせている。従来の山岸首席の圧倒的なテクニックと強度に引っ張られる体制から、若き日橋を全体で支える分厚いパート構造となり、弦楽セクションにみられるようなアンサンブルの意識が急速に芽生えてきたからだ。日橋は強奏におけるよりも、弱奏における飄々としたパフォーマンスが見どころとなる吹き手だ。リームでも若干、惜しい吹き損ないがあり、ブルックナーでは、演奏外で目立つ音を立ててしまうミスもあったが、それ以上に彼のもたらした新鮮な風によって、オーケストラが一皮むけていくところを拝めるのが嬉しいのだ。

【まとめ】

ワーグナーへの序章として、今回の公演は貴重な1ステップとなった。ワーグナーの死、そして、それを克服するブルックナーの力強い仕事から説き起こしていくカンブルランの周到な配慮に驚嘆する。また、これと組み合わせるにリームの「途切れる」「消失する」を対置して、否、そうではないとブルックナーの「前進」を提示するやり方も新鮮である。前述のような問題はあったが、それでもオーケストラはカンブルランの下でひとつになっており、感動的な演奏に仕上がっていた。意外な要素はあっても、外してはいけない「ルール」は決して逸脱せず、人々に大事なものを教えるカンブルランの真心は尊い。このようなマイスターに率いられていることが、楽団をどれだけ勇気づけていることだろうか。なおも、成長はつづくであろう!

【プログラム】 2015年4月10日

1、リーム 厳粛な歌(歌曲付き)
 (Br:小森 輝彦)
2、ブルックナー 交響曲第7番

 コンサートマスター:小森谷 巧

 於:サントリーホール

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