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2015年4月16日 (木)

青いサカナ団 歌劇『ラプンツェル-3058』 2日目(最終公演) 4/5

【曲がり角を曲がったサカナ団の活動】

神田慶一の主宰する青いサカナ団の活動も、曲がり角をすっかり曲がりつつある昨今だ。前回の公演で宮沢賢治の原作をもとにした歌劇『銀河鉄道の夜』を上演し、ダブル・キャストのうち片方の主役級を専門的修養の十分でない高校生ぐらいの歌い手に任せたのが象徴的だ。宮沢は大正15年に「羅須地人協会」を設立し、自給自足の体制に基づく地元の農村で、実用的で科学的な農業指導と、音楽などの芸術の両面で高い教育を施すことで、理想郷的な農村の実現と「農民芸術」の可能性について志向した。これをモデルに、現代の神田(青いサカナ団)はすみだ地域の下町を舞台に、高い修養を積んできた経験豊富な芸術家と、アマチュアの歌い手、そして、幅広い世代にまたがる子どもたちが参加できる、実践的な社会=芸術プロジェクトに移行したと見ることもできる。

無論、このことは芸術的価値の放棄を意味するのではなく、まったくその反対である。従来から、彼はオペラ作曲家として、我々の生きる社会と過去の偉大な音楽(あるいは、映画や演劇、ミュージカルなどの舞台芸術や、ダンス、演芸などの芸能)の歴史を出会わせる優れた実践を重ねてきたが、その傾向はいっそう根深いものになろうとしている。その根から吸収した現代の、そして、そこに生きる人たちのエネルギーによってしか、同時代に有効な芸術的実践はあり得ないと神田慶一は思い始めているにちがいない。

【超合理的管理社会と逸脱】

新しい歌劇『ラプンツェル-3058』は題名の通り、3058年という想像もできないほど遠い未来を描くものだが、実際に未来の社会を描き上げようとしていたかは疑問で、「いま」と背中合わせの未来を描いたというほうが正確であろう。つまり、現代をどうするかで、未来が決まっていくということ。現代社会がつづくと、3058年というような遠い未来に何が起こるかということを寓意的に示したのである。そこは現実的な選択が突き詰められた超合理的社会で、エリート層が分離されて、遺伝的に優等とみられる子どもたちのうちから選抜され、社会を実利的に導いていける指導者だけが画一的な教育によって育てられていく仕組みになっていた。不適合なエリートは処分され、労働者階級は指導者の指図に従って動くのみだ。一種の独裁的な社会主義である。本の所持が禁止され、指導者層が労働者の管理のために配った端末によってのみ、情報が得られるという設定で、人々の知識や感性も管理されているのだ。芸術教育や芸術家の支援といったようなものは一切ないようで、例えば詩人や音楽家といった人物もエリート層には含まれず、市井のなかでもほとんど敬意を払われないで、存在も危うくなっていた。作中に登場する詩人ディヒターも普段は猫探しに勤しんで、夜は酒場で庶民相手にとぐろを巻くという毎日であるという。

設定はよくできたアニメ作品のように細かく、そのわりに矛盾も多いが、このようにアイロニカルなファンタジーにおいて、そのねじれをひとつひとつ指摘していくのはナンセンスであり、また、その矛盾には意味があることも忘れてはならない。

もっとも深刻な矛盾は、これほどの高度な管理社会にもかかわらず、そこからの逸脱があまりに多いという事実である。例えば、主任に統率された4人の管理官とシステムによる完全な監督下に置かれたはずの、限られた数のエリート子女たちが自ら学習回線を外し、目を盗んでゲームを楽しんでいるということについて考えると、この逸脱行為がどうして管理官の知るところとならないのかは疑問に思う。学習効果が上がっていないということは数値に表れるようだが、回線の装着自体はモニターしていないらしい。善意に解釈して、ここから推察できることのひとつは、システムが「性善説」でつくられていることかもしれない。つまり、完全に管理された子どもたちは、さぼって遊んだりするはずがないという慢心である。しかしながら、神田はどんなに厳しいエリート教育のなかにあってさえ、子どもたちの遊び心が完全に管理できるというほうが幻想だと考えているのだ。

一方、『シンデレラ』と名付けられたヒロインが活躍するヴァーチャル・ゲームから、子どもたちは自分たちの教育に欠けていたものを、僅かながら学び取ることができた。それがなかったら、終盤で子どもたちが童話の世界や労働者階級の世間からやってきた仲間たちの側につき、協力する、また詩を学びたいと言い出すこともなかったはずだ。

【世間=ウバーンの設定】

また、管理社会とは言いながら、労働者階級の住む世間(ウバーンと呼ぶ)には一定の自由があるようである。本の所持に関する厳しい取り締まりは冒頭のマイムなどで確認されるものの、だからといって、前科はついても、直ちに監獄に入れられるようなことはなく、その考え方からみれば有害な、詩人も存在を赦されている。彼もまた、指示された労働をおこなわねばならないはずだが、猫探しなどを生業として「便利屋」として過ごしているらしい。彼が与えられた労働をこなしたうえで、そうしているのか、あるいは何らかの方法で苦役を逃れているのかはよくわからない。これに象徴されることを考えると、いくら人々のいる場所の座標などを端末経由で完璧に把握できるとしても、神田はその行動までを完全に拘束できるとは考えていないようだ。

なお、このウバーンは半世紀前、起こった核融合汚染から人類を守るシェルター(人類の1割ほどを収容)の外の空間という設定になっており、近年の日本における原発事故が隠れたモティーフになっているものの、それ自体は物語のプロットにさほど深く関係するものとはなっていなかった。

【ラプンツェルと白雪姫】

この作品のなかでもっとも興味ぶかい要素は、本の所持が禁止された超合理的社会のなかで、まったく読まれなくなってしまった童話『白雪姫』の登場人物たちが、オハナシのなかから逃げ出してしまった姫を追っかける形で現実界に出現し、そこから3つの世界(エリートの支配する超合理的世界、頽廃的な労働者階級の住む世界、童話の世界)が1つになってしまう矛盾から生じている。それぞれの世界へのインターフェイスとして、エリート世界の落伍者で夢見がちなラプンツェル、労働者階級の異分子である詩人のディヒター、そして、童話世界(劇団)からの逃亡者たる白雪姫が選ばれた。そして、音楽的にも、それぞれの要素を象徴するものが次第に混ぜ合わされていく構造だ。

今回の主役級ラプンツェルと白雪姫には、大人の歌い手を起用し、その点では近作よりは正攻法に戻った。題名役の杉山裕美はベビー・フェイスだが、ほかの4人の子どもたちと並ぶと、さすがに「保母さん」という雰囲気になってしまう。ほかの子より進んだ成長の最終第Ⅲ期とはいうが、事前のキャスティングで分かっていることとは言いながら、やはり面食らうところもあった。白雪姫=岩田有加も昨年の公演では母親役。最高管理責任者のファーラー博士が子どもたちのなかに入れようとしたときに、管理官から「大分育ってますが・・・?」といわれたジョークのとおり、これにも違和感がある。だが、そうした感覚は徐々に裏返されていくことになった。

【一期一会の創作】

神田慶一がその最新作で示した新しい哲学は、徹底した一期一会の考え方である。その場で協力してくれるプロの音楽家と、アマチュアの歌い手、そして、子どもたちとの出会いをいちばんに考え、彼らの個性をよりハッキリと打ち出していく舞台にこだわりたいという明確な意思が感じられた。そうした傾向は近作に共通するものの、この作品でいっそう明確に、神田はその哲学を押し徹そうとした。そのため、今回の作品ではこれまでより目新しい要素というのはさほど目につかないし、すぐに憶えてしまうような旋律もさほど見当たらないが、反面、歌い手の個性が舞台上で面白いように浮かび上がる点では、これまでの作品でもっとも印象的であった。

また、修養を積んでいない人たちに、到底、到達は不可能と思われる目標を示すような歌の書き方もあまりなくなった。音域や歌のスタイルも含めて、演じ手のキャラクターがいちばん自然に引き出されることを最優先する手法に統一されたのだ。

もともと、神田をサポートする歌い手は非常に個性的な面々が多い。マッシヴで図太い声をもちながら、素朴で飾らない発声が魅力的な秋谷直之や、ワーグナーの主要役を堂々と歌える正統的なドイツ型発声の名手でありながら、意地らしい皮肉なユーモアを演じるのもうまい蔵野蘭子などである。蔵野は今回、童話のなかの魔女役で、同時に姫の母親代わりのような役柄を演じており、ちょっと現実ばなれした存在感が舞台上で見事に像を結んでいた。魔女という時点で悪役が想定されるが、この作品では善も悪もなく、場末で飲んだくれるちょっと胡散くさい占い師のような存在を演じ、頼みの魔法も童話世界の外ではあまり役には立たないという風になっている。蔵野のもつ独特な雅の雰囲気を逆様にして、さらに一捻りして利用した神田の発想がまた面白い。

実質的に悪役を務める管理責任者のファーラー博士も、いつもユーモア満点の岡戸淳が演じることで、最初から冗談めいているとわかるし、大分、人懐こいキャラクターにもなっている。映画『スターウォーズ』のダースベイダーのテーマで描かれ、衣装もパロディになっているが、よく見ると単三電池などが剥き出しの回路はダサく、モティーフの威圧的な感じも薄められており、完全な悪役としては描かれていないようだ。ときどき発する冷酷な指示の対極に、子どもたちに対して抱いている愛情は隠しようもなかった。そこで、最後にラプンツェルを撃つ役割を果たすのは、プログラムにはない異常な事態に耐えきれなくなった主任管理官・・・というところに、またひとつのアイロニーがある。

【筋書きと解釈】

作品は本を読むウバーンの住民、そして、それを取り締まる衛兵の姿が描かれるマイムから始まる。いきなり音がない世界で、朗読から始まるというのが意外だったが、この時点で早くも、作者が単純に音楽的なものをつくろうとしているのではなく、作品がよりボーダーレスな特徴を示すであろうことを予告している。表情と声の素晴らしいアマチュアのオジサマにつづいて、2番目に取り締まられた「賢者」役の浅山裕志は、こんな世界でもそんなに悪くないと言って、オペラの幕をあげる役割を果たした。新興宗教を奉ずる人たちのように全身を白づくめにして、頭巾をかぶった合唱が、この世界は素晴らしい・・・とフィナーレで歌われるように壮麗な歌を披露する、きわめてアイロニカルな立ち上がりだ。その音楽的な高揚とヴィジュアル面での抑圧された雰囲気で、まず観客は混乱したイメージのなかに置かれるであろう。

次のシーンで、白雪姫が姿を現した。それと、無関心な母親のような魔女の描写。有料でメッセージを預かる機械人形(ロボット)、’RZ-3058’のキッチュな音楽的モティーフは劇のなかで繰り返し用いられる。遠い未来なのに、アナログ的なところが初めから陳腐で面白い。ドラム缶のような寸胴型の着ぐるみから、手足を出す少女。足には黄色い長靴。勘の鋭い人はダースベイダーが出てきたとき、すぐにわかるだろうが、私の場合はもうすこしあとになり、これが映画『スターウォーズ』に出てくるロボット’RS-D2’のパロディと気づいた(遅い)。それよりも、人間から冷たく扱われると混乱し、「ウーウー」と低音でうめくのが可哀そうで、同時に可愛らしく、気になって、しかし、音楽的にもやがて、これが重要なモティーフになっていくのは驚きだった。ワーグナー風に言えば、「拒絶の動機」とでもいったようなものだ。

この作品では、いま述べたような小さなモティーフが効果的に使われる。ライトモティーフ的音型とまではいかなくとも、例えば、このあとに登場するこびと達のうちで、ひとりは語尾で必ずクシャミをするという演出がある。これはほんのオチャラケにすぎないが、にもかかわらず、神田の作品ではこうしたつまらないモティーフが意外に印象的につながっていくのが楽しい。なお、白雪姫の「7人のこびと」は2人が欠けた5人組で、そのこと自体がどこかアイロニカルだが、同時にエリート児童たち5人組と対応している。ラプンツェルはいわば、こうした対称性から弾かれて、塔に追いやられるという性格を示しているわけだ。

白雪姫(スノー・ホワイト)とファーラー博士の出会いを経て、次の場面でいよいよラプンツェルが登場し、夢見がちな落ちこぼれの彼女と、博士が気に入ったスノー・ホワイトとがすげ替えられる。2人の「少女」は背中合わせだが、まったく対照的な方向に歩みだす。すなわち、スノー・ホワイトは対称性の世界に順化し(これは芸術の堕落という観点を思わせる)、ラプンツェルは世界を乱す異分子として働く。ここに結びついていくのが、もうひとつの異分子である詩人であった。詩人は衛兵や主任管理官の手からこびととラプンツェルを助けるときに、歌とダンスを用い、初めはこびと達が、そして、ラプンツェルもビクビクとそれに加わり、詩人と二重唱をつくる。この2人は恋愛関係にはならないが、この体験を介して特別な絆で結ばれていく。芸術によって結びついた絆は、性的なものと同等に、強固だというのが作者の主張であるのかもしれない。この歌とダンスのモティーフは、終盤で再び重要な役割を果たす。

一方、やや茶化し気味ではあるものの、性的なものはファーラー博士と白雪姫のところに結ばれる。これは不純であり、無論、人と人との間に真の結びつきを与えるものではないものの、冷酷な管理者にすぎない博士は、その関係によって、何らかのものを得ており、結果として、ときに温かいキャラクターに変身するときがある。

市井の酒場では、「賢者」をはじめとする男たちが自分たちのことを「ねじ」だといって、自虐的な笑いを共有している。ブリテンの歌劇『ねじの回転』に引っ掛けた台詞かどうかはわからないが、その題名の由来、「ひねりの効いたオハナシ」という点では、確かに相当のひねりが効いていた。このねじの自虐の歌のモティーフも、あとで重要な意味をもつようになる。はじめ、詩人と「賢者」は仲が悪そうにしており、詩人は「賢者」のいうねじのユーモアを正面から皮肉ってみせた。これはプログラムされたものだが、そのときの詩人の歌には即興性のようなものも感じられる。このことも、重要なモティーフといって差し支えないだろう。対立していた「賢者」と詩人はいつか和解し、両者の絆が「詩」もしくは「歌」にとっては、きわめて重要だということが示唆されている。

荒唐無稽な筋書きのようだが、無駄なくモティーフが積み上げられ、自然な流れでクライマックスに向かっていくコンパクトさも指摘できる。説明的な部分は不可欠だが、露骨ではなく、ユーモアに絡めている。例えば、酒場で魔女が自分たちの事情を語る場面は実のところ、説明的な部分になっているようだが、彼女の実は身近な性格を面白おかしく物語る材料にもなっていた。また、寓話の世界では、キャラクターたちが劇団のようにオハナシを演じているという設定も可笑しい。ここで初めて、’RS’の録音メッセージが回収(再生)され、スノー・ホワイトの心境が半ばだけだが語られる。ただ、その内容自体は冗談めいたもので、劇のプロットにさほど大きな意味をもたないようにしていた。スノー・ホワイトは相手役の王子に何か酷く扱われたらしく、愛想を尽かして逃亡したというのだ。劇団あるあるネタか。

【結末】

シーリアスに戻り、衛兵たちに包囲され、塔の上で動けなくなった詩人とラプンツェル。2人は想像力の上で、自らに翼を生やすことはできるものの、それによって奇跡が起きるわけではなく、観客が期待するように、想像力だけで塔から飛び去るようなマネはできなかった。しかし、別の形で奇跡は起こされる。’RS’のこれまでの台詞が、開幕の合図となって響いた。’RS’を保護していた酒場の大型機械人形ウェイトレスが、彼女とダブルになる。拒絶の動機の反転型。「ダースベイダー」の冷酷な指令がつづく危機一髪の場面で、市井の人たちが総出でカーニヴァルを始め、歌と踊りで混乱を生ぜしめる。この歌と踊りは、先の場面で詩人がラプンツェルやこびと達を助けたのと同じだが、舞台全体に拡大されている。ねじのテーマは反転して活き活きと用いられ、詩人とラプンツェルの二重唱を中心とした例の場面が大掛かりに再現された。

主任管理官は動揺して、ラプンツェルを射殺しようとする。先にユーモラスに響いた、予想し得ない事態に悩む彼女の「厄日」と「忘れて」のモティーフがもういちど、深刻な意味で反芻される。

最後の場面、終演後にプログラムをみなければ、撃たれたラプンツェルの夢だとは分からなかった。彼女は一命を取り留めるも、意識は戻らない、現在のミハエル・シューマッハ状態に至った(シューマッハはスキー事故で脳に重大な損傷を負って、半永久的な昏睡状態にあると見られている)。フィナーレには白づくめの例の合唱が来て、ある意味では予想どおりだが、それでも、やっぱりココに戻ってくるのかと驚かされた。交響曲的に、シンメトリーな構造は意図的なものだろう。合唱の横顔は表情よく、口を大きく開けた理想的な歌い方により、きわめて明るく、活き活きとしてみえるのが若干、冒頭部分と異なる印象を与えた。私はその合唱の姿に、深い感動を覚えずにはいない。

【表現と技術、アマチュア/児童の存在感】

確かに、プロフェッショナルな公演でうたえる歌手の技術は凄い。主役級にキャスティングされたこともある秋谷や蔵野のほか、浅山も最近はコンペティションなどで評価を高めている。正確には、こうした歌い手の素晴らしさは、個性が明確で、それを舞台上で遺憾なく発揮できるということにあるのだ。周りと比べて多少、ステイタスは劣るかもしれないが、杉山にしても、あれほど深い存在感を出してくるわけである。彼女より技術的に優れている歌い手は少なくないとしても、ラプンツェルとして杉山が示したものは、単に童顔で可愛らしいというような問題には止まらない。ヴィジュアル的な違和感から出発しながらも、彼女は最後の場面までに明らかにラプンツェルのうたったような翼を得たようにみえた。技術とは、こうしたものを表現するための道具にすぎない。

技術の高い者ほど個性が強く、それを効果的に表現できる。それなら、アマチュアの歌い手にとって、深い個性を舞台上で刻むことは難しいはずだ。しかし、彼らには素朴なエネルギーがあって、プロフェッショナルな歌い手や演奏家と直に触れあうことで、あるいは、実際に彼らと音楽を交わすことで、プロが思いも寄らないような化学変化を発することもある。近年の神田の舞台は、そうしたものに支えられているといっても過言ではない。『あさくさ天使』が典型的なものだが、彼は街に生きる歌、素朴な音楽のメッセージのなかに、我々がいつかクローゼットのなかにしまい込んでしまった輝きがあると信じているのだ。ただ、同作品はプロフェッショナルな能力に多く支えられているが、このラプンツェルは技術よりも人に密着している。誰か優れた歌い手に密着した、その人を想定した作品というのは歴史的にも多く存在するが、この場合、それほど洗練されていないアマチュアや児童の個性にも注目が及んでいる点が見逃せない。

磨かれていないからこそ、児童の個性は思いがけない魅力をもっている。ウィーン少年合唱団のように、高度に研磨され、歴史的に受け継がれてきた音楽を体現する児童合唱団はまた、独特の伝統表現を担っているものの、それとは別の意味で神田は子どもたちの個性をなるべく削らないように、上達に導こうとしている。そうした素朴な個性は加齢とともに、徐々に削れていくもので、それなら、各々の年代で課題は異なっていることだろう。最近の「青いサカナ団」の公演の魅力は、そうした幅広い世代が舞台上でひとつになっていることからも来ているのではなかろうか。最後の高揚を示す、この世の素晴らしさ・・・どんな世界であれ、生きている素晴らしさを歌うあの合唱だけは、技術と個性の結集として際立った魅力を示していた。

【プチ・バイロイト構造によるピットワーク】

1回だけの体験によって語るのは難しいが、舞台上手に掘られた半埋め込み式のピットから聴こえる音楽も、演技や歌を表情づけるものとして十分に機能した。近年は神田自身が創作面の原作・脚本・作曲に加えて、パフォーマンス面の演出と指揮をすべて兼務することが多かったが、今回、思いきって指揮は辻博之に任せたのは英断だった。従来よりサカナ団の公演には縁の下の力持ちとして関わりつづけてきた音楽家だが、演奏(歌唱)面での成果が多くの点で、彼の手腕に依拠していたことはこの公演でハッキリした。辻はその高い手腕にもかかわらず、一風変わった活動スタイルを採っている音楽家で、そのココロは神田と共通する理想に向かっているものと思われる。昨年の公演では舞台中央に剥き出しのピットが置かれ、音楽を囲んでの旋回的な舞台の使用が試みられたが、今回はピット奥の奏者は天井がかぶる状態で、いわばプチ・バイロイト構造になっており、黒子の印象を強めた。しかし、少なくない場面で、思わずピットを眺めたくなるシーンがあったことも事実である。バイロイトのように隠しきれない分、そのような望みも同時に叶えられた。

【現代の魔笛】

昨年につづいて舞台となったサカナ団にとってのバイロイト「すみだパークスタジオ倉」は、かつて倉庫だったところを改装した演劇小屋で、声楽的な音響はまったくのデッドだが、新国立劇場よりは自由に空間を使えるのがよいのだろう。今回は客席の上手側についた小さなバルコニーが、ラプンツェルの塔に見立てられ、演劇の『ロミオとジュリエット』における有名なバルコニーのシーンを思い出させる。本来、プレイ・スペースに当たらない場所と思われ、多少、見にくいところはあったものの、反面、どの客席に対しても中立な空間といえなくもない。

神田が演出に専念したせいか、舞台上の演者の「表情」は隅々まで隙なく工夫されている。ただ、ひとつだけ難を言うなら、自分に演出するのを忘れていて、開演前に注意事項の伝達を含めて登場し、プロローグに突っ込んだときの彼自身のキャラクターが固まっていなかったのは反省点として挙げられる。些細なことではあるが、作者のコミュニケーション硬しと思われれば、作品にとって、決して良い影響をもたらさないだろう。

筋書きとしては暗めの部分もありながら、音楽的には、ほぼ明るくユーモアに満ちたものだけで構成され、異質な複数の世界(キャラクター)が出会い、幻想と現実という2つの糸で縫い合わされた作品は、モーツァルトの作品なら、『魔笛』のような雰囲気をもっている。同時代への風刺や皮肉のような要素も色濃いが、どちらかといえば、笑いや愛らしさといったものが際立って、寛いだ雰囲気で鑑賞ができた。特に「愛らしさ」は子どもたちだけが醸し出すのではなく、悪役を含めたすべてのキャラクターによって演出されている点が興味ぶかい。その点では、悪役といっても典型的な悪役は存在せず、皆が自分たちの信じるものを忠実に守ろうとしているにすぎないわけだ。それだけに、ラプンツェルの身に結集する矛盾が重く感じられた。

合唱がエモーショナルに歌ったように、どんな社会であれ、この世に生きることは素晴らしいのだ。ただ、その時々に生まれた人たちは、自分たちの既に置かれている境遇を選択することはできない。それを作り変えることはできるだろうが、急に背中へ翼を生やすこともできないのだ。その意味で、この作品は『あさくさ天使』の裏返しとみることもできる。「魔法」や「奇跡」ではなく、もっとコツコツとした積み重ねによって未来を作り変えていくことの大切さが、この作品の表向きには描かれざるテーマとなっていようか。魔女もラプンツェルを救うほどの魔法は使えなかったが、頁を開くと光る本が示すイマジネイションへの鍵がヴァーチャル・ゲーム『シンデレラ』に代わって、子どもたちを正しい方向に導いていくはずだ。

【補足】

なお、『白雪姫』と『ラプンツェル』は、ウォルト・ディズニー・カンパニーによるアニメーションの新旧の、代表的なヒロインでもある。総興収12億ドルに迫った『アナと雪の女王』が生まれる以前、『塔の上のラプンツェル』は全世界で6億ドルに迫る高い興収をあげ、日本では震災直後の2011年3月12日に公開されている。実際にはいずれも幻想的なキャラクターであるが、神田のオペラではラプンツェルが現実で、白雪が幻想と位置づけられ、両方をぶつけあわせるという発想はなかなかエキセントリックな刺激を発した。いずれも「グリム童話」に収録され、民話→グリム童話から、さらに多層的な枝分かれを通じて、今日での再生をみている。だが、ラプンツェルは性的な部分もあるせいか、日本では白雪姫ほどは広く知られた話ではなかったと思う。伝統的に後者が有名なのはやはり、ディズニーの功績が大きく、王子の接吻により姫が目覚める設定もディズニー映画が付け足したものだという。

我々はしばしば、商業的なものからも多大な影響を受けているようだ。その意味を含んだものかはわからないが、映画『スターウォーズ』をはじめとする商業音楽が、コラージュ的に使われていたのも特徴だ。1970年代の流行歌をジャズもしくは民謡風にアレンジした酒場の音楽なども面白い。昨年の作品にも映画『ゼロ・グラヴィティ』のパロディが入っていたし、ビートルズの編曲で公演をおこなうなど、神田は意外とミーハーなところも見せている。大事なことは、そうしたものが本来、もっていた発想の面白さや、活き活きした特長を上手に抜き取ることだと思う。その点で、彼の感性は鋭いところがある。反対に、歪められたものは皮肉に晒せばよい。

新作もまた、面白かった。

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舞台芸術」カテゴリの記事

コメント

おひさしぶりです
自分は観に行けなかったのであれこれ今回の作品に意見するのは難しいのですけど
アリスさんの記事などネット上での感想を読んだ印象で考えると
徹底した管理社会から子供達が逸脱するのは以前の「終わらない夏の王国」でもあるように
神田作品の子供達は好奇心旺盛で管理からはみ出るだけの意思を持っているのではないかと。現代のインターネットでもハッカーという存在がありますし。
好奇心までシステムで管理するとなると(アニメ・まんがオタク的にですが)竹宮恵子の「地球へ」の様に機械がテレパシーで意識を操作するところまでやらないと出来ないのではないかと思います。

ご投稿に感謝します。

3058年という設定で、何でも自由に未来のテクノロジーを想像することは可能と思いますが、神田さんは敢えてそうせず、現代でも既にワイヤレスな時代であるにもかかわらず、3058年でも未だに有線で子どもが管理されるのは矛盾ですが、彼らが縛りつけられている象徴として使ったのだと思います。

>神田作品の子供達は好奇心旺盛で管理からはみ出るだけの意思を持っている

この指摘は、きわめて重要であろうと思います。逆にいえば、こうした好奇心がどんどん失われているのが、今日の日本社会の特徴でありましょう。新しいことを始めたり、知ろうとすることへのきわめて慎重な態度や、学ぶことに対する極度のコンプレックス、トライ精神の欠如や、失敗に対する異常な警戒感。なにより行動力の不足。神田作品から、我々が学ぶべきものは多いと思います。

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