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2015年5月20日 (水)

ラ・フォル・ジュルネ ハイドン『我らが救い主の十字架上での7つの言葉』 ジャン・クロード・ペヌティエ pf /ペルト『ヨハネ受難曲』 ヴォックス・クラマンティス 5/3

【フェスティヴァル的ではなくなってきているLFJ】

今年のラ・フォル・ジュルネ(東京/以下、LFJ)では、個人的には仕事の都合もあり、5/3の1公演のみを予約購入した。当日、最初の公演のあとに無料公演を2つ聴いて、その後、2つの有料公演を買い足すことにした。注目度の高い公演を買う場合に、多額の手数料を上乗せしなければならない上に、座席もあまり選ぶことができないプレイガイドのシステムには飽き飽きしている。LFJでは他で味わえないような、独特のプログラムが楽しめる場合もあるし、ここでしか見られない独特なアーティストとの出会いもあるが、イベントの個性は年を追って急速に失われつつある。そのなかではネットで予約し、手数料なしで行列のない端末の簡単な操作だけで発券をおこなう「すいすいチケット」の導入が比較的、良心的に思え。これを上手に活用することが多少、イベントの雰囲気を盛り上げるのに貢献すると思う。

最初の公演、ジャン・クロード・ペヌティエの公演(正午過ぎ)から、もうひとつの目当て、ヴォックス・クラマンティスによるペルトの受難曲までは時間があったので、会場内をぶらぶらしていたが、最初のころと比べるとマスの動きが整理され、音楽祭の雰囲気は穏やかになった。率直にいうと、若干、寂しげなのだ。僕らは普段から、チケットを予約し、30分くらい前についてロビーに入るというようなことをやっている。オペラだと、若干、早いぐらいのはなしだ。LFJでも、同じようなことしかしなくなったのではなかろうか。余った時間をぶらぶらと、ゆっくり過ごす人の影は大きく減少した。そのことが聴き手にとって良いことなのか悪いことなのか、僕には判断がつかないのだが、少なくとも非日常のフェスティヴァル的な雰囲気ではなくなっており、そこは残念に思われる。この公演の「名物」・・・演奏がおわるや否や、アプローズもそこそこに続々と会場を抜けていく人たちの姿は決してなくならない(なぜ、少なくとも30分以上は、公演の間隔をあけて予約しないのだろうか?)。そういう光景を前にすると、僕は劣悪な環境でもプロ精神を失わず、誠意を尽くした公演を披露してくれるアーティストたちに申し訳なくて、こころが痛むのだ。

【意趣を尽くしたペヌティエのパフォーマンス】

12:15からのペヌティエの公演は、特にそうだった。この公演では、LFJを通じて日本に広く知られるようになったピアニストが、東方正教会の司祭というもうひとつの顔まで披露して、ハイドンの傑作『我らが救い主の十字架上での7つの言葉』がいかなる宗教的雰囲気に基づいた音楽なのかを、真心こめてプレゼンテーションしてくれたのだ。ペヌティエは各楽章の前に、そこで描かれる「言葉」に対応した場面を聖典から抜き出して、朗読する。場面自体は、バッハのマタイ/ヨハネ受難曲などを通して、クラシック音楽の愛好家ならば、キリスト教徒でなくともお馴染みの場面であるのに、その細部を読まれると、また別のイメージが浮き上がってくるのを感じた。これほどに意趣を尽くしたコンサートに、十分な敬意を払わない聴き手の姿勢は私には考えられない。

ここで朗読した聖典はラテン語でなく、フランス語訳である。聖職とともに、音楽を生業とする司祭は、その母国では、このように信徒たちに向かって語りかけるのであろうか。そういえば、親戚の法要のとき、自分でシチュエーションにあう歌をつくって披露する坊さんがいて、なかなか上手なものだったが、西洋の司祭もときには、自分たちに恵まれた才能を生かして語りかけることがあるのかもしれない。ペヌティエの場合はピアノ演奏と、重みのある低い声、そして、俳優のように深い朗読の才がそれに当たる。先日、フランス映画(『愛して飲んで歌って』)をみたばかりだが、出演していたベテランの俳優たちとさほど変わらないペヌティエの美しく深い発声と、巧みな言葉のアーティキュレーションを耳にしたら、天国のアラン・レネ監督だって黙ってはいないかもしれない。

【十字架上の7つの言葉】

さて、ハイドンの『十字架上の7つの言葉』は元来、実用的な音楽だった。1786年、スペインのカディス大聖堂からの依頼で、聖金曜日の礼拝に用いるための音楽として、ハイドンは福音書の受難の場面に対する作曲を始めたのだという。彼はこの作品に特別な愛着を感じたようで、オリジナルの管弦楽版から弦楽四重奏版声楽付きのオラトリオ版を編曲し、鍵盤クラヴィーア版への編曲にも反対せず、これを監修したという。近年ではモダン・ピアノによる演奏も珍しくはないが、NMLに掲載されたアレクセイ・リュビモフのタンジェント・ピアノを用いた演奏のように、ピリオド楽器を用いた解釈にも素晴らしいものがある。モダン・ピアノでは、そうした色彩感には欠けるものの、逆に質素な味わいを感じさせる面もあった。リュビモフの演奏で示唆的なのは、音楽がきわめて明るく聴こえることであり、この点ではペヌティエの演奏とも共通点がありそうである。

今回のように、テクストと音楽を並べてみると、ハイドンが直接、「言葉」との接触を避けながら、実に巧みな形でイエス・クリストの言葉の意味を感じさせようとしていたことに気づかされる。作曲家の性格的な明るさもあるが、作品は極限状況においても、概ね明るさと優しさに満ちたもので構成されていた。言葉やイエスをめぐる状況そのものよりは、そこから導かれる信徒たち(ハイドン自身を含む)の情感により親密な音楽なのだ。そこにピアニストの表現の個性が加わってくるのだが、ペヌティエの場合は厳格でありながら、即興的で自由な面もあり、なにより響きの優しさが際立っている点が印象的だった。こうした演出のせいか、演奏の精度は若干、集中を欠いたものになる瞬間もあったが、それを強調的にいうのはアンフェアだ。ペヌティエはひとつひとつ、言葉を選ぶように弾いていた。誠実そのものの人だろう。

西洋におけるミサの形をも体験させるこうしたプログラムは、それが当たり前である欧州人よりは、むしろ日本人に対して刺激的な演目であったかもしれない。1曲ずつ切って、聖典からの言葉を差し挟むパフォーマンスには若干の戸惑いもみえたものの、あとでペルトの受難曲などを聴いてみると、この演奏を聴いたことがじわじわと内面に響いてくるのを感じさせたのである。

第1の言葉「父よ、彼らを赦して下さい。なぜなら、彼らは何をしているのかわからないからです」でしみじみと現代を突き刺した表現に打たれ、大昔にあったはずの清らかな言葉と、エピソードが、奇妙に現代に直接、響いてくるのを感じながら聞いていた。音楽はそれを鏡に映しながら、人々のこころに投射する役割を担う。7つの楽章で構成される作品で、一際、こころに響いたのは第4曲だ。この作品の演奏前に読み上げられたメッセージは、まるで2011年の出来事に出会った私たちを、つまり神に見捨てられたかのような私たちを、改めて慰めるような意味をもっていたのではなかろうか。そこで奏でられる音楽には、先に述べたような緩みは一切なく、ペヌティエの誠意が雷のように轟いた、というと大げさになるだろうが、本当はもっと静かに、内側に、美しく「落ち葉がうすく敷き詰められた」とでもいうような一時だった。そこを歩くと、枯れた葉がかさかさと音を立てて・・・。

これと対比的に描かれるのは、第7の言葉からさすがに言葉を挟まずに、アタッカで表現された最後の地震の音楽である。それまで優しさそのものであった音楽が、この地震によって一挙に突き崩されるわけだが、そんなときにも、ピアニストは決して聴き手をひとりにはしない。ジャン・クロード・ペヌティエとはそのような弾き手であった。

【善悪を越えた音楽】

この公演と、夜のペルトの公演は、まるでひとつがいのようになっている。意図的に、そのように計画したわけではなかったが、私がことしのLFJで本当に聴きたいと願ったプログラムはこの2つだけだったのである。どう選ぶにしても、LFJの舞台をそれなりに深く楽しもうとすれば、我々はルネ・マルタンの術中に嵌まっているのにちがいない。それにしても、もしもペヌティエのパフォーマンスを聴いていなかったら、私はペルトの受難曲にこれほど深い感銘を受けたであろうか。繰り返しが多く、単調な音楽だ。アンサンブル・ノマドの公演に登場した朝崎郁恵さんの歌を評した人の話ではないが、どこで切れたのかもよくわからないし、下手と上手に分かれたイエスとピラトの判別は可能だが、彼らにさえ、期待したようにハッキリしたちがいは見当たらない。

アルヴォ・ペルトの『ヨハネ受難曲』は、1982年に作曲されたものだ。その作曲年代からして、特段に新しい要素はないとはいえ、さりながら、どこにでも転がっているような繰り返しの音楽とはわけがちがう。大昔からあった音楽のようでいて、それらともまた異なっているものだった。なお、ペヌティエはフランス語訳の聖典を用いたが、ペルトはこの時代で、なおラテン語テクストを用いている。ペルトは1967年、東方正教会のミサでうたわれる単旋律の歌につよく魅了されたと言われ、その点でペヌティエとは接点があった。LFJの故郷、ナントのあるフランスは歴史的にもカソリック最大の守り手にして、政治的な介入者でもあったが、「パシオン」=情熱、受難をテーマとする今回、バッハのようなプロテスタント、そして、カソリックとはまたちがう視点が提供されていたというのも興味ぶかいことだ。ルネ・マルタンのような策士ならば、そうした振り幅の大きさにむしろ、より大きな関心を抱くのだろうと思う。

演奏はペルトの母国、エストニアのアンサンブル「ヴォックス・クラマンティス」が担当した。下手にイエスの言葉を担当する歌い手、下手にピラト、中央にオルガンと小編成の器楽アンサンブルに加え、イエスとピラト以外で中核的な歌い手4人(ソプラノ、アルト=カウンター・テノール、テノール、バス)。さらにステージ全体に散開して、歌い手が配置された。会場規模にあわせ、オルガンのみに増幅を入れる。当然だが、パイプ・オルガンはなし。イエスとピラトの対称性、中央に収斂するのではなく、凝縮から散開したアンサンブルに広がっていく音響配置はきわめて示唆的で、音楽表現の原始的ともいえる素朴さに対して、現代的なデザインが際立っている。特に注意すべきは、イエスとピラトにさほど差がないことである。イエスの言葉には高貴な背景音がつき、ピラトのそれはやや歪んだハーモニーで構成されるというちがいはあるものの、バッハの受難曲のように、善悪がそれほど定かではなく、それを表現するための音楽ではないところに特徴を指摘することができるだろう。

バッハの受難曲では、ペテロやユダといった使徒の背信行為や、ユダヤ人とその指導者たち、そして、ピラトによる過ちが批判的に描かれ、それを多くの場合、エヴェンゲリストが感情ゆたかに語っている。これらを背負ってイエスが死んでいくというところに作品のドラマトゥルギーの要が置かれ、過ちを犯す人たちに対する視点はきわめて厳しいものである。ところが、ペルトの受難曲では、これらの人たちは同様に出てくるものの、イエスを裏切ったり、貶めたりする人たちの行為は卑劣であるにもかかわらず、それに対する批判めいたものは一切姿を現さない。音楽的にも、そうした描写はないのである。これに代わって、ペルトの作品から感じられるのは究極的な真っ白さ、あるいは、清潔この上もない音響的な美しさだけであった。

すべては、神の言葉と結びついているのだ。汚らわしいものまでが、神の言葉を成就するには必要なものであって、いま、そこに必然的に生じている。聖典には、そうしたものを排除する発想はない・・・そのように言いたげではないか。人々はいわば、神の命じるままに役者のように演じているにすぎないのだ。これらの人々をあらゆる哲学や倫理、信仰のあり方によって断罪することなどできはしない。ペルトはただ、それを静かに見つめ、耐えるという音楽を書いたのである。移り変わるのは、和音のちょっとした組み合わせだけ。それもほとんどの場面では短調か、あるいは、いずれとも判別しにくい微妙なバランスをもっているにすぎない。最後に善悪が合一し、短いが、明らかな長調に転じてアーメンで終わる。ペルト以外の、誰にこうした音楽が書けるだろうか。

ただ、このような等質性のおかげか、イスカリオテのユダの役どころは除かれている。ユダの代わりに、当時の支配者であるピラトが位置を占めているのは、ユダとイエスの立ち位置がフラットになれば、必要以上のインパクトを与えることに配慮したことと、為政者とそれを支える民衆という視点を入れたかったことによるのではないかと思われる。

バッハの作品では劇的な展開がスムーズで、テクストも緻密に構成されているが、ペルトの場合はしばしば場面もとびとびになり、ポエジーがそれらをつなぎ合わせるが、その役に立つ音楽的な要素や、劇的な配慮は希薄である。いわば焼印で押された音楽を、私たちはスライドして聴いていくことになるのに、それがなぜ、これほどまでに人の内面に鋭く届いていくのかということは、既に十分、神秘的な問題である。人々はペルトが学んだような素朴な音楽の世界から、人間の感性や情感の多様さに応じた様々な表現を工夫して増やしていったが、それらがまるで無駄であったかのような表現には驚かされる。しかし、エストニアにはそうした表現を受け止めるだけの懐の深さがあるにちがいないことは、先日のアンサンブル・ノマドの公演でも確認できたところだ。

【一体感】

ヴォックス・クラマンティスにとっては、ペルトは自らの国に、こころ入れた作曲家としてみられるであろう。彼らは同時に、グレゴリアン・チャントなどを得意とし、その澄みきった表現は一見、フランス的な洗練も示しているが、技術的な鋭さだけに流されず、粘りづよく立ち止まって音楽を待つ姿勢はエストニアならではのものであると評することもできそうだ。そして、そのような姿勢を共有する国として、日本は意外に相性が良いのかもしれない。ただ、我が国のように少数の信者は抱えるものの、根本的にはキリスト教の信仰とあまり関係のない国で、このような作品を演奏するのは彼らにとって、どういう気持ちのことなのかは想像もできない。

宗教以外のより広い領域において、このホールCでは不思議な一体感が生まれたのも確かである。終演後、個々のオーディエンスにとっては当夜、最後の公演ということもあり、いつ果てるともしれない熱狂的な拍手がいつまでも続いた。その反応に、思わずガッツポーズをつくる女性団員の姿を、私は見逃さなかった。それは単純な達成感に基づくというよりは、自分たちの表現がとにかくも、このような場所でわかってもらえたということへの安心感のようなものとしてみえた。異なるもの同士がわかりあうという、こうした安心感を得るためにこそ、音楽は存在するのかもしれない。

【私のフォル・ジュルネ2015】

私にとってのラ・フォル・ジュルネ東京は、この1日だけだった。2公演を含め、通った演奏会をすべて挙げてみると、以下のようになる。

1、ハイドン『我らが救い主の十字架上での7つの言葉』(pf:J-C.ペヌティエ)
2、SPARK@展示H
3、アイーダ@展示H(題名役:津山 恵)
4、ショスタコーヴィチ『SQ8(バルシャイ編)』(cond:ロベルト・フォレス・ヴェセス)
  &ヒンデミット『主題と変奏「4つの気質」』(pf:A.コロベイニコフ)
5、ベートーベン『交響曲第2番』第1楽章(東京ユヴェントスpo)
6、ペルト『ヨハネ受難曲』(ヴォックス・クラマンティス)

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