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2015年6月 4日 (木)

ショルテス R.シュトラウス 歌劇『ばらの騎士』 再演 (J.ミラー演出) 新国立劇場 初日 5/24

【言葉を行動でひっくり返せ】

この公演を前に、オーケストラの内部からSNSのなかでネガティヴなコメントがあった。こころの通わない指揮者との共演は気が進まないというもので、それをみた私はなるべく偏見をもたないように努めた。その指揮者、シュテファン・ショルテス氏はエッセン州立劇場のGMDとして、劇場管を専門誌『オーパンヴェルト』のセレクションで2度も最優秀にした輝かしい実績を誇っている。また、リヒャルト・シュトラウスの歌劇『ばらの騎士』がこの日の演目だが、作曲家から歌劇『ダフネ』を献呈され、『無口な女』を初演したカール・ベームのアシスタントを務めたこともあり、ショルテスはシュトラウスの音楽については一家言をもっている人物だ。その片鱗は二期会の公演で、ペーター・コンヴィチュニイの刺激的な演出で上演された歌劇『サロメ』のときも遺憾なく発揮されたが、この公演は演出と演奏の両方で賛否が分かれたものである。私はそれらのいずれにも、強い賛意を示した記憶がある。

ドイツで活躍する別の邦人オーケストラ奏者によれば、口は悪いが、それでもショルテスに対する尊敬を示した言葉が聞かれる。新国立劇場の合唱指揮者のひとりは、いまどき、あまりいないタイプだと漏らしている。しかし、彼らの劇場の現在のボスも、そんなタイプかもしれない。投票で選ばれるような指揮者だけが、優れているとは限らないものだ。例えば、ベームだって、決して人格者ではなかったという逸話が後世に紹介されている。だが、彼の録音を聴いて、感動しないはずがあるだろうか。今回の上演について語るときにも、ショルテスの手腕はやはり抜きん出たものといわざるを得ないだろう。もしも彼との間に何らかの不和があったとするなら、それでも、東京フィルはプロとして最高級の仕事をしたことになる。彼らは観客のために、望み得る最高の仕事を捧げたのだ。それなら、あり得ない団員のコメントもかえって輝きだすことになる。言葉は、行動によって引っ繰り返すことができるのだ。

スケジュール的には、とても厳しい状況であったといえる。まず新国立劇場の公演スケジュールがこの時期は過密で、ヴェルディ『ラ・トラヴィアータ』のプレミエと、R.シュトラウス『ばらの騎士』再演の日程が交互に重なっているところがある。さらに東京フィルは自団の公演で、アンドレア・バッティストーニを迎えて、プッチーニの歌劇『トゥーランドット』の演奏会形式上演と、オーケストラ・コンサートをそれぞれ近くに予定していたのだ.。こうした面から、指揮者がフラストレーションを溜めた可能性も否定はできない。それによって、オーケストラが不信を感じるときもあっただろう。

ただ、これらの悪条件にもかかわらず、『ばらの騎士』初日は裏も表も含めて、圧倒的な成功だったと言わざるを得ないのだ。確かに、序奏からしばらく、あまり立体的に立ち上がってこない演奏の平板さにはヤキモキさせられた部分もある。しかし、場面を追うごとに調子を上げ、マルシャリンとカンカンの語らいが始まるころには、もう、ある程度の成功がみえるところまで来ていた。アンネ・シュヴァーネヴィルムス(元帥夫人)&ステファニー・アタナソフ(オクタヴィアン)は煮えきらない序盤をうまく縫い合わせてくれたし、ユルゲン・リンのオックス男爵が登場すると、響きと演技のパレットは燦然と豊富になった。

ショルテスの音楽の素晴らしいところは、3つほど指摘できるだろう。そのひとつはオーケストラの先頭に立って、果敢に全体を導く卓越した姿勢である。事前にどんな不和があろうとも、本番ではもう、必死に舞台の内側に入り込んでいってしまうマエストロの姿に誰が逆らえるというのだろうか。いくつかの場面では、弦楽器奏者の立場からすれば、もうすこし腰を据えて、じっくりとスペースを確保してほしいと思うときはあっただろう。そうでなければ、響きにふくよかな膨らみを出すことは不可能で、それによって生じる立体性のなさが問題になりそうな場面はいくつかあった。だが、そうしたものを犠牲にしても、ショルテスにとって、残り2つの特長が彼にとっての「歌劇」のすべてなのある。それはカンヴァッセーション(会話)の活き活きした描写と、それを生かす雰囲気の作り方だった。

【ばらの騎士とフィガロ】

この作品はよくみると、モーツァルトの歌劇『フィガロの結婚』と重なる部分が多い。例えば、オクタヴィアンはケルビーノに擬せられ、同じようにズボン役で、フィガロでは伯爵夫人のほか、スザンナやバルバリーナとも色を共有し、騒ぎを起こす役回りを『ばらの騎士』で同様に演じている。無論、シュトラウスは相当のひねりを入れ、オクタヴィアンを高貴な伯爵の身分に据え、元帥夫人マリー・テレーズとフォン・ファーニナル家の令嬢ゾフィーへ同時に関係させるだけでなく、変装した女中のマリアンデルとしては、オックスとも関係させているのだ。もちろん、賢明な読者なら誰でも、ケルビーノが花売り娘に変装したことを憶えているだろうし、フィガロの最後の場面は衣裳の入れ替えによってオチがつくことをもよく知っているはずだ。

元帥夫人はフィガロの伯爵夫人に擬せられているのが明らかだが、嫉妬ぶかい夫は登場せず、むしろ、ほったらかしの印象を抱かせる。若いオクタヴィアンに与えるような魅力にもかかわらず、元帥は恐らく、任地で好き勝手をしているにちがいない。その点、自由なところのある彼女だが、第1幕冒頭ではことの発覚に怯えている節もある。いわゆる序曲部分は、この夢を描いているのだと知ることはショルテスの指揮によっては容易いことだが、いままで、そういう風に感じたことはあまりなかった。モティーフの性格が彼によって静かに明らかにされ、多少の軋みは合っても、音楽は感情ゆたかに振る舞う。すると、どうだろう。その軋みさえ、登場人物の・・・あるいは、シュトラウス自身の苦虫かみつぶすような雰囲気と対応してくるのである。さて、拙いことが起こると、スザンナやフィガロの知恵に頼る夫人とは対照的に、マリー・テレーズは自らの才覚によって、不本意に生じたドタバタ劇を収めることができる。そのことについては、あとで別に述べるだろう。

そのほか、ドタバタ劇の主要な仕掛人となる陰謀家の兄妹、ヴァルツァッキとアンニーナは、フィガロにおけるバルトロとマルチェリーナの関係の投影である。このジョナサン・ミラーの演出では、杖の男として登場するヴァルツァッキが随所に重要な役割を演じている。初日は高橋淳が好演したものの、その後、体調不良により降板し、前回の長期休養もあったため、周囲を心配させているところだ(結局、千秋楽まで復帰はかなわず)。アンニーナ役は加納悦子で、オクタヴィアンでもよいくらいの好パフォーマンスで、この2人の脇役がひとつの鍵を握った公演でもある。なお、アンニーナがどうも文盲らしいオックスに、「マリアンデル」からの手紙を読み聞かせる場面も、フィガロの有名な場面「手紙の二重唱」(スザンナ&伯爵夫人)からのパロディである。

レチタティーボの復活こそないものの、シュトラウスは『フィガロ』を下敷きに、同時代、もしくは、僅かにそれ以前の作品を巧みに仕込んで、パロディに次ぐパロディ、アイロニーに次ぐアイロニーで作品を固めた(特に第1幕)。多分、夫人のための気休めのために、元帥の同僚が送ってくるテノール歌手は、一足先に終焉を迎えつつあるイタリア・オペラに対する風刺の賜物である。また、作品には、マーラーの交響曲第2番のテーマと、ほぼ同じような素材が登場する。ただし、それはワーグナーの歌劇のように扱われ、二重の風刺を伴っている。意外なことに思われるだろうが、この作品の作曲は1909-10年で、マーラーの交響曲第2番は10年以上も前の作品となる。結局、オペラをものにできなかったマーラーを風刺し、ぎょっとする(ほど平気な)場面で使っている。それが幾分、ワーグナー風にアレンジされていることから、マーラーの内的葛藤をシュトラウスは密かに活写していると推察できる。つまり、彼はワーグナーの亜流だったために、何も得ることがなかったのだ。自分はワーグナーが好きでも、亜流ではないと言っているわけである。

【シュトラウスの真意】

結局のところ、スケベで人の好いアルマヴィーヴァが作品の鍵を握ったように、『ばらの騎士』ではオックスが同様の役割を果たす。彼はアルマヴィーヴァの投影であると同時に、作曲者のもっとも色濃い影である。彼の存在や音楽的テーマと、マルシャリンのそれを符合させたとき、ようやく作品は真の姿を現す。終幕のマルシャリン、オクタヴィアン、ゾフィーによる美しい三重唱、あるいは、その手前のマルシャリンの独白によって、秘密はすべて語り明かされる。過ぎゆく最高の美しい時間、若々しくエネルギーに満ちた二人と、それをもはや引き留められはしない至高の美しさの共存。第1幕に優勢な過去の作品の引用に対して、シュトラウス劇のひとつの到達点がここにあるのだ。第1幕の風刺に対して、そのおわりのほうで示したマルシャリンの独白に秘められたモティーフを用いて、第2-3幕で一挙に自分らしい世界を展開するのがシュトラウスの真意である。最後、立場上、マルシャリンの態度は粉飾されているが、こころのうちは未練たらたらと想像できる。リヒャルト・シュトラウスも伝統に立脚したモダーニストであるが、どちらかといえば過去に対して親和力が強く、つまりは、貴族社会のなかでの限られた自由のなか、ひときわ輝いた優雅な芸術としての歌劇に最後までつきあった作曲家なのである。

彼の作品の最大の理解者として、ハプスブルク家の落胤とも噂されたクレメンス・クラウスがあるのも理の当然のように思えるだろう。ウィーン音楽の歴史において、押しも押されもせぬ最高権威者であるクラウスは今日、ウィーン・フィルがおこなうニューイヤー・コンサートの創始者としても知られるが、シュトラウスの歌劇『カプリツィオ』の台本を書き、巨匠が自ら最後を飾るための手助けも怠らなかった。

クラウスとは異なり、根っからの野蛮人であるオックスは多分、文盲であり、かなりプライヴェートな内容が予想されるにもかかわらず、先にも触れたように、アンニーナに手紙を読んでもらわなければならないほどの教養しか持っていないのである。領地のレルヒェナウというのがどういう土地かはわからないが、調べてみるとバイエルン地方のミュンヘン郊外の小村で、使用人の様子をみても、当時は相当な田舎であったことは間違いない。この点で、『アラベッラ』では高貴に描かれていたのと、同じような地方領主貴族の燃え残りとしてオックスが存在を占めているのは明らかだが、既に経済的な破綻を迎えており、領主として手にしていたはずの特権も奪われてしまったという。失地回復の一策として、金持ちの成り上がり貴族、フォン・ファーニナル家との縁談をまとめるのに躍起になっており、また、フォン・ファーニナル氏としても、自分は病弱であるから、家門の地位を今後とも変わらずに確保するためにはオックスの立場を利用することも必要と思われたわけだ。

この背景を理解しなければ、作品全体にわたるモティーフを理解するのは難しいだろう。オックス男爵は無類のスケベで、遊び人というだけでなく、それで一財産を潰すほどの強烈なロマン主義者でなければならない。それが第2幕の最後でまとめて歌われる、’Ohne mich...’の魅力的な歌として象徴される。その点では、マルシャリンとも一脈通じているわけだが、彼女が最終的には放棄するものも、オックスには諦めきれないものなのである。この劇でオックスは散々にとっちめられはするが、最終的に無条件降伏をしたという風にはみえない。これ以後、シュトラウスの創作はより享楽的でありながら、直後の『ナクソス島のアリアドネ』のように斬新さを失わない作品を書きつづけ、伝統と革新の双方をつなぎ合わせるような独特の地位を保っていくのである。夫婦喧嘩さえ見事に独創的な作品に仕上げたと思ったら、伝統的なギリシア悲劇にも立ち返るという風に。

やや前のめりながらも、ショルテスが追い求めたのは興奮で震えるように、この作品を身体全体で描き上げたシュトラウスの姿であり、ごく内省的な特徴だ。一見、不安定で、カサカサした響きの特徴が、そのようなものの隠喩であることは論を待たない。また、シュトラウスはひとつひとつのキャラクターには脇役に至るまで明確な個性を求め、マルシャリンとカンカンのような恋人同士でさえ、簡単に馴れ合わないような音楽を書いたのである。2007年には、我々にとって見本となるチューリヒ歌劇場の来日公演で、のちにウィーン国立歌劇場のGMDともなるヴェルザー・メスト氏が指揮を執り、ひとつの名演を残した。シュテンメ、カサロヴァ、M.ハルテリウスの三重唱が期待どおりにとろけた素晴らしい公演も、この日の公演と比べると、シュトラウスの真意とは若干、異なるものを描いたように思われるところがある。

作品のキャラクターは、いわば池泉回遊式庭園に配された築山や島、岩のようなもので、オーケストラが水の役割を果たして、それらのイメージをつなぎわせていく役割をする。この見事な水のコントロールは、明らかに指揮者の手腕によるものだ。弦のときにやや反発を帯びた鈍い響き(それも幕を追うごとにしなやかに変わっていく)に比べれば、金管の響きは堂々として揺るぎがない。木管はミスもあったが、キビキビとした表情をつけている。今回は、声楽アンサンブルの扇の的にバスのユルゲン・リンが入り、強烈なダイナモになった。彼には「ブラヴォー」ではなく、「ダンケ・シェーン」というべきだろう。そして、シュヴァーネヴィルムスは彼女自身の歌がどうこうというよりは、相手役との関係のなかでひときわ輝く歌い手のようであり、オクタヴィアンのアタナソフをはじめ、彼女と一緒にうたう歌手たちは、自分がもっている以上のものを彼女の導きによって引き出されたと感じるだろう。

ここから言えることのひとつとして、おわりの三重唱は、正確にはオクタヴィアンとゾフィーの対話を、マルシャリンという鏡に映したものであるという問題があった。若い2人の関係はマルシャリンが見抜いたように、運命的な一目惚れから始まったが、その後の顛末によって簡単には喜べない関係に陥っていた。ヴェルザー・メストがひとつにまとめたものを、ショルテスはまず3つに割り、やがて1対2の構図に組みなおしたていったのである。これが、見事な効果だった。イメージが変わる。これぞ、真実だ。わだかまりは対話のなかで少しずつとろけ、苦悩を突き抜け、歓喜に至る。演出のミラー、もしくは再演演出の三浦安浩は重唱がおわると、若い2人を弾けるような笑顔にさせ、まるで恋する高校生たちのようにはしゃいで退場させた。このとき、私の胸にじんと熱く立ち上ってくるものがあった。この場面はもとから好きなところだし、この作品を愛する多くの人がそうであろう。しかし、いつものそれとは、まったくちがう感慨があったのではなかろうか?

【まとめ】

弦楽器を含めて、オーケストラは最終的に、ショルテスの描く細々とした心理的描写の妙にうまく反応できるようになった。多くの場面で、歌の台詞と音楽的な展開が密接に関係し、そこから風刺や、作曲家の思い描く多様なメッセージが活き活きと浮き上がるようになっている。既に述べたような、第1幕冒頭の「夢」の描写もそうだ。これほど明確に、作品が「夢」によって描かれたことはない。

もちろん、その中心にマルシャリンとオックスの2人がいるのは変わらない。2人とも、夢をみている。バロンについては既に多くを語ったが、第1幕、鏡台の前で時の流れを悟る彼女の姿もまた、この上もなく燦然と輝いた場面だと思う。それをそのままオクタヴィアンにぶつける台詞まわしから、関係が変異し、オクタヴィアンはそれを背負いながら「ばらの騎士」となってフォン・ファーニナル家へ向かい、そこで自らに見合ったゾフィーに出会うのだ。この演出では、ゾフィーは若干、割を食っているところがある。なぜなら、彼女は町人階級出身の素朴な娘としてではなく、もう既に貴族としての準備ができた落ち着き払った若い婦人として描かれるからだ。衣裳はグレーを基調として、若さゆえの陽気な派手さは取り除かれている。貴族の家系図を眺めながら、自分が誰のところに入るのか想像している、やはり、ちょっとヘンなところがある空想家の娘としての表情はあまり強調されなかった。アンケ・ブリーゲルの初日の舞台は序盤が特に硬く、場面を追うごとに良くはなって及第点だが、ドイツ歌手らしく、技術的な多彩さでは役柄に対して、若干、物足りないところがある。

ジョナサン・ミラーの演出は、特に際立つアイディアはないものの、それぞれの場面で主要な空間だけを目一杯に飾り、焦点をずらさない演出は理解がしやすいと思う。例えば、第3幕のドタバタ劇では、先のチューリヒの演出(S.E.ベヒトルフ)ではチマチマしてわからなかったものが、この舞台ではそれぞれの効果がハッキリしている。この幕はいわばシンフォニーの構造になっており、最後、それまでに登場したキャストがオックスに報酬を次々に要求し、彼の退場によってそれがおわるのだ。アンニーナの演ずる「捨てられた妻」と子どもたちは、第1幕の戦災孤児と音楽教師に対応し、その陰翳が鋭い風刺になっているのは明らかである。そういう意味では、シュトラウスも第1次世界大戦前夜のきな臭い雰囲気のなかに浸りきっていた。

1909年はシェーンベルクが『管弦楽のための5つの小品』(op.16)を書き、音楽史の上でも大変に重要な年である。同時に、『ばらの騎士』が書かれていた。これら2つの事実は無関係のようだが、そうではない。第一に、2つの作品は同じような内面的モティーフを共有しており、それは時代柄とも関係している。シェーンベルクの妻が別のオトコと通じ、『ばらの騎士』という作品が錯綜した男女関係や、身分の混乱のなかに生きているのは偶然ではない。だが、賢明なシュトラウス氏は自分が大事にしているような価値観念が、もうすぐきれいに塗り替えられてしまうであろうことを知っていたし、そのために起こる強烈な悲劇についても予感していた。だが、それをそのまま悲劇として描くのではなく、『フィガロ』と対比的な関係のなかに生じる面白い会話劇と、複雑な恋愛模様のなかにまぜて恭しく描くあたりは、耽美的なシュトラウスの抜け目のない知性を象徴している。確かに、『ばらの騎士』はもっともシュトラウスらしい作品のひとつであろう。

ミラーが中心的な部屋に視点をまとめる一方で、その片脇に比較的、広くとった廊下は効果的に印象づけられる。人々はここを通って、作品世界の内外を出入りするわけだ。また、この廊下は1-2幕では下手側、終幕では上手側に設けられているが、それらの両方を同じように目にできる観客は少ないのも示唆的である。あなたが観ている舞台だけではなく、もうひとつの舞台があるのだと演出家は言っているかのようではないか。実際、比較的、単純な色恋沙汰の筋書きにもかかわらず、これほど多彩な見方をされる作品も少ないのではないかと思う。シュトラウスの作品は最後の『カプリツィオ』に象徴されるように、それらの片方を選ぶことなく終わるようにできていることが多く、それだけに奥行きが深い。

日本のオーケストラにとって、ウィーン音楽は鬼門だった。しかし、今回の仕事で、少なくとも東京フィルはひとつの殻を破ることを得たと言えるだろう。噂に聞くような歯に衣を着せぬ物言いにもかかわらず、終演後のショルテスはオーケストラに対して並々ならぬ敬意を捧げているのである。まだ戸惑いもなくはなかったが、初日の公演を通じて、ある程度、マイスターに対する信頼が生まれたのは想像に難くない。疑問はあっても、この公演の成功のために安全運転よりは目一杯のチャレンジを選ぶオーケストラの気迫も凄いと思う。彼らの存在が、この劇場の大きな武器であることは間違いない。かつて、「初日は公開GP」といわれた事情も今は昔だ。素晴らしい初日の公演に、フロアの盛り上がりも格別だった。

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