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2015年7月 1日 (水)

エリシュカ ベートーベン 交響曲第4番/ブラームス 交響曲第4番 札響 578th 定期 4/20 (2日目)

【岐路に立つ札響】

札響に、一足遅れの春がやってきた。本拠地KITARAの改修により、シーズン・インが6月にずれ込んだためであるが、ホールの改修は主に「内臓」の手術が中心で、音響やアメニティに関する大きな変更はない。一方、新シーズンの札響は音楽監督の尾高忠明が「名誉音楽監督」に棚上げされ、同時に何人かの首席奏者や、コンサートマスターの伊藤亮太郎が去っていった。ティンパニとコントラバスの補強はまだで、当面は客演奏者を呼ぶしかない。新たなトップポスト=首席指揮者に就いたのはマックス・ポンマーで、来日回数も多め。エリシュカは「名誉指揮者」に格上げされて、定期的な来日を継続。この体制がどのような将来を生むかについては、まだ未知数だが、いくつかの難しい課題を同時にこなしていかなければならないのは確かである。

それを占うかのような、エリシュカのブラームスの交響曲シリーズ第3弾で、2015-2016年シーズンが幕を開けた。これまでは「パスティエル」というプライヴェート・レーベルがドヴォルザークやヤナーチェク、チャイコフスキーの録音を入れてきたが、ドイツものについてはやや規模の大きいアルトゥス・レーベルが録音を担当し、ブラームスの交響曲第3番と、第2番が当日までにリリース済みとなった。4番も問題がなければ商品化されるという。これらのうち、2番の録音は札響の演奏もきわめて完成度が高いもので、これまでの力強い成果を物語る記念碑的なものになった。

思えば、私がエリシュカの演奏を初めて聴いたのは、ドヴォルザークの交響曲第6番がメインだった2008年の演奏会で、それから早7年もの歳月が流れたとは信じがたいが、その間に札響の手にしたものは計り知れないほど大きく、そのことは当ブログでも重ねて述べてきたつもりだ。いまではエリシュカの演奏を聴くため、札響の本拠地KITARAでの演奏を耳にすることを主な目的として、道外からも少なからぬ聴き手が集うようになっているが、私もそのひとりに列しているわけである。

2008年の私はエリシュカについて、「それはチェコの作曲家の作品には、使命のようなものを感じているのだろうけれど、それしか弾けないというわけでもなく、拍節感など、ドイツ的な基本をしっかり身につけており、読みも深そうです。また、音色も豊富で、既に述べたようにひきだしの多い指揮者でした。ヤナーチェク・モーツァルト・ドヴォルザークと、それぞれにまったく響きが違いました(中略)骨の髄まで鍛え上げられた指揮者と言っておきましょう」と述べている。私がこうした要素を容易に見抜くことができたのは、自分が特に優れた聴き手であったせいではなくて、エリシュカが際立って、そうした特徴のハッキリした音楽をつくっていたことによる。いま、それがブラームスで花開いているということは、万感の極みである。

【明確な特徴】

ドヴォルザーク・ツィクルスの例に倣い、エリシュカはもっとも不人気な3番から始め、2番、4番ともってきた。最後、第1番で壮麗に締める予定であろう。ドヴォルザークであれほどの成功を収めたとはいえ、ドイツ音楽の本流、それもブラームスの交響曲第1番で求められるような雄渾で、厚みのある響きを、オーケストラはまだ手にしていなかった。だが、今回の演奏会で、いよいよその準備も整ったと確認できたと思う。すべては、熟している。だが、第2番の圧倒的な成功を耳にしているだけに、今回の第4番には若干の注文をつけたくもなるのである。

特に私が不満に思ったのは最初の楽章の金管楽器で、一言でいうと、野蛮な響きがした。『子どもの不思議な角笛』でさえなく、私がその響きから想像し得たのは『カルメン』の山賊たちでしかなかった。ブラームスの交響曲はどの作品も、宗教的な要素と無関係ではない。この作品の解釈については別に語るが、ホルンは伝統的に狩猟などの野性的な要素と結びつく以外に、やはり霊的な重みを備えて吹かれるべきでもある。たとえ活き活きとした青少年の生気を描くのだとしても、一定の気品を備えていなくてはならない。その点で、札響のホルン奏者には不足するものがあった。

ホルンのほかにも、見逃せない大きな瑕疵はいくつかあったが、それでも、エリシュカの演奏が第2番のときとは比較にもならないような低いレヴェルで着地したわけではないことも、予め強調しておきたいと思う。名演の予感は、いつものように最初から漂っていた。拍を精確に刻み、ストップウォッチで測ったようにきっちりと遅れて第二波が入るところから始まる機械時計のようなフォルムは、もちろん、意図的なものである。全自動の時代に、敢えてぜんまい仕掛の人形を動かすような、そんな発想が感じられた。ここから、作品のテーマのひとつが「時間」であることは議論の余地がないであろう。作品は青少年期の弾けるようなピチピチした生気から、内省的な壁に突き当たる盛期はじめの鬱屈した雰囲気、そして、飛ぶ鳥を落とす最盛期の弾むような響きから、現在(晩年)の芸術的核心へと熟していくところを表現していくのだ。時間は遅々として進まないワーグナーの世界とは異なり、猛然と勢いをもって進み、物語はしばしば寸断されても、詩情はぐっと飛躍する。このようなところは、ベートーベンの交響曲と重なり合っている特徴だ。

今回の演目はベートーベンにしても、ブラームスにしても、4つの楽章を一貫してまとめあげるのにはとても難しい作品で、その他の交響曲とはまた異なった特徴を有している。技術的なものより、表現のバランスがどうしても一貫しない。飛躍する詩情に辻褄を合わせる、響きのコントロールが容易ではないのである。しかし、そうした点において、私たちは何度もエリシュカの発するマジックに接してきた。ブラームスの交響曲第3番や、ドヴォルザークの交響曲第6番がその顕著な例だ。今回もベートーベンは見事な一筆書きでまとめ(後述)、ブラームスも時計のモティーフで統一している。また、ブラームスについては、渋くて屈折した・・・というような、正に「屈折した」イメージを打ち破り、力づよい明るさ、打たれても打たれても屈しない精神面でのタフさを中心に描いていた。

【1拍1拍を踏みしめる響き】

演奏面で特に優れていたのは、後半2楽章ではなかろうか。エリシュカらしいスケルッツォの充実した運動性もさることながら、驚いたのは第4楽章。過去に出現したものも含めて、響きのモティーフが次々に凝縮し、1つ1つの拍がパンパンに、メッセージに満ちたものになるまで、圧倒的な集中力で響きが高められていった。最後は火の玉のようにひとつになったアンサンブルが、聴き手のこころを心底から揺さぶる。ここにこそ、ブラームスの思い描いた「究極」のひとつが感じられる。僅か一音のなかに、そこで表現されるべきすべてが凝縮しているのだ。こうした考え方はやがて、シェーンベルクやウェーベルンによって、技法的にさらに尖鋭化していくものだが、ブラームスの時代には、同時に魅力的な響きを存分に伴っていたのである。全体的には揺るぎのない快速な響きの際立つなかで、終楽章のおわりはテンポも一歩一歩を踏みしめるようで、この大地を「踏みしめる」感覚はドヴォルザークのときに散々、身につけてきたもののはずである。

この作品のなかには、確かにひとつの「時計」・・・すなわち、人生が描かれているようだ。しかし、それが具体的な像を結ぼうとすると、ハッと詩情が逃げて、新しい方向に響きを振り向けていく。作品にはフィナーレをはじめとして、デモーニッシュな部分が複数、存在する。だが、それらの頂点でほぼ確実に描かれるのは天国の響きである。先に示したようなタフさの正体としては、この天国との関連性がある。魔性は、いつも天国からの救済の序曲となっている。時計が進めば、その感覚はいっそう鋭くなり、危機は深まって、それだけ救済の深みも増すわけだ。エリシュカが最終的に描き出したのは、こうした精神のドラマであったと思う。それを1拍1拍のなかへと閉じ込めていくうちに、1つの作品ができあがったというわけである。

【ギリシャの乙女】

2曲を比べれば、完成度が高く、札響らしい味わいが十分に出ていたのはベートーベンのほうだ。全楽章の一貫性が顕著で、美しい一筆書きであった上に、各楽器の音色の素晴らしさが丁寧に生かされている。何よりも、演奏に余裕があった。

そのことは実のところ、作品のもつ背景とも無関係ではない。ブラームスの交響曲第4番は「最後の交響曲」とはいっても、まだブラームス晩年の作品ではない。だが、規模の大きな管弦楽作品ということに限っていうと、この作品を経たあとは、1887年のドッペル・コンチェルトだけしか作られていないのだ。この作品は作曲家にとって最盛期の傑作だが、それだけに張り詰めた「最後」の雰囲気がある。一方、ベートーベンの交響曲第4番は、作曲家がもっとも若々しく清爽な気概に満ちたころの作品で、その印象にはどことなく余裕が感じられるのだ。彼が当時、関心をもったことや、独特の趣味のようなものが面白おかしく散りばめられた作品で、そこから多様な詩情が生じている。例えば、シューマンがこの作品を評して、「2人の北欧神話の巨人の間に挟まれたギリシャの乙女」といったのは有名な逸話である。

シューマンは文学的教養がゆたかだっただけに、この表現も機知に富んだものだ。ベートーベンはのちに、劇付随音楽『アテネの廃墟』を書いているが、トルコからの独立をめざすギリシャの動きに、社会的な関心の高い彼ならば、早くから十分な配慮を払っていたはずであろう。『アテネの廃墟』は、ハプスブルク帝国のビーダーマイヤー的な抑圧的風潮のなかで、激しい政治的アイデンティティを示すベートーベンの魂の叫びを示しているにもかかわらず、厳しかったはずの帝国当局による検閲をすり抜けている。同じような感覚で交響曲第4番をみる根拠はないが、しかし、なんとなく、エリシュカの演奏を聴いていると、ギリシアの古典劇をもとにしたオペラか、交響詩のような雰囲気が浮かんでくるのだ。つまり、英雄的な旋律の強靭さとヒロインの醸し出すしなやかさ、それら均整のとれた響きの美観、さらに、これらをモティーフにした躍動的な響きの連動などがその主因である。

このような印象を抱かせる演奏の雄弁さは、特筆に値する。ピリオド奏法に基づく限定された響きが均一なセル(細胞)を生み出し、適確に区切られた構成の美しさだけではなく、減衰や膨らみの自由な伸縮、自然で柔らかな軽いルバートが無数のニュアンスを醸し出しているのである。

ベートーベンはこの作品に、古典ギリシャに対する教養的な視野だけではなく、純粋に音楽的なイマジネイションも積み上げていった。特に、この作品で彼が突き詰めていったことのひとつには、オーケストラを構成する楽器のキャラクターに忠実な音楽を書こうとしたことがある。この日の演奏で特によかったのはクラリネットだが、オーボエ、フルート、ファゴットにゆたかな見せ場があり、金管、そして、客演首席の菅原淳が奏でるティンパニの響き、弦楽五部を構成する第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンの間にさえ、明確な個性の差をつくっていることは室内楽的、あるいは古楽的な繊細さといえようか。

後半2楽章はダブル・スケルッツォとして特徴を色濃く反映した演奏になっており、2つの楽章の明確な連関性が一筆書きの印象を強くした。特に第4楽章は見事で、多くの場合、無窮動な弦の動きを中心に平面的に散開する構造が立体的に凝縮し、要所で深くついた溝をいっそう深々と抉るのだ。もちろん、全体的な表情は明るく、ブラームスと比べると屈託のないユーモアが単純明快に響くのも特徴的である。

【作曲家の個性】

先に示した私の書いた最初のエリシュカ評にもあるように、彼の重視することのひとつには、作曲家ごとの個性を明確に描き分けるということがある。ブラームスはベートーベンを深く尊敬していたと思われるが、それにもかかわらず、まったく別の個性を以て作品を描いたのである。そのことがわかる独創的な部分が、ブラームスの交響曲第4番の第3楽章の最後にあった。ここでエリシュカは一瞬、ベートーベン的に和音を分厚く結び、(擬)終止の雰囲気をみせたあと、おもむろに激しい動きを入れるのだが、そのアーティキュレーションたるや、言葉では表現しにくい幻想的な飛躍を描いており、祝祭的な雰囲気のなかには、正に天使がそこに降り立つかのような高貴なイメージがあった。もっともこの点について、札響の演奏は完璧とは言えなかったが、エリシュカのもつ唯一無二の、しかし、いたってオーソドックスな発想は、複雑に構造が重ねられる結びの部分に見事なオチをつけたのである。

野平一郎が作曲家としてベートーベンの遺書や恋文、作品の断片、それをめぐる批評などを取り込んでつくった作品『ベートーヴェンの記憶』を発表した際、私はサントリーホールの小ホールで、その解説に耳を傾けていた。野平はピアノの鍵盤を叩きながら、ソナタ第12番の(擬)終止形を何度も示し、「なかなかおわらない」と揶揄していた姿はいまも印象的である。ベートーベンも、「なかなかおわらない」が、ブラームスはさらに尾鰭をつけるのだ。いまの場面で、よくわかるだろう。ベートーベン的な終結の先に、ブラームスの工夫が来ている。それがベートーベン的な帰結と気づけるのも、エリシュカが精確に拍を刻んだせいにちがいない。普通はそうした部分は、高揚した雰囲気のなかに呑み込まれて消えてしまうものだから。

ベートーベンはすこし生真面目で、神経質なイメージをもたれるが、ブラームスと比べてみると、その竹を割ったような特徴、あるいは、バロック的な特徴(ユーモア)が明らかになってくる。一方、エリシュカの演奏では、ブラームスもまた人格を構成する根もとの部分では、人々のもつイメージほどは屈折した存在でなく、より素直で屈託がない印象を与えるはずだ。ただ、ベートーベンと比べると、彼の音楽がおわろうとするところから新しいイメージが加えられていく点が大変に面白い。その点は先に示した部分以外に、この作品のあらゆる部分から感じ取れる作曲家の特徴である。2つの交響曲を仕上げるのは高齢のエリシュカにとって重労働だったようだが、このようなちがいを知るためにも、(ベートーベンとブラームスで)同規模の作品を1つのコンサートで同時に取り上げる意義は大きいだろう。

【まとめ】

本年2月には、東京公演(サントリーホール)で札響のシベリウスにも接したものだが、やはり、エリシュカ=札響=KITARAの組み合わせは格別の味わいがある。私が毎年の札響巡りを欠かさないのも、この組み合わせによる演奏が東京ではまず耳にできない特徴をもっているからだ。特にベートーベンを聴いているとき、私はこのことを絶対に書かなくてはならないと感じた。

近年、ベートーベンの演奏においては海外オーケストラを聴く意義を感じないほどに、東京のオーケストラは素晴らしい成果を手にしている。この時代の作品においては、特に新日本フィルと東響の2つの楽団が際立って厳格な「ルール」に基づいて、正に「クラシック」な演奏を展開しており、技巧的な絶対値の高いオーケストラ(外国のオーケストラや、資金力豊富なN響、都響、読響など)に対して互角以上の個性を示している。だが、それらの楽団と札響を比べると、まったく異なる個性を感じるのだ。1つ1つのドット(演奏者)に微妙な色合いのちがいがあり、それらが呼吸を合わせて重なり合うことで、無数の響きのパターンが生じている。エリシュカが指揮を執った場合、彼ら固有の色合いはさらに強まり、指揮者の思い描くファンタジー溢れる音楽性を表現するためにまとまり、華やかで、弾力性に満ちたアンサンブルが出現する。

エリシュカのもつ特徴は、拍や休符の長さを楽譜どおりに尊重し、独自に工夫されたアーティキュレーションを厳格に保つことにあり、また、内省的な特徴としては、1つ1つのフレーズに感情がこもっており、その場合、柔和で明るい表情と毒々しいまでの厳しさが同居している不思議さが指摘できる。この日にあわせるように発売したアルトゥスの録音に収められたウェーバーの演奏を聴くと、エンヒェンを捉えてしまったかと思われる魔弾のつくった深い沈黙、そして、そうではないとわかった瞬間の栄光と愛情に満ちた響きが、あの日のように見事に捉えられているのを確認できる。正に、こうしうことなのだ。図太いベースの上では、カラフルなドットが自由に揺れてもよい。エリシュカの音楽は、札響の個性を惹き立てている。

そして、それを鏡のようにして見事に映し出すのが、KITARAというホールの音響である。音響デザインが共通するだけに、ミューザ川崎とも共通しているのだが、これらのホールの著しい特徴は過度な響きをつくらず、演奏者の工夫や努力をその度合いに応じて素直に映しだす点にあるのだ。サントリーホールでは誰もがある程度、美しく映るようにと工夫が重ねられた。だが、KITARAの場合、その人が本当に美しい人でなければ、美しいという風には思えない音響イメージになっているのである。工夫された響き、重ねられた努力は、いっそう適確に形にしてくれる。こうした特徴も、札響には相応しいものではないかと思う。より新しいミューザと比べても、私はKITARAのほうが好きで、若干、ふっくらとした空間のせいか、響きに親密、かつ、温かい広がりを感じるのだ。

ホール改修の影響で、6月のエリシュカ=2シリーズにつづき、7月、新首席指揮者のポンマー披露公演で、メンデルスゾーンの交響曲第2番「讃歌」、そして、PMFと目白押しにイベントがつづく札響。今回はティンパニに元読響の菅原淳、コントラバスに日フィルの高山智仁を呼ぶなどして、まだまだ体制が整わない点はあるものの、経験ゆたかな奏者に学びつつ、コンディションの良さをなんとか維持していってくれるだろうと期待している。来年の東京公演も維持され、今度は尾高に代わりエリシュカで遠征ということなので、こちらにも期待が膨らむ(その次、東京公演を維持できるならポンマーでお願いします)。まだまだ、フィーバーは収まりそうにない。

【プログラム】 2015年4月20日

1、ベートーベン 交響曲第4番
2、ブラームス 交響曲第4番

 コンサートマスター:大平 まゆみ

 於:札幌コンサートホールKITARA

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コメント

 私は金曜日に聴きました。ベートーヴェンの、明るい響きでありながらずっしりとした手応えのある演奏もよかったですが、ブラームスでは3楽章から4楽章にかけて、響きがどんどん熱を帯びて分厚くなり、凄いことが起こっていると感じながら聴いていました。4楽章の最後についてアリスさんの「一歩一歩踏みしめる感覚」とは言い得て妙!エリシュカ氏も満足したらしく、オケへの投げキッスやら客席に向かって両手を広げる仕草やら…老巨匠のほほえましい姿が見られました。私も大きな満足を感じてキタラを後にしました。
 ブラームス3番でのエリシュカの歌い方に違和感を感じてしまい、2番の時は聴きに行かなかったのですが、テレビ放送を見たり、アリスさんの文章を読んで大いに後悔しているところです。次は1番、おそらく来春でしょうが、エリシュカ氏の曲との相性は一番よいと私は思っているので楽しみです。
 来週はポンマー氏のシューマンとメンデルスゾーンを聴いてきます。
 また札響を取り上げて下さることを楽しみにしています。

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