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2015年7月20日 (月)

宮田慶子演出 松村禎三 歌劇『沈黙』 新国立劇場 オペラ部門 下野竜也(指揮)東京フィル 6/28

【概要】

新国立劇場が、松村禎三の歌劇『沈黙』を大劇場で取り上げた。当劇場におけるこの作品の初演は2000年、二期会との共同制作で、その後、2005年には地方から優れたプロジェクトを招聘する第1弾として、大阪音大「カレッジ・オペラハウス」のプロダクションが上演された。これには私も接しているが、当時、刻み込まれた深い印象といったら忘れられようはずもない。新国はさらに、2012年に同劇場演劇部門の芸術監督である宮田慶子を演出に起用して3回目の上演をおこない、今回はその再演ということになるが、いよいよ大劇場での演目に昇格したというわけである。

残券の状況などをみると、その他の演目と比べて、『沈黙』は興行的にはまだ厳しいが、当日のフロアをみてみると、上階の席を中心によく埋まっていた。また、演劇界のトップにある宮田や、原作が遠藤周作という影響もあるのか、演劇や文学ファンなど、いつもとは若干、異なる客層ができている感じがした。そのせいか、終演後のカーテン・コールは短めで、掛け声も多くはない。いったん幕が閉まると拍手も止みそうになり、本来のカーテンコールまで届かない可能性があった。しかし、この状況は2つの可能性を示唆しているのではなかろうか。つまり、宮田演出『沈黙』は・・・①従来のオペラ・ファンとは異なった層を惹きつける可能性があり、別々の趣向をもった愛好家たちを出会わせる契機となる②従来のオペラ・ファンも今後、より多く取り込んでいける可能性がある。これらの事情を考えると、大劇場への移行はむしろ、作品のもつより大きな可能性を開いた重要な機会だったことになろう。

だが、もっと重要なことは、この演目が中劇場レヴェルの室内楽的で、内省的な作品ではなく、大劇場の公演にこそ相応しいスケール感をもった魂のドラマだということがはっきりしたことであった。

【ライマンと松村】

近年、日生劇場における上演で、我々はアリベルト・ライマンの『メデア』と『リア』に衝撃を受けたが、後者の初演は1978年だ。同じく内省的なテーマをもち、それが作品の内側から3Dのように立体的に飛び出し、シェイクスピアの戯曲『リア王』のキャラクターたちに乗り移って壮絶なドラマとして仕上がっている点で、『沈黙』と共通するところもありそうだが、松村禎三に対してサントリー芸術財団が作品を委嘱したのは、遅れること僅か2年の1980年であったという。もっとも、松村は「超」のつく慎重な創作態度で知られ、自らの信仰とも交わるこの作品については、上演に漕ぎ着けるまでには10年以上の歳月を要してしまった。その時代においても、作品的な価値はすこしも動じていなかったものの、もしも1980年か、その近辺で上演がおこなわれていれば、それは明らかに歴史的にも重要な場所に置かれなくてはならない作品になっていただろう。

多分、指揮を執る下野竜也にもそのような発想があって、ライマン2作品を指揮したときと同様のアプローチが、松村作品でも炸裂していた。要所における強烈なインパクト、1音1音にスピリットのこもる堅牢な響き、しかし、それらの素材をまた、バロック・オペラのように柔軟に交流していくときの手腕などは、なかなか得難いものであった。以前に聴いた山下一史のアプローチは室内楽的なもので、小説を手もとで読むような親密な感じがあったものだ。それが空間的にも広さを得た今回は、より深いところから、遠くへと伝わるメッセージとなって変貌したようである。象徴的なのは、波の迫る海のなかで磔刑に処されたモキチが、村に向かって聖歌をうたうような場面だ。そのような作品が海を越えて、海外へも紹介されてほしいという願いは少なからぬ観客から発信されたメッセージである。

もっとも、ライマンと松村の作品が同じように聴こえてしまうアプローチには、若干の違和感がないといえば嘘になるだろう。下野の演奏は、松村の作品を生まれ変わらせるものであっても、甦らせるものではなかった。根拠は薄弱だが、私はもうすこし素朴で、洗練されていないグロテスクさのようなものを作曲家はイメージしていたのではないかと考えるものだ。作品のテーマのひとつは、西洋のように遠くから来たものを、我々がどのように扱うかという問題である。これはダイレクトに、松村のような西洋から来た芸術に携わる音楽の専門家にとっては切実な内的テーマであっただろう。下野のアプローチは十分に素晴らしいものの、感情と音楽の起伏があまりにも露骨であり、その点でどこか、我々のこころと遠い部分がある点が疑問に思われるのだ。だが、繰り返しいうならば、私はこの点について十分に論理的な指摘がおこなえるわけではない。

あるいは、それも単に、私のもつ願望のようなものかもしれないのだ。いままでとは、まったく別の日本的な響き、日本的な音楽の哲学が、どこかにあるはずで、それを松村ほどの作り手なら、きっと実現しているはずだという願望である。これはテーマの似ている三善晃の歌劇『遠い帆』の公演のときにも、同じように抱いた感覚だったのだ。

【背景】

それはそれとしても、今回の上演が作品的価値とは無関係の、空虚な成功だったというわけではなかったのは言うまでもない。現在、望み得るところで、これ以上の成功を収めるのはまず困難で、演出、キャスト、管弦楽のすべてが圧倒的な高水準を示した公演であったし、私が接したもののなかでは、新国立劇場のプロダクション、あるいは、その他、日本のなかでみられた国内外のプロダクションのうちで、もっとも優秀なものに数え上げられる。私がこれと同等の衝撃を受けた公演といえば、D.エルヴュ&J.モンタルヴォの演出&振付によるラモーの歌劇『レ・パラダン』(レザール・フロリッサン)、二期会のP.コンヴィチュニイ演出によるR.シュトラウスの歌劇『サロメ』、さらに東京室内歌劇場によるプロダクションで、鵜山仁の演出によるブリテンの歌劇『ヴェニスに死す』といったところが思いつくばかりだ。ただし、宮田の演出そのものについては、これといって衝撃的なものではないから、音楽面の成功だけで、ほぼそれらの優れたプロダクションと同等の印象に結びつけているということになる。

宮田の演出は音楽面の解釈には立ち入らず、チマチマした表現を排して、舞台中央にソウルを集め、重みのある細部を見やすくしたのが特徴である。巨大な黒い十字架が全編を見守るが、これがもっとも印象的に存在を示すのは最後のほうの場面だ。このとき舞台下手奥から照らされる十字架の影は、もうひとつの十字架を舞台上に描くが、舞台に3つの段差があるため、その十字架は3つに割れてみえた。やがてはその十字架も消え、大きな光が描かれ、それがさらに小さくなって、権力に屈したロドリーゴ神父を照らす。作品は結局のところ、そこへと至る壮大な民族の旅のようなものだったのかもしれない。ときに舞台は江戸時代初期のものだが、戦前から現在に至る日本の風景ともどこか似通ったところがある。

例えば、弾圧者の親玉である井上筑後守やロドリーゴの師で、いまは「沢野草庵」としてキリスト教宣教師としての役割を捨てたフェレイラが主張する問題は、戦後日本に民主主義や平和主義、資本主義が導入されたことと無関係ではあり得ない。最近、右翼主義者やその礼賛者たちは、日本国憲法を「押しつけられた憲法」と呼ぶが、それと同じような主張だろう。現在、こうした価値観は支持を広げつつあり、安倍総理の「戦争法案」にもつながっている。

戦国末期から安土・桃山、そして、江戸時代に至る日本では、物事をめぐる価値観が大きく搖動した。キリスト教に関しても、信長・秀吉・家康は多くの点で、その先見的な知識や技術に期待し、『遠い帆』に出てきたソテロの時代ぐらいまでは、権力者の管理下ではあれ、ある程度の布教が可能であったと思われる。ロドリーゴがあてにしたのも、そのような時代の「復活」であろう。戦前の価値観から、敗戦を経て、戦後の民主社会へと移行する日本の状況と、これはよく似ている。戦後派の文学では、敗戦を経て戦後の価値観にスムーズに移行した人たちの倫理観が疑問視され、頻りに批判されたりもした。「転びもん」のキチジローは、ある意味で、そうした日本人の象徴であり得るだろう。

【人命は地球より重い】

キチジローは、正に「影」の主役である。最初の場でのちの内面的な恐怖(後悔)に苦しめられる姿が描かれ、次の場では勇敢で、粘りづよい日本人のはずが、そんなものは微塵も感じさせない頼りない漂流者として、ロドリーゴの前に、彼は西洋人に怯える姿をさらす。ロドリーゴは失望するが、次の場ではロドリーゴはキリシタン村で隠れ信徒に囲まれており、キチジローはいわば一番弟子で鼻が高い。だが、その場の最後で彼は段差に躓いてコケてしまい、その後の運命が暗示される。やがてキチジローは捕縛された4人の信徒のうちのひとりとなるが、モキチら、踏み絵に応じなかった信徒たちのなかで唯一、絵を踏むことに同意したばかりか、唾を吐きかけることさえ拒まなかった。さらに、ゲッセマネにおける「イスカリオテのユダ」の役を演じるキチジローは、コンヒサンを受けると偽って幕吏を誘導し、潜伏するロドリーゴを捕えさせる。その後の更なる悪行はないが、ロドリーゴに対して執拗につきまとい、再びのコンヒサンを求めたり、幕吏に対しては自分もキリシタンだと主張するが、誰もまともには取り合わない。だが、彼は最後まで、ロドリーゴを見守っている唯一の人間である。結局、ロドリーゴは井上や沢野の説得を受け容れ、キチジローと同じように絵を踏んだ。しっかりと、踏みしめていた。

新しい秩序が容赦ない批判に曝されるこの劇では、松村は戦後社会に対する痛烈な皮肉を何度も吐いている。だが、最終的に遠藤の書いたような結末を受け容れることで、消極的ながらも、戦後社会の肯定に転じるのだ。

あらゆる点で重ねあわせの効くゲッセマネの状況と異なるのは・・・イエスは万人のために自分が死ねばよかった。それによって、信仰が生まれたのだともいえる。だが、ロドリーゴは自分が死ぬと、さらに5人が死ぬというような状況に置かれていたということがある。キチジローはあくまで、自分が生きるために絵を踏んだが、ロドリーゴは他の5人を救うために棄教の決断をした。彼はイエスが同じ立場なら、きっとそうするだろうとまで断言しているし、実際、音楽的には救済めいたものも描かれていた。これほどの厳しい悲劇と内面的葛藤の物語が、まったく救いのない展開でおわるにもかかわらず、音楽はもとの平穏さを取り戻しているのは何度聴いても驚きだ。ここから松村の思い描く、ひとつのメッセージが読み取れるだろう。それは、「人命は地球より重い」という時代を生きた人だけが語ることのできる「言葉」であった。この悟りが生まれたときに、初めてキチジローが消滅するのである(『白い朝』)。

【言語】

作品を魅力的にしている要素のひとつは、隠れキリシタンの話だけに、必然的に九州の言葉が朗々と響き、標準語に対置されるところである。ただ、私は九州人ではないので、ハッキリとは分からぬが、この言葉は舞台となる長崎の五島列島で使われていた言葉だけによって構成されているわけではないように思われる。長崎だけではない、九州全体の言葉がハイブリッドになっているばかりではなく、広島あたりから西側の言葉があまねく組み合わされている印象を抱かせるのだ。また、その土地のものでなければわからないような、まったく聞き慣れない語彙はあまり使われていない。さらに、ハライソ、コンヒサン、パーデレなど、キリシタンの使っていたとされる語彙がいくつか挿入されていることも特徴である。指揮者の下野は鹿児島の出身であり、劇中で用いられる言葉について、ある程度の指導力があったと想像でき、そうした言葉の響きが聴き手を作中にのめり込ませる要素のひとつとなった。

だから、反対にいえば、方言の出てこない牢獄のシーンで、フェレイラとロドリーゴが「標準語」で語り合う場面などは冗長に感じられ、ロドリーゴの改心も、いまいち現実味に欠けるというのが私の正直な感想である。なにしろ、この場面によって、ロドリーゴはそれまで自分が信じてきたすべてを棄てて、5人の命を贖うと決断するのだ。ただ、決定的なのはその場面ではなく、より以前の場面だということによって、作品のクオリティをギリギリ損なうものではないわけである。つまり、ロドリーゴの決断は遠藤周作の原作ではどうだったか知らないが、松村の作品では、あの美しい聖歌をうたう人たちのことを守りたいというところに、最大の原因があったのではないかと思われるのだ。私がここで言っているのは、トモギ村の人々が守っていた、こころ洗われる聖歌のことである。作品はこうした聖歌を差し挟むことで、耐えがたい悲劇や拷問、秘匿や裏切りの物語のなかで、人々を懸命に繋ぎ止めることができている。

文学的に解釈すれば、この作品の隠れた主人公はキチジローで、表の主人公のロドリーゴと背中合わせになって、信仰が何のためにあるのかをはっきりさせようとしている。だが、松村はさらに、トモギ村の人々を主役とすることを思い立った。そのため、村の希望であるモキチとオハルの(神父の介在による正式な)結婚が魅力的に描かれ、そのモキチの殉教、オハルの衰弱死は劇的に最高の場面となっている。ロドリーゴのうたうアリアのような部分で、もっとも大事なものもモキチの死に対応している。このようなものは多分、ロドリーゴがポルトガルやマカオでは知り得なかったことだ。今回の上演で、カレッジ・オペラハウスの上演と比べて優れている点は、マカオの場面が声楽的に、非常に出来が良いということだった。第1場で幕開きからずっと続いた緊張が、第2場でまったく消えていないのである。その雰囲気のなかで、キチジローが「誕生」する。さらに、トモギ村のシーンに移って、この誕生から成長が描かれる。トモギ村はしかし、ロドリーゴにとってはまったく想像もしない現実だった。その現実を、オラショによる聖歌が支えているわけである。

さらにロドリーゴを決意させた要因は、自らの犯した衝撃的な過ちのなかにあった。牢獄の暗闇のなかで、ロドリーゴは穴吊るしの拷問にあって呻き声を上げる人たちの声を、酒に酔って寝入った牢番のいびきであると誤認した。モキチの場面よりも、さらに洗練された声楽的なクライマックスが形成されるなか、その美しい悟りのこころは反転させられた。歌を生み出した美しい祈りの言葉はかつて、転んだフェレイラが耐えきれなくなるまでに書きつけたものだったというオチは残酷である。フェレイラもまた、苦しんでいた。また、彼はいまその時にも、自分だけが苦しんでいるのではなく、さらに5人の人たちが苦しんでいることを知った。この作品では遠藤の原作とはちがい、井上筑後守がかつて信者だったことを描いていないので、井上はより直截な弾圧者であり、アイヒマン的な権力の奴隷であることは疑いなく、松村の意図的な工夫としてみられるであろう。それゆえに、本来はロドリーゴの棄教が、さらに許されない倫理的問題を導くはずだが、その点でも、あらゆる論理に先んじて命が重んじられているという事実に突き当たる。

私はカレッジ・オペラハウスによる上演のあと、自分の仕事柄、九州弁を話す何人かの人たちと知り合うことになった。そのせいか、今度の上演で言葉がより深く、ジンと胸に突き刺さってくるのを感じたことも疑えない。もしもあなたが九州の出身か、身内や友人に九州弁を話す人がいたとするなら、私よりも、さらに痛切な感じを抱いたにちがいない。その人たちがあたかも、こうして弾圧に遭っているかのような雰囲気を抱くからだ。こうした言葉のリアリティというものが、作品的価値の大部分を作り出していることは想像に難くない事実だ。ただし、デクラメーションという点では、その他の日本語オペラの作り手たちと同様に、松村も大変に苦しんだことは想像できるだろう。先のフェレイラとロドリーゴの語り合いの場面が難しいのも、結局のところ、会見に相応しいデクラメーションを松村が生み出せなかったことに起因しているのだ。そのため、この場面の台詞はほとんどがレチタティーボ、もしくは台詞そのもののような歌い方になっていたのである。

【パフォーマンス評価】

歌手陣はとても優れていたし、各々がもつ力以上のものを出せたのではないかと思う。この上演が2000年の劇場初演というよりは、2005年の地方招聘公演に根づいているのはキャストからみても明らかで、小餅谷哲男や石橋栄実のように、そのときからキャストを守っている関西ベースの歌手が珍しく起用されていることは特徴的だ。関東圏の歌手をこれにあわせた2012年の新演出のときとキャスト、指揮者は共通しており、そのためか、一貫性のある公演になったし、チームワークにも優れていた。私のみた小原啓楼を中心とするキャストは、小原、鈴木准(モキチ)、石橋栄実(オハル)というセンターラインに対して、桝貴志(キチジロー)、小森輝彦(フェレイラ)という異分子が入っていて、実際、この2人がそれ以外のキャストとまったく異なる役割を果たす点がみやすく、巧妙なバランスに仕上がっていた。

小森は外国で通用する歌唱法や発声をイタリアやドイツで学び、長くゲラの劇場に所属していたせいか、日本語オペラに対する歌い方はむしろ外国人にちかいが、その雰囲気がフェレイラ=沢野に相応しい点は面白かった。桝は新国の研修所出身だが、体当たりの演技がキチジローに相応しく、下手に繊細に歌いきろうとせず、厚みのあるベースを最初から最後まで保っており、場面ごとにころころと変わりながらも、どこか一貫性のある人間として見事に演じている。

東京フィルは、こうした演目に近年はめっぽう強いところをみせているが、今回も素晴らしかった。ただし、その素晴らしさの奥に、松村が仕込んだ「日本らしさ」が隠れているのも、私は感じていた。つまり、松村がアテにしたのは、機動性に溢れた弦のアンサンブルを中心に、西洋音楽における日本人の繊細で、几帳面な特徴を生かしたものだった。そのなかには、打楽器を用いた緻密な構造も含まれている。西洋音楽では信仰と金管楽器それぞれの役割が重要な絆を築いていることから、『沈黙』もまた、それらの大事になりそうなテーマをもつにもかかわらず、我々がさほど得意としないブラスの圧力は多くの場面で控えめにしている。同様に歌手の声がよく聴こえるのも、あまりマッシヴな厚みをもたない日本人声楽家の特徴に慮ったものにちがいない。

【最後に】

この作品、本当に鳥肌が立つ。人間のない内面、特に弱さから、国の在り方まで、串刺しにした音楽だ。その中心に、トモギ村の聖歌がある。その聖歌とは、グレゴリオ聖歌のようなものとはまたちがって、弾圧下で、日本の隠れ信徒がどうにか自分たちの信仰を守ろうとわからないなりに生み出し、守り続けてきたものだ。松村は、そうしたイメージに、自らの歩んできた音楽人生を刻み込んだのである。作品は、1993年の初演。作曲家は、2007年8月6日に亡くなっている。78歳だった。

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