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2015年8月 3日 (月)

粟國淳(演出) ドニゼッティ 歌劇『ドン・パスクヮーレ』/J.シュトラウス 喜歌劇『こうもり』 (各抜粋) 新国立劇場研修所 オペラ7月試演会 第16-18期生 2日目 7/19

【新国研修所の新体制】

新国立劇場の研修所の公演は、大変に工夫を凝らしたものだ。オーケストラ付きで大劇場を舞台に・・・という訳にはいかないものの、ミニ・アンサンブルを気の利いた指揮者がコントロールしてコンパクトな舞台をつくったり、質の良いコレペティがピアノやチェンバロなどを弾いて研修生をサポートしつつ、大劇場であまりできていない演目をカヴァーしたり、ときに抜粋ながらもエッジの効いた組み合わせで上演をおこなっている。研修のシステムがある程度、充実したものであり、質の良い、日本のオペラ公演に是非とも必要とされる人材を輩出していくことが大前提だが、近年の実績をみれば、それも申し分ない。例えば、中村恵理はオランダと英国の有名な育成プログラムも経て、欧州の主要劇場で活躍できる歌い手に成長したが、彼女を筆頭に、多くの研修生がオペラの一線で活躍しているのである。

このように実績を挙げてきた新国立劇場の研修所だが、先季からは永井和子が所長に就任し、河原忠之、粟國淳を各部門(音楽、演出)の主任にして、まったく新しい体制が敷かれている。ファースト・シーズンではイタリア語レチタティーボの習得が主要な課題となり、それを引き継ぎつつ、セカンド・シーズンはドイツ語台詞の習得に重点が置かれたということである。

最近ではレチタティーボや会話部分をカットしたり、日本語化したりした公演が多いが、そうした上演は私からみると、かなり惜しいことをしているように感じられる。例えば、著名な声楽家がリサイタルでオペラ・アリアを歌う場合、彼らはしばしばアリア直前の場面に書かれたレチタティーボから歌い起すことが多い。このことはレチタティーボを歌うことによって、キャラクターのもつ雰囲気や感情を端的に示すことができることを示している。また、オペレッタを上演する場合、台詞部分の味わいは作品を象徴する雰囲気を感じさせるに十分な魅力をもっているだけではなく、しばしば、それがないと話の筋がみえにくいことさえある。

また、デクラメーションの発展という観点からみても、台詞の重要性は一見、時代を追うごとに減少していくのにもかかわらず、実際にはそれがますます重要になっていくのだ。ワーグナーの作品などに既に萌芽が表れているが、シェーンベルクに至って、それはオペラ革命の枢要な部分に位置することになった。シュプレッヒゲザンク、あるいは、シュプレッヒシュティンメと呼ばれる独特の朗唱法は、やがて現代オペラの主流を切り開いていくことになるのだ。

しかし、そのようなものを排したほうがかえってスムーズに上演が進むということの秘密は、聴き手側の問題を別にすれば、日本の歌い手がこうした要素を自由に操ることができない点にも隠されている。公演で役を貰えなければ、歌手たちはまったく異なった意味で、コンペティションなどで活用できる「歌」だけを知っている可能性がある。もし実際に役を得たときに、そういう状態から出発しなければいけないとしたら、例えば、欧州から来た一流の演出家や指揮者たち、あるいは、ゲスト歌手と対等に渉り合うことは難しいであろう。河原と粟国のプログラムは、現場をよく知った人たちによって、日本で(日本から外に出て)活躍する歌手たちの弱点を効果的に補うものとして考え抜かれている。

【ドン・パスクヮーレ】

さて、今回の公演ではイタリア語レチタティーボの味わいを満載したドニゼッティの歌劇『ドン・パスクヮーレ』と、ドイツ語台詞の味わいや美しさが詰まったヨハン・シュトラウスの喜歌劇『こうもり』の抜粋によるダブル・ビルで構成された。2つの作品は一見、しょうもないドタバタ劇であることで共通点があるが、その実、2つの作品には隠された政治的なイロニーもが詰まっており、そのことはあとで詳述するつもりだ。

ドニゼッティの作品は、子どもがなく、甥を後継者にして同居させている老人が、言うことを聞かない甥を懲らしめるために自らの結婚を画策し、反対に欺かれることで大団円が生じる可笑しな作品である。重要なモティーフは、それまで猫を被っていた女が結婚の契約が済むや、人格が豹変し、横暴で不遜な浪費家と変わってしまうことだ。このような問題は形を変えて、現代にも存在するが、ドニゼッティの時代には過去に実在した王侯貴族の失敗例を皮肉ったものなのだと思われる。ドニゼッティはフランス革命以後の人だが、その妻の様相はマリー・アントワネットにも譬えられるかもしれない。それ以外にも、問題のある妻を迎えてしまったがために、国や領土の安定が傾いてしまった例は枚挙に暇がないだろうし、同時に、先には現代にも通じるといったように、同じような問題は市井にも転がっているような話であったろう。

あるいは、作品には仕掛人であるはずのマラテスタの思惑を越えて、狂言を演じるノリーナが暴走してしまう場面があるため、オペラ作家にして演出家であるドニゼッティにとっては、なかなか御するのが難しい女性の歌い手をめぐる内輪話の側面も含んでいるようだ。

ドニゼッティはヴェルディと比べれば、ずっと通俗的な作曲家であると見做されているが、史劇をもとにした悲劇的な作品も少なくなく、その場合、歴史的背景はともかく、あくまで男女の愛憎から皮肉な結果を招くことが多い。その点、『ドン・パスクヮーレ』はイタリア伝統の喜劇で、同時に、モーツァルトの『フィガロの結婚』やロッシーニの『セヴィリャの理髪師』から影響を受けたものだが、社会のあらゆる層に通ずる話題を気軽に取り上げている。面白いのは、パスクヮーレは世の中を動かす権力者でもなければ、それほどの金持ちでもない。より財を成すには、是非とも姻戚関係を利用したいという新興層のブルジョワなのである(リヒャルト・シュトラウスの歌劇『ばらの騎士』のフォン・ファーニナル氏を思わせる)。これに対する甥の立場は、小さな幸せに分相応の人生の価値を見出す小市民というところだが、粟國はさらにインテリ層というところを印象づけており、これは医者と友達であるところから妥当なところと思われる。この寓話的な物語における枢要な教訓は、分相応に生きるのは人間の生き方にバランスをもたらすということだ。

パスクヮーレの立場からみれば、若者3人組の仕打ちというのは、まったくえげつないものであり、彼が相当に傲慢で頑固な人物であったという要素を割り引いたとしても、高齢者の弱みをついた虐待的な行為の様相を呈しており、現代で上演するには問題もあるが、欧州では十分にポピュラーな演目である。最後、老人が分を弁え、若者たちに譲歩することで大団円となるが、あまり気持ちの良い話ではない。しかし、その裏に隠された政治的な風刺や、いくつかの声楽的な際立った特徴により、この作品は今日にも上演価値がある作品とみなされている。

主な登場人物はパスクヮーレ(ユーモアを伴う機動的なバス)と、甥のエルネスト(正統的なテノーレ・リリコの裏返し的な役まわり)、その恋人で若い未亡人ノリーナ(ときどき重みを掛けた表現がある、二面性のあるレッジェーロなソプラノ)、両陣営に股をかける知恵袋で狂言まわしの医師マラテスタ(レチタティーボが重要な軽快なバリトン)の4人である。

研修生4人は目を瞠るほどのパフォーマンスではなかったが、中劇場で余裕をもって声を通すことができ、まず、舞台映えする強度のある声であることは共通していた。題名役は氷見健一郎で、声や演技面の良さは申し分ない。だが、イタリア・オペラにおける歌い方の基本は、伴奏(管弦楽)よりも微妙に前に陣取って波を捉まえるサーファーや、玉乗りの感覚に近く、そうしたポジションに対する意識が甘いため、伴奏にへばりつくようなパフォーマンスになっている点で格好がつかない。エルネストの水野秀樹は特殊な声質をもち、ふてぶてしく物怖じしない表現力をもっているが、求められる役柄に対して野暮ったいところが残って田舎くさく聴こえる。ノリーナの城村紗智はスーブレットなど、チョイ役で聴くには魅力的なように思えるが、このようにガッツリ中心を占める役ではどうしても飽きが来てしまうので、ノリーナのような変わり身が大切な役では不十分だ。マラテスタの大野浩司がもっとも良いが、優等生的な感じで、特に際立った部分がない点で課題がある。

【こうもり】

パスクヮーレがやや鈍重な舞台に終始したのに比べれば、『こうもり』のほうはよく楽しめた。課題のドイツ語会話を生かしながら、上手にストーリーをつなぎ、豪華てんこ盛りで、音楽も派手なために見逃されがちな視点がシンプルな舞台で際立っており、パスクヮーレとの二本立てである点からも、そのことは如実に感じられた。つまり、それはビーダーマイヤー時代におけるヨハン・シュトラウスⅡの社会的理想である。

ビーダーマイヤー時代とは、フランスなどに勃起した革命の機運を抑えるため、ハプスブルク家の支配者たちが敷いた統制的な時代である。言論や芸術に対しても政治的な検閲が厳しく、人々は我を忘れるように舞踏会に興じたのだ。ヨハン・シュトラウスⅡは、その分野に厳しさを感じていた父親の制止も聞かず、苦労して音楽家の道を歩んだ。ヨハンはまだ健在な父親とは別の需要を捉まえるため、東欧・バルカン半島を旅して危険な目に遭ったり、政治的にも尖鋭化して、旅先のブダペストでハプスブルク総領事の政庁に革命派とともに乗り込んだりしたこともあった。ヨハン・シュトラウスの作品にスラヴ的な魅力の深い旋律がよく聴かれるのは、これら若い時の経験や、ロシアのパヴロフスクにおける富裕な貴族相手の実入りのよい音楽商売の経験が効いているのである。『こうもり』を代表するアリアに、ハンガリーの淑女に扮したロザリンデのうたう「チャールダーシュ」があるのも偶然ではない。

わがままで傲岸な亭主アイゼンシュタイン(石頭)を懲らしめるために催されたロシア貴族オルロフスキー邸での偽の夜会は、ある意味ではビーダーマイヤーを逆手にとったヨハン・シュトラウスの社会的理想を実現するにも格好の舞台だった。そこには自由主義の行き過ぎた象徴であるアイゼンシュタインと、彼らを取り締まる側の象徴である刑務所長のフランクが呉越同舟していた。それだけではなく、奥様も女中も身分の差を越えて共に楽しみ、男女の間にも区別がなかった。ハイ・ティーンの少年オルロフスキーがズボン役になっているのも、十分に熟れた大人の歌手が少年の役を歌うことに対する配慮だけではなく、このようなことの象徴としても大事なことだったのである。

夜会の最後のほうの場面ではやや卑猥な意味を含みながらも、夜会の参加者はみな兄弟、とシラー風の勇壮なテーマが登場し、ベートーベンに対するシュトラウスの尊敬も窺われた。音楽的なことに加えて、政治的な問題でもベートーベンはシュトラウスの憧れの的であったにちがいない。その場面の音楽はこうしてピアノで弾いてみるとよくわかるように、ベートーベンのピアノ・ソナタのような響きをもっているのである。

ドニゼッティ『ドン・パスクヮーレ』はロッシーニやモーツァルトの系譜を引き、ヨハン・シュトラウスⅡはベートーベンの熱烈な信者であったとすれば、シュトラウスが後世、ブラームスの理解者であったということにも納得がいく。なお、ベートーベンは晩年、ウィーンに住んでいたが、ヨハン・シュトラウス・ファーターと同時代人である。リベラルな考えをもったベートーベンは、バレエ音楽『アテネの廃墟』でギリシア民族によるトルコからの独立にエールを送り、自分もギリシアに渡ろうとしたということだ。そんな巨匠も、Ⅱ世が2歳のころにはこの世を去っていた。

パスクヮーレと比べても、より多くのキャラクターが絡む『こうもり』に賭ける研修生たちの情熱は舞台上の尋常ならざる一体感として、作品的テーマを色濃く物語ることになった。このなかで中心にいたとは必ずしも言えなかったものの、オルロフスキー役の高橋紫乃の歌唱は、彼らのなかで飛び抜けた実力をもっている。歌の巧拙というよりは、それが内面に訴えかけるものが豊富であり、彼女が歌うと、その内容がいっそう胸に突き刺さるといった特別な歌手なのである。しかし、彼女自身はそのことに自覚的ではなく、いつも一歩引いたような場所にいようとする傾向がある。今回は孤独なオルロフスキー役なので、その傾向がさらに顕著だったかもしれない。もしも彼女が仕掛人の頭目として、中央でガツンと存在感を主張していたら、作品はまた別の印象を呈していたかもしれないのだ。

後半の『こうもり』は、よりキャラクターに相応しい配役になっており、例えば、アルフレードの水野秀樹の演唱は厚顔無恥な色男のアルフレードには打ってつけのものだった。アイゼンシュテインの岸浪愛学も、開放的な歌のキャラクターが役に嵌まっているし、ロザリンデの西尾友香理も表現に安定感があり、もうすこし経験を積めば、厚みのある表現に柔軟性が増し、もっと良さが素直に出てくるはずだろう。その他の役にも、総じて不満はない。何年か前の研修所には必ずいた、声の細い歌い手がいまはあまり見られないのは面白いことである。

【補足】

粟国の演出は、先に述べたように抜粋等が適切で、シンプルに作品のメッセージを引き出した点が評価ができる。オルロフスキー邸の場面では、奥になにも置かないことで空間的なだだっ広さをイメージさせ、複雑に話がこじれる場面の表現もすっきりしていた。最後の場面は牢獄を描かずに、刑務所の場面を構成した機知が冴えている。幕切れでは全員が静止画のように動きを止め、すべてがファインダーの向こうの出来事だったとして描き、物語がひとつの企てのなかで仕掛けられたものだったことを端的に印象づけていた。

観客を楽しませると同時に、これなら本当に、現場ですぐに役立ちそうだという舞台であったことも加味して、フルマークの素晴らしい演出だったといえる。

なお、ピアニストは岩渕慶子と木下志寿子。既に海外などでそれなりのキャリアがあるとはいえ、比較的、若いコレペティ陣を配し、河原が実地に経験を伝えて、こちらも育成していく狙いがあるとみられる。こうしてキャストとスタッフが同時に成長していくことで、日本の劇場の有する実力が立体的に強化されていくはずである。バレエ部門にしても、オペラ部門にしても、それほど予算の傾斜があるわけでもないながら、両研修所はとても理想的な形で構築されている点が窺われる。あとは、この成果をどう本公演に生かしていくかが課題である(現在は、本公演で研修所出身の歌手が主要役を張ることは滅多になく、二期会など別の機会に活躍の場を得ることがほとんどだからである)。

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