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2015年10月 7日 (水)

カンブルラン ワーグナー 歌劇『トリスタンとイゾルデ』(演奏会形式) 第1日 読響 サントリー定期 9/6

【契約延長に相応しい舞台】

これまでも読響では定期演奏会において、演奏会形式で規模の大きなオペラ上演を試みたことはあった。しかし、サントリーホールで5時間ぶっ通し、しかも2公演という例はきわめて珍しい。オーケストラとして考え得るなかで、最高の晴れ舞台が用意された。シルヴァン・カンブルランも就任当初は、欧州で評価の高い自身の指揮によるオペラ上演の可能性について、数週間の準備期間が必要であり、それを日本側が用意するのは難しいから・・・と消極的な姿勢をみせていた。しかし、この男はいつも現実的に、不可能を可能にしてきた人物である。アイスランドの火山噴火の影響でパリからの直行便が飛ばなかった際は、マドリーからテルアビブ、香港を経由して、60時間の長旅を厭わずに日本での公演に駆けつけてきた。東日本大震災の際にも、彼は原発事故などの困難な状況をかいくぐっても、日本のオーケストラと聴き手たちを見捨てることはなかったのである。

初期のころ、正直にいうと、カンブルランと読響の間には「ちがい」があったと思う。溝ではなく、音楽的なセンスや基礎のようなものがずれていたのである。しかし、彼らはそのちがいを私の予想よりも、かなり早い時期に乗り越えた。その後は鋭い上昇カーブを描き、ベテランの団員から新しいメンバーへの世代交代の時期にも当たっていたが、それも目下のところ、楽団の演奏レヴェルに影響を与えてはいないようだ。いまや読響はドイツの手兵と並び、カンブルランの思い描く理想的なサウンドや、音楽的な哲学を高いレヴェルで実現するオーケストラのひとつとなっている。演奏会形式とはいえ、カンブルランがオペラ上演に前向きになったのも、読響がどんな困難も解決できるオーケストラであることを、彼が認めたことを示しているのであろう。同時に、オーケストラの側から寄せられる首席指揮者への厚い信頼が2度目の任期延長につながったのは確実だ。

2019年3月末まで契約を更新した両者は、通算すると3期9年を共に過ごすということになり、これは同団の歴史のなかでは、故ゲルト・アルブレヒト氏に並ぶものである。外国人の指揮者としては、戦前の新響(N響)を率いたヨーゼフ・ローゼンシュトックの例を除くと、東響を10年間にわたって率いたユベール・スダーンの10年につづく日本での長期政権となる(もっとも最近、東響のノット氏はさらなる長期契約を手中にした)。

【カンブルランのワーグナー】

さて、今回のワーグナーの歌劇『トリスタンとイゾルデ』に向けて、カンブルランは周到な準備をおこなってきた。まず、歌手陣は直前にイゾルデ役が交代したものの、他のキャストはシュトゥッツガルト歌劇場の任地でともに上演してきたメンバーを起用し、同劇場の副指揮者まで連れてくる念の入れようである。こうした配慮によって、カンブルランは上演に必要な準備期間をいくらか縮めることができたであろう。演奏会形式にすることで、演技や立ち位置などの打ち合わせも必要なくなった。また、この演目は合唱の出番も少なく、大抵の部分をトリスタン&イゾルデだけで詰めることができる。読響でやる最初の演目としては、とても都合の良い作品だった。

無論、カンブルランがこの作品を取り上げた背景には、『トリスタンとイゾルデ』がその後のオペラやクラシック音楽に与えた影響が大きかった点も挙げられるだろう。トリスタンの響きはパルジファルと並び、現代の作曲家からもしばしば尊敬を寄せられる音楽だ。今回の上演を聴いているなかでも、私は何度も『ヴォツェック』や『ルル』の響きを聴いたような気がするのだ。カンブルランは今後とも、演奏会形式でオペラを取り上げると述べているが、彼のことだから、ここから後退することはあり得ないだろう。次の演目としては、ベルクのほか、シェーンベルク、B.A.ツィンマーマン、ヤナーチェク、ヒンデミット、プーランクなどの作品のうち、どれかになる可能性が高いということは容易に想像がつく。

カンブルランのワーグナーは一種、独特のものである。とはいえ、言葉と音楽の対応を細かく拾い、情景や情感が手にとるようにわかる舞台ということでは、傑出している。ネズミの大群(は今を時めくノイエンフェルス演出のローエングリンだが)とか、音楽外のことに目を奪われる要素がない演奏会形式であるため、むしろ、そのことはわかりやすいのである。こうしてみると、ワーグナーがいかに繊細に、音楽のなかに具体的な描写を忍ばせたかがわかろうというものだ。例えば、イゾルデが(侍女との会話のなかで)最初にトリスタンについて触れたとき、ヴィオラに表れるモティーフの深い印象、また、イゾルデにいわれた侍女が船の窓を開いたときの強い海風とその静まり、過去の回想シーンで、トリスタンと瞳を重ねたイゾルデが短剣を落とすときの下降音などである。こうした部分の描写は新しさも帯びているものの、むしろバロック・オペラにちかい表現ではなかったろうか。

【モデリング】

思えば、この作品は古いものを否定的に媒介して、新しさを導き出すという点で徹底している。バロック・オペラはその重要な下敷きのひとつだが、もうひとつ重い関連性を指摘できるのはドニゼッティとの関連性である。恐らくワーグナーは、ウェーバーの書いたようなドイツ・オペラの歴史を発展させようという以外に、ドイツ・オペラの革新によってイタリア・オペラという、いわば「母親」的なものの分厚い魅力を超越するという目的に従って動いていた。そして、これは同時に、自分を酷い目にあわせたイタリア芸術びいきのザクセン王ヨハンに対する宛てつけという政治的意味も帯びてもいる。もっとも初期のワーグナーの作品にはイタリア・オペラの影響がつよくみえ、充実期の『マイスタージンガー』においてさえ、ベックメッサーという人物がイタリア・オペラの申し子として、見事な歌を披露するほどだ。イタリア・オペラとは声の魅力であり、人間のこころの動きを恋愛的な感情を中心に描いていくことを主としている。それは政治的な作品、セリアの伝統のなかでも徹底しており、『愛の妙薬』の作者であるドニゼッティは、同時に英国のヘンリⅧやエリザベスⅠの時代の宮廷人をキャラクターにして3本のオペラを書いているが、それらの顛末もまた、ことごとく恋愛が鍵になっているのである。

ワーグナーにとっては、『トリスタンとイゾルデ』は毒に毒を注ぐような作品であったにちがいない。あり得ないイタリア・オペラのプロットを強烈に皮肉りながら、同時に時代的な皮肉も垣間見えている。トリスタンが初演されたころ、英国ではハノーファー朝のヴィクトリア女王が君臨し、台頭するプロイセンとは徐々に剣呑な雰囲気になりつつあった。作中のマルケ王は妃を喪った哀しみから、その後、イゾルデとの結婚を提案されるまでは妃を迎えなかったといっているが、これはヴィクトリアがザクセンから来た最愛の夫アルバートを喪ったあと、長く逼塞して「服葬」していた事情とよく似ている。また同時に、気位の高いイゾルデはヴィクトリア女王からの投影であるとみることも可能だ。先にも名前を出したザクセンのアルバート公子は金髪と青い瞳で女王を魅了し、ヴィクトリアと結婚している点も『トリスタン』の世界とよく似ているだろう。

一方で、作中の人物たちはヘンリⅧの時代の人物とよく似ているキャラクターも多い。

例えば、トリスタンのモデルとしては、チャールズ・ブランドンが挙げられる。ヘンリの寵愛を受けて、騎士階級から公爵にまで上り詰めた人物だ。王妹メアリとは仲が良く、メアリがフランスのルイⅩⅣに嫁いで程なく寡婦となったとき、彼女をフランスから連れ帰る役目を仰せつかるのだが、結局、2人は結婚に至る。これはトリスタンが、マルケの妻となるべきイゾルデをアイルランドから連れて来る途中で関係してしまった事情と類似する(ただし、ヘンリは2人の関係を喜んでいた)。なお、ヘンリからは疎まれて身分を落とされていた、メアリを保護したのはヘンリの最後の妻、キャサリン・パーという女性だった。このパーは、イゾルデの忠実な侍女ブランゲーネのモデルであった可能性がある。

ヘンリは6人の妻を娶ったが、この様子はマルケ王とはネガポジになっている。ほとんど現実にはあり得ない仁君であるマルケと比べて、国教会を立ち上げて、とっかえひっかえに妻を娶ったヘンリは、寛容さも欠き、邪魔者とあらば残忍に処分した。そのなかには、初期のブレーンであったトーマス・ウルジーや、その後任であるトーマス・モアがいる。モアは『ユートピア』の書き手であり、最後、トリスタンが亡くなる場所である、カレオール(フランスのブルターニュ地方)のイメージを与えるだろう。またウルジーは、離婚問題で王にとって思いどおりの成果を導けず、「いったん罪を得て赦される」という点では、トリスタンと共通点があるし、その後、再び逮捕されるのもトリスタンの境遇にちかいものを感じる。

【魔法や人間的な名誉、秩序から自然的なものへの移行】

なお、トリスタンはマルケによって赦されながら、吉報が遅すぎて死んでしまうが、こうしたプロットは、ドニゼッティの『ロベルト・デヴェリュー』の筋を下地にしているかもしれない。そもそも愛の媚薬という発想が、同じ作曲家の著名な歌劇『愛の妙薬』のパロディであることは明らかである。そこから予想できるように(ドゥルカマーラの媚薬はニセモノだった)、トリスタンとイゾルデの関係は媚薬とは直接、関係がないものだったにちがいない。これに限らず、王女イゾルデの伝承するという魔法は、ことごとく効果がないのが描かれている。例えば、イングランドとの戦で風雨を自由に操るはずの魔法は、彼女のもとの許嫁に勝利をもたらすことはない。また、過去に「タントリス」の傷を塞いだという話は出てくるが、実際に歌い演じられる最後の場面では、イゾルデがトリスタンを癒すことはできない(間に合わなかったのだとしても)。そこへもってきて、媚薬だけがちゃんと効くと思うほうが不自然だ。

しかし、媚薬の存在は、意地や立場によって封印してきた各々の感情を解放する役には立ったであろう。具体的には、媚薬は明らかに音楽の構造を変えている。そのことによって、重く抑圧的な響きは圧倒的な喜びへと転換された。このあたりの事情を語るには、カンブルランの手腕は見事であったというべきだろう。2人はもとから愛し合っていたから、何かのきっかけがあれば、すべてを擲ってこころを結ぶ準備ができていた。トリスタンのガードは意外に固かったが、王女のプライドやトリスタンの騎士的な倫理を押し開くために、媚薬という言い訳が必要だったにすぎない。ワーグナーが主張したかったのも、正にこの点だったのにちがいないのだ。名誉や立場といったものから、人間を解放すること。

その反対に、ワーグナーが対置したのが自然だったのではなかろうか。第1幕ではサウンド全体が明らかに、波に揺られ、強い風が吹きつけている。第2幕では森の静けさに冷たい風が吹き抜けていくのを感じる。そして、第3幕では牧人の吹くコーラングレの響きに、海岸の土地全体の雰囲気が聴き取れるのである。驚くべきことに、カンブルランはこのコーラングレをオルガン席に牧人役の歌手と隣り合わせて配置し、通常のバランスよりは明確に、この響きを終幕の印象を左右するほどのモティーフとして用いているのだ。こうして聴いた場合には、ワーグナーの斬新な発想がいっそう明らかになるであろう。私はこの長大なソロを耳にして、いよいよ『トリスタン』の新しさについて実感を深め、涙を流したものである。このような表現は、それまでのオペラのどこにもなかったような質をもった表現ではなかろうか。たった一本の楽器が、すべてを物語り、また、洗い流してもくれるのである。

【クルヴェナールは悪魔なのか】

第3幕は前奏曲から、ほとんどすべての部分で印象的だった。私はアッティラ・ユンのマルケ役には必ずしも十分な支持を与えないが、この幕に関しては、それさえもうまい方向に転がったように思えるのだ。前幕の悲劇的な結末を直截に受けた、最初の低音弦の鋭く深い表現から、コーラングレのソロ、再び低音弦を主体とした部分に回帰して、ドラマが始まっていく。石野繁生の元気のいいクルヴェナールは股肱の忠臣というより、悪魔にみえる。現地の演出のどうだったかは知らないが、もしも石野が悪魔の手先としてクルヴェナールを演じていたとするなら、これは見事なものだった。通常、クルヴェナールは裏表のない素朴な忠臣だが、主君であるトリスタンの抱く崇高な想いまでは理解できないキャラクターとして描かれていると思われる。だが、リブレットをよく眺めていると、クルヴェナールが悪魔の手先なら、より説明がつきやすい部分がいくつかあることを指摘したい。

例えば、最初の幕でクルヴェナールは、イゾルデの立場を揶揄するかのような水夫の舟唄につづき、彼女を侮辱する態度をとる。イゾルデは激怒し、その主君であるトリスタンに居丈高な態度をとるところから、二人の関係は拗れていく。クルヴェナールの態度は一見、竹を割ったようなところがあり、真っすぐのようだが、賢明なトリスタンにはいつも窘められている。石野が場面にそぐわない浮いた演唱をみせることで、その印象は強まっていくのだ。終幕は彼の忠臣ぶりが一見、トリスタンの代弁をするかのような場面がある。ところが、トリスタンは彼の真心に感謝するどころか、これを一喝し、遠ざけるように見張り台へと上がらせる。駆けつけたメーロトとマルケ王に対し、クルヴェナールは必死の抗戦を試みるあたりも誠実のようだが、実際には、彼らはトリスタンを赦しに来ているのであり、王の「さがれ。気でも狂ったか!」のほうが自然なメッセージである。

つまり、クルヴェナールは実直な忠臣とみえて、いつも正しい方向に背を向けた人物であるのではないか。トリスタンが魔的なもの(イゾルデの魔法)によって命を取り留めたことを嗅ぎつけると、これに近づき、「忠臣」としてトリスタンの動きをコントロールしつつも、イングランドとアイルランドの間に混乱を生じさせるのが彼の目的だとすれば、終幕はまだ利用価値のある人形を聖なる手から守ろうとしている風にみられるのかもしれない。再び歴史を紐解いてみると、イングランドとアイルランドの関係はきわめて示唆的に、複雑な様相を呈している。そして、イングランドの支配下において、アイルランドは常に貧しかった。この関係は実のところ、ワーグナーにおいては、「現代ドイツ」の政治的状況と重なって見えるところも大きかったであろう。クルヴェナールは、混乱を生じさせる元凶というほどの人物ではないが、悪魔の手先といえるほどには邪悪な背景をもっている。ファウストに対するメフィストのような強大な力はもたないが、トリスタンという英雄にへばりつく寄生虫のような生命力はもっているのだ。

【主要二役の素晴らしさについて】

石野が小悪魔として相応しいなら、この公演のミューズは明らかにレイチェル・ニコルズだった。ニコルズは母国の英国でワーグナーをうたっている歌手で、この日もあまり準備期間のない急な代役だったが、それでも譜面を立てることは拒んでいる。バッハ・コレギウム・ジャパンの演奏会に出たようなこともあり、イゾルデ役に相応しい歌手というイメージはなかったが、確かに伝統的なドラマティック・ソプラノがうたうようなイゾルデとは一線を画していた。クライマックスのいわゆる「愛の死」の場面でも、力んで粘りながら、岩に波がぶつかって砕け散るような表現ではなくて、言葉をしっかりと、スムーズに表現しているのが明らかなのである。

そのことは、トリスタン役にも共通していた特徴だ。この公演で、エリン・ケイヴスは決して高評価とは言われないが、私は一般的な評価とは異なった見解をもっている。確かに、彼がこの役を歌いこなすには、まだ多くの経験が必要であることには異論をもたない。ヘルデン・テノールという特殊な声質はいま、バイロイトで有名な歌手のパフォーマンスからも耳にすることは稀だ。大昔のカストラートがいま、いっさい存在しないように、ヘルデン・テノールも同じように存在しない。クラウス・フロリアン・フォークトは特殊な技能と味わいをもった歌手だが、彼のことをヘルデン・テノールという人たちはきっと、比喩的に言っているに過ぎない。ユハ・ウーシタロは声が強く、大きいだけで風格に欠ける。ルネ・コロ?ステファン・グールド?ヨナス・カウフマン?これらは、すべて亜種である。我々が録音を通じて辛うじて聴くことができるような、ヴォルフガング・ヴィントガッセンやマックス・ローレンツのような歌声を現代に甦らせることは、フランコ・コレッリやジュゼッペ・ディ・ステファノの声を復元しようとするよりもいっそう困難なことだ。

しかし、ケイヴスには現代の歌い手には稀少なある特徴を指摘できるだろう。歌のフォルムを知的に構築しながら、言葉に傾けた表現を採っている、こうした歌い手は、声の迫力の上で劣るものがあったとしても、聴き手を飽きさせないものをもっているものだ。こうした歌い手について、私が最初に気づいた例は青戸知という歌手についてである。初めのうち、私もまた彼の声の細さにはストレスを感じたこともあったが、その繊細でよく考えられた歌いくちに気づくと、たちまちのうちに彼の歌手としての魅力に理解が及んだ。もっとも彼の最近の活躍については知らないが、聖徳大学で後進の指導を行っているほか、皮肉なことに、私のあまり評価しない小林研一郎氏からは信任が厚く、第九公演などに継続的な出演をつづけているらしいことぐらいを知るのみだ。青戸のイメージを通じて、私はケイヴスの演唱について、素直に認めることができた。

カンブルランが、ケイヴスやニコルズのような歌手を重用するのは理解がしやすい。なぜなら、彼の音楽は、歴代の巨匠たちが気合でつないできたような部分を、言葉やイメージから来る自然な流れで清らかに流すスタイルだったからである。言葉には感情が付属し、そこからは肉体の質感や血の鼓動が聞こえてくるものだ。反対に、マルケ王のユンや、ブランゲーネのクラウディア・マーンケは声が大きくて迫力があるが、題名役の2人のような豊かな起伏のない表現だった点では退屈である。トリスタンには要所で突き抜ける表現も期待したいものだが、むしろ、その願いは私の卑俗な好みを示しているにすぎないだろう。今回は慣習的なカットも元に戻したスタミナの要求されるパフォーマンスが採られたため、第1幕はやや抑え気味、第3幕終盤はF1のタイヤが何十周も走ったあとのような擦り切れた表現になって、とても好調とは言えなかったろうが、それでも最後まで歌と言葉の威厳を守り徹した彼の表現には称賛を惜しむものではない。

【まとめ】

このように、カンブルランの表現はトリスタン和音だの、ライトモティーフというよりも先に、言葉に焦点を合わせたものだったことは、いくら強調してもしすぎるということはないだろう。第2幕のカット復元部分でも、大事な ’licht’ のキーワードをケイヴスが大事に歌っていることがわかった。今回の上演の目玉のひとつは、この復元部分にあるわけだが、愛の二重唱を主体とするこの幕はオーケストラも含めて、この日、もっとも力を入れたパートだったことに疑いはない。

読響はそれほど豊富な演奏機会があるわけではないにもかかわらず、オペラの表現に適したフレキシブルな表現性と内面的な深い訴求力をもったオーケストラであり、例えば、二期会の公演で飯守泰次郎が指揮した『パルジファル』(2012年、C.グート演出)でも、思い出ぶかい見事な演奏をやってのけたことは記憶に新しい。この公演でも同様の良さが発揮されたが、それでも5時間の長丁場ともなれば、若干の隙間ができる部分もあった。こうした部分を経験によって少しずつ埋めることができれば、欧米の著名な劇場管とも同等に亙り合うことができるのだろう。オペラというのは、なにを措いても経験が大事な芸術ではないかと思われるのだ。

また、この公演の経験を元手に、改めて綿密な調査を試みたところ、ワーグナーの一筋縄ではいかない表現の奥深さに改めて驚かされることにもなった。この演目については中世から伝わる『トリスタン伝説』が下地になり、チューリヒで知り合ったマティルダ・ヴェーゼンドンクとの関係もよく言われるが、それだけではなく、歴史的、政治的な皮肉や重ねあわせが複層的に存在し、ドイツ・オペラの伝統とイタリア・オペラの感情的なもの、あるいは新旧の舞台音楽の対比や、それぞれ前者による後者の超越というテーマもが透けて見えるのである。

ワーグナーはドイツ3月革命に際して、共和主義者のような真似をしてドレスデン(ザクセン王国)や、ドイツ諸邦から締め出されることになるが、彼の初期の理想は英国の立憲君主制を模した共和主義の実現だったにちがいない。だから、初期の彼は古典主義的な「護民官」リエンツィを祭り上げたりしていたが、その思想は本物ではなく、やがてはカトリック国で、自由主義的なフランスと関係の深いバイエルン王国に拾われることになった。しかし、神話好きのノイシュヴァンシュタインの主、ルートヴィヒⅡも彼を一時は見放したように、彼の思い描く自由とはかなり利己主義的なものでもあったようだ。

私生活でいえば、彼の放蕩ぶりは今でさえ、世間の怒りを買うかもしれない。例えば、マティルダも亡命先のチューリヒで世話になっていた豪商ヴェーゼンドンクの妻だったし、後には友人ハンス・フォン・ビューローの妻だったコジマを、自分も妻がある身でありながら強奪し、ジークフリートを生ませたりしているほどだ。さらに浪費が過ぎ、友人や知人からの借金も踏み倒すなどしたこともある。哲学者ニーチェとの関係も微妙であった。彼は若い支持者の追従については喜んだが、彼が控えめに示してくる稚拙な音楽にはひどく無関心だった。ブルックナーも大分、年嵩になってワーグナーを訪ねたが、同様の冷淡な扱いを受けている。つまり、ワーグナーは自分以外の音楽にあまり関心がなかったようである。

オペラのヒーローとヒロインも、ある意味では利己主義的なところがあった。彼らの行為は、倫理的な秩序だけではなく、神の平和をも打ち破る破壊力をもっていたからだ。徹底したロマン主義ともいえようか。ワーグナーの音楽と、生活は完全に一致しているかのようにみえる。その先に生まれてくるものは本来、破滅だけではなかったろうか。それを、階段を踏み外すようなトリスタン和音が象徴している。ただ、飯守泰次郎は新交響楽団の公演プログラムで、こうした和声的な特徴がもつ意味を次のようにも解説している。「半音階をどんどん使って非和声音をたくさん入れると調性は不安定になる。そこに言葉では言い表わせない内面の暗示や象徴的表現が生まれる」。然り! さらにヴィルヘルム・フルトヴェングラーの言葉を引いて、「トリスタンこそ、調性を否定したのではなく、最大限まで使いこなした」という。然り! これも、きわめて示唆的な言葉だろう。だが、カンブルランはこうした要素を当たり前のように柔らかく使って表現を組み立てた。我々が、全部を知っているかのように! むしろ、次に行っているのだ。これが凄いところだが、本来、オペラの表現としてやるべきことはそれにほかならないはずである。

では、その「次」とは何であったのか。それはつまり、ワーグナーがどれほど斬新な音楽家であったかということを、実感として示すことにほかならないのである。活き活きとしながらも、新しい表現に『トリスタン』がどれほど深く浸かっていて、それが当時の、あるいは現代の聴き手のこころに何をもたらした(もたらす)のか。その象徴として、終幕のコーラングレが強調されている。このような手法は、息子コンヴィチュニイがハンブルクで演出したモーツァルトの歌劇『皇帝ティートの慈悲』で、象徴的に使われたバス・クラリネットの用法などと通じており、私はきわめて効果的な部類に入ると思う。私が考える、音楽の「可視化」のもっとも端的な実践例だからである。私はこのコーラングレに、かつてない衝撃を受けた。もちろん、初めて聴く音楽でもない。だが、この日に関しては、初めて聴いたように新鮮だった。

こうしたところに結集するカンブルランの徹底した知性には、誰も適わなかったのであろう。伝統的なワーグナーに慣れた厳しい聴き手たちも、この上演について、ほとんど批判をしていないことは驚くべきことである!

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