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2015年10月21日 (水)

二期会 リヒャルト・シュトラウス 歌劇『ダナエの愛』 深作健太(演出) 準・メルクル(指揮) @東京文化会館 10/4

【概要】

物故した若杉弘氏や岩城宏之氏は生前には「初演魔」といわれ、競うように日本でまだ演奏、上演されていない作品の数々を舞台にかけて、日本では限定的にしか知られていなかったようなクラシック音楽の裏御殿を披露した。岩城がどちらかといえば管弦楽作品に強かったのと比べると、劇場育ちの若杉はやはり、オペラに大きな足跡を残している。リヒャルト・シュトラウスの歌劇『ダナエの愛』も、若杉による演奏会形式の初演が行われている。2006年のこの公演は、新国立劇場や二期会、藤原歌劇団、東京室内歌劇場などのオペラ・カンパニーによるものではなく、(財)新宿文化・交流財団主催のニッチな公演であったせいか、それほどの話題とはならなかったはずだ。この度、二期会が舞台上演としては初演となる舞台を作り上げたのは快挙である。映画や演劇の分野で活躍する、深作健太がオペラ初演出に挑戦。管弦楽は、準・メルクルが東京フィルを指揮した。

最初に、基本的なことを確認しておく。まず、作品はシュトラウスにとって最後のオペラとなる『カプリツィオ』のひとつ前に書かれたもので、同じユピテルの横恋慕を描いた『ダフネ』と平行して、1937~40年の間に書かれた。諸般の事情で初演が遅れるなか、部分的な上演はおこなわれたものの、結局、1944年の作曲家80歳の誕生日を祝う上演として温存されることになった。だが、敗戦が目前に迫ったドイツでは国家的リソースが防戦だけに向けられ、オペラの初演など企図できる状態ではなかったので、ザルツブルク音楽祭で予定されていた上演は戦後に持ち越されることになる。台本作家としては、晩年のパートナーであるヨーゼフ・グレゴールが起用されているが、ベースとなったのは『アラベッラ』制作中に物故したフーゴー・フォン・ホフマンスタールの著作である。このことからもわかるように、『ダナエの愛』の制作は自らが生きた過去の財産を復元し、それらを改めて埋葬する意図に拠っているとしか思えない。

【コラージュ的作品】

作品をみればすぐにわかるように、このオペラはワーグナーや自作のイメージをコラージュ的につなぎあわせたものになっている。その中心には、ワーグナーの『ニーベルングの指環』『ローエングリン』『トリスタンとイゾルデ』『パルジファル』や、自作でホフマンスタールとのコンビ・ワークであった『ばらの騎士』『アラベッラ』があるが、そのほかに、ワーグナーの主要作品のほぼすべてと、並行して作曲が進められた自作『ダフネ』の影響があるのは明らかである。不要かもしれないが、一例を挙げるとすれば、『ばらの騎士』ではオックスの求婚の使者として、フォン・ファーニナル嬢を訪れたオクタヴィアンのイメージが、ユピテルの使者として現れながら、先にダナエと愛し合ってしまったミダスの姿と重なり、また、その愛の象徴としてばらが用いられているのも偶然であるはずはない。なお、神話において、ミダスはばらの庭師としての特殊なスキルをもっていて、神々に重用されたという。

この物語の鍵を握るミダスは、ギリシア神話においては、ユピテルの前身であるゼウス神、そして、ダナエとは直接の関係をもたないはずだ。触れるものすべてを黄金に変える能力は、実はディオニュソスが授けたことになっている。そして、ダナエはゼウスと関係しており、メデューサ退治で知られる英雄ペルセウスを産むことになった。このペルセウスは後に、アリアドネーとディオニュソスの夫婦を殺すことになる(ディオニュソスは冥界から復帰し、ペルセウスとは和解する)。オペラではもちろん、ダナエとミダスが結びつき、ユピテルはダナエの愛を受けられないというカップルの組み替えが起こることになった。

ミダスが正体を隠しながら、ダナエと固い愛情で結びつく点はローエングリンやパルジファルと似たような関係を生んだ。ローエングリンの禁問を思わせる台詞もあり、第2幕冒頭は合唱こそないものの、『ローエングリン』第3幕の婚礼(後の寝室)の場とよく似ていた。4人の妃たちによって、ユピテルの秘密は赤裸々に語られる。ラインの乙女やワルキューレたち(人数は異なっているが)を連想させる4人組の元恋人たちは、ダナエ、ミダス、ユピテルの主要三役に次いで、重要な狂言まわしの役割を演じている。第3幕ではユピテルと最後の晩餐をともにして、彼自身の末路を先に辿っていくわけである。

【深作演出は歌手主導】

さて、今回の上演について、もっとも話題が多いのは深作の演出についての評価であろう。従来、オペラを繰り返し演出してきた人たちとは異なり、深作にはオペラ演出を根本から問い直すような新鮮さが要求されていたはずと思うのだが、私のみるところ、彼はまったく別の意味で期待に応える役割を果たした。オペラ演出の刷新という意味では、深作がこの公演にさほどの貢献はしていないのが明らかである。彼はむしろ、オペラの好きな私たちの代表者として、この公演を演劇面やドラマトゥルギーについて指揮したように思われるのだ。その結果として、おかしな言い方だが、「オペラ」くさいと思われる人の動きが、全部排除されたとは言い難かった。多分、彼は歌手たちの意見にふかく耳を傾けたと思われるし、それを音楽面の代表者=指揮者である準・メルクルに話して調整する役割を担ったのは明らかだ。だから、この公演でいちばん重要な鍵を握ったのは、歌手たちだったにちがいない。

【前半2幕】

第1-2幕はオーソドックスな舞台づくりであり、ほぼ初演というには相応しい構成ではなかったかと思う。上演を重ねた作品をまったく新しい発想で演出するのには理由があるが、初演にちかい作品をムジーク・テアター方式の読み替えでやられても、まず元ネタがわからないということになりがちだ。ト書きにあるかわからないが、第1幕でダナエは鎖につながれている。これは神話に基づき、予言によりダナエの産んだ子が祖父である王を殺すと出たために、彼女を父親が地下牢に閉じ込めていることを示している。実際、ダナエとゼウスの子であるペルセウスは偶然、祖父アクリシウスの命を奪うことになる。彼女がつながれているのは墓石にみえ、この作品では母親の存在がみえないことから、それと想像できるだろう。

しかし、この墓石は寝台の一部とも見え、あるいは、石造りの水場ともみえるときがあり、多義的に印象づけられていた。寝台は後に、この舞台で重要な役割を果たすことになるし、第1幕では侍女がダナエの足を洗う場面があるので効果的だった。そのとき、ダナエが生足で、靴さえも履いていないという演出には驚かされる。そして、初めのうち、ダナエについては生足や裸足、寝台の枠を飛び越える行為などにより、見かけよりも少女的な特質が印象づけられることになった。父親によって、あるいは、運命によって、墓石と結びつけられた少女=ダナエの数奇な足取りが作品をどのように彩っていくかは楽しみであった。

ただ、その鎖が早くも第1幕のおわりで、ミダス王の登場の際に父親ポルックス王によって断ち切られてしまったのにはガッカリだった。なぜなら、この鎖はポルックスごときが、欲望によって動かされた斧だけによって断ち切れるはずのものではないからである。ダナエを解放するのは父親の斧ではなく、ミダス、もしくはユピテルの愛である。この時点で、私は深作の演出に多少の疑問をもつことになった。

疑問といえば、「空」から降ってくる黄金の雨=実はユピテルも、その全知全能を象徴するような勢いではなく、しとしと降る雪のように控えめなのも面白かった。このことについては後刻、また触れることになるだろう。なお、天井には客席からよく確認できる形で丸い穴があけられ、「リング」を象徴しているのは明らかである

第1幕の見せ場といえば、ダナエと侍女クサンテのやりとりであり、二重唱だ。この2人の関係は、『さまよえるオランダ人』や『トリスタンとイゾルデ』における主役(ゼンタ、イゾルデ)と年配の女性(乳母マリー、侍女ブランゲーネ)との関係を感じさせるものだが、クサンテがダナエの話を夢と決めつけて呆れている点で、オランダ人のほうの印象にちかくなるだろう。そして、作品はこうしたゼンタの夢見がちなイメージが少しずつ固まり、最後には驚くほど現実的に生きる、妊婦を描くというところに帰結していくのだから面白いのである。なお、この日の公演で、音楽的に印象ぶかいもののうちのひとつに、この対話の頂点にくるダナエとクサンテの女声二重唱があり、林正子と平井香織のマッチングが素晴らしかったことが特筆される。

第2幕は、4人の妃たちとの関係でユピテルが寛いだ雰囲気で描かれ、全知全能の神を演じる小森輝彦の演唱の素晴らしさが際立った。天井の穴から吊るして寝台を覆うように飾られた純白の薄いカーテンが、ユピテル自身の優雅さと、これから起こる(はずだった)婚礼の印象を物語っている。合唱の介在こそないものの、最初の場面は『ローエングリン』終幕の寝室のシーンを意識したもので、音楽的にもヒントがある。この幕で重要となるのは、ユピテルと4人の妃たちによるアイロニカルな対話である。4人の妃たちは、かつてのユピテルの浮気相手というだけでなく、作曲家にとっての「過去の作品」と同じ意味をもっており、終幕では、これら「過去の作品」たちとの最後の晩餐が開かれ、別れに至るという筋になっていた。

終盤には、ミダスの触れたダナエが片手を高く掲げたまま黄金化し、ユピテルとミダスの求婚に対して、ダナエがミダスを選ぶ瞬間がクライマックスとなっている。福井敬の扮するミダスが、黄金よりも大事なものを見つけようと歌うと音楽の高揚も最頂点に達するが、2人が去った後、今度はユピテルがすかさず反論に出た。このユピテルの主張は重く、ダナエとミダスの結論が早まったものであることも示唆しているようにもみえる。先にも記したように、ユピテルには時々、作曲家自身の主張が見え隠れしているだけに、第2幕最後のモノローグもミダスの言葉以上に重厚な効果をもたらすのである。

結局のところ、このようなユピテルの叫びは天界の笑いを買うものでしかなかった。奥方のユーノーをはじめ、オリュンポスの神々の嘲笑について、メルクール(メルクリウス)が伝えている。しかし、これはシュトラウスが身命を賭して書いた作品を笑う人々がつくる、冷笑的な世相に対するアイロニーであったと思われる。例えば、1910年代の終わりごろ、シェーンベルクが登場した際には、後には仇敵となる彼に対しても、シュトラウスは擁護的な態度をとった。シュトラウスはまだ可能性を十分に試されていない、新しい才能が冷笑的な嘲笑や罵倒だけによって潰されていくのを見過ごしにできなかったのである。この2人にとっては、時代こそがより致命的な強敵であったともいえるだろう。

【キッチュな第3幕】

第3幕に入ると深作はセットを大幅に壊し、戦争末期に破壊されたドレスデンや、焼跡の日本、後世、3.11の大津波にやられた三陸の街、あるいは、現代中東のどこかの貧しい町などになぞらえた描写がおこなわれている。前半の2幕で伝統的な表現を守った深作だが、第3幕では一気にブリッツをかけてきた。舞台奥の遠景には、燃えさかる炎が家を焼くような風景が浮かび上がっている。メルクールは放射線防護服のようなものを着て登場し、脱ぐと外科医のような格好をしている。この意味は、よく分からない。メルクール=メルクリウス=ヘルメスは、商いや豊穣の神、風を操る旅人の神、狡知に長けた詐術の天才、薄明の神にして、冥界への道先案内人として知られている。このうち、作品のなかで重要なのは薄明を支配する、彼の役割である。

それだけではない。4人の妃たちが再び現れると、天井から吊るした裸電球に、ビール・ケースの卓が用意され、おもむろに小劇場演劇のような雰囲気となって、ユピテルと妃たちによる最後の晩餐が始まるのである。この4人の妃たちはそれぞれに、実力のある歌い手が選ばれているものの、ユピテルとの軽快な喜劇を演じるには重すぎて、私の歓心を誘うには至らなかった。妃たちと別れたユピテルはいよいよ貧しくなったダナエを訪れるが、彼女は初め、ユピテルに気づかない素振りをみせ、老人への気遣いからポリタンクに溜めた水を振る舞う。これは『アラベッラ』の最後のシーンで、題名役が恋人のマンドリカの話した逸話に被せて、自家の泉の水を振る舞ったのと対応するエピソードだ。さて、ユピテルが激しい本性を示すと、ダナエも応じるが、彼女にはもはや切り札があったのだ。これもト書きにあることかわからないが、彼女のお腹はミダスとの子どもを身籠り、大きくなっていたのである。

メルクールの箴言、金がなくて幸せな奴は見たことがありません・・・は大きく外れ、ユピテルはついにダナエを諦めることになる。ユピテル来訪の間、遠景の炎は鎮められている。そして、ミダスが出かける前に、舞台下手にダナエが植えた木には、ユピテルが最後に話した昔ばなしに寄せて、花がつけられていて、ダナエは驚く。この小さな象徴から、ダナエは傍迷惑とはいえ、この偉大な神にどれほど深く愛されたかを知ったにちがいない。そして、そのことは、ヒトラーに愛されたがゆえに、戦争協力者の烙印を押されかけた作曲家の境遇にも通じている。シュトラウスの子息はユダヤ人と結婚しており、息子夫妻や、彼の台本を書いた優秀で理解のあるユダヤ人たちを守るためにも表向き、妥協的な姿勢を示すことも重要だったのである。

【作曲家の無力感】

今や、作品は芸術家の無力感と無関係ではない。彼がどれほどの誠意をもって愛情を示そうとも、ダナエとミダスの深い欲情に抗する術はなく、また、一方ではダナエのように健気な態度で、現実主義を拒絶することもままならなかったのだ。ダナエとミダスの生き方は、シュトラウス自身が決して選ぶことのできない夢の世界の出来事である。もっといえば、この作品自体が筋の通ったプロットを必要としない詩的世界であることも踏まえておく必要があるだろう。メルクールの報告する神々の様子をみれば、天界にすら、まともな批評眼は働いていないように見えた。シュトラウスは、孤独だったのである。

ところで、私たちはあの大津波や原発事故に対して、ただ注意深くみているだけで、あまりにも無力だった。ボランティアをしたり、募金をしたり、食べて応援したりというようなことはあったろうが、それらは本質的な救済にはつながらない。深作は自然の脅威の前に立ったときの、そのような無力感と、時代的な大きなうねりのなかで何もできなかったシュトラウスの体験に共通点をみたのである。

【細部が表層に勝つ】

深作の面白いところは、彼のそうした主張を大っぴらには視覚化しない点にある。黄金の雨もしとしと程度、第2幕でミダスが次々に黄金を生み出していくところでは、上手にあった松明の火がチリンと黄金に変わる可愛い見せ場があった。第3幕では、下手の小さな木に健気な白い花がつくといった具合である。こういった細部が表層的な目立つ表現に勝つという発想が面白かったし、そもそも、このような主張を観客が自分で見つけた場合には、誰もがあっという間に気づくときよりも、大きな喜びを生んでくれるということもあるのだろう。

照明の使い方も、効率的だった。黄金のトリックも、すべて照明で処理されたからである。これは同時に、深い意味を示唆するものでもあった。黄金=富というものは、いつでも無価値なものになることを示唆するからだ。価値ある状態になるのも、そうでない場合も、同じ照明の仕業だとすれば、これはきわめてアイロニカルなことであろう。ただ、これは繰り返しいうなら、表層的な表現だ。その驚きよりも、小さな花がついたときの驚きのほうがはるかに大きい。ところで、深作は富や名誉といったものを全否定しているわけではない。貧しさを、讃美しているわけでもない。どんな境遇にあれ、人々がこころのなかにもっている「花」の美しさを示したにすぎないのである。そして、まずなによりも美しいのは、作曲家の咲かせた花であったと思う。

【まとめ】

歌手が良い、オーケストラが良い、演出が良いという前に、まず感じたのは作品の素晴らしさではなかったか。『ダナエの愛』の音楽は『ばらの騎士』や、最後に書かれた『カプリツィオ』ほどは、完璧な美しさを示しているわけではない。前半2幕ではバロックを含む新古典的な要素が強く、コラージュ的な発想も優勢だった。自作引用はシュトラウスの作品において珍しくないが、『ダナエの愛』はそれらの総決算という意味において、また同時に、後期ロマン主義の最後の舞台に現れた性質からみても、バッハ的な偉大さを伴っている。そればかりか、シュトラウスは死者を甦らせ、ホフマンスタールとの共同作業までを復活した。支持者のクレメンス・クラウスらは十分にその価値をわかっており、それゆえに、1944年の誕生日まで作品をとっておくことにした。質的には、シュトラウスの作品のなかで最高のものではないとしても、作品には、それに代わる深い意味があったからである。

その上演が潰れ、関係者に「今度お会いするときは、もっと良い世のなかで」と作曲家は告げたそうだが、その意味するところは社会の平和という以上に、芸術的な平和を願ってのものだったと思われる。もちろん、彼は遠からず訪れる自分の死というものも予感していたであろうし、ドイツが負ければ、自分の立場が拙くなることも理解していたはずだ。戦後にずれ込んだ『ダナエの愛』初演は1952年で、それに先立つこと3年、作曲家は1949年、既に歿していた。数奇な運命を辿った作品は、欧米でさえも上演が多いとは言えないだろう。

パロディ的な面もあるとはいえ、そのままの引用はほとんどなく、いちど作曲家の内側に取り込まれてから、新しい形をとって表出された。声楽的には、端役に至るまでドイツ的に自然な広がりをもった唱法が必要であるように思われるが、メルクール役のみはニュートラルに設定され、イタリア・ベルカント的な唱法が応用できる。この点で、この日の児玉和弘は救われている。ドイツのアルテンベルク・ゲラ劇場で長くトップ・バリトンとして活躍し、日本人として初めて「ドイツ宮廷歌手」の称号を賜った小森の存在感は、この舞台でいっそう得がたいものだった。肩書きはともかく、さほど強い声を発せずとも、空間をふかく突いて伝わってくるたおやかな歌声と、言葉に対する強いこだわりが、ユピテル役を何倍も素晴らしくしていることに気づくのはたやすいだろう。

この影響を受けたのかわからないが、福井敬の発声もいつもよりポジションが深く、これまで聴いたことがないようなドイツ的な美しい歌唱に魅了された。同じく二期会の『ホフマン物語』でも進境をみせた福井だが、この年齢で、彼はいっそうの上積みをみせており、公演数の限られた日本にいながら、良い方向に熟してきているのを感じるのは素直に凄いと思う。相手役の2人に乗せられるようにして、林のパフォーマンスも素晴らしかった。この3人に平井がつづくが、あとの端役と合唱はクオリティが低かった。

準・メルクルが指揮した東京フィルの管弦楽は核心を外さないものの、この複雑なオペラを十分表現するためには時間が足りない。傑作ゆえに、場面ごとに異なる味わいを出す管弦楽の苦労は、一方ではないものと思われる。

深作の演出は絶賛するコメントが多いが、私は及第点というに止めたい。なにも突拍子もない演出を望んでいたわけではないが、演出手法に対する議論があまり出ず、スンナリと受け容れられている点で、彼の演出が期待どおりのものでなかったのは明らかだ。簡単に言うと、第1幕ではマスと主要人物との関係にインパクトがなく、第2幕は比較的よかったが、歌手たちが身体を寄せあってじっくり歌う場面が多く、第3幕はあまりにも安っぽい感じになってしまった。予算の問題こそあれ、全体を通して、欧米で初演出に挑み、その後、成功したような演出家たちと比べると、いかにもスケールが小さいといわざるを得ないのだ。

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