2017年3月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  
無料ブログはココログ

« 二期会 リヒャルト・シュトラウス 歌劇『ダナエの愛』 深作健太(演出) 準・メルクル(指揮) @東京文化会館 10/4 | トップページ | チョン・ミョンフン ブラームス 交響曲第4番 ソウル・フィル 東京公演 日韓国交正常化50周年記念事業 10/19 »

2015年10月28日 (水)

ウルバンスキ ベートーベン 交響曲第3番 ほか 東響 名曲全集 10/11

【ウルバンスキの契約更新はなし】

ポーランドの若手指揮者、クシシュトフ・ウルバンスキは2013年4月から3年間の契約で、東響の首席客演指揮者に就任し、定期的な共演をつづけてきた。インディアナポリス、トロンヘイムといった「本拠地」のほかに、ウルバンスキが選んだ拠点のひとつが日本だったが、その後、2年あまりを経て、東響は来季の首席客演指揮者の契約更新をおこなわない意向であるらしいことがわかってきた。原因にはいくつかの理由が考えられるが、例えば、東響がノット音楽監督との長期契約を結んだ影響もあるかもしれない。ウルバンスキ側にも、新たにドイツのハンブルクNDR響の職務が加わり、スケジュール調整をフレキシブルにしたいという思惑があったとしても不思議ではないし、あるいは、ステイタスの向上に対して契約条件が引き上げられた可能性も、ビジネス面の常識から否定はできないように思われる。その場合、経済的な余裕のない楽団がギブアップするのも無理はなかろう。

付け加えるなら、聴き手からしても、彼の音楽を好きになるには多少の努力も必要である。自分自身の趣向やこだわりにあまり拘泥せず、何気なくもっている作品解釈への愛着を留保する態度もときには要ったのだから、彼の素晴らしい発想が、あるいは、一部の聴き手に解消しがたい疑問を生じさせたとしても不思議ではない。もしそうした反応が無視できないほどのものだったなら、楽団も何らかの決断を迫られたであろう。この日もまた、新しい発想が必要な日に当たっていた。オール・ベートーベン・プログラムとしてはよくある演目で、劇付随音楽『エグモント』序曲、小菅優をソリストに立てたピアノ協奏曲第3番、交響曲第3番「エロイカ」といった内容であるが、演奏後にあれほどの深い感銘と驚きを感じることができるとは予想だにしなかったものである。だが、会場の反応はといえば、微妙なものだった。

【明確なメッセージ】

ウルバンスキの演奏は独特だが、本来、その意図は聴き手に伝わりやすいことも確かなはずである。私が優れた聴き手でなくとも、『エグモント』序曲の演奏からは明確なメッセージが聞こえてきた。まず、冒頭和声を除く、序盤の力強さはなく、最初の肩透かしを食らう。強烈な冒頭和音から、分厚く濃厚な、ときに生身で岩肌にぶつかっていくような攻撃的な弦ユニゾンの響きから、いちど緩めた上で、2度目のクライマックスを神々しく構築してから作品を展開していく演奏が、多くの巨匠指揮者の間で共通している。例えばフルトヴェングラーなどは、弦ユニゾンのフレーズの尻尾に必ず軽くフェルマータをかけるようにして、響きが減衰していくまでに自然なクッションを置く仕掛けてまで整えている。ウルバンスキの演奏は、まず、こうしたところで作品の流れが決まってしまうところを明らかに拒否しているようだ。

今回の演奏の特長を語るために、ひとつの楽曲が仮に、①作品の中心になる構造物と、②背景や風景、照明といったものに分けて考えられるとしよう。このとき、音楽の本質を決定するのは、構造物の大きさや質、意味、内面的表現といった①の要素になるはずだ。近年の傾向では構造物はいよいよ豊富に、くっきりと浮かび上がるように表現がつくられていることが多いように思われる。だとすれば、ウルバンスキが今回、きわめて周到に組み立てた音楽は対照的なものであった。通常、前プロ+協奏曲+交響曲のフォームの演奏会で、前プロは料理のつけあわせのような役割しかもたないことが多いが、この日の『エグモント』序曲は、演奏会全体に通じる演奏スタイルそのもののプレゼンテーション、もしくはオーディエンスに対する、この演奏会の聴き方の提示という点で相応しい演目だった。

まず、構造物は管楽器のみによって構成し、弦楽器は先の②の要素、もしくは、①の影のような要素のみに限られている。この場合、弦の序奏の重みがさほどでもないことは理由のあることとなろう。冒頭和音のあと、弦のユニゾンは背景をつくるだけで、最初の主要な構造物は女性的な木管のアンサンブルとして出現する。繰り返しのあと、主要な部分に入ると、通常、ストーリー・テリングをおこなうとみられる弦の響きを背景に集めながら、管に注目した場合、しばらく目立った構造物はない。弦セクションには交響曲第5番を思わせるような激しい構造がうねっているが、管楽器を中心に音楽を眺めると、意外に静かで穏やかなフォルムがつづき、弦の背景を踏まえながら、緊張感の高いドラマが展開しているのだ。これらのことから表現として浮かび上がってくるのは、悲劇的な英雄エグモントを見つめる女性的なものの崇高さであろう。実際、『エグモント』にはクレールヒェン(クララ)というヒロインが登場し、エグモントを助けようと試みるがうまくいかないのである。

この作品における管楽器のモチーフの重要さは、リンクのページに譜例を交えて、詳細に語られているので、ご参照をいただきたい。このようなことを端的に示したのが、ウルバンスキの演奏だといえるだろう。例外がないわけではないと思うが、弦のつくる旋律的な構造物も先行する管からとったものが多く、一見、目立つ構造をつくるような部分でも、それを背景とみたときにより深い解釈が生まれる場合が多いのだ。主客が入れ替わると、まったくちがう響きの構造がみえてくる。そして、それに肉付けした音楽は、その反対とはまったく異なる音楽の印象を呼び起こすものだ。父性的な力づよい音楽が、女声的な包み込むような響きに変質している。ギシギシした重い拍節感を排し、柔らかい響きにすることで、ウルバンスキは聴き手を驚かせることに成功した。このような響きのヒエラルキーの逆転、つまり「革命」が、この日のウルバンスキを語るのに欠かせないキーワードとなったであろう。

ピアノ協奏曲に関しても、この議論は通用するだろうが、それ以前の世界が多すぎて、敢えて論評からは外しておきたいと思う。協奏曲の独奏については、すべて構造物と見做すことは確認できた。ソリストは以前から高く買っていた人だが、その音楽性には以前のクオリティから劣化を感じる。

【エロイカにおける適用】

協奏曲を挟んだせいか、交響曲第3番「エロイカ」の演奏では、第1楽章で『エグモント』序曲と同様の規則が適用できるのか、よくわからないほどに、演奏のクオリティは落ち着いてしまった。「名曲全集」では、定期演奏会と比べて、やはり準備に差があるのだろうか。ところが、第2楽章以降では、ほぼ完璧に同じ決まりごとが機能した。管のほうがドローンのような響きしか出していなくて、弦のほうに旋律や構造のイニシアティヴがありそうな場面でさえ、ウルバンスキは徹底的に主従を守ったのである。この結果、構造物はきわめて少なく、ある意味ではバロック的になだらかな音楽が構造物を取り巻く激しい弦の動きと鋭く対立した。

第3楽章で、こうした構造がもっともスムーズに決まるのは、その時点で予測がつきやすい。普段、若干、浮き上がって聴こえる3本ホルンの見せ場がその他の管の構造物と手を結び、たおやかに彫刻のなかへと取り込まれていったのだ。「エロイカ」では通常の場合、弦の動きがどれだけ分厚く、高貴に、エネルギッシュに響くかで価値が決まってくるものであろう。ところが、ウルバンスキは、その裏で通人だけが注意ぶかく聴いているような細かい構造が、正に革命的に、これこそが「天の声」であるということを示したのである。この天の声というものは、要するにバロックの響きなのだ。ウルバンスキのパフォーマンスは斬新な解釈というよりは、伝統的な古典の世界でつくられてきたヒエラルキの徹底という問題である。

無論、ベートーベンの「エロイカ」の斬新さは、バロック以来の力関係を翻すような要素をも示してはいるだろう。そして、それは終楽章において決定的に響き、例えば、今度は弦がスタートした対位法の構造を、管が追っかけるというようなところで耳にすることができるのだ。だが、終盤においては、ウルバンスキは再びバランスを戻して、構造物の数を思いきって減少させている。最後はひとつのモニュメントに収束するように、ピタッと音楽が止まるのは見事なものだった。

【まとめ】

それ以外にも、ウルバンスキの思い描くワンダーランドには興味が尽きない。両端楽章では具体的な効果はよくわからないものの、オーボエとクラリネットのベルアップを試みている。最初の楽章では、そこで展開する音楽がもつ軽快なアイロニーの象徴として考えてもよいが、終楽章はなにもこれといった根拠を見出せないところで、急にベルアップがおこなわれているのだ。すべての工夫がよくわかるというわけではないものの、ウルバンスキの音楽においてはこうした名曲の演奏に当たっても、絶えない知的刺激に満ちており、その印象は容易に忘れがたいものとなる。その場ではよい演奏と思えても、後日、細部をまったく思い出せないパフォーマンスというのもときにはあるものだが、ウルバンスキの場合は、それが別のつよい体験によって更新されるまでは、ずっと深い印象がつづくのだ。

端的にいえば、今回の演奏はベートーベン的な音楽の革命を別の角度から再確認するものにほかならなかった。バロック音楽においては、フィグーラといわれる音楽の言語機能が重要な意味をもっていて、モーツァルトなども、幼くしてその機能を駆使したがために「神童」と言われたのだ。その機能は旋律線と通奏低音の両方にわたって音楽を支配したが、次第に低音の機能や和声の意味が簡素化され、ベートーベン以降はよりわかりやすい音楽へと移行して、音楽の表現よりはその対象に軸足が移っていくことになる。これが、ロマン派と呼ばれる芸術運動の実体だ。これまでの巨匠的な解釈は、ロマン派から逆算したようなベートーベンの姿だった。新しい時代のものが、常に古い時代よりも先をいっていると信じられた時代の産物であろう。

確かにベートーベンは、音楽そのものや形式の刷新を試みる最後の、そして決定的な存在となったであろう。「エロイカ」はこうした偉大なる実験から胚胎した、ひとつの成果として見られる。だが、一方では、アーノンクールが指摘するように、ロマン派的な芸術運動は古典がもっていた教養的な深さを排除するものでもあり、新しい時代が必ずしも古い時代を凌駕したとはいえないのである。ウルバンスキの解釈では、ベートーベンの従うヒエラルキはバロック時代の伝統にまだ深く根づいており、それならば、響きもより上品で柔らかいものであるべきだ。もっと分厚く鳴らせば、彼の演奏はさらに評判の良いものともなるだろうが、それではことの本質を表現することはできないのである。だからといって、無論、彼が保守的なスタイルの徹底を頑強に主張しているというわけではなく、むしろ、その逆である。伝統への深いコミットがより斬新で、根源的な革新性を与えることを、彼の演奏は体現していたのではなかろうか。

とにもかくにも、すべての演奏がおわったあと、ホッとしたような表情をみせる管楽器の奏者たちの姿に、この演奏会の特質をみることができただろう。もしかしたら、プローヴェも、いつもとちがうような形で進んだのかもしれない。ユベール・スダーンが10年ちかくをかけて仕込んだのとは、また別の音楽スタイルを彼らは学んだはずである。そして、この日の演奏を経て、聴き手としての私の視点もまた新しいものになったといっても過言ではない。1年のなかでも、衝撃的な体験のひとつになった。

来季の客演は決定しているが、首席客演指揮者としては今度の来日が最後となるらしいウルバンスキである。彼との定期的な共演が、ポストという形で約束されないのは残念なことだ。東響はどうして、有望な指揮者との関係を長くつづけられないのだろうか(最初は安く出演し、2回目以降はギャラ高くなるとかいうビジネス慣行があるのだろうか)。首席客演につけたものの、その後、ステイタスが急上昇したニコラ・ルイゾッティの例は仕方ないとしても、ラモン・ガンバ、アンドレイ・ボレイコ、ヘンリク・シェーファー、シュテファン・アントン・レックなど、評判がよく、過去にそこそこ良い関係を築いてきた指揮者たちとも東響はうまくやっていくことができないで、関係が切れてしまうことが多いのを残念に思っている。さて、彼らにとって次のアイドルとなるのは、ウルバンスキの代役で東響へのデヴューを飾ったロレンツォ・ヴィオッティかもしれないが、是非、この縁を大切にしてもらいたいものである。

とりあえず、ウルバンスキが貢献してくれたこの3年という時間に、最大限の敬意を表したいと思う!

【プログラム】 2015年10月11日

1、ベートーベン 劇付随音楽『エグモント』序曲
2、ベートーベン ピアノ協奏曲第3番
 (pf:小菅 優)
3、ベートーベン 交響曲第3番「エロイカ」

 コンサートマスター:水谷 晃

 於:ミューザ川崎シンフォニーホール

« 二期会 リヒャルト・シュトラウス 歌劇『ダナエの愛』 深作健太(演出) 準・メルクル(指揮) @東京文化会館 10/4 | トップページ | チョン・ミョンフン ブラームス 交響曲第4番 ソウル・フィル 東京公演 日韓国交正常化50周年記念事業 10/19 »

オーケストラ」カテゴリの記事

コメント

いつも楽しみに読ませて頂いております。直感的に聴いた演奏を論理立ててご説明頂きありがとうございました。あの演奏は賛否両論あるかと思いますが、ウルバンスキは東響の美しさを最大限に引き出してくれたと私は思っています。多分ああいう演奏はなかなかこの先も聴くことが出来ないでしょうからまぁラッキーだったと思ってます。私もヴィオッティに期待してます。
もう少しまめにブログも更新頂けると有り難いです。

このブログを書くのは、なかなか大変です。気力と体力が充実した場合、更新が進むと思います。書く価値があるものは、なるべく形にしたいと願っていますが、できないうちに時だけが過ぎることもあります。また、慎重な性格ゆえに、コメントへのお答えが遅れることもあります。ともにご了承下さいますと幸いです。

ウルバンスキの英雄はストラヴンスキー的な語法を使ってバロックの響きを引き出したということなのでしょうか?穿った見方かもしれませんが。

反対です。端的にいえば、バロック的なものを見つめなおすところから新しいものが生まれるということ、もしくは、それまで全く新しいと見えていたものがまだ古い時代の概念で表現可能だということです。その見方ですべてを描き出したときには、同じ曲でも全く異なる風景や言語のなかに置かれることになります。

ありがとうございます。こちらの文章を解する力不足でして。弦楽器と管楽器のヒエラルキーという箇所が気になりまして。また時間をおいて拝読させて頂きます。

当方こそ、読解しにくい悪文で申し訳ございません。ろくな推敲もできないものですから(文章は書くよりも、直す、削るに時間がかかります)。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/543421/62536826

この記事へのトラックバック一覧です: ウルバンスキ ベートーベン 交響曲第3番 ほか 東響 名曲全集 10/11:

« 二期会 リヒャルト・シュトラウス 歌劇『ダナエの愛』 深作健太(演出) 準・メルクル(指揮) @東京文化会館 10/4 | トップページ | チョン・ミョンフン ブラームス 交響曲第4番 ソウル・フィル 東京公演 日韓国交正常化50周年記念事業 10/19 »

ツイッター

  • ツイッター

最近のコメント