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2015年12月17日 (木)

加藤訓子 クセナキス プレイアデス ほか PROJECT Ⅸ (初日) 11/20

【概要】

パーカッショニストの加藤訓子が、独特の公演をおこなった。この日のメインとなる演目は、クセナキスの『プレイアデス』という作品が対象である。1979年、ストラスブールパーカッションによる初演で、Rihm 劇場による委嘱に基づいて制作された。本来は6人のパーカッショニストのために書かれたものだが、加藤はこの譜面が要求する最高級の精度を実現するために、自分ひとりの演奏を重ねあわせて録音し、作曲家が真に思い描いた響きを実現しようと工夫を重ねた。巨大なスクリーンに加藤の姿を投影し、最新の録音・再生技術であるハイレゾを使ったパフォーマンスを、イタリアのコリオグラファー=ルネ・ベゲッティが演出、ダンサーの中村恩恵が踊るというパフォーマンスは、本年4-5月に横浜、相模湖と豊橋でおこなわれ、さらにアーツ・カウンシル東京の支援で米国へと渡ったという。

そもそもクセナキスの作品はダンスとのコラボレートを想定して書かれたものであったようだが、6人の優れた打楽器奏者がまともに演奏するだけでも大変であり、ダンスとのコラボにまで仕上げる仕事は世界的にもなかなか実現できないものだったようだ。この重要な公演を逃したのは残念至極だが、今回、ダンスの部分を抜いて、比較的、簡単に再現できるパフォーマンスが考えられ、ところも本所吾妻橋に建つアサヒビールの「スーパードライ・ホール」の4Fにあるアートスペースで披露された。この公演はいわば3本立てで、①巨大スクリーンとハイレゾ音源を使った『プレイアデス』の映像&サウンド・インスタレイション②引きつづき、同じ作曲家による『ルボン』の実演③休憩後の短いアフター・トークという形で構成された。

【クセナキスと未来】

もしも、この公演が成功的に受け取られるならば、録音を使った音楽表現は新たなステージを迎えることになるのかもしれない。つまり、①の部分は今回、かなり大掛かりではあるものの、ある程度、選ばれた環境(空間)と、それなりに整備された音響とスクリーンの準備ができるのであれば、いつでも、また、どこででも再現できる可能性の高いものである。日本であっても、外国であってもよい。大都市である必要もなければ、大きなホールでなくてもよいのだ。ある程度の機材を持ち込めば、どういう場所でもインスタレイションを披露できる。これを利用すれば、『プレイアデス』を中心に、加藤は様々な公演の可能性を試すこともできるだろう。今回はシンプルで、手づくり感のある公演を企図したが、より大規模なものにもっていくことも可能かもしれない。例えば、第1部を『プレイアデス』のインスタレイション、後半をパーカッション・リサイタルとか、パーカッションを使った室内楽などにするというのも手である。

なぜ、『プレイアデス』なのか。この作品は、クセナキスの独特の考え方を映すものである。特に目を惹くのは、第2のパートで、クセナキスが’SIXXEN’(以下、ジクセン)という空想上の楽器を指定していることだ。ジクセンは微分音で構成される19の音で構成される金属製の楽器で、それぞれの音が音階上に乗るのを避けるように指定されており、それをできればメタルのハンマーで叩いて音にするという風に作曲者はイメージしていた。だが、クセナキスは楽器の設計をおこなったわけではないので、この楽器は打楽器奏者たちが工夫してつくる必要があった。逆にいえば、クセナキスのイメージした条件に合致するメタル製の打楽器ならば、特に正解はないということでもある。例えば、ジクセンのキーワードで検索すると、多くの場合、素朴なビブラフォンのような手製の楽器の例をみることができるが、それらも決して一様ではない。

クセナキスがこのような楽器に求めたのは、ズバリ、未来の響きであった。「未来」とは、究極の自由に基づく可変的な世界であるといえる。ジクセンはクセナキスと、未来の打楽器奏者を結びつけるタイムマシーンのようなものであり、クセナキスはまだこの世の中にないものを使って、作曲するというあり得ない発想を見せつけたのだ。だが、トークのなかでも出てきたように、それはやがて音域が拡大する鍵盤楽器の成長を信じ、手もとにあった楽器よりも広い音域を使った鍵盤作品を書いたベートーベンの精神に似ている。現在よりも、明らかに進んだ未来があると信じられた時代の出来事は、しばしば急ぎすぎ、過ちも犯したけれど、どこか感動的なところもあるものだ。ただ、クセナキスは未知の楽器を使って作曲したが、まったくイメージできない未来を指し示して、楽譜を書いたわけではない。だからこそ、いま、こうして優れたパフォーマンスができているわけである。

【パフォーマンスの真意】

正直にいえば、192k/24bit オーディオ収録ハイレゾ音源+大型アンプによる出力とはいっても、『ルボン』を生演奏した場合の、その響きと比べれば、音圧や立体感において、比較にならないものがあるのは否めない。もしも加藤が6人いたとして、彼女たちが実際に6セットの打楽器を叩いたときと比べれば、響きは大分、ソフィケイトされたものにならざるを得ないのだ。実際、『プレイアデス』を生で聴く機会は滅多にないだろうが、もしもそれがあったとすれば、私たちはもっと悍ましい、あるいは、もっと立体的な、あるいは、より心臓に響く音を感じることができるだろう。一言でいえば、私たちのこころから響きまでの距離は、この技術でもなお遠いと言うべきだ。その原因のひとつは、CDに捉えられたような音源を、更に広い空間に溶け込ませる過程のなかで生まれた歪みであるようにも見えた(もちろん、これは音響アーティストに対する批判とは無関係のことである)。

しかし、加藤はそのことも、まったく知らないわけではないなく、逆に、そうした距離を縮める演奏というものを考えたことは疑いないだろう。その場合もクセナキスの、また別の面に光を当てることもできるのだ。加藤が描きたかったのは、クセナキスの音楽がもつ攻撃性(そう言って悪ければ、『批評性』と言いなおしてもよい)の裏に隠された様々な感情である。『ルボン』を生演奏することで、例の歪みはさらに大きく感じられるが、そこにはさらに深い立体性が生じるのだ。『プレイアデス』と『ルボンa、b』は、多少の間を置くものの、連続して演奏されたが、そのことには相応の意味があるという風に受け取られた。これらのパフォーマンスは互いに、補完的なものである。

再び作品の構成に戻ると、『プレイアデス』は4つのパートによって構成されている。「Ⅱ金属」「Ⅲ鍵盤」「Ⅳ太鼓」とそれらのミクスチャーによる第1曲によって成っている。つまり、作品は複雑で、表情ゆたかなミクスチャーから、徐々に単純な要素に移っていく構造をもっているのだ。無論、「太鼓」にしても、単純な要素ばかりで書かれているわけではなく、むしろ、それぞれ単独の要素になったときの、味わい深い表情の多様さにこそ、醍醐味があるというわけである。加藤の音楽は、打楽器を演奏する単純さというものを極限まで煮詰めたものである。同じような音やパターン(リズム)の連続のなかにあっても、それぞれのシーケンス、もしくは、音そのものに独特の意味があるように思われるところが凄い。以前に英国で爵位をもつほどの打楽器奏者、エヴェリン・グレニーのパフォーマンスに触れたことがあったが、それともまたちがうメッセージ性を有している。エヴェリンの音楽が言葉そのものであるのに対して、加藤の表現はより純粋に音楽的だ。それにもかかわらず、かの音楽には深いメッセージを感じるのである。

クセナキスの2つの作品から感じられるのは、クセナキスの体験してきた、ほとんどすべてのこと・・・そして、彼の人間性を構成するほぼすべての要素である。威圧的なもの、恐怖、謎めいたもの、怒りといった負の要素以外に、喜びや安らぎ、優しさ、愛情、懐かしさといった要素も感じることができるだろう。何気ない響きのなかに、クセナキスの原体験ともいえる祖国ギリシャでのレジスタンス体験などが滲みだしてくるのも、新日本フィルで聴いた『ノモス・ガンマ』のときと同じだ。しかし、この場合、そうしたメッセージは明け透けでない。そう感じても、感じなくてもよい。加藤の叩き方は、もっと自由なものを感じさせるのだ。

【映像&音源インスタレイションの可能性】

『ルボン』の生演奏は本当に素晴らしいものだったが、生(なま)はある意味で「縛られた自由」である。それと比べて、『プレイアデス』のインスタレイションはより自由な可能性を切り開く可能性がある。それは単に、クセナキスが潜在的に構想していたものを実現するだけではなく、まったく別のなにかを実現する手立てとして輝いて見えるのだ。第1の部分を聴いて、私は数十秒にして胸が熱くなって涙を堪えねばならなかった。最初のうち、映像は流れず、ほとんど暗闇で、私たちは響きだけを楽しんだ。第2の部分から、加藤の演奏がスクリーンに映される。今回はスクリーンだけではなく、その材質の関係から、スクリーンを透過して反転して映る像が壁にも投映される仕掛けになっている。この2つの像は当然、私たちの視野へ同時に飛び込んでくるだろう。

トークのなかでも触れられていたが、6人の奏者は場面ごとに役割を変え、ユニゾンのような場所でも微妙なずれをつくりながら、響きを構成していることがわかる。もしも6人の打楽器奏者がいれば、こうしたことに気づくにも困難があるだろう。なぜなら、当然ながら、6人の奏者にはそれぞれの個性があるはずで、「ずれ」がどういった原因で生じたものかは判別しにくいからである。また、生演奏を聴いている臨場感や主観的な演奏者への共感に対して、同時に引いた視点が生じるのも面白い現象だ。演奏に対する評価は、よりシビアなものになると思われ、それに堪える演奏だけしか受け容れられない。加藤のパフォーマンスは当然ながら、それに強く応えるものであった。

【構造】

4つのパートにそれぞれの良さがあるが、もっとも端的で、奔放なアイディアが生きる「太鼓」のパートがクライマックスであったのはいうまでもない。

「ミクスチャー」は聴き手にとっては『プレイアデス』との出会いであり、演奏する加藤との出会いでもあるため、張り詰めた印象で聴かれ、最初のうち、まだ映像が動き出さないことで、徐々に不安な気持ちも生まれてくる。実体があるような、ないような、浮ついた感覚だ。「金属」は、超自然的な印象を与える。ここでいう「超」の意味は、超現実主義という場合の、それに似ている。つまり、あまりにも自然的であるがゆえに、自然とは似ても似つかないものということである。だが、環境にも慣れてきて、私たちは少しずつ穏やかな気持ちに置かれるとともに、これまでの体験を整理しながら客観的な振り返りにも入っていく。「鍵盤」は本来、安定とは縁遠い響きをもっているが、シンプルな音の配置で無駄がなく、南国にいるようなフワフワした空気感もあり、聴き手には安らぎがあるようだ。ただし、その安らぎも「超」のつくものであろう。結局、こうした構造を突き崩すのが、「太鼓」の役割であるように思えてならない。

クセナキスの音楽の著しい特徴は、自分でつくったものを即座に壊していくような姿勢にある。『プレイアデス』の場合は、「ミクスチャー」の完成を祝うのではなく、その完成体からひとつずつパーツを抜いていき、完成体がもっていた多様なものの原動力を引き出すことになる。40分以上かかる作品を、たった10分足らずの『ルボン』で受けることは困難だが、加藤は『プレイアデス』という飛行装置に『ルボン』というエンジンを取り付ける発想を選んだ。

この『ルボン』も簡単には論じられない深みのある作品だが、前半はドラムのスティック、後半はY字のよくしなるマレットを使って演奏している点が特徴的だ。前半の問答無用の力強さに加えて、後半はY字のマレットでも、ひとつの点として打つべき瞬間と、2点として打つべき瞬間が明確に分けられている点で興味が尽きなかったが、これもまた、加藤の精確無比な演奏の賜物であることは疑いない。このことによって、『ルボン』は2つの像を鏡で映しあったような音楽であることがよくわかった。暗闇のなか、下から照らされる照明によって、加藤は通常よりも神々しいイメージでみられる。明かりは終盤にいくにしたがって明るさを増し、最終的に作品のもつ新鮮で爽やかな味わいに対応したものとなった。

【まとめ】

この演奏会でもっとも重要なメッセージは、クセナキスは確かに、簡単に触れることはできない高山のような作品を書いたものの、優れたアルピニストたちが証言するように、そうした山々の風景は恐ろしくも美しくて、人間的だというメッセージだ。周到な準備、演奏家と聴き手のフラットな関係のなかであれば、クセナキスのような高山も人々に感動を与える対象となるだろう。エベレストやマッキンリー(デナリ)のような厳しい高山に登ろうとする人は稀だし、実際、簡単に近づくことはできない。だが、クセナキスの音楽はそこまで峻嶮というわけではなく、聴き手にも開かれている。少なくとも加藤の演奏はもう一歩、奥へと聴き手を自然に導いてくれるようなメッセージに満ちているのだ。それは彼女のステイジングや、演奏会の構成、場所の選び方にもよく表れている。座席だけでなく、何ヶ所かにテーブル席を設け、1ドリンク付にして、自由なスタイルで音楽に触れられるようにしたのだ。

この演奏会は、クラシック音楽の演奏会で想定される、いくつかの小さな決まりごとに、これまた小さな風穴を開けた。(特に日本では)生演奏にスピーカーを使うことが好まれないことや、一様なあり方で音楽に接することが半ば強要されること(最近は、指揮者のタクトが下りるまで余韻を楽しみなさいというような、気恥ずかしくなるアナウンスまでがオーケストラの公演で当たり前に聞かれるようにさえなった)、アーティストに聴き手があまり接近できないこと、演奏会場は専用の決まりきった場所が好まれること、などである。高速道を走るとよく見える、アサヒビール本社隣の建造物にあるホールは、金色の泡のオブジェばかりではなく、内部にも近未来的ないくつかの仕掛けを有し、例えば、便所ひとつをとっても戸惑いを生じさせるところだった。居心地は良くないが、なにか非日常的な雰囲気がある空間である。しかし、このような場所が、クセナキスの音楽の本質を表現するのに象徴的なのはいうまでもない。

以前に、井上道義がいくら響きをぶつけても無駄のような日比谷公会堂で、ショスタコーヴィチの交響曲ツィクルスをおこなった発想なども面白かったが、箱で音楽を象徴するというのもアリではないかと思う。カール・ベームが昭和音大の人見講堂でベートーベンの7番を演奏したライヴ録音も有名だが、それもまた、(響きは良くなかっただろうが、)あの箱とイメージがよくあっていてよいこともある。

加藤訓子はパーカッショニストとして優れているだけではない、いくつかの要素をもっている。そのひとつは、経営者のマインドをもっていることに他ならない。無論、いまの大企業のトップたちのように無発想で管理好きのマインドではなく、豊かなイノベーションに満ちた、本来、先進的な経営者がもつべき視点を備えているところに強調点を置きたい。いまの経営者には夢がなく、数字しかない。あるいは、数字だけが夢なのである。自分たちの挙げた利益の裏で、苦しむ人がいることなども考えない。コストを下げ、労働者を減らして経営が再建したという。そのために、多くの人たちの未来が小さくなり、あるいは、失われたとしても、それは大きな問題ではない。これが現代の経営だが、本来、経営とは人々に新しい役割を与え、それに応じた豊かさや潤いをもたらさなければならないものだ。そうだとすれば、クラシック音楽にイノベーションをもたらす加藤の発想に、多くの人がまた接したいと思うのも当然である。彼女の発想には、大きな未来を感じるからである。

【プログラム】 2015年11月10日

1、クセナキス プレイアデス~6人の打楽器奏者のための
           (多重ハイレゾ録音、映像インスタレイション)
2、クセナキス ルボンa、b
3、アフタートーク
 (オーディオ評論家:山之内 正、Linn Japan:古川 雅紀)
 
 音響・映像:寒河江 ゆうじ

 於:アサヒアートスクエア(4Fスーパードライホール)

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