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2016年1月15日 (金)

東京シンフォニエッタ ゲオルク・フリードリヒ・ハース 『イン・ヴェイン (in vain)』 12/10 

【ゲオルク・フリードリヒ・ハース】

東京シンフォニエッタの演奏会については、当ページでも度々取り上げている。通常、室内楽もしくは室内オーケストラ編成で、5-20分くらいの作品が取り上げられることが多く、それぐらいが、「現代音楽」に対する聴き手の注意が継続しやすい時間だと思われるが、今回、取り上げたゲオルク・フリードリヒ・ハースの作品は、それだけで1時間ちかい演奏時間を要する。この作品”in vain”は、日本語でいえば、「無駄に」「いたずらに」というような意味をもっている。これほどの大作を書き、「いたずらに」と題する作曲家の発想たるや、いかなるものなのであろうか。

ところで、一時期、ナチスの収容所で亡くなったユダヤ人の若い作曲家たちが注目された時期があったが、そこにハースという名前があったのを私は憶えている。WWⅡの最中、テレジン収容所に若い命を散らしたチェコの作曲家パヴェル・ハースは、その名前を冠した優秀なクァルテットもあり、予て私の気を惹いているのだが、ゲオルク・フリードリヒとはもちろん、無関係である。

ゲオルク・フリードリヒ・ハースは近年、規模の大きなフェスティヴァル等で頻りに紹介される作曲家のひとりとなっている。1953年、グラーツの出身で、いわゆる「スペクトル楽派」に分類されるようだが、ジェラール・グリゼイやトリスタン・ミュライユといったところとは、また一線を画す雰囲気をもっている。”in vain”は2000年の作品で、シルヴァン・カンブルランの指揮によりクラングフォーラム・ウィーンが初演し、その後、存在感のある成功を遂げたものだ。応援団のひとりにはサイモン・ラトルがつき、ベルリン・フィルの演奏会にも上ったというほどなのである。

ただし、日本では、ハースの作品はあまり積極的に紹介されていない。そもそも日本人はコンテンポラリー・ミュージックそのものに馴染まないが、そのなかでも、ある程度、理解のある層だけをみても、ケージ、クセナキス、ブーレーズ、リゲティ、ライヒ、グリゼイ、B.A.ツィンマーマン、シャリーノ、武満など、ごく一部のものだけに関心が限られている印象は否めないのだ。例えば、世界の常識に反して、あまりにも日本で無関心に晒されている作曲家としては、ジョージ・ベンジャミンジョルジュ・アペルギーストーマス・アデスなどがいる。アデスのオペラなどは欧米でよく知られ、なかんずく英国では人気の演目となっている。また、EMIのようなメジャー・レーベルにも数多くの録音が入っているような作曲家だが、日本ではさほど知られていないというべきだろう。この日の演奏会もまた、日取りに問題ありとはいえ、この演目で、東京文化会館小ホールの客席がガラガラというのは嘆かわしい限りではなかろうか。

【暗闇を使ったパラドックスの表現】

そうはいっても、これは10年以上も前の作品だ。2000年といえば、ちょうどミレニアム千年紀の変わり目に当たり、コンピュータの「2000年問題(Y2K)」なども同時にクローズアップされて、世紀末の雰囲気もかまびすしく騒がれるという時期であった。”in vain”も、そのようなヨーロッパ社会を包む空気と無関係とは思えない。この作品の目立った特徴は2つある。例えば、ベルリン・フィルにおける公演のプレヴューには、以下のようなことが書いてあり、わかりやすい。「冒頭平均律で始まるものの、いつの間にか微分音に覆われてゆき、平均律の調律システムの均等な半音階とは反対の世界が現れ、聴き手を幻惑に導きます。その透視画法のような音楽は、階段の上部と下部がつながっている、マウリッツ・エッシャーの有名なリトグラフを思い起こさせる」というのがそれである。もうひとつの特徴は音響だけでなく、照明の効果が取り入れられており、かなりの長い時間、照明が極力、落とされた状態でも演奏がつづくという事実である。

多分、真っ暗闇というわけにはいかないだろうが、作曲家の想いとしては、真っ暗闇も望むところではなかろうか。一見、視覚的情報を排するような暗闇のトリックが、むしろ、視覚情報と音響との関係をぐっと近づける点で、一種のパラドックスが生じていると思われる。平均律なのか、微分音程なのか、視覚的なのか、音響的なのか。意味があるのか、ないのか。この作品は複数のパラドックスを抱えながら、聴き手の前に姿を現す異形のものということができそうだ。また、もしも真っ暗闇が作曲家の意図するところならば、それは指揮者を含む、弾き手どうしの関係をも根こそぎ奪い、作品の成り立ちそのものをほぼ不可能にする点で衝撃的である。その場合は1時間余りもある作品の大部分を視覚に基づくコミュニケーションなしに、何とかつなぎ、アンサンブルにする工夫や熟練が必要があり、特に弦楽器などは自分の楽器を弾くことすら、十分にできそうもない状況となるであろう。さすがに、そこまでをハースが求めているとは考えにくいが。

【解決されない矛盾】

こうした独特の企図にもかかわらず、音響的なものは緻密で神秘的な表情に加えて、そこそこ人間的な表情も兼ね備えている。3つ目の特徴、そして、複数あるパラドックスのうちのもうひとつとして、微分音などを用いた独自の音響システムをもちながらも、実際、耳に入ってくる音響は大勢の聴き手にとって受け容れがたいものではないという事実もある。予想よりも早い段階で暗転が始まり、そうした部分での音楽はドローンのような引き延ばされた音響を中心としていたが、暗いなかで演奏するには理に適っていると言えるだろう。東京シンフォニエッタは日本人だけによるアンサンブルのせいか、幾分、雅楽めいた音の雰囲気も聴こえるし、冒頭部分ではヴァレーズの宇宙的な広がりのある、謎めいた響き、また、暗くなってからはより穏健だが、ヘルムート・ラッヘンマンを想起させるようなノイズ音への志向、さらに、トロピカルな打楽器を使ったクセナキスやドビュッシーのような響きの表情が塗り重ねられていく。上下行するグリッサンドなど、視覚的な音響も随所に散りばめられている。

私はこうした音楽から、単純に衒学的な前衛主義を思い浮かべることはできず、次第に、多様なユーモアのある作品だと見做すようになった。その意味では、日本のアンサンブルはあまりに真面目すぎて、過剰に神経質な緊張感を作品に持ち込んでいるのが難点と思われた。響きが総和から個へと次第に分けられ、孤独化を深めていく音響のなかで、そのことは顕著に感じられる。リーダーである板倉のもつ、作曲家と作品に対するもののふ的な忠義心にも似た深い共鳴は、こうした要素を上塗りするところへと集団を導いていく背景をつくる。こうした音楽に、自己の解放といったような音楽家のテーマは入り込む余地がないかのようだ。実際には、そうではない。ハースの意図するところは、もっと自由で、バラバラであるべき意思を、アンサンブルとして、辛うじて繋ぎ止めていくようなところにこそあったのだ。

当然、そこに摩擦があり、矛盾が生まれるのは想像に難くない。そして、ハースはそうしたちがいが全く解決されないまま、滑るように螺旋を辿っていくうちに、いつしか元の道に戻っているというような音楽世界を、「いたずらに」創造してみたのである。これは音楽の冗談であり、自戒的なイロニーでもあろう。旅立ちながら、元の港に戻るという「無駄な」過程である。おわりのほうになると、特にその諧謔的な仕掛けが明らかになってくるが、東京シンフォニエッタの解釈はそれに対して正統的という感じではないものの、また独特な緊張感で仕上がっている。それはまるで、1枚の絵画を隅から隅まで細密に言い表していくような表現であり、これはこれで、またひとつの芸だというほかないだろう。終盤のコンピュータ・プログラムが狂って、紐が解けていくような構図も、彼らの演奏では見事に統制がとれている。唯一、それまでのすべてを地獄に奪い去っていくかのような、銅鑼の音をつよく叩きすぎており、アンサンブル全体が平板にならされてしまう点がデリカシーに欠けるぐらいのものだったろう。

東京シンフォニエッタによる日本初演は、多少、ユーモアに欠けるものの、バカバカしいぐらいの生真面目さに包まれた誠実そのものの演奏だった。私は彼らの演奏がもつ、こうした気質を不器用なものとみなしながらも、深く愛してもいるのである。演奏姿勢に多少の疑問を感じながらも、私はこの演奏を通じて、ハースの作品、そして、そこから時代に通じる大きなインスピレイションを得た。それは正に、自分たちが立っている場所を疑うという基本的な姿勢に基づいている。それはきっと千年紀の変わり目に、重要なテーマでもあった。残念ながら、その後の人間の歩みは、決して賢いとは言えなかったが。いずれにせよ、劇的すぎるアクションの激しいパフォーマンスよりはずっとマシだ。

【補足】

なお、前半には入野賞の授賞セレモニーが込みで、中国の作曲家の作品が演奏されたが、”in vain” と並べて演奏されるには、荷が重かったというほかはない。私は前衛的な主義や主張をあまり積極的に支持しないが、それにもかかわらず、楽曲のなかに、なにか人を驚かせる要素が全くないものは支持することができないと思う。調性のある/なしに関わらず、それは重要な問題だ。特にある程度の尺がある作品では、その驚きやインスピレイションといったものが、それに見合う持続力をもち、あわよくば、発展、成長を遂げるということに期待してしまうものだ。この作品は冒頭の数十秒は良いものの、その先の持続力には欠けているため、低評価とならざるを得ないのである。

もちろん、私はいたずらに、攻撃しやすい若い作曲家の成果を簡単に貶めようとするのが目的ではない。

【プログラム】 2015年12月10日

1、ワン・イン 焦点軸~ホックニーの響き
2、G.F.ハース in vain

 於:東京文化会館(小ホール)

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