2017年4月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30            
無料ブログはココログ

« ミンコフスキ ブルックナー 交響曲第0番 ほか 都響 B定期 12/15 | トップページ | ローラン・カバッソ ベートーベン ディアベッリ変奏曲 ほか @JTアートホールアフィニス 1/19 »

2016年2月12日 (金)

DUOうたほぎ (吉川真澄&佐藤紀雄) 平野一郎 『女声独唱の為の四部作』 ほか 12/17

【DUOうたほぎ】

2014年の最初のコンサートから、ソプラノ歌手の吉川真澄と、ギタリストの佐藤紀雄が「DUOうたほぎ」というユニットを組んでいるが、私は今回、その演奏会に初めて接することになった。2人は現代音楽をはじめとする分野で、ほかに得がたい活躍をつづけているのだが、もちろん、それぞれの活動領域は一定の分野だけに止まるものではなく、時代や世論に基づく価値に縛られない独立した自由さ=ノマド性を伴っていることは明らかだ。最初に述べておくと、このデュオの活動は演奏会を通じて、2人が常に共同作業をしつづけるようなタイプのものとは異なっており、それぞれが独奏するナンバーも少なくなかった。彼らはいわば、それぞれが続けてきたインディペンデントな活動のなかから、それぞれ大事にしてきた要素を披露しあうような形で、演奏会を進めていく。そして、その一部において、2人は協力しあっているわけだが、演奏会全体を通してみると、一見、ちぐはぐな要素が意外な結晶をなしているのに驚かされるという具合になっている。

この2人のコンサートならば、多少は予想できたものの、それよりも斜め上をいく意外なことに遭遇する貴重な機会となった。吉川はただの歌手とはいえないパフォーマンスを行うし、また、佐藤もただのギタリストとしての表現をはみ出していき、そうした結果として、聴き手が思いもよらない表現世界がそこに生まれるのを目撃した。

【四季】

さて、この日の演奏会を敢えてひとつのキーワードで表現するとすれば、それは「四季」ということになろう。柱になっているのは、平野一郎が吉川のために書いた独特な曲『女声独唱の為の四部作』 だ。吉川の委嘱で、期限を設けずに作曲家のポエジーが熟すのを待って、徐々に完成されていった「春の歌」「夏の歌」「秋の歌」「冬の歌」の4つだが、これらは明らかに、我々がイメージする「歌」とはまた別の文脈から生まれた。私たちが当たり前に過ごしている四季だが、それはよく考えると神秘的なものでもあり、ときに人間の人生そのものにもなぞらえることができるだろう。誕生から死、そして、再生・・・。今回の「うたほぎ」の隠れたテーマは、正に四季のように生きる、四季のなかで生きる(あるいは、生かされる)人間そのものを描くことだったというべきかもしれない。現代社会からはとうに失われたと思われている、ワイルドな人間の姿。だが、そこへと通じる小さな裂け目ぐらいなら、まだ残っているのかもしれない。当夜、私たちが体験したのは、そうした裂け目のいくつかの形を確認することだったのではなかろうか?

【平野一郎の世界】

作曲家「平野一郎」の世界は、正に「世界」というのがふさわしいひとつの小宇宙だ。1974年生まれの彼は、世間にどれほど知られているかはわからないが、日本の伝統音楽の優れた研究家であり、その個性をそのまま生かして西洋音楽の文脈とぶつけ合わせた作品を発表している稀有なアーティストである。望月京や細川俊夫のように、同様の分野で評価される作曲家は他にも存在し、いっそのこと日本を飛び出して、アジアにその起源を探ろうとする西村朗のような作曲家も存在するものの、彼らと平野が根本的に異なっているのは、彼が日本の伝統音楽そのものを、生のままで捉え、また、それを西洋文化という「異文化」の視点を使いながら、根本的に捉えなおそうとしているほぼ唯一の人だからである(私の知る限り)。

彼の音楽には、サウンド・システムなどに斬新な視点を見出すことはできないが、その表現というところにおいては、余人の及ばない唯一無二の視点を読み取ることができる。ただし、その新しさはつまるところ、私たちが日本の古いものに対して、致命的に無知なところから来ていると考えてもよい。我々はそうしたものを、ときどき神社のお神楽や祭り囃子、もしくは、能、民謡などの響きに見出すことがあるが、それらを日常のなかに溶かし込んで、ちょくちょく聴いてみようと思ったりすることは一般的ではない。しかし、それらが我々にとって、まるで縁遠いものではなく、どこか懐かしげに響くところがあるのをみると、これらの音楽が伝える父祖の魂は現代人のなかにも、全く受け継がれていないというわけでもなさそうである。

平野の発想の面白さは、そうした古さを一種のナショナリストのように権威づけるわけではなく、人間中心で振り返ることもしないで、人間以外の動物を含めた、我々の生息域の全体に注目することであるといえる。歌といっても、彼の書いた四季の作品に出てくる文字どおりの「言葉」はほんの僅かだ。ただ、それは平野にとって、何も特別なことではなく、言葉以前にあるものを真摯に捉えていくなかでは、自然すぎるほど自然なことなのであろう。その自然のなかには、単に人間の声だけでは表現しきれないものも含まれており、そのような響きは足踏みやボディ・パーカッションなどによって補われている。こうしたものは、お神楽のようなところには出てこない表現であり、平野が古い音楽のなかに含まれるエネルギーをまったく別の感覚で捉えなおしたものというほかはないだろう。たとえ柏手のようなものでも、儀式化する前のもともとの形が復元され、再現されている。

吉川真澄が凄いのは、単に歌だけではなく、ボディ・パーカッションが高いレヴェルでできるということには止まらない。作曲家が描くアメージングな表現手段の意図を汲み尽くして、それ以上のものを積み足していくという姿勢にある。吉川と平野は、まったく対等な創作上のパートナーである。平野は、こうした表現を古いものに対して、私たちが感じるある種の哀愁と結びつけて使うのがうまい。そこには懐かしさや、郷愁といったものがつきまとい、なぜだか、ふっと感情的にさせることもある。ボディ・パーカッションを面白いパフォーマンスと知っている人はいても、それを普段から楽しむ人という人は少なく、大抵の場合、こうした音楽に違和感を覚える聴き手が多いはずだ。そうした未知の感覚が憎しみや嘲りに変わることもあるが、この作品では、親密な情感に変わる可能性が高い。

【様々な音楽の表情】

さらに周到なことに、春、夏、秋、冬の4曲を連続して演奏することもできたろうが、デュオは作品をひとつずつ演奏し、その間に、まったく異なる作品を挟むことで、表情を増していくことを選んだのである。例えば、衝撃的な「春の歌」の前奏のように、佐藤が武満徹の編曲による『早春賦』を異音混じりで演奏する。その異音は最初、聞き苦しいノイズ音のように響くものの、次第にそれがリアクション(あるいは前奏)だとわかってくるのだ。蛙の鳴き声や、植物が大地から芽吹く瞬間を示すように。平野の衝撃的な作品を紹介しおえると、その次には「春」といって、声楽家たちがまず真っ先に思い出しそうなトスティの歌曲「4月」をギター伴奏で歌った。春の風物のいろいろが端的に描き出されている佳品だが、同時に、イタリア歌曲らしく愛の喜びが滲み出ている。ドナウディを挟み、ロッシーニの歌曲『フィレンツェの花売り娘』では、吉川の表現的な闊達さだけではなく、声楽的なアジリタにおける技巧的な素晴らしさをも是非、語っておくべきだろうと思った。

佐藤は引きつづき、武満の音楽でしみじみと、自らの深い魅力に聴き手を惹きつける。特に、ガーシュウィン『ポーギーとベス』からの「サマータイム」の表現は中庸の速さで、静かに奏でられるものの、さりげない技巧が鮮やかに輝き、いまの佐藤によく合った作品とみなされた。この作品を含む『12の歌』はビートルズを中心に、この日も演奏された『ロンドンデリーの歌』のような民謡、『早春賦』のごとき抒情歌、ミュージカル、映画音楽など、ジャンルを超えて集められた数々の作品の集合となっているが、「サマータイム」などはつとによくできたもののひとつで、元来、様々な編曲が存在する好素材ではあるものの、武満のは編曲の域を超えている。ということは、佐藤のパフォーマンスがそれだけ、迫力があったということに尽きるだろう。武満はギタリストの表現に少しだけ、小波を立てるべく曲集を編んだというが、その目的のひとつには、ギタリストの技術偏重的な姿勢に対して、どんな作品にも、必ず込められているこころとの出会いを促すことがあったと思われる。その意味で、この作品はもっとも象徴的だろう。

母親が生まれたばかりの赤子をあやす子守唄「サマータイム」は簡潔だが、人間の感情に彩られた滋味ゆたかな表情をもっている。当時の黒人の家庭では、赤子の誕生という幸福の最中にも、不安や緊張を忘れることができなかったのであろう。よくあるように悲しげな短調で歌われる子守唄は、その風合いを利用して、劇中では嵐のあとの夫の死をも象徴的に彩ることになるのだが、むしろ、死の象徴としての『サマータイム』は明るめに歌われる点に特徴がありそうだ。生と死、暗さと明るさの間に、簡単には読み解けない人間の感情が潜んでいることに気づくべきだろう。例えば、人間が本当に悲しいときは、明るく振る舞ったりすることがある。スラヴの古い風習では、葬儀のときにポルカやフリアントのような賑やかな舞曲を踊る風習があったそうだが、それも同様の感情に根ざしているのかもしれない。そうしたものをギターの上では、武満はごく繊細なテクニックに託して表現していたが、佐藤ほど、それを細かく拾った奏者も珍しいのかもしれないと思う。

【夏―秋】

前半の最後に、「夏の歌」が披露される。最初の「春の歌」と比べて、期待したほどの鋭いイメージの変化はなく、似たような傾向で、驚きという点では後退がみられるが、声楽のスタンダードな表現や、季節をめぐる様々な表現と衝きあわされて形を変えたあとでは、吉川の研ぎ澄まされたパフォーマンスも手伝って、再び私たちを夢心地にもっていくのに時間はかからなかった。このように、平野の作品は決して、1曲ごとに新しい驚きがジェットコースターのように切り替わる構造はもっていない。だが、各作品のキャラクターは見事に描き分けられており、例えば、このあとの秋の表現では、祈祷的なものとの関係が浮かび上がってくる。そして、冬はまた、再生と結びついて、ちがった内面を映し出していたのである。

「秋の歌」のあとで、佐藤が弾いたエベルト・バスケスの作品もまことに見事なものだ。アンサンブル・ノマドでも、佐藤はバスケスの作品を繰り返し取り上げ、”Bestiario”で録音もつくったが、彼のもつ発想のゆたかさはより著名な作曲家たちに勝るとも劣るものではない。「落ち葉の時間」は、バスケスが四季を描いた管弦楽作品『命の証』の第3曲として、ギター・ソロで書かれたものだ。無窮動で、煌びやかな音響を誇るにもかかわらず、落ち着きのある内面の流動と、さわやかな自然の衝動が感じられる佳品であり、ときにバロックの息吹も感じさせながら、全体的には新鮮なサウンドを提供している。佐藤はこの作品をとても大事にしており、『サマータイム』と同様に、特別な機会に弾こうと思っているのであろう。

【まとめ】

吉川とのヘンツェやシューベルトを挟み、それぞれがこの演奏会の目玉となる作品を演奏すると、いよいよ幸福なときは終わってしまう。そこには、それぞれの作曲家がいて、適度に緊張した空間があった。吉川と佐藤との感覚は、常に同じというほどのものではないが、よく響きあう。佐藤が演奏した間宮芳生の作品(『三つの聖詞』より)と、吉川が全体を締めた「冬の歌」では、まったく味わいは異なっている。間宮もバルトークの影響を受け、民俗音楽への関心から生まれた作品も多いようだが、その視点は平野とはまったく異なったところにある。間宮について、深く語れるほどの楽識は持たないが、その作品は薄い皮を一枚一枚はがしていって、簡素化し、中核を晒して表現するような仕事が特徴的だというイメージがある。一方で、その手法において共通するところはあるものの、前衛的なものを前衛的なものとして、神秘的に語るテクニックも忘れていない。この「聖詞」は人口に膾炙した『合唱のためのコンポジション』などと比べれば、皮がやや厚く、渋みがある点、また、前衛的な視点も含まれる点で、間宮の行き着いたひとつの到達点を示すものではないかと思う。これも佐藤は大事に演奏し、吉川へ慎重にバトンを渡した。

平野は間宮と比べると、その渋皮の旨さに最初から注目している。私は先日、ある珈琲店で大ぶりの栗ひとつをそのまま使い、皮ごと洋酒にゆっくりつけたあと、ザッハートルテの表面を覆うチョコレートのように、果物のフレーバーをほのかに移したチョコレートに包んで固めたものを口にした。表面はぱりぱりで、中の栗は堅いがほっこりしている。そして、渋皮についた洋酒とチョコレートの風味がなんともいえない。平野の作品は、正にそのようなイメージで捉えられるのだ。瀟洒で味わい深い工夫のなかに、シンプルでワイルドな発想が隠れている。これは間宮にも共通するところはあるが、平野のは一層、深い甘みがあるのだ。吉川は、そうした作曲家の特徴を見事に歌ってしまうのである。なんという作曲家だろう。私は彼のことを、ダルムシュタットに紹介したいとは思わないが、同時に、それとはまったく異質の家をもつべき作曲家だといえるのは明らかである。

演奏会の全体を通して、私が強く感じたことは、人間の生き様ということだ。あるいは、人間でなくてもよいが、生きとし生けるもの、すべての生と死の重みである。なお、デュオの名前は、造語「うたほぎ」である。ことほぎという言葉があり、これは「言葉」で祝うこと、祝詞を述べることである。祝詞には、神的な意味がある。彼らは人間が神に仕える、その原初の意味に注目している。それは例えば、神道とは無関係なはずで、それ以前の話である。「こと(ば)」よりも、古いものとして、彼らは「うた」を位置づけてみたのだ。ときに、うたは言葉と切り離せないのが常識だが、言葉以前にある「うた」というものが、彼らにはあるような気がしたのだろう。そして、その想いは正しいのかもしれない。言葉以前のものから捉えなおすことで、言葉もまた生まれ変わる可能性があるのである。

【プログラム】 2015年12月23日

1、武満徹 早春賦(中田喜直)~『ギターの為の12の歌』 ♠
2、平野一郎 「春の歌」~『女声独唱の為の四部作』 ♥
3、トスティ 4月 ♠♥
4、ステファノ・ドナウディ どうか、吹いておくれ ♠♥
5、ロッシーニ フィレンツェの花売り娘 ♠♥
6、武満徹 ロンドンデリーの歌(アイルランド民謡)~『ギターの為の12の歌』 ♠
7、武満徹 サマータイム(ガーシュイン 歌劇『ポーギーとベス』) ♠
8、平野一郎 「夏の歌」~『女声独唱の為の四部作』 ♥
9、平野一郎 「秋の歌」~『女声独唱の為の四部作』 ♥
10、H.バスケス 「落ち葉の時間」~『命の証』 ♠
11、ヘンツェ 「明るい青空に」~『ヘルダーリンの3つの断章』 ♠♥
12、ヘンツェ 「トランクィラメンテ」~『3つのテンスト』 ♠♥
13、シューベルト そのままの姿でいさせてください~『ミニョンの歌』 ♠♥
14、間宮芳生 アンダンテ・トランクィロ~『3つの聖詞』 ♠
15、平野一郎 「冬の歌」~『女声独唱の為の四部作』 ♥

 ♠:佐藤 紀雄 g.  ♥:吉川 真澄 S.

 於:東京オペラシティ(近江楽堂)

« ミンコフスキ ブルックナー 交響曲第0番 ほか 都響 B定期 12/15 | トップページ | ローラン・カバッソ ベートーベン ディアベッリ変奏曲 ほか @JTアートホールアフィニス 1/19 »

室内楽」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/543421/63187066

この記事へのトラックバック一覧です: DUOうたほぎ (吉川真澄&佐藤紀雄) 平野一郎 『女声独唱の為の四部作』 ほか 12/17:

« ミンコフスキ ブルックナー 交響曲第0番 ほか 都響 B定期 12/15 | トップページ | ローラン・カバッソ ベートーベン ディアベッリ変奏曲 ほか @JTアートホールアフィニス 1/19 »

ツイッター

  • ツイッター

最近のコメント